Be My Fizz Baby
<後編>





朝のシャワーを浴び終え、洗面台の前に立ったところで、ふとルートヴィッヒはそれに目を止めた。
レトロなモザイクタイルの張られた洗面台、 壁に貼りつけられた胸部までが映る楕円形の鏡、その前に備え付けられた擦りガラスの小さな物置棚。
整髪剤や洗顔料と並んで、何気なく置かれているのは、シンプルで極小さな硝子の花瓶。 そこにはひょろりとしたローズマリーの枝が、一本活けられていた。
こんな所にこんな花瓶、今まで置いてあっただろうか。 昨日の夜に洗面台を使った時には、無かったように思うのだが。気難しい顔で記憶を辿っていると。
「ルッツか、入るぞー」
扉の向こう側からの声に、ああと返す。木製の引き戸ががらりと開き、兄のギルベルトが脱衣所に入って来た。
今日もあちーよな。日本の夏の暑さは異常だっつーの。 うんざりしたように、寝間着代りのタンクトップを脱ぎながら。
「あー、それ菊な」
ルートヴィッヒの視線の先に気が付いたらしい。鏡越しに目が合うと、にっと笑う。
「よくやるんだよ、そうやって花を飾るのが好きなんだとさ」
いっつも庭に咲いているものを摘んでは、垣根の花でも、ハーブでも、雑草でも、そこら中に活けているぜ。 それも多分、今朝にでも置いたんじゃねえの。
言われてみれば、確かにこの家の中には草花が多いかもしれない。 この洗面台然り、台所、客間、玄関先、テーブルの中央、トイレにまで。 あらゆる場所で、大小問わない様々な花瓶に活けられた草花を目にしていた。
何となく彼女らしいなと思い、ふっとルートヴィッヒは笑う。
「あいつ、学校で華道部に入っているんだよ」
「カドウ?」
「日本の伝統的なフラワーアレンジメントだな」
ついでに言うと、子供の頃には合気道って武道も習っていやがるから、怒らせるなよ。 憶えておこう、ルートヴィッヒはこくりと頷いた。
脱いだ服を洗い物の籠に放り込み、からりと風呂場の扉を開いて、ああそうだと振り返る。
「渋滞するかも知れねえから、早めに出るぞ」
「判った」





