男女が出会ったケルンの都





広々とした校内のカフェテラスのテーブル席、一人辞書とにらめっこする菊を見つけたのはユールヒェンであった。 どうやら、レポートの作成に追われているらしい。
「語学が苦手なものでして」
見ると、テーブルの上に置かれているのは、ドイツ語の辞書である。 どうやら彼は、第二外国語にドイツ語を選択したようだ。 単なる選択教科とは言え、母国の言葉を選ばれて悪い気はしない。
「良いぜ、俺様が見てやる」
丁度次の時間は空いているし、先日のお礼も兼ねてな。
気前良く請け負う彼女の言葉に有り難く甘え、草稿をチェックをお願いした。 レポートはドイツ語の作文、テーマは「家族の紹介」である。
「へえ、お前姉貴がいるのか」
レポートに目を通しながら指先で器用にペンを回すユールヒェンに、はいと菊は控え目に頷く。
成程、フランシスにDVDを渡す時、ユールヒェンにプレゼントを渡した時、 男が持つには妙に小洒落た紙袋に入れていると思っていた。 どうやら彼の姉が、買い物の際にショップで貰ったものを、捨てられずに貯め込んだものらしい。
「実は今、ドイツの大学に留学しているんですよ」
そっか。なあ、やっぱお前と似ているのか?どうでしょう、自分としては、それ程でもないと思いますが。
「俺様は、弟がいるぜ」
一人は双子で同い年、もう一人は二つ下。 今は家を出て、二人で共同生活しながら、ドイツの大学に通っている。
「案外、あっちで出会ってたりしてな」
まさか、と笑う。
「でも、もしそうだとしたら、すごい偶然ですよね」





どっしりとしたソファの上。 クッションを胸に抱きしめる兄ギルベルトを目の端に、ルートヴィッヒは新聞へと視線を走らせる。
ぼんやり天井を見ていたかと思えば、むくりと起き上がる。 むうっと唇を尖らしたかと思えば、なにやら大きなため息をつく。 わしわしと髪をかき混ぜたかと思えば、ごろりと体を横たえる。さっきからそれの繰り返しだ。
何かあったのだろう、だが兄の奇行は今に始まった事では無い。 彼のやや面倒臭い性分も、弟だけに実に良く熟知していた。 本当に深刻な悩みなら、彼の性格上一人自室に籠るだろう。 そうしないと言う事は、まあつまり。
「なあ、ルッツー」
ほら、来た。
「何だ」
あのさあ、間延びした声で天井を見上げながら。
「俺様、女の趣味が変わったかもしんねえ」
「そうか」
ぺらりとルートヴィッヒは新聞をめくる。会話はそれ以上進まない。 素っ気ない反応が不満なのか、むっすりした視線を横っ面に感じる。 しかし弟としては、兄の女性の嗜好の変化など、今更突っ込む気にもなれない話題だ。
まあ、騒がしい姉が日本へと留学に行ってしまい、喧嘩相手も居なくなり、 一人楽しいこの兄も少々寂しく感じているのかもしれない。 それにあれだ、春だからな。
はあ、と何処か当てつけがましくため息をつきながら、兄はもぞもぞと姿勢を変える。つーかさー。
「女はやっぱ、おっぱいだよな」
男だったら、こう、丸くて、むっちりしてて、弾力があって、 寄せた二つがせめぎ合うような、挑発的でおっきいのが良いよな。 顔を埋めたくなるって言うか、揉みたくなるっていうか、鷲つかんで指の沈む感覚を味わって、 指の間からこぼれるような、手に収まりきらないあの感じを堪能したいのが、 当然の本能であり、生理であり、欲求であり、ロマンだろ。違うか?俺様、間違ってねえよな。
向けられた言葉に、心の底から呆れ果てた溜息をひとつ、ルートヴィッヒは顔を上げた。
「なにを言っているんだ、兄さん」
無駄に生真面目に訴える兄を、きりりと不必要に生真面目な顔で見返して。
「女は尻だろう」
あれこそが、男女が交わる時に最も重要な部分を秘めた、禁断のセックスアピールポイントだ。 腰から太ももに掛けての曲線美とその黄金比、見ているだけで癒されるような安心感、 更にその奥に隠されたものへの淫靡な猥褻感、それらの終結した部分にこそ男はそそられて然るべきだ。 ついでに、胸は凝視していると相手に気付かれるが、 背後から鑑賞する尻にはその心配が無いというメリットさえある。
