ふたりっぷの心得





「旅行、行くか?」
 その提案をしたのは、ギルベルトであった。
 桜とギルベルトは、幼馴染である。 互いの家は玄関を出て向かい側にあるし、家族ぐるみの付き合いは随分と長い。 両家とも共働きで、どちらかの家の親が不在の時は、どちらかの家で食事をするのが子供の頃からの日常。 そんな家庭習慣が、ギルベルトが大学を卒業し、桜が大学に通い、 二人が双方の家族公認の恋人同士になった現在も、継続して続けられていた。
 今日もそうである。 医大の院に籍を置くギルベルトは、夜勤を終えて昼前に帰宅した。 シャワーを浴びてひと寝入りし、腹が減ったと開けた冷蔵庫は空っぽ。 壁に貼られた両親の勤務表と、その横に貼られたカレンダーに記された弟のバイトスケジュールを眺めると、 寝起きのぼさぼさ頭のまま玄関を出て、そのまま向かいの家の門を潜った。
 リビングに置かれていた新聞を読んでいる内に、桜が大学から帰宅してきた。 そしていつものように食べ物を強請るギルベルトに、 桜はちょっと待ってて下さいねと、慣れた調子で夕食を作る。
 炊き込みご飯、揚げと青菜の味噌汁、大根おろしと出汁巻き卵、ひじきの煮付け、 根野菜の煮っ転がし……帰宅の遅い彼女の両親を待つことなく、少し早めの夕食を二人で食べている時、 たまたま付けていたテレビが旅行番組を写し出していた。 それを興味深そうに眺める横顔に、沢庵を齧りながらギルベルトが持ちかけると、 驚いたように桜はこちらを振り返り、こくこくと何度も頷いた。
「行きたい。行きたいですっ」
 意気込む桜に腕を引かれるまま、翌日二人で一番最寄りの大型書店まで足を運んだ。 旅行雑誌のコーナーに並び立ち、あれも、それも、こっちも、そっちも、二人でガイドブックを物色する。
 で、お前は何処に行きてえの。テレビでやっていた所、行ってみたいです。 今のシーズンはお花が綺麗だって言ってましたし。あ、でも、温泉も行きたいです。 じゃあさ、お前、行きたい所決めろよ。俺様が泊まる所を探してやるからさ。そうですね、お願いします。
 可愛らしい柄が印刷されたポケットガイドブックを手に、うきうきとページを捲る幼顔をちらりと見下ろし。
「なあ」
「はい?」