早いもので、ルートヴィッヒは今日の便で日本を離れ、ドイツへと帰る。
大まかな荷物は、既に昨日の内に、近所のコンビニエンスストアで宅配に回した。 家を出る時間まであと少し、ルートヴィッヒは最後の身の回りの荷物を丁寧にスーツケースに纏める。
あっと言う前だったが、実に充実した一週間であった。
代表的な寺院もいくつか回った、近代的なビルの立ち並ぶ街へ買い物に出掛けた、 古い町並みの残る下町を散策した、有名なスポットも巡り、面白い体験もして、 日本ならではの料理を、菊の手料理も含めて、充分に堪能した。 亜細亜の国に来たのは初めてだが、これほど満足感のある旅行は、そう味わえないのではなかろうか。
初めて訪問したとはいえ、兄と姉という、ある意味気負わない存在と一緒だった所為もあるだろう。 言葉も習慣も違う外国とは思えないほど、リラックスして楽しむ事が出来た。 有体に言えば、居心地が良いのであろう。この数日で、この家にもすっかり馴染んでいた。
トランクケースを閉じる前に…と、ルートヴィッヒは立ち上がる。
もう忘れ物は無かっただろうか、洗面所は先程確認したし、この部屋にももう何も残っていない。 最後にぐるりと室内を見回してから、ルートヴィッヒは部屋を出て、そのままキッチンへと向かった。
狭い廊下を通り、開いた扉からそっと中を窺うと、小さな菊の後姿があった。
先程の朝食の後片付けをしているのであろう、流し台の前、食器洗浄機に手際良く食器を並べている。 洗剤を入れて、ぱくんと蓋をすると、後はボタン一つで、機械が全てを仕上げてくれる。
食器洗浄機にせよ、自動風呂沸かしにせよ、玄関モニターにせよ、 この家は一見古いのだが、不思議な所がハイテクだ。 高層ビルの立ち並ぶ未来都市の中に、極当たり前のように何世紀も前の寺院が残っている、 そんな日本という国の構造と妙に重なる。
「あ、ルート君」
顔を上げた菊が、こちらに気付いてにこりと笑う。
「荷物の整理は終わりましたか」
「ああ、忘れ物が無いか、見に来たのだが…」
丁度良かった。言いながら、菊は食器棚の一番高い場所に置かれた、青いグラスを手に取った。
「これはどうしますか」
ドイツに持って帰りますか? そう示されたのは、タンブラーサイズのカットグラス。
スリムで優美な曲線を描いたその表面には、実に拙い模様が刻まれている。 日本の伝統工芸である江戸切子の体験教室に、観光の一つとして三人で参加した。 その時に自分で手掛けた作品である。
店頭で販売しているカットグラスはどれも繊細で美しい模様であったが、 流石に素人の付け焼刃では、それに遠く及ばない。 しかし、三人であれこれ笑いながらの体験は非常に楽しかったし、仕上がったものには愛着も沸いた。 この家にいる間、食事の時には必ず、三人で揃いのこのグラスを使っていた。
宅配分の荷物は全て配送を終えたし、これをスーツケースに入れて持ち帰るのは大丈夫だろうか。 暫し悩んだ挙句。
「…この家に、置いておいてくれないか」
見下ろす青い瞳に、にこりと笑って頷く。了解しました、言いながら、元あった場所へと乗せる。
並んだ三つのグラス。同じ形で色違いのそれは、 左から順に、青はルートヴィッヒ、赤はギルベルト、紫は菊が、それぞれ作ったものだ。
「ルート君が日本の大学に進学できた時には、このグラスで乾杯しましょうね」
それまでは使わないで、このままここに、こうして並べておきます。大切に取っておきますからね。
「ああ」
真剣な顔で頷くルートヴィッヒに、くすくす笑う。