数拍の間が空いて、ギルベルトは目を瞠る。
そうか、なるほど。俺とした事が、その可能性を忘れていたぜ。 流石は俺様の弟。その通りだよな。
二人は大きく頷き合い、ぐっと同時に親指を立てた。





「バイルシュミットさんの御兄弟って、どんな方ですか」
やっぱりバイルシュミットさんと似ていますか、そう問われれば、いやあと首を捻ってしまう。 似ているだろうか?確かに双子の弟とは、子供の頃はそっくりだと言われたけれど。 それが嫌で、髪を伸ばすようになったけれど。
「そうだな、二人とも、タイプは違えど典型的なドイツ人なんだろうな」
見た目の割には几帳面だし、躾に煩いし、変な所にこだわりを持っているし、 細かいルールがあったりするし、マニュアル人間だし、掃除ばっかしているし、犬が好きだし。
「まあ、馬鹿なのと真面目なの、だな」





そう、ねえんだよ、男のロマンが。
目の前で小動物のようにもくもくと口を動かす姿を、ギルベルトはじっとりと観察するように眺める。
やや体にフィットしたカットソーから伺える膨らみは、決して皆無ではないのだが、全く以って謙虚である。 これ、一体どれぐらいのレベルだよ。中の小?いや、小の大?いっそ小の中の可能性も否定できない。
まあ、広めの襟刳りから覗く肌は柔らかそうだけどな。 触ったら、きっとあれだな、マシュマロ。 押し返すような張りつめた弾力じゃなく、何処までも柔らかくて沈んでしまうようなやつ。 ふにゃふにゃしてて、ほわほわしてて、原型が無くなってしまいそうな、 こう人肌の温度とか口の中とかで形を無くすような、蕩けるように甘そうな。 うん、舐めたら甘いだろうな、こいつは。
じいっと向けられる視線に、校内のカフェテラス、テーブルを挟んだ向かいに座った彼女は、ことりと小首を傾ける。 不思議そうに瞬きを繰り返し、向けられる視線の点線を辿り、暫し考えた後、ぱあっと納得したように頷いて。
「よろしければ、おひとつどうぞ」
卵焼きですか?竜田揚げですか?プチトマトはピクルスになっていますよ。
差し出すのは、彼女が手に持っていたランチボックス。 彼の不躾な視線が、どうやらそこに向けられていたと思ったらしい。 いや、違う。そこじゃなくて、俺様が注目していたのは、更にその一歩向こうだよ。まあ、言わないけどな。
「あー……じゃあ、それ」
示すのは、黄色が鮮やかな卵焼き。 どうやって作ったのか、まるでロールケーキのような形状で、ランチボックスにすっきりと収まっている。
彼女は毎日、こうしてベントーを持参する。どうもドイツの外食は、彼女にとって量が多いらしい。 半分しか食べられないし、残すのももったいないし、節約にもなるからと手作りする小さな弁当は、 大学のカフェテラスのメニューよりも、ずっと健康的で、ずっと手が込んでて、妙に旨そうに見えた。
指を伸ばすよりも早く、彼女はランチボックスをテーブルに置いた。 そしてチョップスティックを上下反対に持ち替えると、 横に置いてあったランチボックスの蓋に丁寧に卵焼きを乗せ、どうぞ、とギルベルトの前に置く。 彼女は不思議な気遣いを感じさせる所がある。こんな所が、日本式なのだろうか。
「あ、ちょっと待ってて下さいね」
止める間もなく立ち上がり、くるりと背を見せて向かうのは、セルフサービスで置かれているカトラリーコーナー。 今日のギルベルトは、鶏肉の入ったケバブを食べていた。 どうやら卵焼き用に、フォークを取りに行ったらしい。 別にそんなもの使わなくとも指で摘んで食べるのに、妙に律儀というか、潔癖というか……。
呆れたように見送りながら、はたと思い出し、その目が真剣に細まる。 ひらりとスカートを翻すその後ろ姿をまじまじと眺め、 瞬きを繰り返し、テーブルに手をつき、半身を乗り出し、腰を浮かしかけ。
「……マジかよ」
愕然とした呟きと同時に、振り返った彼女がにこりと笑った。





「女性から見れば、男は馬鹿っぽく見えるものですよ」
どうやらその辺りは国に関係なく、普遍的であるらしい。柔らかいフォローに、ユールヒェンは半眼を返す。
