Be My Juicy Baby <side-L> 初めて彼女を見た時の印象は「儚い」であった。 空港で見つけた姿は、小さくて、幼くて、腕も、首も、脚も、何もかもが繊細過ぎて頼り無い。 これは触っても良い物なのだろうか…そんな躊躇さえ生まれる程に。 こちらを見上げる瞳は、心細さからだろうか、今にも泣き出しそうに潤んでいた。 柔らかい闇の様な色に、胸が締めつけられるようだった。 若葉が芽吹く爽やかな季節。 ひっそりと籍を入れた義父と母の為に、ささやかなガーデンパーティーが催された。 全体的に年齢層が高めの来客の中、ルートヴィッヒは少々この場に持て余していた。 何せここに来ている来客は、自分の幼い頃を知っている、長い付き合いの顔見知りが殆どだ。 久しぶりに顔を合わせて挨拶をすれば、何かと子供の頃の話を持ち出されるから堪らない。 あの頃はああだった、こうだった、そうだった、どうだった、それが今はねえ…。 育ったこちらに感慨を持つのは構わないが、記憶も覚束無い子供の頃の話を持ちだされても、気恥かしいだけだ。 過去の自分をほじくり出されるようで、こちらとしては居た堪れない。 適当に挨拶を交わし、適当に話を合わせ、適当にあしらうと、ルートヴィッヒは少し離れた場所へと移動した。 慣れないタイに指をかけ、ふうと息をつく。 和やかにざわめく会場をぐるりと見回し、ふと、視界捉えた色彩が目に止まった。 飛び込んで来たのは、柔らかく、瑞々しい若草色。 その鮮やかさに、ルートヴィッヒは眩しげに目を細める。 このパーティーに合わせて日本からやって来た、義理の姉である菊だ。 春から初夏へと移行するこの季節に合わせたような優しい色のドレスは、 彼女の艶やかな黒髪が映えて、とても良く似合っていた。 ほっそりとした立ち姿は小さいが、如何にも東洋人らしい特徴を兼ね備えた容姿は、会場内でも少々特殊であろう。 しかし異質になる事無く、独特の柔らかい空気をふわりと纏い、さり気なくその場に溶け込んでいる。 対峙しているのは、母の古い友人家族だ。 何かを話しかけられ、戸惑ったような、それでも穏やかな笑顔を浮かべている。 ああ、そうだ。彼女はドイツ語が判らない。 慌てたように一歩を踏みしめた所で、彼女は助けを求めるようにあちらを振り仰ぐ。 そこには、兄のギルベルトが居た。 彼女の視線に呼ばれた兄は、その隣に寄りそうように並ぶ。 恐らく兄は、常に彼女が呼べば直ぐ届く位置にいたのだろう。 この会場内において、ネイティブな日本語を話せる者を、両親以外に、菊は彼しか知らない。 だから彼女が兄を頼るのは、兄が彼女を気遣うのは、至極当然だ。 「おう、ルッツ」 こちらに気付いた兄が、よおと手を上げる。それに習い、菊もこちらを振り返った。 「あ、ルートヴィッヒさん」 名を呼ぶ柔らかい声に、心のどこかがざわざわする。 そんな自分に小さく苦笑して、ルートヴィッヒは大股に足を進めた。 やって来たルートヴィッヒに、母の友人家族は声を上げる。 久しぶりだな。ああ本当に。元気そうだね。この度はおめでとう。暫く見ない内に随分大きくなったな。 ありきたりなドイツ語で交わされるそれらに、きょとりと菊は瞬きをする。 彼女が新しく日本の兄妹になるのか。ああ、菊だ。また随分と可愛らしいお嬢さんだね。 よろしく、私は君の義母とは昔から親しくしている者だよ。 自分へと向けられたドイツ語に、菊は戸惑いの表情を浮かべる。 傍らに立つ兄に縋るような眼差しを向けると、兄は今の言葉を通訳し、彼女に彼らを紹介した。 こくこくと頷きながら菊は兄からドイツ語の挨拶を聞き、拙いイントネーションで彼らに伝える。 「初めまして、菊です。よろしくお願いします」 これで良いですか?