Be My Candy Baby





さらりとした肌触りの藍染の座布団の上、ローテーブルの上のノートパソコンを睨みながら、 よいしょと胡坐を組み直す。
最初は辛かった畳生活も、慣れれば結構快適だ。 狭苦しいと思った部屋や天井の高さも、いつの間にか気にならなくなっている。 住めば都とは良く言ったものだ、意外に自分は順応性があるのかもしれない。
ただ、どうしてもビールだけはいただけない。 傍らに置いていた缶ビールに口を付け、ギルベルトは顔を顰める。 何か薄いんだよな、こっちのは。
ふと、足音が聞こえた。
木で造られた典型的な日本家屋であるこの家は、もうかなりの年代物であるらしい。 そろそろガタが来そうな老朽化に加え、部屋を区切るのも紙で出来た薄い襖程度。 故に、家の中の人の気配を、何処に居てても感じる事が出来る。
こちらに向かっている足音に、あちらの風呂でも使うのかと思いきや。
「ギルベルト兄さんっ」
怒声と共に、突然すぱんと背後の襖が開く。 その勢いと音に、思わず手にあったビール缶を落としそうになった。
後ろを振り返ると、きりりとこちらを睨みつける勇ましい視線とかち合う。
腰に手を当ててこちらを見下ろす、妹の仁王立ち姿にギルベルトは目を細めた。 パステルカラーのショートパンツから伸びる脚はすらりとしているのだが、 もうちょっと色気が欲しい。第一あれだ、胸がねえんだよ、胸が。
「なんだよ、菊」
てか、同時じゃなくて、声は襖を開ける前にかけろよな。 只ですらプライバシーの薄い家なのに、突然男の部屋に入ってくるってどうなんだ?
座椅子の背凭れに体を預けて呆れた声を上げると、彼女の片目がつり上がった。
「その言葉、そっくり兄さんに返しますっ」
ずんずんと歩み寄ると、目の前に膝をつき、向かい合わせになる。 そして手を伸ばすと、ギルベルトの頭にあったカチューシャをひょいと取り上げた。
「あ、てめ…っ」
ぱさりと落ちてくる前髪を、ギルベルトはうっとおしく書き上げる。
「これ、私のでしょうっ」
スワロフスキーのついた、お気に入りのやつ。
「ちっとぐれえ、貸してくれたって良いだろ」
それ、パソコンとか机に向かっている時に楽なんだよ。 良いじゃねえか、カチューシャの一つや二つ、ケチくせえ。お前、いくつも持ってんだろ。
「使うのは良いんです、使うのは」
別に今直ぐ使う訳じゃなし、貸す位は全然構わない。
ただ、許せないのは。
「勝手に人の部屋に入って、引き出しを開けたりしないでって、いつも言っているでしょうっ」
こちらは高校生の年頃の娘なのだ。 親兄妹と言えども、あまり目にされたくないものもある。 疚しいとかいう話では無く、プライバシーの問題なのだ。 何度もそれを言っているのに、この兄はちっとも言う事を聞いてくれない。
