フェザータッチ・オペレーション <番外編5> 教室の扉を開けると、丁度演奏が開始された所であった。 この教室はフルート奏者の練習に宛がわれている。彼らは合同演奏会で、 オーケストラのチームであった。オーケストラのメンバーは、 まずはそれぞれの楽器グループ別に分かれた練習から始めるのだ。 彼らの練習の邪魔をしないよう、エリザベータは静かに扉を閉めると、 扉を背にして暫し演奏に聴き入った。 淀みなく流れる、バランスの良いハーモニー。 風の狭間を転がるような音色は、朗らかに囀る小鳥を連想させ、耳にとても心地良い。 その調べを乗せたような悪戯な風に長い髪がさらりと煽られ、 エリザベータは誘われるままに、全開にされた教室の窓へと視線を移した。 そこで露骨に顔を顰める。 こちらに背を向ける奏者達の向かう側、 窓を背にした椅子に腰を下ろし、足を組んで目を閉じる男の横顔は、 確かに美形と形容されるものなのだろう。 見事なプラチナブロンドは差し込む光をきらきらと受け、 伏せられた同色の睫毛は神秘的な影を落としている。すらりと通った鼻梁と顎の線は、 彫刻を思わせるほどに整い、怜悧な繊細さを醸し出す。 生気を感じさせぬ程の白い肌とも相まって、いっそ神秘的な近寄り難ささえあった。 しかし、エリザベータにとって、それらは全く意味を為さない。 鼻を鳴らすと、つかつかと足音高くそちらに歩み寄る。壁にもたれかかり、 腕を組んで座る彼の前に前に立つと、ぱしんとその頭を平手で叩いた。 「のわっ」 遠慮の無い力でのそれは、実に小気味の良い音を教室内に響かせる。 その場にいた奏者達がぎょっと引きつり、僅かに音楽が乱れた。 突然のそれにがばりと顔を上げた途端、バランスを崩した長身の体が、 大きな音を立てながら椅子から転げ落ちる。 「いってーっ」 強かに床に打った頭を擦りながら、半身を起こし、じろりと睨み上げた。 ルビーのような紅みを帯びた瞳が、突き刺さるように攻撃的に細まる。 「てめえ、いきなり何しやがるっ」 比較的裕福層の生徒が集まるこの学校で、 彼の柄の悪さは群を抜いている。しかし、エリザベータは怯まない。 負けない強さで見下ろすと、腰に手を当てて胸を張った。 「あんた一人で何サボってんのよ、この馬鹿」 「サボってねえよ、音を聴いてんだろうがっ」 唇を尖らせて吐き捨てながら、 がたがたと倒れた椅子を直しながら立ち上がり、制服を払って埃を落とした。 目と口を開くと、残念なほどに彼は印象が変わる。 その非常に珍しい瞳の色が覗けば、 更に人間離れして見えそうにも思うのだが、彼に関してはまるで逆効果らしい。 大人びた横顔は一気に悪童じみたものになり、 乱暴な口調は聴く者の神経を不必要に逆撫でする。この極端な落差が、良し悪しを問わず、 非常に珍しい瞳の色と相まって、相手に強烈な印象を与えるのだ。 「お前こそ、何でここにいるんだよ」 オペラは向こうの棟だろ。片方の眉を吊り上げ、 上から見下ろす彼に、手に持っていたプリントの束を見せた。 「先生から預かったの」 皆の練習の邪魔になるから、外で。視線で教室の外を示すと、 ああと彼は後に続いた。そして、思い出した様に一度振り返り、にやりとしたり顔で笑う。 「ほらな、俺様の言ったとおり、良くなっただろ」 そのままアルトは抑え気味に、ソプラノのお前はもう少し丁寧にな。 そう指示を終えると、彼女の背中を追って教室から出た。 この、とことん口の悪い男ギルベルトとは、初等部に入学した当初から、 何故か今までずっと同じクラスになっている、妙な腐れ縁があった。 しかもこの合同演奏会の期間、偶然ながらも互いに区分された演奏グループごとの、 班長に当てられている。 見た目も頭も決して悪く無い筈のこの男は、 しかし何もかもを裏切るような、至極厄介な性格をしていた。 決して悪い奴ではない。 それはエリザベータも認めている。律儀な所もあるし、結構根は真面目だ。 意外と頼りになるし、面倒見の良い所だってある。 だが目の前にすると、 どうにも衝突が絶えなかった。仲が良い…とクラスメートに称された事があったが、 冗談じゃない、エリザベータは微塵たりともそうは思っていない。 どこをどうすればそう映るのか、心の底から不思議であった。 