黒鷲は東の未来より舞い降りる
<32>





「チャオチャオー。はじめまして、君が日本だね」
 太陽のような笑顔でこちらの手を救い取ると、ぶんぶんと大きく上下に振る。
 はじめまして、俺、イタリアだよ。これからドイツと一緒に、仲良くしようね。 可愛いね。俺よりちっちゃいね。日本って素敵な女の子が沢山居るんだね。新しい友達が出来て、俺すっごく嬉しいよ。
 前のめりな勢いに思わず目を白黒させていると、くるんと飛び出たくせ毛の向こう、眉間に皺を寄せたドイツが、溜息をついてこめかみに手を当てていた。






























 ロードス島の撤退には、二日と半日掛かった。これはかなり早い。
 菊がローマより乗り付けた商用船は損傷が激しくはあったが、少なくともローマまでの航程には事足りると判断する。 それに最初にドイツ騎士団がロードス島へと乗りつけた船、そしてイスラムから提供された軍船が一隻、島を出立するにはそれだけで充分事足りた。
 元より、傭兵としてやって来たドイツ騎士団には、持ち物が極端に少ない。 動員人数もこれだけの規模の城を守るには無謀なまでに少人数であり、 退却の様子を遠海から眺めていたトルコ軍は、余りにも少ない人数に、まさか島に伏兵が残っているのではないかと疑ったほどだ。
 勝利が決定した後、スレイマン大帝はロードス島へと上陸を果たしていた。
 堂々たるトルコ軍の進軍の列を、島民は静かに受け入れた。トルコ軍は、決して非文明的な民族ではなかった。 動揺する島民や、敗北したドイツ騎士団への配慮がきちんと見受けられた。 その証拠に。戦乱にありがちな、島民への略奪や狼藉は厳しく禁じられ、大きな騒動も混乱も生じなかった。正しく軍律が統率されている証である。
 恐らくロードス島の島民は、このまま緩やかに、トルコ軍の支配を受け入れることだろう。 危険な諍い事が終わることに、寧ろ安堵していた。軍事や政権に直接的な関わりを持たいない一般住民は、得てしてそんなものである。
 オスマン軍へのロードス島退去の挨拶には、ドイツ騎士団、騎士隊長、参謀が、オスマンの天幕へと足を運んだ。菊の姿はない。 彼女はこの後、終始公的な場に姿を見せることは無かった。
 このロードス島戦に置いて、菊は確かに重要なキーパーソンの一人であった。 しかし、役職を持たない一兵士という立場である彼女は、自分がメッセンジャーとしての役割を果たしたに過ぎないとの自覚がある。 元より、菊ごとき身分の者がスレイマンに目通り適うことなど、通常ではまず有り得ないことなのだ。

