フェザータッチ・オペレーション <番外編1> 新しいバイルシュミット家の当主は、まだ若く、 そして非常に切れ者だとの噂は聞いたことがあった。 事故で急死した先代の財を突然一手に譲り受け、数年で更に事業を拡大させた手腕は、 そちらの社交界ではそれなりに有名だ。 だが、初めてその彼を目の前にして、 改めて驚愕する。その若さが、漸く青年と呼ばれる域に入ったばかりの、 まさか自分と殆ど変わらない年頃を示してしたとまでは思っていなかったのだ。 落ち着いた執務室の中央、重厚なデスクに頬杖をつく彼は、酷く不遜に見えた。 入室したこちらに、よお、と軽く手を上げる。 「呼びだして、悪かったな」 「いえ…」 非常に珍しい赤みの強い瞳を細め、彼、ギルベルトはじいと検分するような視線で、 こちらを見つめた。不躾なそれにやや片眉を吊り上げると、にいっと笑う。 「…まあ、単刀直入に話を始めるわ」 俺は面倒臭いのは嫌いなんでね。言いながら、 デスクの奥にあるファイルを取り出し、立ち上がる。すらりとした長身の体躯は、 細身でありながらも、しっかりした筋肉がついているのが見て取れた。 「あんたの親父さんの負債額だ」 差し出されたそれを受け取り、ぱらりと捲る。 並べられた数字とその詳細に、ローデリヒは目を細めた。 父は悪い人ではない。 しかし代々続いた貴族としての価値観が未だに抜けきれず、 しかも新たに事業を興すには適正に欠けていた。時代の流れに乗り切れぬまま、 手広く事業を始めたのが裏目となり、この結果を作ってしまったのだ。 ローデリヒの一族であるエーデルシュタイン家に長年出資していたのは、 現在ギルベルトが当主を務めるバイルシュミット家である。 「悪ぃが、あんたの親父さんの事業には、俺が介入させて貰う」 この調子じゃ、更に悪化させて、借金ばっかりが増えてしまうからな。 率直に言うと合併だ。ここまで酷い状態になった以上、何らかの処置は必要だろう。 とは言え、全てを売り払って返せる額ではないし、 現当主たるローデリヒの父に商才が無い事は見て取れた。 ならば、自分が何とかするしかない…それが、この若き当主の判断である。 ローデリヒは、繊細そうな柳眉をしかめた。反論は無い。 「…仕方ありません」 受け継いできた貴族としての矜持はあるが、それに固執して全てを失うほど愚かではない。 そして、恐らく彼の判断は正しいのであろう。 「で、今後の展望だけどよ…」 「それは、貴方に全てお任せします」 静かに言い放ったローデリヒの言葉に、 ああ?と些か柄の悪い声が上がる。 「なんだあ?その言い分はよ」 「私は経営に向きません」 父は最近体に無理が生じ、床に伏せる事も多くなり、 現在はローデリヒが代理を勤めている。しかし、父が引退すると同時に、 自分も身を引くつもりであった。 ギルベルトはじろりと睨みつける。 切れ長の瞳が、その突き刺すような色と相まって、酷く攻撃的になった。 「ばっか野郎、お前もしっかり手伝えよ」 ふざけんなよ。 こっちの損失は半端な額じゃねえんだよ。全てをこっちに丸投げして、 はいどうぞで済まそうなんて、虫がよすぎるんじゃねえのか。 もっともなそれに、 ローデリヒは唇を引き絞める。反論は無い。 「しかし、私は父の事業について、 何も知りません」 父は、早くからローデリヒの音楽の才能を見出していた。 その才を正しく伸ばすべく、幼い頃から一貫した音楽学校に通い、 現在も父の仕事とは関わらず、音楽家としての生計を立ている。そんな、 音楽しか知らない自分が、父の後を継ぐにはあまりにも無理があろう。 父と同じく、自分にもまた、これだけの事業を引き受けるだけの器は無い。 それが、ローデリヒの冷静な見解だった。 「私では、貴方をサポートする事は無理でしょう」 なので、全ては貴方に任せます。 「エーデルシュタイン家はどうするつもりだ」 一族の跡を継ぐのは、 現在ローデリヒただ一人である。長らく続いた名門を、自分の代で潰すのか? 「それも…仕方ないでしょう」 静かな声には、諦念めいた響きがあった。それに、 ギルベルトは僅かに目を見開く。しかし、直ぐにけっと舌打ちをして睨みつけた。 「甘えんなよ、コラ、坊ちゃん」 貴族様だかなんだか知らねえが、てめえが身を引けば、 負債が全部消えるとでも思っているのか?これはまた、とんだ世間知らずだな、おい。 腕を組んでデスクに凭れ、口汚く罵るギルベルトに、流石にむっと眉間に皺を寄せる。 嫌悪感を露わしたそれに、ふんと鼻を鳴らせた。 「そーゆーのはな、 責任逃れっつーんだよ」 勿論、これはローデリヒの作った責任では無い。 しかし何も知らなかったとは言え、その恩恵を受けて、それなりの身分での生活を疑問も無く受け、 音楽学校まで行ったのだ。しかもそんな自分の面倒を見てくれた父親は、負債に苦しみ、 身を患い、苦しんでいる。 