廊下に出ると、エリザベータはクリップで留められたプリントを手渡した。 申請書の束と、その詳細が記された説明書きである。受け取るギルベルトに、 幾つかの連絡事項も伝えた。 「期限は今月中だから」 当日舞台上で必要なものがあれば、リストアップして各自で申請しなければならない。 生徒が書いたそれぞれの申請書を、班長が纏めて提出するのである。 「あー、めんどくせえな」 今回の課題曲はフルートが大変だってのに、 都合とかでなかなか指導の教師が来ねえんだぜ。俺様、必死だっつーの。 どうやら先刻の話らしい。確かにギルベルトのフルートの腕は良い。 音楽学校への編入の話もあったぐらいだ。恐らく、指導教諭の代わりに、 皆の演奏をチェックしていたのだろう。 「あんたの所は大した申請は無いでしょ」 こっちのオペラなんか、オーケストラとは比べ物にならない位多いんだから。 むすっとした口調で言い切ると、によっとギルベルトは笑った。途端に幼い顔になる。 「聞いたぜ、お前のロミオ」 合同交流会のオペラ始まってい以来の、 史上最高に男前なロミオだと評判良いぜ。流石だよな。いや、俺様もマジでそう思うって。 「よっし。折角だから、俺様が見学してやるよ」 腕を組んでケセセと笑う彼に、 エリザベータは半眼で見遣る。何、馬鹿言っているんだ、この男は。 「行くなら行けば?」 ほら、あっちね。しっしっと手を振って追いやり、 じゃあねとばかりに真逆へと足を向ける。 「何だよ、お前。オペラの教室はこっちだろ」 「私はこれから倉庫に行って、衣装を探さなきゃ駄目なの」 歴代の衣装や大道具、 小道具類の詰まった倉庫は、校内一の混沌さを誇る事で有名だ。 その中から目的の物を探し当てるのに、どれだけの時間が必要になるか、 考えるだけで気が重くなる。 うわ…とギルベルトは顔を歪ませ、その一拍の後、 ぷっすーと小馬鹿にした顔で吹き出す。 「しょうがねえな。手伝ってやるよ」 ほにゃららのよしみでな。勘違いすんなよ。によによしたその馬鹿面に。 「鬱陶しい。お前すんげぇ鬱陶しいっ」 咄嗟に出るのは、ひと昔前の男言葉。 エリザベータが男勝りであった頃からの腐れ縁だ。最近はすっかり落ち着いた言葉使いも、 取り繕う必要の無い相手の前では無意味である。何せこの男こそが成長していない。 どんなに背が伸びても、大人びた顔つきになっても、 どこまでも中身は出会った当初の悪戯小僧のままなのだ。 「遠慮すんなって」 「うるせえ、こっちくんなっ」 妙に楽しそうついて来るギルベルトに、エリザベータは遠慮の無い声を上げる。 付き合っていられるか。さっさと目的を果たすべく、倉庫へ向かおうとした所。 ―――流石ロミオ様は、言葉使いも慣れたもんだよな。 窓の向こうから届く声。 視線を向ければ、窓を挟んだあちらの中庭から、同じオペラの声楽選考の男子生徒が数人、 嘲りを含んだ顔でこちらを見遣っている。 充分聴かせる音量で、如何にもわざとらしい会話を交わしていた。 さぞや高貴で麗しい、愛しのロミオ様…なんだろうな。生まれと品の良さでは、 誰も敵わねえとさ。男顔負けのバリトンが聴けるかもな。おいおい、 ロミオ様は声変りもまだなんだとよ。 またあいつらか。あからさまな嘲笑に、 エリザベータは心の内で溜息をついた。 彼らにとって、相手は誰でも良いのだ。 気に入らない対象をああして乏しめる事で自分の劣等感を満たす、 気の毒な思考の持ち主なのである。嫌な奴は何処にでもいるものだ。 それをいちいち相手にする程、自分は馬鹿じゃない。 エーデルシュタイン家のお知り合いは大したもんだな。天才ピアニスト様に、 どんな手段でお願いしたのやら。へえ、どっちの手段で?男?女? 流石大貴族さまは、結構な趣向を御持ちな事で。 下種なそれらに、流石にエリザベータはかっとした。こちらを嘲弄するのは構わないが、 そこにローデリヒを出すのは許せない。 ぎろりと突き刺す様に睨み据え、 そのまま怒声を上げようとした直前。 「おう、てめえら」 窓枠からひょいと覗いた顔に、彼らはぎょっとした。彼らの見えていたのは、 窓の前に立つエリザベータだけであり、 壁に阻まれたそこにギルベルトがいるとは思っていなかったらしい。 凄んだ赤眼に些か怯む。ギルベルトは校内でも有名人だ。