「寛大なるオスマンの御配慮、この身が朽ちるまで忘れることはありません」

 それが、後の処理を取り仕切った部隊長からオスマンへと伝えられた、唯一の菊の言葉であった。





 最後の出港準備が整えられた港の一角、潮騒を受けた人影が向かい合う。
「キク……ホントに、大丈夫?」
 ロードス島が開城した直後から、殆ど動けない状態だったと聞いた。今も回復には程遠い。見送りに来たこちらに配慮し、辛い体を押してここに立っている。
「はい、ご心配なく」
 骨に異常はないようので、腫れが引けば元のように動きます。恐縮そうに苦笑する菊に、ギリシャは気遣わしげに眉尻を下げる。
 包帯で固定された右足首、青く内出血した目元、血の滲む唇、一回り腫れあがった右肩、三角巾で釣られた左腕……。 服で隠れた部分にも、意識しない内に出来た大小無数の擦り傷と切り傷、打ち身があるらしい。 些細な動作さえぎこちなく、見るからに痛々しいその姿に、ギリシャは辛く目を細めた。吊られていない右の手を、細心の注意を込めて、掬うようにそっと取る。
「やっぱり、俺も……付いて行く」
 心配、だし。身体、大事にしなくちゃ。大丈夫、看病も身の回りのことも、全部俺がやってあげる、から。
「てやんでえ、させるかってのっ」
 その背後からの気風の良い声に、むうっとギリシャは眉根を寄せた。トルコ、煩い。あと、臭う。
「てめえがそんな真似、出来る訳がねえだろうがっ」
 勝手に逃げ出した前科があるギリシャは、当分監視を付けなくてはならない。言っておくがな、俺ぁまだ、てめえを信用してねえんだよ。 てか、手を離せ。傷に障る。乱暴な仕草で――それでも決して菊に負担が無いように――菊の手を握る不躾な手を払った。
「そのお心遣いだけ有難く頂戴いたします、ギリシャさん」
 すいません、ありがとうございます。丁寧に謝辞を述べる菊に、トルコは腕を組んで、唇をへの字に曲げた。
 穏やかで、何処か控えめな笑顔。人当たりの良く、柔らかな空気。派手で艶やかな化粧を落とした、あまりにも素朴で、飾り気がない素顔。 露出の高い娼婦の衣装ではなく質素なシャツとズボンを纏う姿は、ややサイズが大きい為か細く華奢な骨格が強調され、成長期前の少年のようでいっそ頼りない程だ。
 下手をすると、あの場に居合わせた兵士やパジャ達でさえ、この少女がとても国を相手に真正面から剣先を向けたかの女戦士と同一人物だと気が付かないのではなかろうか。 トルコ自身、今目の当たりにしていても、信じられないぐらいだ。
 全く、どっちが彼女の本性なんだか。自覚が無いなら、これこそ真の魔性の持ち主じゃねえか。複雑な心地で見下ろすトルコの前、菊は改めて向き直り、正面から見上げる。
「トルコさんとスレイマン皇帝には、心より感謝申し上げます」
 同時に身を弁えぬ非礼の数々、切にお詫び申し上げます。歴史の流れでこのような事態にはなりましたが、オスマン帝国には深い敬意を抱いております。 なんの力も持たない一個人ではありますが、今回の篤実なる英断、生涯決して忘れぬとこの身に誓いましょう。
 胸に手を当て、膝を突き、深く首を垂れる菊に、トルコは手を差し伸べて姿勢を正してやった。
「いや、もう決着したことだ」
 お前さんは敗戦を認めた。俺ぁ条件を飲んだ。それぞれが納得した条約を交わしたのだ。もうこの戦いは終了した。戦争ってのは、そんなもんだ。
「それより……ひとつ聞きてえんだが」
 はい。黒目がちの眼差しをまじまじと見つめ返し、トルコは顎髭を擦る。
「おめえさんは、何処の国の出身だ?」
 意外な質問に、菊は軽く首を傾ける。どういう意味だろう。
「敢えて出身とするなら……矢張りドイツ騎士団となるかと」
 この時代に生を受けたと同時、生まれたばかりの菊はドイツ騎士団に発見され、修道院で育てられた。生まれた土地さえ覚えていない。 モンゴル系の容姿から、タタールの流れをくむ可能性はあるだろう。しかし国ともなれば、ドイツ騎士団領以外で育った記憶はない。
「キク、は戦災孤児……だったんだ」
 焼けた村で死にかけていた所を、ドイツ騎士団に拾われ、騎士団の修道院で育ったんだ。 確かにモンゴル系の顔立ちをしているけど、菊はドイツ騎士団の人間。見た目の人種で判断するな、トルコ、最低。
 しかめっ面で非難の眼差しを向けるギリシャに、「ちげえ」とトルコは声を上げる。気になったのはそっちではない。そうじゃなくて。
「どっか、王か皇帝のいる国から出奔して騎士団に入ったのかなー、と思ってな」
 だって、その証拠に。

「あんたは、一度もスルタンに刃を向けなかった」

 あの限られた人数が集まった狭い船室にて、多少知恵のあるものならば立ち位置や衣装などから、誰がスルタンであるかを推測するのは然程難しくは無かろう。 実際菊は、瞬時に警備兵やパシャを判断し、そしてその中から象徴トルコを見極めると、真っ先に攻撃対象の要に見定めていた。
 そして、決して、一度たりとも、スルタンへ剣を向けることは無かった。もしそれが、敢えて彼女の意思からの判断であったとするならば。
「あんたは、皇帝がどういうものかを理解することが出来る出自じゃねえかって、な」
 もしかすると「皇帝」という存在の意味を、正しく理解している国の出身ではないか。 しかも、高貴な存在に接する機会のある、相応な出身ではなかろうか。 一国の最も尊い王に攻撃を仕掛けることが、どれだけ国に対しての冒涜に繋がるか、菊はそれを理解していたのではないだろうか。 キリスト教の教皇のみを絶対の至上に置くドイツ騎士団では、決して及びつかない判断であろう。
 その指摘に、菊は内心どきりとした。あの短くも切羽詰まった戦いの中で、彼はそれを読み取っていたらしい。
「誰よりも国を愛する皇帝は、己が傷つくよりも、トルコが傷付けられることこそが耐えがたき事でしょう」
 これは事実だ。あの時トルコが傷付けられることがあれば、スレイマン皇帝がそれを留める為の采配を下したであろう。そして、何より。
「国の象徴たるスルタンを辱める不敬は、決して避けるべきであると判断しました」
 たとえそれが敵国であろうと、国が崇め立てる皇帝に対する侮辱は、更なる災いを招き兼ねない。 それが、敵対する相手国に対する、最低限の敬意と礼儀である。菊は自然にそう判断していたのである。
 にい、とトルコは唇を吊り上げ、気風の良い笑顔を浮かべた。
「やっぱり……良い女だな。あんたは」
 ますますドイツ騎士団になんぞ、帰したくなくなってくるぜ。
 かーっと声を上げ、実に悔しそうに顔を撫でて空を仰ぐ。トルコ、うるさい。その横で、ぼそりとギリシャは呟いた。