「何だか、早かったですね」
一週間なんて、あっという間でした。
「本当だ。帰るのが、実に名残惜しい」
「ルート君にそう言って貰えると、すごく嬉しいです」
また是非、この家に遊びに来て下さいね。勿論だ、とルートヴィッヒが照れたように笑う。
そして。
「今度、姉さんがドイツに来た時には、その、俺に案内させてくれないか」
以前ドイツに来た時は、言葉もまともに通じなかったから、結局俺は何も出来なかったけれど。 でも今なら、きちんとこうして話が出来るから。
「嬉しいです」
菊がドイツに行ったのは過去二回、新しい家族との顔合わせと、父と義母の結婚パーティーの時である。 両方とも長期滞在が無理な時期で、トンボ帰りのような忙しなさでの渡独だった。
そんな状況だったので、はるばるドイツまで行ったのは良いが、それらしい雰囲気は殆ど味わっていない。 強いて言うなら、見兼ねたギルベルトが市内散策に付き合ってくれた時ぐらいであろう。
「じゃあ、次にドイツに行った時は、ルーイ君に甘えますね」
きっと、いっぱい頼っちゃう事になりそうですけど、よろしくお願いします。
小首を傾けてこちらを見上げる菊に、ルートヴィッヒは頷いた。
ああ、任せてくれ。俺に頼って欲しい―――他の誰かじゃなく。
「―――あ…じゃあ私、ちょっと着替えてきますね」
少し早めに家を出るって言ってましたよね。 壁掛け時計を見上げながらエプロンを外し、失礼しますと菊はキッチンを後にした。
後ろ姿を暫し見送り、そしてふと、ルートヴィッヒは食器棚へと目を向ける。
透明な硝子戸の向こう、青、赤、紫の順番で、きちんと並んだ三つの江戸切子。
少し考え、そっと棚の引き戸を開く。躊躇する指先。 迷った挙句、青いグラスと赤いグラスを手に取ると、そっとその場所を入れ替えた。
ぱたんと食器棚の引き戸を閉じたのと、同時に。
「あれ、菊は?」
どきりと心臓が飛び跳ねた。しかしその動揺を一切表に出さず、振り返る。 シャワーを終えたらしいギルベルトが、上半身裸のままの姿で、キッチンに入って来た。
「…着替えると言って、今出て行ったが」
ふうん、そっか。 濡れた髪をタオルで押さえながら、ぱくんと冷蔵庫を開く。あー、水がねえじゃねえか。 ま、いっか、麦茶冷えてっかな。お茶の入った硝子ポットを手に取る兄に。
「俺も、荷物の整理をしてくる」
「おーう」
視線を向けずに軽く手を上げるギルベルトを残し、ルートヴィッヒもキッチンを後にした。
ペットボトルじゃねえから、このまま口を付けると菊が怒るんだよな。 しかめっ面をしながら、ギルベルトは食器棚を開いてグラスを取り、麦茶を注ぐ。
こくりと口にしながら、上げた視線に映ったのは、棚の一番上に並んだ、色鮮やかな江戸切子のグラス。 体験学習に参加して、一緒に作った物だ。 大きさも程良く、使い勝手も良く、三人で食事の時はずっとこれを使っていた。
あれ、あいつ、これ持って帰らねえのか。置いて行くつもりかよ、まあでも土産用は買っていたしな。
左から、ギルベルトの赤いグラス、ルートヴィッヒの青いグラス、菊の紫のグラス、と順番に並んでいる。 麦茶を飲み干し、ふうんとそれを眺めた。
やがてふと浮かんだ思いつきに、ギルベルトはにやりと笑う。
からりと食器棚の戸を開き、手に取るのは、青いグラスと紫のグラス。 その置かれていた位置を、ひょいと入れ替えた。
腰に手を当て、へへっと笑って。飲み終えたグラスをシンクに置くと、 至極満足そうに口笛を吹きながら、ギルベルトはそのままキッチンを後にした。


