笑う犬との生活
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 善は急げというけれど。





 よいしょ、菊は玄関に両手に持った荷物を下ろし、後ろを振り返る。
「どうぞ、入って下さいね」
 自分の荷物の入ったバッグを持ったギルベルトは、促されるままに家の中へと踏み込んだ。玄関で脱いだ靴をきちんとそろえて並べる辺り、成程、きちんと躾をされているらしい。家主を通り越してずんずんと奥へと入って行く様子に、遠慮は見られないけれど。
 応接間に入ると、ギルベルトは持っていた荷物をどさりと足元に置く。腰に手を当て、ぐるりと周りを見回して。
「今日からここが、俺様の城かー」
 ちっと狭いけど、まあ良いか。うーんと身体を伸ばすギルベルトに、菊はぱちくりと瞬いた。勢い良く彼を振り仰ぐ。えっ?
「喋るんですかっ?」
「なに言ってんの、お前」
 さも、変な事を言っているのがこちらだと言わん限りの彼に、菊は口をぱくぱくさせる。
 だって、あちらのお宅でお見合いをしている間、彼は一言も喋らなかった。てか、犬ですよね、貴方。しかもドイツ出身ですよね。え、日本語? なに、ドイツ語は?
「親父に、大人しく静かにしてろって言われていたからな」
 親父の言う事は絶対だぜー。
 どうやら、飼い主に言われたことはきちんと守る子ではあるらしい。上司の躾の賜物か。流石、大型犬の多頭飼い主。そうですよね、ちゃんと言う事を聞かせられるように躾けなければ、大型犬は難しいですよね。
 そうだ。感心しているだけではいけない。
 自分も大型犬を飼うに当たって、その辺りはきちんとしなくては。なにせ、ぽち君みたいな小型犬とは違う。これだけ大きいのだ。飼い主として正しく接するようにしなくては、自分は勿論、ご近所にも迷惑をかけてしまうことになるのだから。



 ここは先ず、お互いの信頼関係を築く事から始めよう。
 敵意が無く、友好を示すには――矢張り、食べ物を与えるのが一番か。



「とりあえず、ご飯にしましょうね」
 おやつでも良いが、時間的にはそろそろ夕食の時間になる。
 上司から大型犬譲歩の話を聞いた時、気が早いとは思いつつ、あれこれ準備していたのはまさかの幸いだった。
 お腹、空いているでしょう。どのフードが良いか、お好みがあるか分からなかったので、幾つかの種類を買っていたんですよ。
「はい、どうぞ」
 ことりと彼の前、足元に置くのは、犬用の器に盛ったドライタイプのドッグフード。
 人間でも食べられる、素材にこだわったオーガニックフードです。どのフードが良いか、お好みがあるか分からなかったので、幾つかの種類を買っていたんですよ。それとも、缶詰の方が良いでしょうかね。
 にこにこ説明する菊に、突っ立ったままのギルベルトは、腰に手を当ててそれをじいっと見下ろす。
 そして、如何にも嫌そうに顔を顰めて、じろりと菊をねめつけた。
「おっ前さあ……」
 心底呆れたような溜息。気に入らなかったのだろうか。やっぱりぽち君とは反応が違いますね。大型犬、ちょっと怖いです。
 戸惑う菊に、ギルベルトはがしがしと頭を掻く。
「ちょっと、そこで待ってろ」
 ぴしりと傍にあったソファを指差すと、どかどかと足音荒く、彼はキッチンへと向かった。



