京の都で男女が出会う





「……うわっ」
「あっと……」


からりと開いた襖の、あちら側とこちら側。同時に零れた声と、びくりと跳ねた肩。 軽く見開かれた、共に殆ど変らない高さの目線。
どうやら丁度、開こうとしたタイミングがかち合ったらしい。 予想以上に力学を無視した襖の軽さと、突然現れた目の前の姿。 同時に一歩後ろに下がったのは、その鼻先が触れてしまいそうな距離の為であった。
「すいません」
艶やかな黒髪が、軽いお辞儀に倣ってさらりと揺れる。 その極めて自然なその動作は、彼が日本人であることを解りやすく示している。 何で謝るんだ?ああそうか、驚かせたと思ったのか。
「あー、菊ちゃーん」
来て貰って悪いねー、こっちこっちー。室内からの呼び声に、彼は首を伸ばした。 フランスからの留学生フランシスが、へらへらと笑いながら手招きしている。どうやら知り合いらしい。
「失礼します」
軽く微笑んで首を傾けると、するりと脇を通り抜け、彼はそちらへと向かう。 その背中を目の端に、開いた襖をぱたんと閉めた。





トイレから帰って来ると、例の彼はさっきのフランシスの隣に腰を下ろしていた。 やはり小柄であるらしい。フランシスに比べると、一回りサイズが違うように見える。
「お帰りー、ユールちゃん」
場所判った?おう、なんか、すげえ綺麗だった。でしょ、日本のトイレって、何処もホント凝っているよね。
会話のまま、自然、そちらのテーブルへと向かう。 空いている場所、彼の隣に座布団を引き寄せると、胡坐をかいて腰を下ろした。正座は未だ慣れない。 スカートで座敷の居酒屋に挑むのは、もう少し先になるだろう。
「あ、じゃあ、これで失礼しますね」
すいません、お邪魔しました。 入れ替わるように腰を上げようとする男に、フランシスはええーっ?とその手を取って引き止めた。
「折角来てくれたのに、もう帰るの?」
もー、そんな寂しい事言わないでよ、お兄さん泣いちゃうから。
「それを渡し来ただけですから」
第一、今日は留学生の皆さんの交流会でしょう?私は部外者ですから。 良いから良いから。急にキャンセルした奴がいたからね、一人増えても問題ないよ。 言いながら、絡み取るように腕を回し、半ば力尽くで腰を下ろさせる。
「あ、そうだ。紹介するね」
とん、と彼の肩を抱きながら。
「俺の日本の親友で、本田菊ちゃん」
俺達と同い年で、学部は別だけど同じ大学に通っているんだよ。
「で、そちらの美女は、ユールヒェン・バイルシュミット。ユールちゃん」
ドイツから来た留学生で、学部が俺と一緒なんだ。
聞くと、どうやら菊はフランシスに呼び出されて、ここに寄っただけのようだ。 どうしても、彼に持って来て欲しいものがあったらしい。
「何だ、その持って来て欲しいものって?」
「映画のDVDですよ」
「菊ちゃん、結構な映画マニアなんだよ」
小脇に置いてあるのは、シックな手提げの紙袋。中には焼き増ししたDVDが数枚入っている。 どうやらそれが、目的のブツらしい。
そう言えばさ、この間借りた作品の女優さん、あの人すっごく良いよね。 ああ、今回お渡しする作品にも出てますよ。 古過ぎて、レンタルもオクにも見当たらなくってさあ。 別の監督のものなら、最近出た復刻盤でお勧めがあるんですよ。
盛り上がる会話を片耳に聞きながしながら、ユールヒェンはぐいとビールジョッキを煽る。 ぷうと息をついて、隣に座る楽しそうな横顔をぼんやりと眺めた。
最初に見たときにも思ったけど、なーんか女みてえ。なよなよしている訳でも、ゲイっぽい訳でもねえけど。 華奢?線が細い?繊細?でも、おっとりしてるからか、神経質ってタイプでもなさそうだな。 つーか、同い年って言ったけど、まだ十代半ばにしか見えねえよ。 髪がつやっつやでさらっさら。絶対俺よりキューティクルあるぜ。 日本人は肌も綺麗だよなー。ビール、ちょっとしょっぺえ。
「どうしましたか?」
ビールの追加、されますか?向けられた笑顔に、はたと我に帰る。 手にあるジョッキは既に空になっていた。 向こうからのビールの追加を伺う声に、こっちもお願いします、と菊は手を上げる。 なかなか気の効く奴らしい。
「それにしても、すごく多彩なメンバーですよね」
古い街並みと風情を残した小路の一角にある、町屋造りのこじんまりとした居酒屋。 借り切った二階の個室を陣取る面々は、実に多国籍だ。 何せ集まったこのメンバー、全て今年同じ大学に同期として留学した学生である。 フランス人、イギリス人、中国人、インド人……入り乱れる人種のるつぼの交流会、 上は中年から下は十代まで、実に幅の広い層で賑っている。
