フェザータッチ・オペレーション <番外編3> 父は本来、男子が欲しかったらしい。なかなか子に恵まれなかった中、 待望の第一子の自分が娘であったことを、大層残念がったそうだ。 勿論、娘である自分が愛されなかったわけではない。父は優しい人であったし、 深い愛情をもって、一人娘としてとても大切に育ててくれてた。その事実は、 今でも揺ぎ無く確信している。 しかし、自分は子供なりに、 父の期待に応えたかった。 だから乗馬や、剣など、 およそ男子が好みそうなものは進んで練習していた。腕が上達すると、 父は喜んでくれた。普段は落ち着いた父が、こんな時ばかりは相好を崩し、 手放しに褒めてくれる。そんな父の顔を見るのが、とても好きだった。 ―――お前が男の子だったらなあ。 悪意の無い言葉に軋む胸の痛みには、 いつも気付かない振りをしていたけれど。 目が覚めて、一番最初にエリザベータの視界に映ったのは、見慣れない天井であった。 夢うつつに瞬きを繰り返し、ああそうかと思い出す。ここは学校の寮じゃない。 高原にある、エーデルシュタイン家の別荘だ。 寄宿学校の長期休暇の期間、 エリザベータはいつもエーデルシュタインの家に招待されていた。夏季休暇の際は、 決まってこの高原の別荘である。 父と親しかったエーデルシュタイン当主は、 幼い事から自分をよく知っていて、まるで本当の娘のように接してくれていた。 産まれて直ぐに母を無くし、続いて父をも無くした自分が学校へ通えるのも、 彼の援助の御蔭である。 両手の甲でくしゃくしゃと目を擦ると、 一度大きく溜息をついて、よっと勢いをつけて柔らかいベットから起き上がった。 素早く身支度を整えると、まだ朝食には早めの時間であることを確認して、 エリザベータは自室として与えられた部屋を出る。 階段を下り、 ダイニングルームに入ると、メイド達がてきぱきと朝食の準備に取り掛かっていた。 そしてこちらの姿に気が付くと、彼女達はやや困ったような笑顔で向かえる。 おはようございます、良くお休みになられましたか、 もう少しごゆっくりなさって下さっても結構ですよ…そんな彼女たちの声に、 にこりと笑って。 「何か、お手伝いさせて下さい」 最早日課のようになったそれに、 メイド達はそっと視線を交わし合う。 ―――では、 ローデリヒ様を呼んで来て下さいますか? 毎朝繰り返されるこの申し出には、 決まってそう返された。 エーデルシュタイン家の嫡子であるローデリヒとは、父達の交友と共に、 こちらも幼い頃から互いに見知った仲だった。 初めてローデリヒを目にした時、 エリザベータは正直、気が合いそうにないなと思った。 外を駆けまわって遊ぶのが大好きだった自分とは、まるで正反対だったからである。 如何にも良い所のお坊ちゃんらしい風貌の彼は、眼鏡をかけていて、線が細く、大人しく、 物静かである。遊びと言っても、いつも本を読んでいるか、優雅にピアノを弾くか、 部屋の中で過ごすようなことばかり。顔立ちも白い指先も女みたいにたおやかで、 手も足も自分よりも細いし、体つきも華奢だし、これで殴り合いの喧嘩でもしたら、 一発で勝負がついちゃいそうじゃないか。 神様は不公平だ。 自分よりもずっと女らしい彼は男で、彼よりもずっと男らしい自分が女だなんて。 だったらいっそ、体と中身をそっくりそのまま、取り換えてくれれば良かったのに。 そうすれば、お父様だってもっともっと喜んでくれたかもしれない…半ば本気で、 子供だったエリザベータはそう思った時があった。 幼馴染みではあるが、 親しくはない。面識はあるが、仲良しではない。 ローデリヒとエリザベータは、 そんな微妙な間柄であった。 ローデリヒの毎日は、実に規則正しい。朝も早く、この時間は大抵、 広間にあるピアノの前で楽譜と睨めっこしているか、 庭へ出て朝の散策をしているかどちらかだ。ピアノの音が聞こえないのなら、 恐らくは後者であろう。 華やかながらも品良く飾られた廊下を通り、 豪華なシャンデリアの吊るされたロビーを抜けて、エリザベータは庭へと向かった。 