 さて。
 示された場所に菊が腰を落として、約三十分。



「おう、出来たぞ」
 芳しい香りが立ち昇るキッチンのテーブルの上に並ぶのは、湯気の立つ料理の数々。ジャーマンポテトにカレーブルスト、その他見慣れない料理が燦然と並ぶ様に、菊は目をきらきらさせた。
「お前、あんなモンばっか食っているから、そんな細っこいんだよ」
 ちゃんと栄養のある物を、腹一杯食え。肉と芋を摂れ。冷蔵庫の中、すげえスカスカじゃねえか。
 椅子に座るように促され、目の前の皿の上にあれもこれもとてんこ盛られる。いや、あれはあくまでも貴方の為のお食事であって。てか、なんだか芋率高くありませんか。爺のお腹に、結構ずっしりきそうですけど。
 視線で促され、戸惑いながら箸を進めるが。
「……あ、美味しい」
「だろ」
 これ、チーズのパスタですね。おう、ケーゼシュペッツレ、な。このキャベツ、なんの味付けですか。アンチョビソースが無かったから、ニンニクと塩コショウ。下拵えもしてねえし、材料もあり合わせだけどな。てか、もっと食糧買っとけよ。あれじゃ全然足りねえぞ。
 言いながら、ギルベルトがぐびりと口にするのは、冷蔵庫の中に入っていた缶ビール。発砲ビールじゃなくて、とっておきにしておいた、ほんのりお高いプレミアム。美味しそうにぷはあと息をついていますが、ビール、飲むんですね。大丈夫そうですね。というか、一緒に食べてますよね、これ玉葱入ってますよね。
 だらだらと冷や汗をかきながら見上げてくる視線に、ギルベルトは不思議そうに首を傾げる。
「お前も飲むか」
 いや、そうじゃなくて。
「ビ、ビール、お好きなんですね」
 それに、彼はおうと頷いた。
「俺様の血は、ビールで出来てるからな」
 ケセセと笑う大型犬に、菊ははあと曖昧に頷く事しかできなかった。









 風呂上り、菊はベッドの上でスマートホンをタップする。
 どうやら、自分の中での大型犬への認識を、改めなくてはいけないようだ。ぽち君を飼っていたとはいえ、小型犬と大型犬を一括りにするのは大きな間違いだった。
 悶々としながら検索するのは、「大型犬」「飼育」のキーワード。
 上司から譲歩の話を持ち掛けられた時から、何度も何度も繰り返し目を通した記事だが、それでもやはりネット情報を過信するのは危険であったらしい。情報と現実とは違う。それを今、ひしひしと痛感してしまった。
 自分の中で思い描き、夢見た大型犬とのワンダフルライフは、既に理想と現実のギャップの大きさに驚愕の連続攻撃を受けている。こんな筈ではなかった。生き物を飼うという認識が甘かったのかもしれない。飼い主失格である。
 というか、ドッグフードが完全食ですよね? アルコールは厳禁だと聞いていましたが? 玉葱中毒って都市伝説だったんですか? それよまず前提として、犬ってお料理できるんですか?
 眉間に皺を寄せ、酸っぱい顔で画面を覗き込んでいると、向こうのシャワールームから水音が止まった。ぱたんと扉が開く音。どうやら入浴を終えたらしい。自分で体を洗うことが出来るとは、躾が行き届いているにも程がある。
「なあ、菊ー」
 はいはい、なんですか。
 ベットの上、よっこらしょっと半身を起こして振り返り、菊はぶふっと吹き出す。
「ちょっと貴方、なんて格好しているんですかっ」
 首にタオルをかけてこちらを覗き込むギルベルトは、スウェットを履いてはいるものの、上半身は裸で、濡れた髪はぼたぼたと水滴を滴らせている。ていうか、なんつー筋肉美ですか。細身のムキムキです。同性であっても目に毒です。
 慌てて上司の家から持って来た彼の荷物からTシャツを取り出すと、すぽんと首を通して着せてやる。いてえ、と上がる声を頭の上に被せたタオルで抑え、ごしごしと髪を拭いてやる。
「ちょっと、じっとしててくださいっ」
 大方の水分を拭きとると、ひとまずベットの端に座らせる。そして、洗面所から持って来たドライヤーをかけてやった。スイッチと共に上がる機械音に少々驚いたようだが、熱風を当てつつ丁寧にその銀色の髪を撫でると、ご満悦に目を細める。
「俺様の頭、いっぱい撫でて良いんだぜー」
「はいはい。では、遠慮なく」
 わしわしと撫でる感触は心地よい。ぽち君もそうでしたけど、洗い立ての犬の毛並って気持ち良いんですよね。これですよ、これ。私が求めていたものは。洗い立てのシャンプーの香りと、ふわふわの毛並。これこそが、犬と暮らす醍醐味です。
 懐かしいその感触に、菊はへらりと笑いながら頬を寄せる。
 その下で、ギルベルトはケセセと笑い声をあげた。