 太陽が午後の光を湛える頃、全ての騎士団員が乗船し、最後の船が港を離れた。
 オスマン軍は菊が持ち出した条約の通り、一定距離を保つ位置から見送る。波に揺られる船の数は、極僅かだ。そして小さい。 錚々たるオスマン軍船勢と比較すると、その差は尚更際立つ。同時に、たったこれだけの軍勢でよくぞ持ち堪えたものだと、誰もが改めて驚愕した。
 大海原を行く様は、木の葉のように寄る辺ない。
 ドイツ騎士団のこの先を象徴するかのような、痛ましいまでの頼りなさであった。










 マストの上にある小さな見張り台、菊は満天の星空を見上げ、ふうと息をついた。
 腰を落とし、暖の為の毛布を体に巻きつけると、片手でぎこちなく地図を広げる。 今夜は満月だ。小さなランプの灯りと月光を頼りに、手元のそれに視線を落とした。
 波の音を耳に受け流しながら暫く。ふと、それに紛れるように縄梯子が軋む音に顔を上げる。半腰を上げ、マストの上まで続く剥き出しの縄梯子を見下ろすと。
「よお」
 縄にしがみ付きながら、マントをばたばたと靡かせてこちらを見上げる小さな姿に、菊は慌てて身を乗り出した。
「ドイツ騎士団」
 大丈夫ですか、吹きさらしの潮風に飛ばされそうな小さな体へと手を伸ばす。 しかしこちらの心配に反し、ドイツ騎士団はひょいひょいと気安い動きで梯子を登り切り、そして狭い手摺の内側へと飛び込んできた。
 菊は片膝をついて頭を下げる。その礼儀に則った姿勢を軽く手で制す。そういうのはいい。二人だけなのだ。
「ここ、ひえるな」
 そっちに入れろ。もそもそと潜り込んでくるのは、菊がマント代わりに纏っていた毛布の中。 風の強いこの高台の上は、温暖な気候とはいえ、夜風に晒されて意外に体温を奪われやすい。 ひょこりと顔を出すドイツ騎士団を包むように、菊は毛布を引き上げて肩を寄せ、納まりの良い位置に腰を落とした。
 粗末な毛布ではあるが、二人分の体温で直ぐに心地よく温まる。満足そうに鼻まで顔を埋めるドイツ騎士団に、菊は穏やかに口元を綻ばせた。
 その傍らを見遣り。
「なに、みてんだ」
「海図です」
 なにせ、船の損傷は激しい。ある程度の航海ルートは決めているものの、少しでも負担がかからず、そして無難で、早く、スムーズに航海する必要がある。 安全と効率を優先させるルートへと修正させる必要と余地があるか、検討していたのだ。
「そっちのは?」
「騎士団長への報告書を作ろうと思いまして」
 隣には、ペンと紙の束が置かれている。見張り交代の間に、少しでも進めておきたかったので、見張り台に持って来たのだ。 それに、ドイツ騎士団は片方の眉を吊り上げる。なあ、菊。
「おまえ、ちゃんとやすんでるのか」
 困ったように菊は笑った。その顔は、ひたすら痛々しい。
 青く内出血した目元の腫れ。瘡蓋が痛々しい頬。微かに膨らんだ額の瘤。 全身を覆うような無数の傷の痛みで動きはぎこちなく、微かに引き摺るねん挫した足首は、服の内側で今も倍に腫れ上がっている。 三角巾で吊っている左の肩は脱臼しかけていたらしく、それを診た医療担当兵は、よくぞこれで剣を握れたものだと唸っていた。 痛がって弱みを見せたらそこを狙われますからと、菊は笑って返したらしい。
 かの戦闘終了後、菊は傷や打ち身や腫れからくる発熱で、出港までの間は殆ど体を動かすことが出来ずに臥せっていた。 共に出港できないのでは、と危ぶまれた程である。
 正に満身創痍。言葉の通り、捨て身で菊は戦い、ドイツ騎士団を救ったのだ。
「今は、人が足りませんから」
 ドイツ騎士には海に慣れた者が少ない。その上負傷者も多い。 医療従事兵は彼らの治療に当たり、身動きの取れない者を除く軽傷者は皆、慣れない船の持ち回りにそれぞれ奔走する。 ローマから同行した船員たちの助けはあるものの、限られた人数の中、肉体的にも能力的にも積極的に動けるものは極限られていた。
 特にローマの船員達と騎士団との橋渡し役に菊が充てられるのは、ここまでの経緯上、当然であり必然だ。 彼女の性分も働き、人数不足の負担を殊更請け負う結果に為らざるを得なかった。
「ローマに戻った後には、貴方にもやらなければならないことが沢山あります」
 騎士団長やローマ法王への報告、病人や負傷者への処置、その後の団員の領地への移動、今後の方針、問題と対策……。
 九死に一生を得たとはいえ、ドイツ騎士団の先行きはまだまだ不安定だ。速やかに急くべきこと、じっくり検討せねばならぬこと、ドイツ騎士団の為にすべきことは山とある。
 そこに、一個人の体調を構う余裕はない。