「泊まるの……同じ部屋で良いか」











「あれー、ギル、どっか旅行に行くの?」
 待ち合わせの駅前のカフェバー、テラスに設置された丸テーブル席。 案の定、約束の時間に遅れてくるラテン二人に、 ギルベルトは溜息と呆れの眼差しを向けて、持っていたパンフレットを閉じた。
「まあな」
 隣の椅子に腰を下ろし、へえと楽しそうにアントーニョはそれらに手を伸ばす。 どうやら、旅行会社の店頭に置かれているものを、無造作に取って来たものらしい。
 へえ、国内なん? おう、二泊三日ぐらいで行けそうな所。ふうん、今の季節なら何処も良さそうだよね。 反対隣に腰を落としながら、どれどれとフランシスもそれを手に取った。
「誰と行くん?」
 一拍の間を置いて。
「桜」
 一足早く注文したビールのグラスに口を付けながらの、ぽつりと口にしたその名前。 悪友二人が食いつかない訳が無い。
「マジ?」
「マジ」
「うっそお」
「ホント」
「二人で?」
「二人で」
 途端、湧き上がるによによ笑いを隠すことなく、悪友二人はずずいと身を乗り出す。 それを薄気味悪く見遣りながら、ギルベルトは眉を潜めた。
「……何だよ」
「そうかあ、とうとうお前も男になるんだねえ」
 お兄さん、感激だよ。遠かったな。よく我慢したな。で、お前、やり方判ってる? 初めてなんだろ?  わざとらしく涙を拭う仕草をするが、てめえ、その目が笑っているんだよ。
「良かったやん、ここまでよお我慢したなあ」
 お前、ずっと桜ちゃんに操立てててんやろ。重いっちゅーか、普通に考えてきもいねんけどな。 ぐっと握った拳は良いが、人差し指と中指の間から親指を出すのはやめろ。
「まあ、仕方ないよね」
 小学生からの付き合いだ、フランシスもアントーニョも、二人の事情はよく知っている。 身体の弱かった彼女が手術を終え、健康な身体になったのはつい最近の事なのだ。 そんな二人の純情を知っているだけに、感慨深いものがある。勿論、面白い事も確かだけど。
「てかさあ。桜ちゃん退院してから、結構経ってるやん」
 その間に、なんもあらへんかったんか? 熟年夫婦もええけど、決めるとこ決めなあかんねんで。 不思議そうに頬杖をつくアントーニョに、むっと眉間を寄せる。
「あー、それ、エリザも気にしていたよ」
 ちゃんと愛の言葉は伝えた? 言わなくても判るなんて、言い訳にしかならないんだからね。 背もたれに身体を預けて腕を組むフランシスに、ぐっと唇を引き締める。
 左右から向けられる視線を横っ面に、言葉無く流れる妙な沈黙の時間。 いつまでも返されない次の言葉に、フランシスとアントーニョは、うわあと露骨に顔を歪めた。
「お前、馬鹿?」
 お兄さん、ギルは桜ちゃんの健康を気遣って自制していると思ってたけど、それって勘違いだった訳?
「最悪やん」
 前から思っててんけど、ギルのMっ気は、親分には絶対理解できへんわ。桜ちゃん、ホンマ苦労するで。
 ウエイターが持って来たワイングラスで乾杯しながら、二人は「ねー」と首を傾けて同意を示す。 だから親分の方が幸せになれるでって、桜ちゃんに言ってんけどな。 お兄さんだって言ったんだよ、俺の方が絶対良い男よって。 もっもっとギルベルトの前にある皿からブルストを摘みつつ、うんうんと頷き合う悪友に、 ちょっと待て、その独特の色みのある瞳でじろりと睨み据える。
 それを斜めに見返しながら。
「あんなあ。うかうかしてたら、手遅れになってまうで」
 大体、今までは身体の事があったけれど、手術が成功した今、これから先は違うねんから。 今までの関係で甘んじていたら、足元をすくわれんで。
「桜ちゃんを大切にする、お前のその気持ちは判るけどさあ」
 大切だったら、尚のこと、ちゃんと愛してあげなくちゃ。 男と女だよ、アガペーも良いけど、エロスも必要な訳よ。聖職者じゃないんだからさあ。
「んなこと、判ってんだよっ」
 だからこそ、今回こうして、一緒に旅行に行こうってことにしたんじゃねえか。 って言うかなあ。うんざりしたように、ギルベルトはテーブルに肘をついて項垂れる。
 実際、身体の弱かった彼女が、漸く手術で健康体になったのは、つい最近の事なのだ。 漸くこれで次のステップに……てのは頭では判っているけど、 付き合いが長いだけに、どうにもタイミングが計り難い。 しかも家族ぐるみで親戚以上に密着した環境の中、普段一緒に居るのが当たり前過ぎて、 二人っきりでいる事が自然過ぎて、しかもあいつ自身も今までと態度が変わらなさ過ぎて、 どこでどう空気を切り替えたら良いか掴めないのだ。
 だから、丁度良いと思ったのだ。二人っきりでの旅行なら、 一緒の部屋に泊まると言っておけば、流石にあの天然でもその意味が判るだろう……多分。
 いやいや、首を横に振りながら、フランシスはがっしりとその肩に肘を乗せる。
「ちゃんと女の子が喜びそうなホテル選ぶんだよ」
 しょうがないな、ここはお兄さんのアドバイスが必要な所だよね。 女の子っていうのはね、ムードが大事なんだから。
 うんうん、頷きながら、アントーニョも反対側からその肩に腕を回す。
「がっついたらあかんねんで、相手はあの桜ちゃんやねんからな」
 お前の為に、今晩は親分がばっちりレクチャーしたるから。 最初からマニアックなプレイはやめときや。ちゃんと避妊はするんやで。
「とりあえず、飲もうか」
「せやな、飲もっかあ」
 実に楽しそうに目を緩ませる左右の悪友を交互に見遣り、ぐいっとギルベルトはグラスのビールを飲み干した。