 使い終えたドライヤーを元の場所へと戻した菊が、ベットルームへと帰ってくる。
「じゃ、とりあえず今日はもう寝ましょうか」
 いろいろ衝撃的で、流石に疲れてしまった。慣れない環境に突然連れてこられた犬にとっても、かなりのストレスになったであろう。早目に休ませてあげた方が良い。
「おやすみなさい。ギルベルト君」
「おう、おやすむぜー」
 挨拶を交わし、菊はベットに体を横たえるが。
「……………………ちょっと待って下さい」
 ぎゅうぎゅうと詰め寄るムキムキに、菊は眉間に皺を寄せる。
「なんで貴方も、一緒にベットに入ってくるんですか」
 押しやるような彼に、半身を起こして睨み付ける。
 ベットの脇には彼用に購入しておいた彼の寝床が、並べてスタンバイされている。ペットショップで選んだ、ふかふかの、LLサイズの、触り心地まで吟味した贅沢素材の犬用クッションが。
「人間のベッドに入っちゃいけませんって、教えてもらっていませんか?」
「いや、でもあれじゃ、俺様には小さいだろ」
「お店でも一番大きいサイズを選んだんですよっ」
 あのクッションに大きな体を丸めて収まる姿を、スマホ写真に撮るのを夢見ながら、うきうき気分で選んだはずなのに。悉く、理想と現実が違い過ぎる。ちょっと泣いても良いだろうか。
「それよりも、ほら」
 狭いシングルベッド、ギルベルトは無理矢理ごろりと横になる。そしてその筋肉質の腕を広げ、ぎゅうっと菊の体を抱きしめた。
 流石にこれには菊も抵抗する。ちょっと、苦しです。狭いです。なにするんですか。じたばたと藻掻く頭上で、ギルベルトはケセケセと笑う。
「だってお前、こうしたかったんだろ」
 親父が言っていたぜ。俺様に癒されたいって。お腹とか背中に顔を埋めたいって。落ち込んだ時は傍にいて欲しいって。仕方ねえから、優しい俺様がお前をよしよししてやるぜー。
 そう言いながら、大きな掌が背中を優しく宥めてくる。
 いやいやいや。確かに癒されたいとは思っていましたけど。でも、自分が求めていた癒しとは、余りにも落差が大き過ぎる。ビジュアル的に。触り心地的に。モフモフ的に。
「ほら、良い子はおやすむ時間だぜー」
 とっとと目を閉じやがれ。そう言いながら、ギルベルトは枕元に置いていた照明のリモコンを押した。





 只でさえ日本人標準体型サイズのベッドなのに、ガタイの大きなドイツ人、しかもそこに男二人が入り込んでいるのだ。窮屈極まりない。てか、絵柄からしてむさ苦しい。
 暖かいけど、堅いです。モフモフじゃなくて、ムキムキです。
「子守唄を歌ってやっても良いんだぜー」
「遠慮します。また今度」
 答えは全て、いいえです。
 眉間に皺を寄せて目を閉じると、幼子を慰めるように、とんとんと背中を宥める振動が伝わる。子供の頃、父親に、母親に、こうして寝付かされたよなあと思い出す。
 理想とは随分かけ離れているけれど、得てして現実はそんなものかも知れない。
 自分の認識の甘さに胸の内で溜息をつき、菊はふうと体の力を抜いた。





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ホワイトシェパードなイメージ
2020.04.10







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