「……そうだな」
 ドイツ騎士団はそっと視線を落とした。
 辛い影を落とす敗者の出航の中、それでもいつまでも重苦しさに沈み込んではいられないのだ。
「キク」
「はい」
 顔を上げると、肩を寄せて並んで座った体勢、高さの近い位置で目が合う。これだけの至近距離でお互いがお互いを見つめるのは、随分久しぶりなのではなかろうか。
 いつからだろう、ドイツ騎士団を前にする時、菊は膝をつく姿勢を取ることが多くなっていた。常に腰を落とし、低い位置から視線を上げ、ドイツ騎士団を仰ぐ。 まるでそれが、忠誠心の証でもあるかのように。
 真っ直ぐに見つめる赤い瞳が、ひとつ瞬く。
「おれは、おまえにたすけられた」
「ドイツ騎士団が持つ、存続への強い意思が成し得た事です」
 それに、これは私だけでは成し得ぬ事でした。 ここまで共に戦った兵士達、そしてこの場に居合わせることの無かった協力者、窮地を助けたギリシャ、寛容なるオスマンの英断。 それぞれが協力し、それぞれが重なり合った賜物でございましょう。
「でもあのとき、おまえがいなければ、おれはあきらめていたかもしれない」
 深い呼吸をひとつ、ゆっくりと置いて。
「ありがとう」
 俺はお前に救われた。お前が俺を、ドイツ騎士団を救ったんだ。
 噛み締めるように伝えられた言葉に、菊は泣き出しそうに眉尻を下げた。
「勿体無いお言葉です」
 身を引き、こうべを垂れようとする菊を制するタイミングで、ドイツ騎士団は手を伸ばし、痛めていない側の肩に手を置く。 何処か控えめな視線を送る菊の顔を覗き込み、その腫れ上がった目元をじいっと伺った。
「いたくないか」
「ドイツ騎士団を失う辛さに比べれば、大したことなどございません」
「ほんとに?」
「実は、少し痛みます」
 正直なそれに、ドイツ騎士団は砕けた笑顔でケセセと笑う。そこで漸く、菊も肩の力を少し抜く。二人で額を合わせるように、肩を揺すって笑い合った。
 そして、夜空を映すような黒い瞳が、潤みを帯びて眩しげに瞬く。
「……良かった」
 間に合って良かった。貴方が生きてて良かった。貴方を守ることが出来て良かった。本当に、本当に良かった。
「おこって……ねえのか?」
 今回の件は、先を急いた為に失敗したとの自覚があった。
 ドイツ騎士団自身、自分の存在の危うさを自覚していた。あれだけ乱立した十字軍の殆どは既に耐え、僅かに残った団体もその存在理由に迷走している。 自分自身を確固たる存在にするには、土地を得、国へと成り上がるのが一番だ……そう考えた。
 だからこそ、ロードス島の傭兵依頼を引き受けた。確かにリスクや負担を思えば、とても引き受けられるものではない。 団員の中には、フランス王への不信や、危険性から反対する者もいた。 しかしその見返りで、絶大なる権力を持つフランス国王の後援を得られるならば、そこから国としての体制を整える足掛かりを得る事が出来るならば……そう思っての強行であった。
 その結果がこれだ。
 結果は散々足るものだ。全滅こそは防ぐことが出来たが、それもひとえに菊の奔走があってのもの。 もし彼女が、最初に地中海遠征への不信を感じなければ。フランスへ赴き、フィリップ国王の思惑に気付かなければ。ローマへ向かい、総長と神聖ローマ帝国に会わなければ。 海路での移動をひらめき、戦場に間に合わなければ――。
 どれをとっても、まさにぎりぎりの綱渡りであった。 その途切れそうな生命線を、辛うじて留まっていた一本の糸を、菊はがむしゃらに腕を伸ばして捉え、傷だらけになりながらもひたすら握り締め、命がけで繋ぎ止めたのである。
 ただ、ひたすらに。ドイツ騎士団の為だけに。
「私が怒りを覚える時は、貴方が生きることを諦める時です」
 ドイツ騎士団が望み、選んだことだ。それが正しいか、正しくないか、ではない。 国は、象徴は、船であり舳先だ。そしてそんなドイツ騎士団を守り、存続させる為に奔走するのが、国民であり団員である。
 菊はそんなドイツ騎士団を守る為に、己の信念のままに全力を尽くした。それだけなのだ。
「すべてはドイツ騎士団の御心のままに」
 ドイツ騎士団の存在こそが、菊の生きる意味。ドイツ騎士団の存続こそが、菊の幸せ。ドイツ騎士団の未来こそが、菊の願い。
 向けられたその染み入るような眼差しに、胸の奥が苦しくなる。
 つられて口元を綻ばせたのは、ほんの一瞬。ドイツ騎士団はぎこちなく表情を硬め、中途半端に開きかけた唇をぐっと噛み締める。駄目だ。この感情は駄目なものなんだ。
 一度俯き、何かを振り切るようにきりりと目を向けて。
「あのな、菊」