「いや、お前。俺の弟を知らねえから、そう言えるんだぜ」
俺様で、偉そうで、やたら図体ばっかデカくて、変な所に細かくて、お姉さま相手に容赦はしねえし。
「それに、ドイツの方は真面目ってよく聞きますよね」
エスニックジョークでは、定番の常套句だ。穏やかなフォローに、ユールヒェンは片眉を吊り上げる。
「いや、お前。俺の弟を見てねえから、そう言えるんだぜ」
真面目が悪いとは思わないが、それも程度と善し悪しだ。もう少し柔軟になった方が、本人も楽だろうに。
さらさらとレポートに修正を書き込みながら、ユールヒェンは頬杖をついて。
「あと、はっきりなのと、むっつりなのと、だな」





「胸も尻もねえって、どういうことだよー」
胸だけに注目していたが、事態は思ったよりも深刻なようだ。
そうだよ、あいつは小さいのだ。兎に角、何もかもが小さい。 胸だけじゃねえ、弁当を指し出す手も、鞄を掛ける肩も、片手で掴めそうな腰も、ぽきりと折れそうな足も。 そして、シフォン素材のスカートに隠された、臀部のボリュームまでもが、実に悉く謙虚であった。
てか、あれ、抱けるのか?マジ、ヤっちまったら、壊れるんじゃね?のしかかるだけで、骨へし折れるぞ。 あーもー、何だよー、くそー、もっと肉つけろよー、俺様の為にさあ。
脱力したままソファーに身を沈める兄を横目に、ルートヴィッヒはリモコンでテレビのチャンネルを変える。 そうか、今夜はサッカー中継があったな。
「なー、ルッツ。お前、どう思うよー」
詐欺じゃねえ?あれ、マジで女なのかよ。
思えば、昔から女の好みは、所謂セクシー系だった。 出る所は出て、引っ込む所は引っ込んで、メリハリがあって、肉感的で、グラマラスで、 エロティックな女が良いと思っていた。
だがしかし、どう考えても彼女は真逆だ。
「つーかさあ。俺様、何を楽しめばいいんだ?」
セクシー系でも無ければ、肉感的でもない。グラマラスでも無ければ、エロティックでもない。 西洋人と東洋人は骨格から違うとは知っているが、それを差し引いても、 彼女の中に、自分が女に求める要素が見当たらないのはどういう事だ?
向けられた疑問に、心の底から呆れ果てた溜息を一つ、ルートヴィッヒは顔を上げた。
「なにを言っているんだ、兄さん」
無駄に生真面目に訴える兄を、きりりと不必要に生真面目な顔で見返して。
「自分で育てる楽しみがあるだろう」
女性の乳房は、乳腺を刺激することにより、発育が促されるというデータもある。 乳腺への適切なマッサージによって女性ホルモンを活性化させれば、 胸だけでなく、尻だけでなく、全体にも肉付きも良くなる可能性もある。 そうして、触れる事により、育てる事により、愛着も沸き、達成感も得られ、 自分の好みの調教も出来、相手からは感謝までされて、しかも互いに色んな意味で気持ち良い。 それこそ、マイナス要素の見当たらない、素晴らしい相乗効果ではないか。
数拍の間が開いて、ギルベルトは目を瞠る。
そうか、なるほど。俺とした事が、その可能性を忘れていたぜ。流石は俺様の弟。その通りだよな。
二人は大きく頷き合い、ぐっと同時に親指を立てた。





「女性から見れば、男はスケベなものですよ」
この辺りだけは国に関係なく、普遍的であるものです。 当たり障りのないフォローに、ユールヒェンは呆れた眼差しを向ける。
「いや、お前。それ、自分にも当て嵌めて言っているのか」
少なくとも、何かの統計で知る限りでは、日本人男性の淡泊さは世界ぶっちぎりで一位らしいからな。 によによと見遣ると、日本人特有の曖昧な笑みが返される。
来日して知ったが、反射的につい笑顔を向けるのは、どうやらここの国民の習性らしい。 申し訳無い時も、恥ずかしい時も、反応に困った時も、誤魔化す時も、 とりあえずニュアンスを含めた笑顔が返される。 今は慣れたが、最初はいろいろと誤解をしたものだ。
「あー、でも俺様の弟達、お前の姉貴にゃ合わせたくねえな」
日本人って男にしても女にしても、すげえ大人しいからな。 小さくて、にこにこしてて、可愛らしい日本人女性なんて、良い餌食になりそうだぜ。