窺う様に兄を仰ぎ、大丈夫だと頷かれると、漸くほっとした笑顔が零れた。 小鳥のようだ、と彼女を称した兄の気持ちが判る気がした。 確かにこんなやりとりを見ると、必死で親を頼る雛鳥を連想させる。 そんな彼女を愛らしいと思ったのは、自分だけではなかった。 友人家族の一人、兄と同世代の息子の口から、「カワイイ」との言葉が漏れた。 最近は万国共通になりつつある日本語での褒め言葉に、菊はぱちくりと目を丸くする。 あれ、今の言葉は日本語ですか? 戸惑いながらギルベルトに問いかけ、そうだと頷かれると、菊は恥ずかしそうに笑み零れる。 「あ…ダンケシェーン」 たどたどしいその言葉にさえ笑みを誘われ、笑い声が上がる中、 何か可笑しかったですか?顔を赤くしておろおろと窺う菊に、 ギルベルトは大丈夫だと笑いながら、その小さな頭を撫でた。 …ああ、そろそろだな。ギルベルト、ちょっと手伝ってくれないか。彼らの言葉に、おうと兄は頷く。 「ルッツ、こいつを頼むな」 俺様は、あっちを手伝ってくるぜ。 「あ、ああ」 頭上で交わされるドイツ語のやり取りに、間に立つ菊はきょときょとと二人を見比べた。 そんな彼女に、ギルベルトは何事かを告げる。 こくりと菊が頷くのを確認すると、今話をしていた友人家族共に、兄は向こうへと行ってしまった。 残されて、二人。 隣を見下ろすと、こちらを見上げていた彼女が、にこりと笑った。 同時にふらりとその体が揺れる。思わず手を伸ばすと、彼女は軽く手を振って肩を竦めた。 軽い調子で靴の踵を示す様子から、どうもヒールに慣れないのか、足が疲れたのかだろうと察する。 「座った方が、良いか?」 あちらにあるベンチを指で示すと、どうやら伝わったのか、こくりと菊は頷いた。 ふらつきながらそちらへ向かおうとする彼女に、ルートヴィッヒは腕を差し出す。 それに菊はきょとんと瞬きし、そしてはにかんで笑った。 「ありがとうございます」 しなやかな手が、そっと添えられた。 風のように頼り無いそれは、恐らく遠慮しているのだろう。 それがもどかしく、そしてくすぐったい。 彼女の速度に合わせながらベンチへと歩き、彼女の手を取ってゆっくりと腰を下ろさせた。 そして、一旦離れると、中央のテーブルから甘いカクテルとケーキの乗った皿を取って来る。 前回来独した際に知ったが、彼女は意外に食いしん坊だ。特に甘い物が好きらしい。 案の定、差し出したケーキを見ると実に判りやすく、瞳をきらきらさせた。 ベンチに落ち着いて、にこにことケーキを頬張る菊に、こちらも胸の奥がほんのりと暖かくなる。 最初の出会いの頃と違い、やや打ち解けてしまうと、会話の無い気まずさは無くなっていた。 彼女は非常に察しが良く、こちらの身振り手振りでも、大抵の事は間違いなく汲み取ってくれる。 元々、自分は口下手だ。何かを話そうとしても、言葉が空回りがちで、結局きちんと相手に上手く言えず、 故に言葉数が少なくなり、相手に居心地の悪い思いまでさせてしまう。 しかし菊とは、最初から言葉が通じない前提があるからなのか、沈黙に気遣う必要が無い。 菊自身もそれを判っているのだろう、お互い無理のしない無音の空間は、不思議に心地が良かった。 ふと、菊はルートヴィッヒを見つめた。こくりと傾けたグラスは、オレンジジュースにしては、 やや甘ったるい気がする。でも、美味しい。 こちらの視線に気が付くルートヴィッヒに、菊はぱくぱくと日本語を告げながら指をさした。 日本語の中には、兄とルートヴィッヒの名前が織り込まれている。 困惑顔をすると、菊はふわりと自分の前髪をかき上げる仕草をする。 ああ、もしかするとこれか? ルートヴィッヒが撫でつけた自分の金髪に手を当てると、こくこくと菊は頷いて笑った。 