別荘とは言え、この屋敷は広い。何気なく置かれている調度品も、装飾品も、 由緒正しい骨董品に等しく、一般庶民である自分には、 触れる事さえ憚られるようなものばかりである。長く続く貴族の家だけあって、 どれを取ってもこの家の血統の良さを、そのまま表していた。 当たり前に接していたエーデルシュタイン家が、歴史ある大貴族である事。 幼い頃は自分より下に見ていたローデリヒが、その御曹司である事。 それを正しくエリザベータが理解できるようになったのは、寄宿学校に入ってからだ。 エリザベータの入学した寄宿学校は、ローデリヒの通う音楽学校と姉妹校に当たった。 裕福層の生徒が集まる、貴族や財閥の御曹司などが殆どである。 幸い、 学校生活において、育ちに関する事で嫌な思いをする事は無かった。 嫌な奴は何処にでもいるが、それ以上に仲の良い友人が沢山いたからだ。何より、 エーデルシュタイン家と昵懇である事実は、外野を黙らせるだけの力があった。 エーデルシュタインの家族はみな温厚で、優しく、穏やかで、 そしていつも心からこちらを歓迎してくれる。決してその心遣いが嬉しくない訳ではない。 ただ、それを何の疑問を感じずに受け入れる年齢を、 エリザベータはもう終えてしまっていた。 綺麗に整理された庭は、高地でしか見られない珍しい植物が数多く見られた。 この季節に利用する別荘と言う事もあり、そこかしこで夏の花が咲き誇っている。 その一角、真っ白いマーガレットの花壇の前に、ローデリヒは膝をついていた。 どうやら部屋に飾る為の花を取っていたらしい。 「ローデリヒさん、 おはようございます」 少し離れた場所から声をかけると、彼はゆるりと振り返った。 小走りに駆け寄るエリザベータに、優雅な動きで立ち上がると、 軽く眼鏡を押し上げる。 「おはようございます、エリザベータ」 変声期を終えた、低く落ち着いたテノールの声。 音楽学校へ通うようになった彼は、毎年夏はコンクールやコンサートで忙しく、 この数年この別荘へ来る事が無かった。当然、エリザベータと対面する機会も無く、 こうして顔を合わせるのは、実はかなり久しぶりでもある。 幼い頃の印象しかなかったローデリヒは、もうすっかり大人になっていた。 華奢で、女の子のように見えていた彼も、今はぐんと背も伸び、 体つきもしっかりして、何処から見ても立派な一人前の男性である。 線の細そうな横顔は相変わらずだが、 体と中身をそっくり取り換えたら良いのに…等と考えていた子供の頃が申し訳なく思える程、 自分の記憶にある彼の姿から変化していた。 「朝食ですか」 「はい」 直ぐ向かいます。言いながら、手にあるマーガレットの花束を抱え直す。 子供の頃から少女のような顔をしているとは思っていたが、 成長した彼もやはり綺麗な顔をしていた。寄宿学校の中でもちょっと見ないような、 おっとりと、品のある、知的で、端正な顔立ちである。それに加えて何処までも優雅な仕草は、 思わず見惚れるほどに、酷く洗練されていた。流石は貴族の御曹司と言うことか。 持っていた園芸用の鋏をケースに収める様子に、エリザベータはそっと手を差し出した。 何ですか?軽く眉を顰めて向けられたローデリヒの視線に、にこりと笑う。 「私が納屋に仕舞っておきますから」 だからローデリヒさんは、先にお食事をどうぞ。 だがしかし、ローデリヒは神経質そうに眉間に皺を寄せ、ふいと顔を背けた。 「結構です」 これは私が出したのですから、自分の事は自分でします。 怒ったようなその口調に、エリザベータは思わず身を引いた。すいません。 肩を竦ませて俯くエリザベータに、軽くローデリヒは息をついた。 「…貴方は毎朝、 メイドに手伝うと申し出ているそうですね」 彼女達から話を聞いたのか。 彼女達も困っていたとは肌で感じていた、それで彼に相談したのであろう。 「…あ、私も何か出来るんじゃないかって…」 「貴方はこの家のお客様ですよ」 大切な我が家の来客に、使用人紛いの事をさせるつもりはありません。 「でも、せめて、 お手伝いぐらいはと思って」 こちらに御厄介になっている身ですから。