ぺらりとレポートを捲りながら、ユールヒェンは肩を竦めて。
「あいつら、二人揃って、すっげえドSなんだよ」





自分で育てる、ねえ。
確かに、考え方を変えれば、要するにこいつを自分好みに躾ければよいのだ。 大人しくて、如何にも初心なこいつに、何から何まで教え込めば、それこそ愛着も、達成感も得られるだろう。
ギルベルトはちらりと隣に視線を落とす。この位置からは、並んで歩く小さな旋毛が見えた。 しかし、こちらの視線に気が付いたのか、きょとりと深みのある瞳がこちらを見上げてくる。 言葉も無い微妙な間の後、彼女はにこりと笑った。
何処か曖昧なものではあるが、彼女はいつもこうしてこちらに笑顔を向ける。 向け過ぎだろ、つーか、お前、俺を見てにこにこし過ぎ。そんなに俺様が好きなのかよ、そうなのかよ。
「すいません、買い物、付き合って頂いて」
片言の発音が幼さを更に強調させる。 まるでこちらの悶々とした脳内思考に、罪悪感を覚える程に。
「あ、ああ。いや……おう」
「ギルベルト君、優しいですね」
ほわほわとした笑顔は、あどけなく、素直で、時々ギルベルトは、もう少し警戒心を持てと言いたくなる。 世界有数の安全国と言われるこいつの国なら兎も角、こっちじゃその笑顔に勘違いをしたり、 律儀な好意に付け込んだり、良からぬ妄想をする馬鹿だっているのだ。 ったく大丈夫かよ、俺様、心配だぜ。
まあ、初対面から、こいつはそうだった。
メモを見ながら大学構内をきょろきょろしている彼女を見掛け、 何となく心配になり、親切心を出して、迷ったのかと声を掛けたのが、そもそもの始まりである。
メモの場所はあっちだからと示してやって、お礼を言ったかと思えば、 全く違う方向へ行こうとするし(やたら良い笑顔でぺこぺこ頭下げてやがった、生オジギ初めて見た)。 そっちじゃねえよと慌てて引き留めようと肩を掴むと、 何故か反対肩に掛けていた鞄を落として中身をぶちまけるし(鞄のファスナー閉めろ、スられるぞ)。 しょうがねえなと一緒にまき散らした荷物を拾ってやるも、足元ばかり見ていたらしく、 通行人にぶつかっているし(必死に何度も頭を下げるから、ぶつかった通行人も笑っていた)。 じゃあ気をつけろよと手を振って見送るも、 数歩離れたところで盛大にすっ転ぶし(転け方が可愛くなかった、ちなみにパステルピンクだった)。 仕方ねえなと手を繋いで連れていってやると、 恥ずかしそうに俯いたりするし(ちょっと手が震えていた、こっちまで緊張がうつってしまった)。 翌日大学で再会すると、 やたら嬉しそうに花まで飛ばして笑顔になるし(そんなに俺様と再会したのが、嬉しかったのかよ)。 留学したばかりの彼女にいろいろ教えてやると、 きらきらした目で見るようになったし(こいつ絶対俺様の事が好きだろ、でなきゃそんなににこにこしねえよ)。
今日もそうだ。
授業を終え、並んで歩く帰り道。 これから買い物に行くとの話を聞いて、何を買うのかと聞けば、ずらずらとリストアップされたメモを取り出した。 そんなに買うのか?と驚くが、どうも彼女の母国語とドイツ語が併記されている為、長くなっていたらしい。 余白には、販売員に問い合わせる時の為用にであろう、簡単な会話文も書かれていた。
しかし、日用品に食料品、特殊な店にしか置いていないものや、通常は専門店で買うようなものまであるようだ。 じゃあまず、ここから一番近い店に行くか。 そう言うと、大きく笑って頷き、「それでは」とお辞儀をし、「さよなら」と手を振って、 そのまま目的の方角とは違う道へと足を運ぼうとする。
おい、ちょっとまて。いや、一緒に行ってやるから。つか、何でこの流れで一人で行こうとする。 てか、何でそう方向感覚が狂っているんだよ。
とは言え、心配していたよりも、彼女は頑張って自分で買い物をしようとしていた。 これも勉強の一つだと思っているのであろう、積極的に店員に話しかけ、 メモを見ながら見せながら、何とか自分の力で果たそうとする。 そして時々言い回しのアドバイスをしてやると、真剣な顔で頷きながら、メモを取っていた。 真面目で努力家の奴は、嫌いでは無い。