今日は一応パーティーと言う事で、兄も自分もそれなりの身なりをしていた。 それに合わせて二人とも、普段は下ろした前髪を上げ、撫でつけている。 菊が指摘しているのは、それなのだろう。 にこにこと笑顔を浮かべながら、淡いピンクベージュのルージュを引いた唇が、何度も同じ言葉を紡ぐ。 「ス、て…?」 それを口真似ると、こくりと頷いて、ゆっくりともう一度発声する。 自分で指差しながら動く柔らかそうな唇をじいっと見つめ、そのグロスの艶やかさにどきりとしたが、 それに気がつかない振りで、菊の発する言葉を真似る。 お互いに何度も言葉を繰り返して、そうして綺麗に告げる事が出来た発音に、菊は満足そうに頷いた。 さて、これはどういう意味だろう。 眉を潜めた所で、わあ、と歓声が上がった。二人は同時にそちらへと視線を向ける。 どうやら、何かの余興が催されるらしい。 友人達にやんやと囃し立てられながら、幸せそうな笑顔で受け答える義父と母に、ルートヴィッヒはふっと笑った。 二人の再婚の話を聞いた時、漸くかよと安堵した兄と違い、ルートヴィッヒに特別な感慨は無かった。 恐らく実父の記憶が殆ど無く、彼の父性を当たり前に受けて育ったからであろう。 ある程度判別出来る年齢になっても、それは変わらなかった。 母を助け、兄の力になり、自分を大切にしてくれた彼は、 どんな形であろうとも、自分にとっては正しく父親であったのだ。 幼い頃、父と呼んで酷く申し訳なさそうな顔をした彼が、 再婚と言う形を取る事で自責の表情をする必要が無くなるのなら、それで充分だと思った。 不意に、隣から漏れる熱っぽい吐息に気付いた。 見ると、横に座っている菊が、ぱたぱたと手の平で顔を煽いでいる。丸いほっぺたが真っ赤だ。 手の甲で頬を抑える様子に、もしかして、と眉根を寄せる。 「アルコールに弱かったのか」 ドイツ語での問いかけに、菊はきょとりと顔を向けた。 とろんとした目。手渡したカクテルは、既に空になっている。 大したアルコール度でもないと思っていたが、彼女にとっては違ったのかもしれない。 「水を持ってこよう」 ここで待っていてくれ。 一度離れ、ルートヴィッヒがレモンスライスの入った水を持って戻ってくると、 小さな体はすっかりベンチの背凭れに体重を預けていた。 くたりとした頭。伏せられた瞳。眠ってしまったのだろうか。 グラスを置いて、そっと小作りな顔を覗き込むと、すうすうとした呼吸が聞こえる。 確か控室があった筈だ。少し迷った後、 ルートヴィッヒは華奢な背中と細い膝裏に腕を通し、引き寄せるようにして抱き上げた。 予想していた以上の軽さに、ぎょっとする。 これじゃ子供と変わらないじゃないか。 そうは思うのだが、子供とは違うふわふわした柔らかさと、清潔な髪の香りに、 思わず心臓の音を意識してしまう。 何を考えているんだと唇を噛み締めつつ、とりあえずルートヴィッヒはそのまま控室へと向かった。 会場から程無い距離にある、新郎新婦の為に用意された控室には、鍵が掛かっていなかった。 とりあえず中に入ると、置かれていたソファの上に、そっと菊を横たえる。 ふうと息をついた。大した運動量があった訳でもないのに、妙に汗をかいてしまった。 ほわんと顔を赤くして目を閉じる彼女を見降ろす。 すっかり眠ってしまったらしい菊は、目を覚ます気配が無い。 暫くは、このままここで休ませた方が良いだろう。 立ち上がった所で、ふと、ドレスから覗く脚に気が付いた。 今日彼女が身につけているドレスは、ひざ丈のワンピースである。 ふわりと広がった裾から並んで顔を見せる膝小僧の露出度に、ルートヴィッヒは戸惑う。 これは矢張り、裾を直した方が良いのだろうか。