「私には、目に眩しいくらいです」
「なんで」
「日本人には、外国の方ってとても華やかに見えるんですよ」
そうなのか。日本は単一民族ですからね、基本的に一種類の人種しかいません。 まあ、俺も道歩いていると視線感じたりするもんな。ああ、珍しい髪と、目の色をされていますからね。
難しそうな言葉には、改めて崩して言い換える。意外に話しやすい奴のようだ。 タイミングの良い相槌は心地いが良い。 気が付けば、会話を肴に空になったビールジョッキが、林立するようにテーブルに並んでいた。
「えっと……大丈夫ですか?バイルシュミットさん」
随分飲んでいらっしゃるようですけれど。
「おうっ、俺様の血はビールで出来ているからな」
へらりと笑うその顔も真っ赤だ。元の色素が薄いだけに、更に目立つ。 というか、さっきからばんばんと肩を叩くその力が、やたら強くなってきているんですけれど。
「いやあ、盛りあがって来たね」
そのようである。ぐるりと室内に視線を巡らせると、そろそろあちらこちらでカオスな状況が始まりつつあった。 何せ、国際色豊かなだけに、その酔いっぷりも多彩である。 歌う者、踊る者、意味無く笑いだす者、 おもむろに楽器を引き出す者……一様に陽気であるのがまだ救いかもしれない。
「盛り上がるのは良いけれど、服は着ましょうね、フランシスさん」
公共の場での裸族は、日本では猥褻罪になりますから。 男だけならまだしも、ここには年若い女性だっているんですよ。
「大丈夫大丈夫」
これ、お兄さんの正装だから。
親指を立ててウインクする爽やかさも、その惜しげのない肌色面積の広さが全てを裏切っている。 出来れば、仁王立って胸を反らせるのはやめて欲しい。 座って見上げるこの位置からは、その股間に花咲くベルサイユローズが、嫌な感じに強調される。
「あー……私、そろそろ、帰りますね」
「なになに、夜はこれからなのに」
ほら、二次会行こうよ。今夜は帰さないんだから。
「私、朝が早いんですよ」
ほら、御存知でしょう。申し訳ありませんが、これでお暇させて頂きます。 言いながら、傍に置いていた鞄を引き寄せた。 会費分だけの料金は払っておこうと、財布を取り出した所で、とんと背中に暖かい重みが凭れ掛かる。 首だけで振り返ると、ぐりぐりとすりつけられる銀の旋毛が見えた。
「バイルシュミットさん?」
どうしましたか。しんどいですか。気持ち悪いですか。大丈夫ですか。 返されるのは、うーとか、あーとか、意味のない声のみ。 重みを増した身体はずるずると重力に逆らわず、そのまま菊の膝枕に収まった。 閉じられた瞼を見下ろして、あれ、えっと、これって。
「……寝ちゃったんですか?」
「あー、ユールちゃん、飲むといっつもそうなの」
ビール大好きで、飲みっぷりは良いんだけど、眠くなっちゃうみたい。 でも女の子がこれじゃ、いくら日本が安全な国って言われていても、ちょっと危険だよね。
「仕方ないなあ、ここはやっぱり、手厚く看病してあげる場面だよね」
「先ずは、その呼吸を落ちつけてからにして下さい」
はあはあ言ってますよ。鼻息が荒いですよ。血走った目が怖いですよ。 解りやす過ぎて、見ている方が引きますから。危険人物を片手で制す。
バイルシュミットさん、起きられますか、このままで大丈夫ですか。 軽く肩を揺さぶると重そうに瞼を開き、へにゃりと笑って、菊のズボンをぎゅっと握る。ああ、酔っているな。
「帰れますか、家はどちらですか」
んー、唸りながら身体を伸ばし、壁際に置いていた自分の鞄を探る。 定期ケースをごそごそと探り。
「ここっ」
妙に元気の良い声で言いながら、差し出したのは小さな二つ折りのメモ。 そこには、小学生が書いたような慣れない日本語の文字で、住所と電話番号が記されている。 万一の時の為に、連絡先や住所を書いたメモを持ち歩いているらしい。
「お兄さんが送ろうか」
ここからそんなに遠くないよね。 心配そうに上から覗き込むフランシスの、頭から爪先、爪先から頭へと視線を往復させ。
「……いえ、私が送ります」
「もー、信用ないなあ」
いやここは、信用云々よりも、まず彼女の品位と名誉に関わる問題になりそうだ。 広い意味に置いて正視に耐え難いフランシスの正装姿に、菊は曖昧に笑った。