「おれは……にんげんをあいしたりはしない」

 ぱちりと瞬きを一つ、得たりと菊は笑った。
「はい。判っております」
 その言い分を、意味を、菊は痛いほど良く判っていた。
 国と人とは、生きる時間が全く違う。取り残される苦しみを、未来という名の過去で十二分に思い知らされている。 象徴が国民を愛するのは自然なことだ。但し、個としての人間を愛するのは、双方共に心に深い傷を負う結果になる。日本にも、そんな経験は確かにあった。
 ああ――そうか。どうやら彼は、船室で繰り広げたトルコとの一戦の中でとやりとりを記憶していたようだ。 そして、その言葉を聞かなかったこととして流すことが出来ない程に、まだ純真で幼いのだ。
「……聞いて下さい、ドイツ騎士団」
 至極真剣なそれに、おうとドイツ騎士団は背筋が伸びる。ほんのりと頬を染める幼き象徴を静かに見つめ、強く言い含めるように口を開いた。良いですか。

「貴方は、貴方に抱く私の感情を利用しなさい」

 言葉の意味が判らず、ドイツ騎士団は一瞬ぽかんとする。
 だが、じんわりと理解すると同時に、怒りの色を滲ませて睨みつけた。まだ変声期さえ迎えていない声を、憤怒に低く落とす。
「ふざけんな」
「ふざけてなどおりません」
 そして、これはとても大切な事なのです。ぴしりとした声は断固として、厳しい。
「貴方は何も持っていないのです。それはご自身でもご承知の筈」
 土地も、基盤も、人員も、力も。今回の敗戦や減少する人材、騎士団としての存在理由を思えば、今後は更に厳しい状況に押し迫られるであろう。
 だからこそ、そんなドイツ騎士団が存続を真に願うなら、見栄も矜持もかなぐり捨てて、なにもかもを利用して、のし上がっていくより術は無いのだ。 利用できるものは、なんでも利用する。たとえそれが、人の心のとても純粋な部分であったとしても。生き残る為には、それは卑怯ではなく、手段となるのだ。
「生き残るための覚悟を私に教えてくれたのは、他ならぬ未来の貴方です」
 歴史を作ることができるのは、生き残った者だけだ。どんなに正しかったとしても、正義を貫き通したとしても、消えてしまえば証明する手立ては一切失われる。 自分の正義や通りを主張できるのは、生き残った者にしか与えられない。
 そして。菊はつと目を細めた。
「何より、私自身がそれを望んでおります」
 利用しても良い。騙しても良い。裏切っても良い。見捨てても良い。それが、ドイツ騎士団の生きる術になるのであれば、喜んで菊はこの身を捧げましょう。
 おぼこい柳眉が、痛々しく歪む。
 伝えたいのはそうじゃない。そんな言葉を引き出す為ではない。何処までも揺るぎのない菊の覚悟に、唇をわななかせる。
「……おまえは、どうなんだよ」
 恋をする感情は、人の心の中で最も柔らかな部分の一つだ。
 脆く、傷つきやすく、苦しく、しかし何よりも強く、尊い……誰もが一番大切にしたい感情である。 ドイツ騎士団とて、それぐらい充分理解している。それを利用されて、都合良く扱われて、お前は本当にそれで良いのか?
 拗ねたようなもの言いに、くすりと菊は笑う。これはこれは。
「最初にお伝え致しました」
 あの、大会で優勝を果たした際お告げした宣誓は、今も何一つ変わることがありません。 女を捨て、長かった髪を切り、衆目の面前で伝えた言葉は、今も変わらず胸の中心にある。
「この身は全て、ドイツ騎士団のもの」
 髪の毛一筋に至るまで。私の持ち得る全てを、貴方の望みのままに差し出す所存で御座います。
「だから生きてて下さい」
 決して消えないで。諦めないで。生きて。生き続けて。少しでも長く。この先も。ずっとずっと。見ることのなかったその先まで。
「そして、お願いします」
 にこりと菊は笑った。いっそ、清々しいとさえ思える笑顔であった。潮風に煽られる髪を遊ばせたまま。