しかし、眠っている女性の体に触るのはどうなんだ。 だが、決して疚しいものではないし、彼女の為にも整えた方が良いだろう。 思考を巡らし、視線を彷徨わせ、漸く決心して慎重に彼女のドレスの裾へと手を伸ばした所で。 「こら、スケベ」 突然背後から掛けられた声に、ルートヴィッヒはびくんと肩を跳ねさせた。 振り返ると、ギルベルトが腰に手を当ててこちらを覗き込んでいる。 「な、何も、俺は別に、っ…」 かあっと顔を赤らめて否定しようとするが、言った当人は自分の言葉を気にしていないらしい。 「菊はどうした」 「あ、ああ…カクテルに酔ったようだ」 すうすうと寝息を立てる様子を見降ろし、呼吸に妙な乱れが無いと確認すると、ふうんと頷く。 そんなに強い酒は置いてなかったけどな。 ギルベルトは上着を脱ぐと、脚が隠れるように、彼女の上に乗せた。 「…一体いつの間に来たんだ」 深呼吸をして、動揺を抑え込むように尋ねると。 「お前がこっちに来るのを見てたんだよ」 余興の手伝いをしていたからな。 あそこから、会場全体が良く見えるんだぜ。 「しっかし、ホントお子様だなー、こいつ」 カクテルで酔っ払って寝ちまうって、酒に弱過ぎだろ。 まあ、見てくれからして、ガキだけどな、こいつは。 「兄さん」 女性に対して失礼だろう。咎めるように睨むと。 「俺にとっちゃ、こいつもお前もガキだよ」 胸を反らせてケセセと笑う。 兄は昔から、何処までも自分を子供扱いする傾向がある。 言ってやりたい事は多々あるが、それを溜息で抑え込んだ。 そして、聞きたかった事を口にする。 「兄さん、トッテモステキ…とは、どういう意味だ?」 はあ?とギルベルトは怪訝そうに眉を吊り上げた。 「彼女が言っていた」 俺と兄さんの髪を示して、日本語でそう教えてくれた。 トッテモステキ、カッコイイ。多分褒めてくれていたとは思うのだが。 眉を潜めるルートヴィッヒに、一瞬ぽかんとして、ははっとギルベルトは声を上げて笑った。 笑うのは良いが、あまり大きな声は出さないで欲しい。菊が目を覚ます。 「つまり、俺達が男前過ぎるって事だよ」 ま、俺様とお前なら、当然だけどな。 嬉しそうににやり笑い、がしっと加減の無い力で肩を抱かれて、ルートヴィッヒは顔を顰めた。 本当なのだろうか。今度自分で調べてみた方が良いのかもしれない。 おう、そうだ。 「お袋と親父さんが呼んでるぜ」 お前を呼びに来たんだ。久しぶりにお前のピアノが聴きたいんだとよ。 「しかし、彼女が…」 「ああ、俺様がついててやるよ」 だから気にせずに、ほら、行って来いよ。 にかりと笑って、顎であちらを示される。 ルートヴィッヒは溜息と共に頷いた。 「…直ぐ、戻ってくる」 「おー、ゆっくりしてても大丈夫だぞ」 二人に祝いの言葉でも言ってやれや。戸口へと向かうルートヴィッヒに軽く手を上げた。 そして、ソファに近づくと、赤い顔の眠り姫を見下ろす。 つと細められた、穏やかな瞳。 存外にしなやかな手が伸ばされ、頬に掛かる髪をそっと撫でつける、慈しむような指先。 普段は皮肉めいて歪められた唇が刷く、優しい笑み。 扉を閉めようと振り返った瞬間、目に入ったそれらに、ルートヴィッヒはどきりと目を見開く。 ん?とギルベルトは顔を上げた。 「ルッツ?」 どうした?不思議そうに目を丸くする兄に、恐らく他意は無いのだろう。ならば、無意識と言う事か。 否…小さくそう答えると、ルートヴィッヒはぱたんと扉を閉めた。 end. この回の為だけに、ルート君を前髪下ろし設定にしております ケーキはドイツのガイドブックより、キルシュトルテ かなり洋酒の効いたものもあるそうな 自分で書きながら、もう三人で結婚してもよくね?と思いました 2010.10.30 |