「仕方ねえだろ、お前、居なかったんだから」
「だからって、勝手に引き出しを探らないで下さいっ」
小さいからなのか、童顔だからなのか、瞳が黒目がちだからなのか、 菊がこうして怒っても、どうにも迫力に欠ける。 ギルベルトの目には、小動物が精一杯の虚勢を張っているようにしか見えない。
「カチューシャの入っていた場所しか覗いてねえって」
別にあちこち探りを入れた訳でも無し、変な事はしてねえって。俺様を信じろよ。
「だから、そうじゃなくってっ」
信じる信じないの話じゃない。もう、何度言ったら解るんですか。
ぽこぽこと頭から湯気を出す菊に、あー…とギルベルトは間抜けな声を上げる。 そしてにやりと唇を吊り上げて。
「まあ、描きかけのエロ漫画を机の上に広げたままってのは、確かに恥ずかしいよな」
てかさ、お前エロい絵を描く癖に、本物見たことねえだろ。
「覗いてるじゃないですかーっ」
引き出し以外を。机の上を。人のプライバシーを。 かあっと顔を赤らめて身を乗り出す菊に、ケセセと笑う。
菊のオタク趣味は知っている。 理解や同意は出来ないが、人の好き嫌いにとやかく言うつもりも無いけれど。
「しっかしお前さあ、男同士はまあおいて、女装のアレはどうなんだ?」
ごつい男が顔を赤らめてメイド姿ってのは、気持ち悪ぃだろ、単純に。
瞬間―――ぴしっと空気が固まる。
「…良いじゃないですか、ゴツい受けの女装メイド」
筋肉質で中身乙女な受けが、愛する人の欲求に応えるために、頬を染めて恥じらいながらも女装する、 素晴らしいじゃないですか、浪漫じゃないですか、屈辱に耐え忍ぶ受けとか、 あえてそれを楽しむ攻めとか、そういうシチュエーションが好きなんですよ、悪いですか、 人の萌えを否定して欲しく無いですね、てかゴツい受けと年下攻め萌えなんですよ、 下剋上好きなんですよ、髭好きなんですよ、茨で同士が少ない事は判っていますが、 だからこそそれを布教するために、敢えて頑張って突き進んでいるんですよ、この道無き道を。
じろりと睨む目が怖い。よく判らないが、彼女の地雷を踏んだらしい。 やけに肌寒くなる室内温度に、ギルベルトは引きつった。
「ギル兄さんの馬鹿っ」
信長様受けは、私のジャスティスなんです。
傍に山積みされていた雑誌を投げつけるられ、うわっと声を上げる。 カラー写真の多いサイエンス誌は、厚みの割には結構重い。
「今度の新刊はギル兄さん主人公で、十八禁総受け触手物にしてやるーっ」
歴史ゲームとオリジナルで、新境地を開くんだからーっ。
「うわ、待て。それはやめろっ」
なんだ、その精神的ダメージ攻撃は。
襖を全開のまま、ばたばたと走り去る背中に、伸ばされた手が虚しく宙を掴んだ。