「大丈夫ですか」
「んー」
「お水、ここに置きますね」
「おーう」
タクシーで到着したマンション、ユールヒェンの部屋。 最初は玄関まで送ってそのまま帰るつもりであった。 しかし、寝惚け眼で玄関先から動こうとしない彼女に、失礼しますと菊は室内にお邪魔する。
動かない彼女をベットの上に寝かせ。放置されたままの鞄をテーブルの上に置いて。 水を飲ませようと冷蔵庫を開けたけど、それらしいものが見当たらなかったので、 近くにあったコンビニまで行って買ってきて。 明日の一時限目に間に合うかなとの呟きから、枕元にあった目覚まし時計をセットして。
その間、ベットの上で寝転がるユールヒェンは、酔った頭で夢うつつを彷徨っているようであった。 時々小さく笑い、時々零れる耳慣れない歌は、どうやら彼女の母国のものらしい。
まあ、あれだけ飲んでいたのだ、酔いもするだろう、体調が悪い訳でもなさそうだ。
「大丈夫ですか、バイルシュミットさん」
ベットの上から窺うと、へらっと笑いながら、返事の代わりに片手が上がった。 てか、こら、若い女性がはしたない。 菊は視線の焦点を合わせないようにしながら、 彼女が身体の上におざなりに掛かっていた布団を、その首が隠れる位置まで引き上げてやる。 服のままで寝苦しいのは判りますが、貴方、胸元、ボタン外し過ぎですよ、もう。
さて、じゃあもう帰ろうか。 一人暮らしの女性の部屋に長居するのは、彼女の為にもあまり良ろしくはないだろう。
「それでは、失礼しますね」
お休みなさい。 とろんとこちらを見上げるユールヒェンに、ぺこりと律儀に頭を下げると、 置いていた自分の鞄を肩に、菊は彼女に背を向けた。 玄関へと向かい、スニーカーに片足を入れようとした所で、あ……と小さい声が背後で漏れたかと思ったら。
「まて、帰るなっ」
がばりとベットから飛び起きると、先程までの気だるさは何処へやら、力一杯ユールヒェンが背中に抱きついてきた。 突然のそれに、菊は驚いて振り返る。
「え、バイルシュミットさん?」
肩越しに見えるのは、拗ねたように潜められた不思議な色彩の瞳。 その距離があまりに近くて、居た堪れなくて、気恥ずかしくて、思わず視線を彷徨わせる。 てか、当たってる、当たってますよ、その丸くて、二つあって、柔らかくて、豊満なの。
「お、俺様を、このまま一人で置いて行くのか」
切羽詰まったような声は、寝起きの為か微かに掠れている。 瞬きを繰り返す目元が、じんわりと潤んでいる。 しがみ付くしなやかな身体は、抜け切らないアルコールの所為か、こちらの体温よりも熱い。
うわ、なにこのシチュエーション。酔ってますか?酔ってますよね? 固まったまま、心の中でだらだらと汗を流す菊に、ユールヒェンは涙目できっと睨みつける。
もし。もし、このまま帰ると言うのなら。


「あれを何とかしてからにしろっ」


びしっと指で示すのは、キッチンの壁。
備え付けのガスコンロの横、うっすらと黄ばんだそこ。 触角を動かしながらかさかさと伝い歩く一匹の黒い家庭内害虫に、菊は「はあ」と間の抜けた声を上げた。

