「どうか、未来の私を見つけて下さい」






























 ひとりきりの書庫室、小さなノック音に日本は顔を上げた。振り返り、黒目がちな瞳を瞬かせる。
「よお」
 久しぶりに目にしたかつての師の姿に、眩しげに目を細めた。 開いた扉の脇、壁に体を凭れかけさせている姿勢から、どうやら気配を消したまま、暫しこちらをうかがっていたらしい。
 改めるように日本は一度姿勢を正すと、丁寧な仕草でぺこりとプロイセンに頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
 いつぞやぶりだろう。そうか、人権法の世界会議の後、ホテルへと送迎して貰って以来になるのか。
「一人なのか」
「イタリア君のシエスタの時間でして」
 彼、絶対これだけは欠かさないので、今は休憩です。ドイツさんも恐らくご一緒かと。ああ、プロイセンは納得したように頷く。
「お前は、寝ないのか」
「なんだか、時間がもったいなくて」
 折角わざわざこちらまで足を運んだことですし、折角なので。ドイツに申し出たところ許可を得たので、こうしてこの書庫にやってきたのだ。
「相変わらずだな」
 あの頃もそうだった。
 世界に放り出されたばかりで何も知らない己を自覚し、恥じ、叱咤し、まるで強迫観念でもあるかのように、ひたすら知識を蓄えることに必死になっていた。 ほんの僅かでも暇を見つけると、こうして今のように、この書庫へと足を運んでいたものである。
「真面目なのは良いけれど、休憩はきちんと取れ」
 効率を上げるためにも、休むことは必要だ。そんな台詞を口にして、耳にして――二人の胸に強いデジャヴが沸く。
 書庫に満ちる、独特の紙の匂い。窓の向こうに映る、差し込む午後の陽射し。淡々と流れる時間と、焦燥に逸る心。ひたすら静かで、閉ざされた空間。 ああ……あの頃と同じなのだ。
 忙しなく駆け巡る時勢の中、闇雲に進むしかなかった時代だった。追い立てられ、がむしゃらに前だけを見据えていた、そんな時代だった。
 そんなあの頃、この部屋だけは、箱庭のように世間から切り離されたようだった。知識という宝物と貴重な思い出が込められた、大切な宝箱のようだった。
 あれから、どれだけの月日が流れたのだろう。人としては長く、しかし国としては瞬くような時間の中、随分いろんなものが変わってしまった。
 望郷に似た感傷に意識が攫われる中、つかつかとプロイセンは足を進めた。
 日本の斜め前側に位置する棚の前に立つと、並んだ本の背表紙を見上げ、その中の一つを手に取る。向けられた、濃紺の軍服を纏ったしなやかな背中。 それがまるでこちらの存在を拒絶しているようにも思われ、日本はそれ以上の言葉を発することなく、手元に開いていた活字へと視線を落とした。
 ぱらり、背中越しにページを捲る音がする。
 余りに間が開いていたからであろうか、互いが纏う纏う空気はぎこちなく、やや堅い。背中で感じる気配に気を使いつつ、二人はそのまま沈黙の中で書物へと没頭する。
 日本の意識が書物から現実に意識を引き戻したのは、何処かわざとらしく、ぱたんと本を閉じる音だった。ゆっくりとした呼吸の音。
「……お前のトコ」
 ぽつりと零れた小さな声に、ちらりと振り返る。こちらに背を向けたままの彼の表情は見えない。
「ドイツとの同盟に反対の奴が多いんだってな」
 その指摘に苦笑した。ドイツの兄である彼にすれば、心証良いものでは無かろう。 独り言にも似た世間話の軽さを含むそれに、日本も手元の活字に視線を戻しつつ、まあ……と言葉を濁し。
「意見の多様は、健全の証でもありますし」
 国民全体が統一された意見こそが、寧ろ危険だ。多方面に検討される余裕は、改善の余地とも捕らえられよう。
「ただ……陸軍は賛成意見が強いですよ」
 プロイセンに学んだ影響が色濃いためか、ドイツへの思い入れは格段に強い。懐疑的かつ慎重な海軍とは対局に、日独接近に尤も積極的なのは、陸軍だ。
「我々の中には、未だ師匠への敬意が根強く残っております」
 なんといっても、近代化への道しるべ、陸軍の父ですから。
「いや、否定の意見は悪くない」