ギルベルトと菊は兄妹だった。
勿論、血の繋がりは無い。 片や、ほぼ銀色と称して差し支えの無いブロンドに、 非常に稀な深紅の瞳の色をした、如何にもなゲルマン。 片や、今時珍しいほどに烏の濡れ羽色のストレートボブに、 限りなく黒に近い焦げ茶色の瞳の、典型的なモンゴロイド。 外見の共通点が限り無く皆無である二人は、親の再婚で縁が出来た、義理の兄妹である。
親の再婚話が浮上した際、菊もドイツに行く話もあった。 しかし、高校受験が終わったばかりで、両親も当分は二国を行き来する状況にあった為、 とりあえずは日本に留まり様子を見る事にしたのだ。
仕事柄海外出張の多い父の不在には、子供の頃から慣れていた。 一人は嫌いじゃないし、何かあったら連絡すればいいし。菊は気軽に構えていた。
そんな菊の家に、研究の為に日本の大学に編入する事になった、 義理の兄のギルベルトがやって来たのである。











大学の研究室。あははとフランシスは声を上げて笑った。
「それで、今日はパンなんだ」
いつもは美味しそうな手作りのお弁当を食べているのに、味気無いよねえ。 によによ笑う髭面に、うっせえよと吐き捨てる。
腹が膨れれば、パンだろうがなんだろうが構わないのだ。食事なんてものは、 要するに栄養の摂取である。偏りはサプリメントと野菜ジュースで補給すれば良い。
「ギル、そりゃデリカシーに欠けるって。相手は年頃のレディだぜ」
お前は女性に対して、紳士的な配慮ってものが足りないんだよ。 嫌われるよ、そんな調子じゃ。
「妹相手に、レディも配慮もないだろ」
日本のパンは美味すぎるぜ。もきゅもきゅとコンビニで買って来たパンを頬張る横で、 アントーニョはトマトジュースのパックにストローを刺した。
「菊ちゃんも気の毒やなあ」
こんな無神経なアホと兄妹になるなんて、思いもせえへんかッたやろな。
ジュースを吸いながら、にししとアントーニョは笑う。 てか、二人とも、何でここに居るんだ。お前らの研究室はあっちだろうが。
「何、トーニョ。ギルの妹、知ってんの?」
「一度ちらっと見たことあんねんけどな、むっちゃ可愛いでー」
小さくって、華奢で、清楚で、その上義理の兄の面倒まで見るほど家庭的で、料理上手やろ。 大和撫子ってあーゆー子の事言うんやろなあ。ほんまギルの妹には勿体無いわ。
「ちょっと、ギル。お兄さんにも会わせなさいよ」
可愛い子の一人占めは許さないよ。 がっしりと肩に手を乗せるフランシスの隣、そうやそうやーと、アントーニョも声を上げる。
「でもあいつ、すげえオタクだぜ」
「オッケーオッケー、むしろどんと来いだよ」
絶対俺と気が合うと思うよー。ちなみにお兄さん、腐も美味しく頂けるから。
はあはあと息を荒げて身を乗り出すフランシスに、 そう言えばこいつもかなりのオタク趣味だと公言していた事を思い出す。 日本の漫画もアニメも、見た事はあるし、自国でも人気も高いし、まあ面白いとは思う。 しかし菊やフランシスののめり込み具合は、ちょっと理解できない。
つーか、あいつに会ったら、お前ら脳内妄想で汚されるぞ。 顔だけはやたらと整った、同期に編入した悪友達二人に、気の毒な眼差しを向ける。
てかさー、自分。と隣にいたアントーニョが笑う。
「年端の近い女の子と暮らしてて、よう変な気ぃ起こさへんなあ」
血の繋がりも無いのに、ひとつ屋根の下い二人きりで住んでんねんやろ。
へらりと人好きをする無邪気な顔でのそれに、はあ?とギルベルトは眉を吊り上げた。 わー、お前、柄悪ぅ。ケダモノや、ケダモノ。知っとったけど。
「バーカ、相手はガキだっつーの」
俺はお前と違って、子供に手出しするような、犯罪者じゃねえんだよ。 呆れた声で吐き捨て、コンビニ袋から二つ目のパンを取り出して、袋を開いた。
「でも、お前と四つ違うだけなんだろ」
「ドイツに居るホントの弟より、年上ちゃうかったっけ」
そう言えばそうか、と血の繋がった弟を思い出す。
血の繋がりのある我が弟は、 生真面目で、優秀で、ちょっと頭が固いのは難だが、それでもかなり出来た奴だ。 しっかりしてて、大人びた顔立ちと、やたらと老成した雰囲気から、 時折兄と弟を間違えられる事さえある。
そうか、考えてみれば、あの弟よりも菊は年上か。
しかし。だが、しかし。
「…あり得ねえ」
思わず呟いて顔に手を当てて俯く。
日本人は若く見えるとは言うけれど、その中でも菊は、更にそれを上回るだろう。 それが、あの厳つく、最近はこちらの身長を追い越す勢いで成長している、あの弟よりも年上?
並べる対象のあまりの落差に、眩暈がした。
「でもさ、とっとと謝った方がええんちゃう?」
「そうそう、何ならお兄さんが手伝おうか」
だから、菊ちゃんを紹介してよ。あ、フランシスずるい。そんな話なら、親分もひと肌脱ぐで。
両サイドからがっしりと肩を抱かれ、ギルベルトはごくりと口の中の物を飲み込んだ。