 品の良いリビングテーブルに、ティーカップを置きながら。
「久しぶりね、桜ちゃん」
 式の時は、本当にありがとう。体調はどう? 手術も成功して、経過も良いらしいとは聞いているけれど。 手製のトルテを置きながら笑顔を向けるエリザベータに、桜は柔らかい笑顔を向ける。
 古い友人であるエリザベータは、以前に比べて何処か大人の女性らしい落ち着きが感じられた。 矢張り、結婚すると女性は変わるのかもしれない。 眩しげに眼を細める桜に、少し照明落とした方がいいかしら、 気遣いを見せる彼女に、大丈夫ですと首を横に振った。
「……で、相談があるって言ってたけど」
 電話で今日の訪問の約束を取り付けた際の言葉が、エリザベータはずっと気になっていた。 ちょっとした会話などでは無く、こうして改まって相談を持ちかけられるのは珍しい。 外では無く、わざわざこうして家に来るなんて、人に聞かれたくない、何か重要な事なのかもしれない。
 向かいのソファに腰を下ろしながら、穏やかな声で促すエリザベータに、 桜はこくりと息を飲み、身体を固く緊張させた。 その様子に、エリザベータは眉根を寄せる。どうやらこれは、思った以上に深刻な問題なのか。
 桜は手に持っていたヘレンドのカップを置くと、そっと小さく肩を上下させる。 それにつられる様にエリザベータも姿勢を正した。えっと……少し言い淀みながら。
「エリザさんに、お伺いしたい事があるのですが」
「なあに?」
 私に答えられる事なら、何でも聞いてちょうだい。 子供の頃からの友達である桜ちゃんの為だもん。口外はしないと約束するわ。 身を乗り出すエリザベータに、桜はそおっと顔を上げる。 ほんのりと染まった頬、落ち着き無く彷徨う視線、 切羽詰まった様子と共に、どうやら口にし難い内容なのだろうと察する。
 俯き、もじもじと膝の上の指を組み直し。
「その……ローデリヒさんとお付き合いされて、長いですよね」
「そうねえ」
 彼と知り合ったのは、この学研都市近郊の新興住宅地に越して来た、小学生の時。 ちゃんと想いを告げたのは中学生の時で、 高校、大学と続いて結婚に至るまで、思えば恋人としての期間は随分と長かった。
「わ、笑わないで、聞いて下さいますか?」
「勿論」
 その、あの。言葉を選びながら、もごもごと小さな声で。
「今度……その、旅行に行く事になったんです」
 急に変わった話題に違和感を覚えながらも、へえ、と笑った。
「良いじゃない」
 今まで身体の事もあって、あまり遠出ってした事無かったもんね。楽しそうね。 うんうんと頷くエリザベータにこくりと頷き。
「その、二人で行くのですが……」
「あら、誰と?」
「……ギルベルト君と」
 その名前に、エリザベータの表情が固まった。己の膝を見つめる桜は、それに気付かない。
「で……ホテルを、一緒の部屋にって言われて、私……」
 それって、つまり、やっぱり、これは、所謂、そう言う事なのかなって思って。
 耳まで真っ赤に上気させつつ、何とかそこまで言葉を紡ぐ。恥ずかしい。頭の上から湯気が出そうだ。 いや、別にここまで恥ずかしがる話でもないのかもしれないけど、だけど、寧ろ問題はそこじゃなくて……。
「あの馬鹿に? 無理矢理?」
 低い声に、はっと桜は顔を上げた。にこやかなエリザベータの背後に、何やら底知れないオーラが立ち昇る。
「判ったわ、桜ちゃん」
 よく、私に相談してくれたわ。やっぱりあの馬鹿には、一度徹底的に身体に教え込まなくちゃ駄目よね。 ゆうらりと立ち上がるエリザベータの手にしっかと握り締められたフライパンに、桜は慌てた。
「あ、違いますっ。違うんですっ」
 無理矢理じゃありません。私も行きたかったし、一緒に決めようって、だからすごく楽しみで。 それに、それに。