苦笑を零すと、 ローデリヒはその菫色の瞳を細めた。 「…貴方は、変わりましたね」 いえ、寧ろそのような所は、昔からちっとも変わっていないのでしょうか。 「えっ?」 「行きましょう」 しなやかな腕がそっと背中へ回され、 そのままエスコートするように歩みを促す。慣れた動きは何処までもスマートで、 自然エリザベータは並んで足を進めていた。 「貴方が気を回す必要はありません」 それこそ、貴方を大層気に入っている、父も母も不本意でしょう。 今更何を遠慮しているのですか。 「で、でも」 言い淀む様子に、 ちらりと視線を向けられる。酷く整った顔立ちをしているだけに、 冷ややかな印象を与えるものだった。 「…貴族でもない私には、この生活は贅沢です」 身寄りを失った自分への様々な援助は、本当に心底有り難いと思っている。 しかし貴族ではない身としては、この過ごしやすい高原の別荘でのバカンスも、 大きな屋敷に宛がわれた広い私室も、わざわざ寄宿学校まで迎えに来てくれる立派な馬車も、 身に余り過ぎて恐縮してしまう。 「…何をお馬鹿さんな事を言っているのですか」 はあ、 とローデリヒは大きく溜息をついた。 「貴族の名前なんて、この先どうなるか…」 先細りのその声は、エリザベータまで届かない。不安を滲ませる思い詰めた横顔に、 オリーブ色の瞳を瞬きをした。 窺うような彼女の視線に、ふっと笑って見せる。 そう言えば…話題がするりと切り替えられた。 「もうすぐ、演奏会ですね」 姉妹校であるエリザベートの寄宿学校と、ローデリヒの音楽学校は、年に一度、 合同演奏会を行っていた。双方の学校が共同で、オペラを上演するのである。 「ローデリヒさんは、今年もピアノを担当されるのですか?」 さあ、まだ判りません。 選考会もありますからねと首を傾げると、澄んだ声で笑いながら、 ローデリヒさんなら大丈夫ですよと力強く頷く。 「貴方はどうなのですか」 奏者はローデリヒの学校の生徒、演者はエリザベートの学校の生徒から選出される。 エリザベートは、とても通りの良い美声の持ち主だ。学校の選択教科では声楽を学んでおり、 恐らくは彼女も候補の一人なのであろう。 「私は無理ですよ」 「何故ですか」 「だって、今年はロミオとジュリエットですよ」 悲劇のヒロインなんて、 柄じゃありませんから。ふるふると首を振って、エリザベータは苦笑する。 「第一、ドレスが似合いませんよ」 ジュリエットの衣装は、 胸元が強調された女らしいドレスを着るイメージがある。あの衣装は、小柄で、華奢で、 儚げで、守ってあげたくなるような、可愛らしい女の子にこそ似合うだろう。 普段から活動的な服ばかりを身につける自分には、とても似合いそうにない。 ローデリヒは感情の見えない瞳で、じいとエリザベータを見下ろす。 「どうして、そう思うのですか?」 足を止めたのは、 丁度屋敷へ続く道と、納屋へ続く道との分岐点に来たからだ。 つられる様にエリザベータも立ち止まる。 お互い、向き合うような位置のまま。 「…貴方はいつも、自分を抑えている様に思えます」 「自分を…ですか?」 幼い頃は、父親の期待に応える為。そして今は、こちらの恩義に応える為。 それはとても誠実で、素晴らしい事なのだろう。しかしそうする事によって、 いつも自然な自分を、無理に抑え込んでいる様に見えてしまう。 「貴方は、そのままで充分なのですよ」 誰かの事を考えて、無理をする必要はありません。 ありのままの貴方で良いのです。 するりと手元の花束から引き抜いたマーガレットの花を、 すっとエリザベータの髪に差す。柔らかい鳶色の髪に、真っ白い花が映えた。 「似合うと思います」 貴方には、綺麗なドレスが、とても。 生真面目な顔のままで、そう告げた。 横を通り過ぎ、納屋へと向かう背中を、振り返る事も出来ずに立ち尽くす。 一人残された夏の庭。 やけに煩い心臓の音を聴きながら、熱くなる頬を、 エリザベータは必死で両手で抑えつけていた。 end. ラブストーリーって本当に難しいデス(涙) 2010.09.02 |