出掛ける準備をした菊が、外出の確認にキッチンに飛び込んだ。 えーっと、窓、オッケー。ガス、オッケー。電気、オッケー。よし大丈夫。
最後にもう一度、ぐるりと部屋を見回した所で。
「…もう」
むう、と唇を尖らせる。食器棚の戸が開いたまんまじゃないか。 多分これ、ギルベルト兄さんだ。ちゃんと戸を閉めるようにって、いつも言っているのに。
眉根を顰めながら引き戸を閉じて、何気に視線を上げた。
そこには、不器用な模様の入った三色の江戸切子。 左から、ギルベルトの赤のグラス、菊の紫のグラス、ルートヴィッヒの青いグラス、と三つ等間隔に並んでいる。
「何だか、ルート君とギル兄さんに挟まれた気分ですね」
何も考えずに棚に置きましたが、こんな順番になっていたんですね。今、気が付きました。 偶然ながら役得です。サンドカップル、ええ、大好物です。
によによ笑った所で、家の外から出発を急かすクラクションが響いた。























「気をつけてな」
「ああ」
「お父さんとお母さんによろしく伝えて下さい」
「判った」
「また来いよ」
「勿論だ」
「とっても楽しかったです」
「俺もだ」
ざわめく空港の国際線のロビーにて、菊とギルベルトは、ルートヴィッヒと対面する。
「ありがとう。二人のお陰で本当に楽しかった」
また必ず、二人に会いに来る。 照れたように、それでも真摯な眼差しでの言葉に、並んだ菊とギルベルトは本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあな、待ってるぜ」
一歩ギルベルトが踏み込むと、そのまま自然な動きで、二人はしっかりと抱き合った。 右に、左にと頬を合わせるそれに、おおと菊が瞬きする。 これが噂の欧米流挨拶、ハグアンドキスですね。生ハグ生キス、初めて見ました。 でかい男前が二人、非常にけしからん、もっとやれ。
それにしてもこんな仕草も、やっぱり欧米人がすると、カッコ良くて様になるなあ。 感心しつつも微笑ましく(やや腐った目で)見つめていると、 ギルベルトから体を離したルートヴィッヒがこちらの前に立った。 見降ろしてくる優しい眼差しに、ああお別れの挨拶かと、菊は手を差し伸べる。
菊はハグの挨拶を受けた事が無い。 ギルベルトもルートヴィッヒも、日本人には馴染みの薄い行為だと知っている。 だから今までも、菊との挨拶は大抵握手で済ませていた。
しかし、伸ばされた筋肉質の腕は、差し出したこちらの手をするりと抜けて、そのまましっかりと背中へと回される。 えっ?と思った時には、既に他人の体温に全身が包まれていた。 クエスチョンマークが頭上で点滅する中、左右の頬に、柔らかい唇の感触とリップ音。
―――あれ、確か挨拶って、普通はエアちゅーじゃなかったっけ?
一度引き寄せる力がぐっと強くなり、宥めるように背中を撫でられ、そしてすっと離れる。
距離を取って見下ろすと、菊は真っ赤な顔でかちんとぎこちなく固まっていた。 ルートヴィッヒは困ったように微笑むと、それを解す様に、改めて小さな手にしっかりと握手をする。
顔を上げると、僅かに瞠目したギルベルトがこちらを見ていた。ぱちりと目が合うと、 普段は生真面目に引き絞められた唇を吊り上げて、ルートヴィッヒはにやりと強かに笑った。











「何だか、寂しいです」
ルート君が帰ってしまって。
見えなくなるまで彼を見送って、漸く二人は歩き出す。 菊は未だ火照ったままの頬に、手を当てていた。
「そうだな」
「でも、また来るって言ってましたもんね」
「こっちの大学に来るっつーてるしな」
あいつの事だ、口に出したという事は、何だかんだ言っても、もう決めた事なのだろう。 ならばきっと、きちんと努力をして、必ず目標を達成させる。そう言う奴だ。
そう…何に対しても、そういう奴だ。
「ルート君、本当にいい子ですよね」
優しいし、真面目だし、カッコ良いし、可愛いし、ドSだし。
名残惜しく一度あちらを振り返る菊に、ギルベルトは複雑に唇を引き締めた。
「余所見してると転ぶぞ」
ほら、こっち来いよ。 言いながら、ぐいと菊の手を取ると、しっかり握って引き寄せる。 やや強引な力に、痛いですよと抗議をすれば、うっせえよと返された。
もう、ギル兄さんは乱暴なんですから。膨らんだ頬を横目で見ながら。
「…何処か、行くか?」
まだこんな時間だし、車だし、この後何かがある訳でもねえし。 折角だから、このまま二人でドライブしても良いぜ。
「いえ、さっきのロールケーキだけ買って、今日は早く帰ります」
あの、時間待ちにお茶をしたお店の近くにあった、白いロールケーキ。クリームたっぷり入ってたやつ。 前々からずっと気になっていたやつなので、とりあえずあれだけは譲れません。
「はあ?」
「まずはビデオ。取り貯めしていた今週分を、一気に観ます」
そして、それが終わればずっと手付けずに置いていた原稿の続きを、急ピッチで仕上げなければいけません。 ルート君が滞在している間、漫画もアニメもゲームもネットも、全部お預け状態だったんですから。
「おいこら、てめえ…」
「ずっと我慢してましたから。漸く解禁ですっ」
とりあえず家に帰って、今日は一日、思う存分徹底的に萌え補充をします。 鼻息荒く拳を握りしめる菊に、ギルベルトは痛むこめかみに手を添えた。 ああ、そうだよな、こいつはこんな奴だよ、ホント。
「さっ、ギル兄さん。急いで帰りましょうっ」
ほら、早く。 そう言いながら、ギルベルトの腕を抱き込んで、ぐいと引っ張った。
「っと…おいっ」
えへへと笑って、菊はギルベルトを見上げる。
そして、そっと手を添えての内緒話。





オタクだって事、弟に秘密にしてくれて、ありがとうございました。




end.




シティハン○ーの例のEDがフェードインするノリで
白いロールケーキは、某ペコちゃんのミルキーなやつ
観光ネタを考えていたのに、結局ごっそりカットしちゃいました
2010.10.20







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