 冷静に考えて、現状日本においてドイツとの軍事連合は、相応なメリットの見えない同盟だ。 同盟国を作ること自体は悪くないが、特に一国だけぽつりと離れた立地である日本にとって、何処まで自国の為になるのか、まるで期待が持てない。 その上日独の同盟は、今まで火種から距離を置いていた諸国をも引き寄せる危険さえ孕んでいる。寧ろ、否定意見は当然だろう。
 だから、そうではなくて。
 日本は手に持っていた本を閉じ、視線を上げた。自分の身長より高い棚へと仕舞おうと、どっしりと重量のあるそれを手に爪先立つ。 なんとか手の届く高さの段へ乗せ、指先で背表紙を押し込もうとしたところで、背後から長い腕が伸びてきた。
 え、日本は目を丸くした。 ひくりと動く手の緊張に気付かれたであろうに、しかし大きな、意外に綺麗な指の長い手はそのまま、日本の指先ごと厚みのある本を定位置へと収めさせる。
 重ねられた手が、包むように、熱を伝えるように、離れない。
 違和感に振り返ろうとしたところで、腰に腕が回される。強い力ではない。 振り切るにはたやすい力加減での拘束に、しかし日本は動けなくなる。こめかみに感じる頬の感触。近すぎる。首が動かせない。
「……師匠?」
 疑問符を乗せての問いかけの声は、震えていなかっただろうか。返事はない。ただ、抱き込む腕が深くなった。
 深い呼吸と共に、肩が上下する。
「……お前とヴェストが同盟を考えていると聞いた時、俺は喜んだ」
 彼は、弟ドイツのことを「ヴェスト(西)」と呼ぶ。この名称を使うように提案したのは、ドイツらしい。
 現在、プロイセンという国家はもう存在しない。ドイツという統一国家が生まれ、その主権を彼に委ねた際に消えると思っていた彼は、しかし現在も存在している。
 ひとつの国に二人の象徴がある例として、イタリアがいた。彼らは北と南、「ヴェネチアーノ」と「ロマーノ」としてそれぞれ存在していた。 彼を「東」、そして自分を「西」と呼ぶことにより、その二つの存在理由を明確にさせたいとの意図があるのだろう。
 日本との同盟を喜んだのは、プロイセンの本心だ。
 恐らくどこよりも――ある意味では、自分の弟よりも――自分の教えを素直に吸収した、愚直なまでに素直で、真面目で、優秀で、信頼に足る弟子である。 プロイセンは日本がどのような国であるかを、この欧州のどこよりも知っているの自負がある。それだけに、この同盟を聞いた時は、諸手を上げて歓迎した。
「でも……今は、喜べない」
 日本の肩が揺れた。
「……不甲斐ない弟子で申し訳ありません」
 欧州やドイツ側からみれば、碌な資源も持たぬ駆け出しの東洋の小国など、さぞや頼りない存在でしょう。大切な弟君に対し、かくも未熟な同盟国で、大変恐縮しております。
 自虐的な言葉に、違う、プロイセンは低い声で否定する。
「そうじゃねえよ、馬鹿」
 素直に喜べないのは、そんな意味じゃない。
 プロイセンは日本が弱いとは思わない。 その基礎力は知っているし、彼の持つ文化の高さも理解している。確かに遅れて世界に参加したものの、近代国家にデビューしてからの成長は賞賛すべきものだ。 今や世界の五大大国にまでのし上がった存在との同盟は、欧州で孤立に身を置く中、充分に心強いものである。
 しかし、世界は甘くない。
「俺が教えた事を憶えているか」
 国際法に頼るのはよせ。大国は自分に利があれば国際法に従うが、不利と判断すれば軍事力で実力行使する。 話し合いで解決すると思うな。それが可能なのは、対等の国家同士の場合のみである。 小国が正道を貫くには、大国よりも強くなるしかねえ。
 優先すべきは「生き残る」事。その為ならば、法は足枷となり、卑怯は悪ではなく、裏切りは手段となる。
 世の中は、正義が支配するとは限らない。もっと複雑で、もっと汚れていて、もっとあくどいものだ。 そんな私欲が渦巻く世界の中、この小さな国は、悲しいぐらいに無邪気に、真っ直ぐに、自分の持つ美しい信念を頑なに守ろうとしている。
 ドイツは良い。自分がいる。 何かあれば身代わりになることもできるし、汚いことも肩代わりしてやれる。欠点にさえなり得る愛すべき真っ直ぐさを、己の全てで守ってやることができるであろう。
 だが、この小さな島国を、誰が守ってやれる?