その目立つ容姿もさながら、 やたらと喧嘩っ早い事でも然り。 血こそ継いでいるが、 彼も貴族ではない。成りあがり貴族の私生児…裏で囁かれる悪意のあるそれを、 しかし彼は全く気にしなかった。そして己が出自を隠す事も無い。 文句があるなら掛かって来いよ、それが彼のスタンスだ。 だから実際の所、 喧嘩っ早いと言われてはいるものの、彼自身に難癖をつられた理由で手を出す事は殆ど無い。 彼が喧嘩を始める時は、常に他の誰かがあっての事を、エリザベータも知っている。 但し、喧嘩好きであることもまた事実。要するに、 気に入らない奴に喧嘩を売る切っ掛けが欲しくて、わざと相手を煽るのだ、この男は。 「口しか勝てねえからって、粋がってんじゃねえよ」 偉そうに言っても、その下賤の生まれに勝てねえお前らは、 所詮それ以下だっつーコトだろ。自分の馬鹿にする奴に負けたからって、 犬みたいな吠え面かいてんじゃねえぞ、コラ。 斜めに顎を上げ、 小馬鹿に笑う態度は実に尊大だ。ああ、これは言われた側も腹が立つだろう。 こちらを睨みつけてくる彼らに、何だ、へえ、やんのか? むしろ楽しげに笑いながら、嬉々として身を乗り出す。 そのギルベルトの後頭部を、エリザベータは勢い良くすぱんと叩いた。 当然、遠慮はしない。響いた音の大きさに、彼らの方がぎょっとする。 「止めなさいよ、馬鹿」 わざわざ煽ってどうすんのよ。睨み据える彼女に、 殴られた頭をさする。彼女から叩かれ慣れているとは言え、痛いものは痛い。 「お前なあ…」 「あんたは余計なことしないで」 只でさえ要領が悪い癖に。 理解してくれている教師もいるが、そうでない教師に目をつけられている癖に。 こんな馬鹿馬鹿しい諍いで、自分の評判を落としてどうするつもりなのか。 つんとそっぽを向くと、そのまま背中を向けて倉庫へと足を向ける。 背後から掛かる声には、聞こえないふりをした。 職員から預かった鍵を開けて中に入ると、倉庫内は思った以上にカオスだった。 うず高く積まれた大小のケース、倒れてきそうな大道具、 傾いた棚は今にもこちらに倒れてきそうだ。カーテンの隙間から差し込む光に、 ちらちらと舞い散る埃が筋を作る。それに眉を顰めながら、 エリザベータは中へと足を踏み入れた。 この倉庫には、 過去この校内行事に使われた舞台用のセットが、一纏めに保管されている。 今回のロミオ役に使い回し出来るものを、エリザベータは探しにきたのだ。 使えそうなデザインの物はそれなりに揃っているが、如何せん男役の衣装は、 成長期真っ只中の男子生徒の体に合わせて作られたものばかりである。 エリザベータは小さい訳ではないが、決して長身でも大柄でもない。 多少の裾直しで使えるものがあるなら構わないが、一から作るとなると、 準備も時間も必要だ。なので他の出演者より一足早く、その確認をしに来たのである。 衣装棚に当たりをつけて順番に探ってゆくと、漸くそれらしい衣装箱が見つかった。 棚からそれを引っ張り出し、確認しながら取り出し、 エリザベータは幾つかを体に合わせてみる。 矢張りかなり大きい。 多少なら手直しして使えるかとも思ったが、どれも無理がありそうだ。 何せ大きさは勿論、厚みや、骨格の構造から、男と女は違うのである。 衣装は新調した方が良いだろう。 溜息をつくながら、引っ張り出した衣装を整理する。 そしてふと、奥に紛れた布地が目についた。 鮮やかな色に惹かれて手に取り、ばさりと広げる。 わあ、とエリザベータは声を上げた。 どうやら間違えて紛れこんだらしいそれは、女性用のエンパイアドレスであった。 深みのあるローズピンクのドレスは、全体に細かいオリエンタル柄が刺繍され、 裾と胸元には透かし模様の入ったレースがふんだんに使われている。 すんなりとしたシルエットとやや胸を強調したレトロなデザインに、 エリザベータは目をきらきらさせて瞬きした。 綺麗だな、と思った。 そっとドレスを前に当てる。袖は少し短いが、着丈は丁度良い。 くるりと回ると、その動きに合わせて裾が広がった。その感覚に、おおと目を瞠る。 エリザベータはドレスを着た事が無い。幼い頃から殆ど男として育っていたし、 手持ちの服は少年が着るような、動きやすさを重視したものばかりである。 