フェザータッチ・オペレーション <番外編4> 彼女とは、幼い頃から見知った仲だった。 特別親しかった訳ではない。 互いの父親が昵懇であった故、自然と幾度か顔を合わせていた、 あくまでもその程度のもの。幼い子供同士は進んで交友を持とうとした事も無い、 そんな実に微妙な間柄である。 何せローデリヒは最初に出会った時、 彼女と親しくはなれないだろうと感じた。 彼女はこちらとは正反対のタイプだ。 誰に対しても遠慮も気後れもせず、真っ直ぐで、活動的で、颯爽として、明るい。 そしていつも、青空の下を縦横無尽に駆け回り、元気いっぱいに遊ぶ、 快活な少女である。 だからあの頃は、 寧ろ彼女の方こそが自分と一緒にいても楽しくないだろう…とさえ思っていた。 太陽の下で、誰からも愛される笑顔を振りまく彼女は、 ローデリヒには酷く眩しいものであった。 ローデリヒの通う音楽学校とエリザベータの通う寄宿学校とは、姉妹校であった。 二校は年に一度、合同音楽会を開催し、交流を深め合っている。 エリザベータの学校は専修学校では無かったが、音楽学校と姉妹校である関係からか、 選択制の音楽教科が必須科目となっていた。ピアノ、バイオリン、チェロ等、 様々な教科があるが、選択したものによっては、 音楽学校から派遣された講師もいて、音楽学校と同レベルの授業を受けている。 なのでこの交流会は、学校行事と称されてはいるものの、 それなりに大掛かりで本格的なイベントになっていた。 生徒はあらかじめ、 オーケストラやオペラ、アンサンブル等、幾つかのグループに分類される。 そして二校の生徒が混合したメンバーで練習し、共に合同発表会に挑むのだ。 演目は幾つもあるが、その中でも注目度の高いものの一つが、オペラである。 セットや衣装が華やかな舞台は、校内行事にしてはなかなか手が込んだものを使い、 校内外問わずに毎年人気があった。 その今年の上演が、 シェイクスピアの名高い名作「ロミオとジュリエット」なのだが。 「まさか、貴方がロミオ役とは思いませんでしたよ」 驚きのままに掛けられた声に、 エリザベータは恐縮したように身を竦ませた。 「お、お恥ずかしながら…」 「何も恥ずかしく思う事はありませんよ、お馬鹿さん」 男役とは言え、舞台の主役の一人に選ばれたのだ。誇る事こそあれ、 断じて恥じる必要などは無い。 基本的にオペラの配役は、学校側が候補者を選び、 その中から生徒同士が話し合いで決定する。本来ならば男子生徒が選出される筈の配役に、 今年は何故か、女子のエリザベータが選ばれた。 漏れ聞いた話では、 エリザベータは特に女生徒からの熱烈な支持の元、断トツの人気を誇って、 ロミオに抜擢されたらしい。彼女の校内での人気が窺える裏話に、 ローデリヒは成程と納得した。かなり異色のキャスティングではあるが、 だが逆にそれもまた面白そうだと、今年のオペラチームは今から妙に盛り上がっている。 今日はその最初の合同会議である。顔合わせと会議は終了し、他のメンバーが既に帰宅した中、 今は顔馴染みの二人だけが教室に残っている。 「貴女なら、必ず見事に舞台をこなせます」 きっと今年の合同演奏会は、とてもすばらしい物になるでしょう。 はっきりとそう告げると、エリザベータは漸く顔を上げ、照れくさそうに笑った。 「頑張ります」 控え目に笑うそこには、幼い頃とはまた違う、 微妙な距離が漂っている。 それに、ローデリヒは僅かに眉根を寄せた。 久々に再会したエリザベータは、変わった所と、変わっていない所があった。 彼女より年長であるローデリヒは、一足先に音楽学校に通うようになってから多忙となり、 長期休暇の間でさえ殆ど家に帰っていなかった。なので今年の夏季休暇の別荘で、 二人はかなり久しぶりの再会を果たしたのだ。 数年のブランクを経て出会った彼女は、 幼い頃の面影をそのままに、驚くほどに立派なレディに成長していた。 しかし、ひとつの違和感があった。 「昔の貴方は、 そんな話し方ではありませんでしたけどね」 ぽつりとした言葉に、 エリザベータは目を丸くする。そして困ったように眉根を寄せて、 ほんのり色付く形の良い唇を抑えた。 「それは、子供の頃の話ですよ」 幼少の頃、少年のように振舞っていたエリザベータは、その無邪気な天真爛漫さのままに、 誰に対してもフランクな男言葉を使っていた。 エーデルシュタイン家に仕える使用人や執事は勿論、ローデリヒやその両親に対してでも、 その口調や態度を変える事はしない。誰に対しても平等で、あけすけで、 気さくな口調を崩さずに接していた。 これが他の誰かなら、 弁えが無いと受け止められるかもしれない。しかし持ち前の真っ直ぐな気性からか、 寧ろ彼女らしさとして、誰の目にも好意的に捉えられていた。ローデリヒの両親も、 そんな彼女の素直さを酷く気に入っている。 しかし再会した今、 それがすっかりと失われていた。 男言葉はすっかり形を潜め、 女性らしく柔らかで丁寧な言葉を、慣れた調子で操るようになっている。 幼い頃の印象をそのまま彼女に持っていたローデリヒには、それが奇妙に感じてしまう。 しかし、今の彼女にとっては違うらしい。寧ろ過去こそが汚点であり、 消え去ってしまいたい記憶となっているようだ。 馬鹿馬鹿しい、と思う。 