とりあえず、機嫌は取っておいた方が良いというのには一理ある。
何せ今の生活、家事は殆ど菊に頼っている状態だ。 いつだったかの喧嘩では、ストを起こされて、連日のコンビニ弁当に辟易した記憶がある。 それはまあ我慢できるが、確かに狭い空間でのあの重苦しい空気は堪えた。
菊は頑固ではあるが、機嫌を取るのは難しくは無い。
ギルベルトは玄関の引き戸をスライドさせた。この家は古い。 水回りだけは改築済みだが、建物自体は菊の祖父の代からあるものらしい。
「ただいまー」
スニーカーを脱ぎながら声を上げる。 玄関先まで漂う夕食の香り。今夜はカレイの煮付か。 どうやら料理のストライキは免れたらしい。
ギルベルトはそのままキッチンへと向かい、解放された戸口からそっと窺った。 コンロの前には、エプロンをつけてこちらに背を向ける小さな後姿がある。
「菊ー」
小さな肩が、ぴくりと揺れた。だが、こちらを振り返る様子は無い。
「まーだ拗ねてんのかよ」
「拗ねてません、怒ってるんですっ」
きっぱりとした背中越しでの固い声に、小さくギルベルトは息をついた。
「あーもー、判ったから。俺が悪かった」
もう勝手にお前の部屋には入らない。だからいい加減、機嫌直せ。
ちんまりとした黒い後頭部に、持っていた箱をとんと押しつける。 その感触に、怪訝に振り返れば、見慣れたカラーリングがそこにある。くるりと菊は目を丸くした。
「季節限定の新作も買って来たぞ」
目の前に差し出された箱は、ギルベルトの大学の近くにある、菊もお気に入りのケーキショップのもの。 食うだろ、そう言うと菊はむず痒そうに唇を引き絞めた。 怒りの持続とケーキの誘惑。意地っ張りなその葛藤。
「お前の好きなの、買って来たぞ、えーっと…なんだっけ」
「タヒチショコラ?」
「そう、それ」
あの、チョコレートの奴な。 にかりと笑うと、菊は手に持っていた菜箸を置いた。
両手でケーキの箱を受け取ると、わくわくと開いて中を覗く。 普段は感情の読み難いその目が、実に判りやすくきらきらしていた。
これは何?あー、キャラメルのクリームとか言ったな。 こっちは?カシスとミルクショコラだとよ。買ったケーキは三つ。勿論、全て菊が食べる。
「ありがとう、ギル兄さん」
凄く美味しそう。照れたように、菊がほわりと笑った。 その笑顔に、ほっとする。
「じゃあ、これで仲直りな」
よしよしとその小さなおつむを撫でる。可愛い可愛い。俺様好みの触り心地。
「あ、そうだ」
ちょっと、待ってて下さい。菊は手にあったケーキ箱を傍らに置くと、 そのままぱたぱたとキッチンを出て、自室へ行ってしまった。暫しの間を置き、 同じ様に足音を立てながら戻ってくるその手には、シックなデザインの紙袋があった。
「これ、兄さんに」
差し出されたそれを受け取る。
「カチューシャ、買ってきました」
今度から勝手に部屋に入って取らないで、自分のを使って下さい。
どうやら、菊もそれなりに気を使おうと思っていたらしい。 なんだよ、やっぱり俺様の妹は可愛いじゃねえか。
ダンケ、そう言って、ギルベルトは差し出されたそれを受け取った。





「…で、これかよ」
お前の選んだのは。
紙の手提げ袋の中から出て来たのは、 確かにカチューシャには変わりは無いが。
「似合います、絶対兄さんに似合いますっ」
きらきらとした瞳で見上げる妹に、ギルベルトは半眼する。 そうだよな、こいつはこういう奴だよな。まあ、分かっていたけどよ。
白いうさぎ耳のついたカチューシャを手に取るギルベルトの前で、 デジカメを構えてスタンバイする彼女の笑顔は、とてもとても輝いていた。




end.




ケーキの種類はお気に入りのショップから拝借しました
2010.10.11







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