確かに、その責を引き継ぎ、負い目を感じろとは言わない。 しかし、全てを知った上で、何もかもを他人に預けて、無かった事にするのはどうなんだ? 「こっちだって、慈善事業をしている訳じゃねえよ」 次の当主へと移行する前に、 不安材料は全て処置しておかなくてはいけない。やる事は山ほどある。 人材は必要なのだ。 「知らないなら、教える。使えるものは、使わせてもらう」 それが、俺のやり方だ。 「しかし、私には…」 「少なくとも、 お前は俺が持っていないものを持っているだろ」 はい?首を傾けるローデリヒに。 「名門の家柄、サラブレッドの血筋、音楽家の才能と教養、おっとりした育ちの良さ、 人に警戒心を与えない物腰…充分外交に使える」 俺には一生かかっても無理なものばかりだからな。 「せいぜい、それで俺を補いやがれ」 だからお前は、お前の家の責任をちっとは背負う努力ぐらいしてみろ。 びし、と人差し指を突きだして、はん、と笑う。些か質の悪い、悪戯盛りの悪童の笑みだった。 エリザベータはびっくりしたように綺麗な瞳を瞬きさせた。 「あの男に会ったんですか?」 声を上げる彼女に、ローデリヒも驚く。 「彼を知っているのですか?」 軽く見張られた紫の瞳に、エリザベータは少し視線を彷徨わせ、そうして肩を落とした。 「子供の頃…同じ学校の寄宿生でした」 意外な繋がりに、 そうですか…とローデリヒは軽く頷く。彼女に出された珈琲に口をつけ、芳しい香りに目を伏せた。 穏やかに変わるその横顔に、エリザベータは嬉しそうに口元を綻ばせる。 「…彼は、どういう人ですか?」 「ガサツで馬鹿でした」 きっぱりとした即答に、 ローデリヒは柔らかい弧を描く眉を軽く釣り上げる。思わず漏れた本音に、 あっと、口を押さえて肩を竦めた。 うう、と唇を引き絞めて、言葉を探す。 「…まあ、面倒見は良かったですよ」 彼とは、何故か全学年通じて同じクラスだったと言う、 奇妙な腐れ縁だった。 口が悪くて、乱暴で、暴力沙汰も何度かあったが、 頭の回転が良く、サボる事が多い癖に成績も決して悪くは無い。 限り無くプラチナに近い見事なブロンドと珍しい瞳の色の所為で、本人の自覚に関わらず、 良い意味でも悪い意味でも非常に目立つ存在であった。一匹狼を気取っていた割には、 特定の友人は居たし、自分より弱いと判断した対象は勝手に庇護認定をし、 何だかんだと世話好きでもあったので、自然後輩からは慕われていた。 思えば、しょっちゅう衝突を繰り返した間柄だ。懐かしく目を細めるエリザベータを、 ローデリヒは眺める。 バイルシュミット家の切れ者の新当主の噂には、 必ずもう一つ、彼の私生児に関する話も付属されていた。卑しい女からの出生、 下品な育ち、粗野で下賤な振る舞い…。彼の能力に反して、それらはあまり芳しいものではない。 あの。こちらを窺うエリザベータに、思考に落ちていた顔を上げる。 「バイルシュミット家の…ギルベルトの元に行かれるのですか?」 「…彼は、無理強いをする気は無いと言っていました」 本気で嫌がる事を強制しても、 信頼が無くなり、結局何も任せられなくなる。それでは意味がない。 全てを優先させる訳にはいかないが、音楽家としての仕事も併用すれば良いとも付け加えた。 この世界、何だかんだ言ってもコネや家柄が左右する面は否めない。 彼は、自分の評判を知っている。私生児であり、本来の当主に対して言わば仮の存在であり、 本来ならばバイルシュミット家の名を語れる立場には居ない事も含め、 その上で自分の責務を全うしようとしている。 「あの…私もご一緒させて頂けませんか?」 ローデリヒさんのお手伝いをさせて下さい。 ぎゅっと拳を握り、 決意に満ちた瞳を向ける彼女は、凛々しくてとても美しいと思った。 幼い頃に両親を亡くした彼女は、本来ならば養護施設へ行く予定だった。 そんな彼女の後見人となったのが、その両親と知り合いだったローデリヒの父である。 法的手続きが収まるまではと全寮制の学校へ通わせ、卒業した今は、 父の仕事の手伝いをしている。 彼女も、彼女の受けた恩に報いようと努力をしていた。 ふと、その光景が脳裡に浮かぶ。 あの日、門前まで見送りに来たギルベルトに別れを告げ、 ローデリヒは馬車に乗った。走り始めたその窓から、最後にそっと振り返ると、 丁度玄関先から幼子がひょっこりと出てきた所であった。年齢から察すると、 恐らく彼が本来のバイルシュミット家の当主、ルートヴィッヒなのだろう。 小さな彼の登場に気付いたギルベルトは、何やら言葉を交わしながら、彼の前に膝をついて、 視線の高さを同じにする。笑う気配。そして、くしゃくしゃと頭を撫でて立ち上がると、 ひょいとその小さな体を抱き上げ、そのまま屋敷の中に入って行った。 兄弟の仲の良さが窺える、微笑ましい光景だった。 end. ギルベルト贔屓が止まりません 2010.06.17 |