考えていれば、結構良い奴だったかもな。
広い講義室で教授の話を聞きながら、くるりと指先でペンを回し、 ユールヒェンは昨夜の一連を思い返す。
物静かな印象があるけれど、無口って訳じゃなくて、話してて楽しかったし。 自分を地味だと言っていたけれど、ドイツの男に比べれば、全然お洒落っぽい服を着ていたし。 初対面だったってのに、わざわざタクシー使って、家まで送ってくれたし。 女みたいな顔してるけど、おぶってくれた背中は意外にしっかりしていたし。 女の部屋に上がり込んでも、ちゃんと気を使ってくれて、紳士的だったし。
これが変態フランシス辺りだったら、貞操の危機だったぜ。 日本は安全な国と言われているけれど、やっぱもうちょっと、俺様も気をつけなきゃな。 日本人だけじゃなく、ここには外国人だって住んでいるんだもんな。
チャイムが鳴り、講義が終わり、ユールヒェンは講義室を出る。次の講義は隣の棟だ。
そういや、例の害虫だって、あっさりやっつけてくれたっけ。 あんまり呆気なく退治したから、またこいつが出た時には呼ぶから携帯教えろっつーたら、 また今度って言われたけどな。てか、今度っていつだよ。
まあ、世話になったし、次に会った時には礼を言っとかなきゃな。でも、学科が違ってたよな、会えるのか? あー、やっぱあの時、携帯かメール、聞いておけばよかったぜ。 あ、そうか。フランシスの野郎に聞けばいいのか。あいつの親友って言ってたもんな。
青い空に目を細め、つらつらと考えながら渡り廊下を歩いていると。
「バイルシュミットさんっ」
突然聞こえたその声に、はっとユールヒェンは足を停めた。
あれ?呼ばれた?何処から?きょときょとと周囲を見回すと、こっちです、こっち。 今出てきた建物の一階の廊下、窓から身を乗り出し、ぶんぶんとこちらに手を振る姿に気が付いた。
「本田?」
まさに、考えていた当人の登場である。
「すいません、そこに居てて下さーい」
直ぐ行きますから。そう言い残すと、窓から姿を消した。
言われるままに待っていると、間も無く彼がやって来る。思ったよりも早い。 一階から三階までのこの距離を、急いで走って来たのだろう。目の前にある、その肩が上下している。 そんなに一生懸命急がなくても、ちゃんと待っているっつーの。やっぱこいつ、なんか可愛いよな。
「お待たせしました」
「おう、昨日はダンケ」
いろいろ悪かったな、でも助かったぜ。 にかりと笑うと、手の甲で額の汗を拭いながら、いえいえと首を横に振る。
二日酔いとかは大丈夫ですか。俺様の血はビールで出来ているからな。 お前こそ、あれからちゃんと帰れたか。ええ、ありがとうございます。それよりも。
「探していたんですよ」
「俺をか?」
どうやら、フランシスから今日の授業を聞いたらしい。
「どうしても、貴方にお渡ししたいものがありまして」
これを……手に持っていたデザインも可愛らしい小さな紙袋を差し出す。 淡いカラーリングのそれに、ユールヒェンは目を丸くした。
「え、俺に?」
「はい、受け取って下さい」
頷き、向けられた笑顔にどきりとする。
受け取って欲しいって、え、何だよこれ、プレゼントなのか?俺様に?昨日の今日で? 日本の男はシャイだって話、聞いてたけど? いくら俺様がスタイル抜群の超絶美人だからって、ちょっと展開早くねえ?
「どうぞ」
でも―――あれだな、こんなのも悪くねえよな。うん。
「お、おう。貰っておくぜ」
むずむずと唇を引き締め、照れ笑いながら紙袋を受け取る。 えへへーと口元を綻ばせる様子は、きりりとした顔立ちをあどけなくさせた。 それに、菊はほっとする。良かった、渡せた、喜んで貰えるだろうか。
「えっと、中……見ても良いか?」
「はい、勿論」
了承され、中に入っているそれを取り出した。 出てきたのは、見覚えのある大学近くのドラッグストアの手提げナイロン袋。 手提げの紙袋は、持ち運びしやすいように、家から別で持って来たものらしい。
……で、それに包まれていたものは。
「何だ、こりゃ」
可愛らしい紙袋とは裏腹の、実に生活感溢れるお手軽生活グッズ達。 パッケージに書かれたイラストが、解りやすいアイコンとなって、 それらがどういった用途に使われるかを示してくれている。
「是非、使ってみて下さい」
三種類入っています。スプレー式殺虫剤と、この粘着シートと誘導剤の入ったハウス型のは日本では定番でして。 後、置くだけで効果のある餌タイプのこれって、かなり効力があるみたいですよ。 煙で駆除するタイプも有名ですが、あれよりはこっちの方が使い易いんじゃないかと思って。 お店の人にもお勧めを聞きながら、選んでみました。
「家庭内害虫って、何処にでもいますからね」
でも、これだけあれば、きっと大丈夫でしょう。 バイルシュミットさん宅にだって、ばっちり効き目があると思います。
笑顔を向ける彼を、呆然と見つめて数秒……。





「ちょ、何で殴るんですかっ」
「うるせえっ」
俺のトキメキ返せっ。





肩を怒らせて去りゆく背中を見送りながら、拳の入った脳天を撫でさする。 痛かった。やっぱり欧州の女性は逞しいですよね。いえ、我が国の大和撫子も大概逞しいですが。
ところで、自分は何を間違ったのだろう。
無垢な瞳で瞬きを繰り返し、菊はことりと首を傾けた。

















◆ 先斗町 ◆
木屋町通と鴨川との間にある、飲食店が軒を連ねた有名花街。
人が二人並んで歩ける程度の細い道は、情緒があって観光スポットとしても人気。 お高そうにも見えますが、普通の居酒屋や、チェーン店もありますよ。




end.




ブログの小ネタより書き直し
求めるなら与えろ、無ければ作れ……という
同人界の暗黙のルールに則りました
2012.05.10







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