彼女が自分の立場に対して、エーデルシュタインに引け目を感じている事は、 夏季休暇の際の会話で読み取れた。何を今更だとは思うのだが、恐らく彼女にとっては、 切実な問題なのだろう。 ローデリヒはエーデルシュタイン家の事業に疎い。 しかし、父の事業が芳しくない事は肌で感じている。父はこちらの音楽の情熱を理解し、 事業に触れさせる事無く、こうして音楽学校への進学を快く承知してくれた。 だがこんな生活が何処まで続けられるのか、保障などどこにもない。だからこそ、 せめて打ち込むことの許された今だけは…そう思って休暇も押して学業に勤しんでいる。 貴族と言う称号など、周囲が思う以上に不確かなものだ。特に近年、 近代化や民主化がめまぐるしく進む社会情勢の中において、 その名称はいつ失われても不思議は無い。 そんなものに拘るエリザベータにも、 しがみ付くエーデルシュタイン家にも、そしてそれに甘える自分にさえ。 ローデリヒは他人事の様に、冷めた目を持っていた。 会議に使った教室を出て、二人は並んで校門へと向かう。 「演奏会には、 父と母も観に来ますよ」 専門院に進級するローデリヒにとっては今年で最後、 高等部に進級したエリザベータにとっては今年が初めての、合同演奏会である。 二人が共に出演する、最初で最後の今年のイベントを、 ローデリヒの両親はとても楽しみにしていた。 「でも、おじさまとおばさまに、 びっくりされそうです」 恐らくオペラのグループに入るであろうことは、 長期休暇前から予測していた。しかし、流石にこのキャスティングまでは、 誰にも予想できなかっただろう。 「まあ、私がジュリエットをやっても、 気持ち悪いだけですけどね」 寧ろ男性役で良かったです。 肩をすとんと落として告げるエリザベータに、 ローデリヒは神経質に顰めた視線を向けた。 大袈裟に溜息をついて。 「昔と変わりませんね、そんな所は」 彼女は、昔からそうだ。 エリザベータには幼少の頃からずっと、自分の中の「女性」を否定するような節がある。 それが、ローデリヒにはもどかしかった。 ローデリヒにとって、 エリザベータは出会った時から、間違いなく異性を感じる相手であった。 両親は寄宿学校へ行ってから、随分女の子らしくなってと評していたが、 ローデリヒは違うと思う。昔から、彼女はとても女性らしかった。ただ、 彼女自身がそう見られる事を良しとしていなかったに過ぎない。 そして、その理由も知っている。 ―――お前が男の子であったらなあ。 彼女の父親が生前、何かの折にそんな言葉を、エリザベータに告げていたのを聞いた事がある。 悪意の無い言葉なのだろう。しかしそれを聞いて、ローデリヒは腹が立った。 じょせいにむかって、なんてことをいうんですか、おばかさん。 かのじょはりっぱな、れでぃなんですよ。 ぽこぽこと頭に湯気を立てて、 彼の父親に抗議をした事もあった。しかし子供の癇癪と捉えられ、 笑って軽く流されるだけに留まり、幼心ながらに随分憤慨した事を憶えている。 こんな事、彼女は恐らく忘れているだろう。 しかし、ローデリヒは憶えている。 普段は明るい彼女が一瞬だけ見せた強張った表情と、その痛々しさが、忘れられなかったからだ。 「私は、お世辞や嘘は言いませんよ」 はい?とエリザベータは首を傾げる。 不思議そうなそれに、内心息をついた。 「憶えていないなら、結構です」 彼女にとっては記憶に足る事ではなかった、それだけの事なのだ。 エリザベータは戸惑ったように瞬きを繰り返す。そうして、何を思い出したのか、 ほんのりと頬を染めて唇を噛締めた。 あの…。遠慮がちに掛けられる声。 「演奏会の後のパーティーですけど」 合同演奏会の後は、 後夜祭として学校側の主宰するパーティーが行われる。 短い期間とはいえ、 練習を通じて交流を深め合った後でもあり、ここでロマンスが始まるケースも多々あった。 とある曲を踊った相手とは幸せな恋人同士になれる…等との学生らしいジンクスもあり、 学生とは言え、特に女生徒は皆、ドレスアップに気合を込めて参加する。 「私がドレスを着ても、ローデリヒさん笑わないでくれますか?」 身を乗り出すように告げられたそれに、今度はローデリヒが驚く番だ。 何を、当たり前の事を言っているのだろう。 「当然ですよ、お馬鹿さん」 思わず声を荒げると、足を止めて向かい合う。校門前だ。 この校舎に不案内なこちらを気遣い、彼女はわざわざここまで送ってくれたのである。 ふっと弓型に瞳を細めて。 「その時は、是非私にエスコートさせて下さい」 にこりと笑うと、仰々しく頭を下げた。顔を上げると、真っ赤になったエリザベータが、 満面の笑顔を向けている。 「お願いしますっ」 ぐっと拳を握りしめて勢いづく様子に、 思わず小さく笑ってしまった。ああ、やはり彼女は、 とても少女らしい可愛らしさを持っているじゃないか。 「…では次の練習の時に、また」 彼女に手を差しだした。 「演奏会、一緒に頑張りましょう」 エリザベータはこちらを見上げ、 にこりととても美しく笑うと、はいと大きく頷いて手を握り返す。 小さくて、しなやかで、柔らかい手だった。こちらの手の中に、 すっぽりと収まる大きさだった。 それは、間違いなく女性の手であった。 end. エリザさんは下級生に人気があるタイプだと思うんだ 2010.09.17 |