「す、好きな人との、初めての旅行ですから」
 ひし、と思わずその腕に抱きつく桜に、エリザベータも目を丸くする。 どうやら、本当に彼女とは同意の上での旅行であるらしい。 とりあえずフライパンを置くと、しがみ付く桜を宥めながら、改めて並んでソファーに腰を下ろす。
 確かに、子供の頃から、桜はずっと一途に彼を慕い続けていた。 そして、身体の弱かった彼女の為に医者にまでなった、ギルベルトの純情は本物だろう。
「その、私、嫌じゃないんです」
 いつかは当然こんな時は来るかと思っていましたし、大体もう良い大人ですし、 なにもおかしい事は無いですし、寧ろ遅いくらいですし、普通の事なんだっていうのは判っているんです。 もうずっと前から、心の準備もしていますし、はい、多分、きっと。
 ただ、準備が出来ていないのは、心の方ではなくて。
「その、わ、私の身体、変じゃないですか?」
 エリザベータの腕に額をくっつけたまま、もごもごとした声での問いかけ。
「は?」
 変って、身体? 病気の事? 首を傾げるエリザベータに。
「だ、だって……」
 胸は無いし、お尻も小さいし、チビだし、痩せっぽっちだし、顔だって地味だし。 こう、男の人が喜びそうな要素が見当たらないし、それに、病院に入院している事も多かったし、 こう知識的に不足している所もあるんじゃないかなとも思って。
 だからこそ、今は夫婦でもある、ローデリヒとの恋人期間の長かった、彼女に聞いておきたい事があった。
「こんな時、女として準備しておかなくちゃいけない事ってありますか?」
 初めて好きな人と一夜を共にする前に、恥ずかしくないように。 がばりと顔を上げて向けられる、縋りつくような眼差し。
 確かに、努力では補えない所もあるけれど、努力と事前準備で何とかなる部分は、何とかしておきたい。 今から牛乳を飲んでも、胸の成長には遅いでしょうか。 なんとかってバストアップ体操は最近し始めましたが、 大きさは兎も角、ち、乳首の色とか形とか、他の人のってそんなじっくり見た事無かったですし。 雑誌に広告されていた美容機器でそれに関するものがありましたが、あれで何とかなるもんでしょうか。 それから、無駄毛処理って、何処まですれば良いんでしょうか。 下の毛って処理した方が良いんですか。 日本人と海外の人との、そこらへんの捉え方の違いってあるんでしょうか。 それに、私の、変じゃないですか。形とか、色とか、匂いとか、幻滅されたりしないでしょうか。 お勉強しておいた方が良いとは思うのですが、やっぱりアダルトビデオでも観ておいた方が良いんでしょうか。 あれって、レンタルビデオで、女でも借りる事が出来るんでしょうか。 初めての女の人は動かないから、男の人的には良くないって聞いた事がありますが、何処までこちらから動けば良いのでしょうか。 というか、動くって、どこで、なにを、どう動けば良いのでしょうか。
「桜ちゃん……」
 泣き出しそうな必死さで見上げる桜に、エリザベータはその肩に手を置き、そっと身体の距離を取る。 何、この子。何、この可愛い乙女心。余りにも初々しい桜の様子に、ときめく胸が抑えきれない。
 その丸い頬に、優しく手を添えて。


「俺に任せて」


 きりりとした声でそう宣言するエリザベータは、頼もしくて、カッコよくって、きらきらしてて、男前で。
 まるで王子様のようだと……そう、桜は思った。




end.




続きません。なに書いてんだ自分
実はオフ本用のボツネタだったのはここだけの話
オフ本「きらきら〜」のスピンオフかもしれない
2013.04.01

(2018.10.03)名前を菊→桜に変更&一部修正







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