「あの……師匠?」
「うるせー、ちょっと黙ってろ」
 彼の唐突な行動は、昔からの事だった。突飛で、脈絡のない行動に驚かされるのは、今に始まった事じゃない。 そう自分に言い聞かせて、日本は身を固くする。顔が熱い。心臓がうるさい。体が震えそうだ。堪えるように、ぎゅっと目を閉じる。


 生真面目故に不器用なドイツは、昔から戦争になる度に、裏切られ、取り残されて、その責任を取る羽目に陥りがちだ。 そんな中、矜持の高いこの同盟国は頼もしかった。 きっとこの国は、己が窮地に陥ろうと、損害を被る羽目になろうと、最後まで誠実に同盟を、仲間を、見捨てることはしない。 世界を見回してみても、彼ほど同盟国に相応しいと思える国もないだろう。
 だからこそ、それが辛い。
 いっそ、自国の利益を優先し、あっさり同盟破棄を打ち出す相手であれば、ここまで苦しくはない。 何故なら最愛の弟に対し、国家間の条約は裏切り裏切られるものであると、裏切られる前に裏切るものであると、そう教えて来たのはプロイセンだ。
 どうして自分は、彼のその教育を施さなかったのだろう。
 プロイセンはほぞをかむ。
 かつて、自分はゲルマン民族の為に存在していたはずだった。 ゲルマン民族の為に作られた修道院病院を母体に、ゲルマン民族の為に騎士団を結成し、ゲルマン民族の為に領土を広げて国となり、 ゲルマン民族の為に民族統一を果たし、ゲルマン民族の為に新興国へと全てを受け渡す……それがプロイセンであった。
 なのに、なぜ。この遠く離れた東洋の島国の安否が気になるのか。
 ドイツのためになるならば、すべて合理的に考えるはずだった。 ドイツのためになるものならば、すべてはドイツのために、ドイツのための筈なのに――その基盤が揺れる。足下から崩れる。自分が自分でなくなる。
 変えたのは、誰だ。
「なんで……お前なんかに」
 隣国でもなく、同じ民族でもなく、同じ宗教も持たない、全く価値観が違うはずの遠い国。通常ならば接点を持つことさえなさそうな、そんな全然違う国なのに。
 すう、と日本の表情が消えた。視線を足元に落とし、眉根を寄せる。もう、身体は震えてはいない。
「……すいません」
 強く背後から抱きしめられたまま、日本は小さな言葉を漏らす。彼の言葉が理解できず、しかし彼を苦しめているのは恐らく自分であるらしいことだけは読み解けた。
 もし、私が貴方がたと同じなら。亜細亜ではなく欧州であれば。有色ではなく白い肌の持ち主であったなら。ならば、貴方の苦悩は変わるのでしょうか。
 苦みの強いその言葉を、日本は喘ぐように飲み干した。





 ガラス窓から、黄昏色を含んだ午後の日差しが差し込む。
 差し込む陽光はあの時と同じ色をしているはずなのに、あの頃とはすっかり変わってしまったのだ。















 日独防共協定締結。
 隣接する大国の赤い思想の渦は、二国にとって大いなる脅威であった。
 しかし他の諸大国は、その牽制の必要性を全く理解していなかった。





next?




某所で酷似した言い回しの台詞を使った作品を拝見し
変更するか連載更新を停止するかでかなり悩みました
ただ、更新当初から必ず書く予定であった台詞でもあるし
終盤に掛かるキーワードのひとつでもあるので
そのまま掲載することにしました
2017.06.02







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