そう言えば、幼い子供の頃、エーデルシュタインのパーティーに招かれた事があったっけ。 あの時は確か、母が用意してくれたドレスを嫌がり、 ローデリヒのお下がりのタキシードを着てパーティーに出席したのだ。 親族ばかりが集まる極内輪なものだと聞いてはいたが、それでもエリザベータの知らない人が沢山いた。 初めて見る誰もが、エリザベータを凛々しい男の子だと称していた。 一人として女の子だと気付かれなかった事が、誇らしく思えていた。 でも、結局。ローデリヒがエリザベータをダンスに誘った事で、 皆に女だと悟られてしまったのだ。 思えばローデリヒは、あの頃から女性として、 エリザベータに接してくれていた。常に自分を抑えているとの彼の言葉は、 いつも女であることを隠そうとするこちらが、無理をしているように映っていたからなのであろう。 小さく笑い、ふうと溜息をつく。 今年の演奏会のパーティーで、エリザベータは初めてドレスを身につける。 貴族出身生徒の多いこの学校で、ダンスやパーティーマナーは一般教養として学んでいたので、 そちらの不安は無い。 ただ、ドレスを纏う鏡の向こうの自分の姿に、違和感が拭えなかった。 何が駄目なのか、何がしっくりこないのか、エリザベータには判らない。 それが、単純に目に慣れないから感じるだけの、 自身のみが過度に感じる些細な勘違いだとは、全く気づいていなかった。 子供の頃からずっと女性として接してくれたローデリヒに、 今度はきちんと女性としてして向き合いたかった。女として着飾り、 女として振る舞い、女として接する自分を見て欲しかった。女であることを抑えない、 ありのままの自分自身を知って欲しかった。 大丈夫。あの人は笑ったりしない。きっと、あの穏やかな笑顔で、 優しくエスコートしてくれる筈。 そう…多分、こんな風に―――見えない想像のローデリヒに向かって、 そっとエリザベータは前に手を差し伸べる。 倉庫の扉が開いたのは、それと同時だった。 ドレスを身に当てて、宙へと手を伸ばす不自然な姿勢のまま、ぎょっとエリザベータは振り返る。 開いた扉の向こうから、こちらを見つめるのはギルベルトだ。それに気が付き、硬直する。 「…何やっての、お前」 何処かぽかんとしたような声に、びくりとエリザベータは肩を震わせた。 途端、かあと顔を真っ赤にさせる。言葉で誤魔化そうとするが、頭が上手く回らない。 まじまじとこちらを見つめる赤い瞳に、泣きたくなってきた。 「別に…っ」 やっとの事でそれだけを吐き捨てると、くるりと背を向けて、 手にあったドレスを素早く二つ折りにした。 よりにもよって、この男にこんな所を見られてしまうなんて。羞恥に声が震える。 それが相手に伝わったのだろう、気まずい沈黙がその場を支配する。 埃っぽい空気越しに、互いの戸惑いが伝わった。 所在なく、かしかしとギルベルトは髪を掻く。あのさあ…沈黙を破ったのは、彼からだった。 呆れたように響く声。 「お前さ、無理してんじゃねえよ」 それが、ローデリヒの言葉と重なった。 無理に自分を抑えずとも、貴方はそのままで充分だと、あの優しい人は言ってくれた。 こんな男勝りな自分にも、ドレスが似合うと花を差し出してくれた。 だけどこの男は違う。 自分を女として見た事がない、この男の言葉は違う。 エリザベータは唇を噛締めた。 無理をしている?ドレスを見つけて、 それを着てみたいと思った事が?パーティーで憧れの人に、 エスコートして欲しいと夢見る事が? それとも、女らしさの欠片も無い女が、女らしくなろうとする事が? 手に持っていたドレスを、力任せにギルベルトへと投げつける。うわ、と声を上げるが、 当然ながら柔らかい布地のそれは、ふわりと頭を覆い隠すだけ。衝撃にさえなりはしない。 咄嗟に伸ばしたエリザベータの手に当たったのは、小道具に使用されるフライパンだった。 それをしっかり握りしめて、振り仰ぎ。 「似合わなくて悪かったなっ」 視界を奪われてわさわさともがく彼の頭に、力任せに振り下ろした。 乱暴な力のままに、ばたんと音を立てて、倉庫の扉が閉まる。 泣くもんか、泣くもんか。 零れそうな嗚咽を意地で押さえつけ、エリザベータは早足で、その場を後にした。 end. 楽譜が読めて楽器が弾ける人って羨ましいです 2010.09.25 |