荷物、ひとつ持ちますよ。伸ばしてくる細い腕に、慌てて二つのエコバッグをかけていた肩を引く。 いーよ、お前みてえなちっこい奴に持たせらんねえ。大丈夫です、私結構力持ちです。 そうじゃなくて、俺様の男としての立場の問題。たちば?歩きながら、そんな軽い攻防をしていると。
「兄さん?」
背中から掛けられた声に、へ?と足を止め、振り返る。 そこにはぽかんと目を丸めて立ち尽くす、弟ルートヴィッヒの姿があった。 どうやら、こいつも買い物帰りらしい。そうか、今日はこいつが夕食当番だったか。
「よお、ルッツ」
笑って向きあうが、しかしルートヴィッヒは神妙な顔で、兄とその隣に立つ彼女へと交互に視線を移す。 そして、ギルベルトの腕を掴むと、ぐいと引き寄せた。 彼女に背を向け、肩がぶつかる位置から、じろりと睨みつける。 おい、兄さん、どういう事だ。
「まさか……その、彼女なのか?」
先日から、好みがどうとか、胸がどうとか、尻がどうとか言っていたのは。
抑えた声に、おうとギルベルトは自慢げに頷く。 何も言ってねえのに、よく解ったな。ああ、そうか、胸と尻をチェックしたか。 流石は俺様の弟。目敏いぜ。
感心する兄の襟首を、ルートヴィッヒはがっしと握り込んだ。 そのまま力任せに捻り上げると、当然ながら首が圧迫される訳で。
「ちょ、おい、くるし……」
「俺は、犯罪者を兄と呼ぶつもりはないっ」
何だ、あれは。胸とか尻とか以前に、彼女はまだ少女じゃないか。 あんなに小さくて、細くて、幼くて、壊れそうで、可憐で、華奢で、可愛らしくて、 純粋で、あどけなくて、あんな、あんな……。
「貴様には罪悪感はないのかっ」
がくがくと揺さぶるルートヴィッヒに、まて、こらまて、ブレイク、慌ててギルベルトは声を上げる。 違う、聞け、落ち着けよ、お前。
「馬鹿、あいつは俺より年上だって」
どんなに小さく見えても、お前よりも、俺よりも、年上なんだよ。 アジア人は、日本人は童顔だって、お前も聞いたことあるだろ?
「なに?」
腕を押さえられ、一瞬呆けたように目を瞬きさせる。嘘じゃない。 最初はギルベルトも疑い、身分証明書を見せてもらうまでは信じられなかったけれど。
ぎこちない動きで、二人は彼女へと振り向いた。
状況を把握出来ていない東洋の神秘は、おろおろとこちらを伺っている。 しかし同時に向けられた二人からの視線に、訳が判らず戸惑いつつもほわりと笑った。 条件反射につい笑顔を作るのは、日本人の特性なのだ。
一拍の間。しかし更に力を込めて、ルートヴィッヒは兄の首を絞め上げる。
「あれは、汚して良い存在じゃないっ」
例え本当に年上であろうがなかろうが、そんな事は関係ない。 あんな純真な笑顔を向ける女性相手に、一体貴様は何の妄想をしていた。 見て判らんのか?彼女は汚れた俗世界とは無縁の存在だろうが。
「まて、まてってっ」
本気で痛えよ、落ち着け、マジで死ぬし、この馬鹿力っ。 それに、確かにちっこくって妖精みたいに見えるけど、あいつはあれでも一応人間だって。
ぐえっとへしゃげた声を上げる中、荒ぶる弟がはっと動きを止めた。 見ると、困ったように眉根を寄せた彼女が、ムキムキの腕にそっとしがみ付いている。
どうやら、ギルベルトが謂れのない暴力を受けていると思ったようだ。いとけない顔が、緊張に強張っている。 何かを言おうとするが、慣れないドイツ語がうまく出て来ないらしい。しかしその瞳は雄弁だ。 やめて下さい、待って下さい、暴力は振るわないで下さい、酷い事をしないで下さい。 言葉ではない訴えに、ルートヴィッヒは心臓を鷲掴みにされた心地になる。
「いや、違う。違うんだっ」
慌てて首を振り、さっさと兄から手を話すと、向きあい、不安げな顔を見下ろす。
俺は兄に対して道徳を諭しているだけであって、君の為にもこれははっきりしておかないと、 この人は時々何をしでかすか判らない所があるし、それに君に対して失礼で破廉恥な話を聞いていて、 いや、俺もその対象が君だとは知らずに助言をしてしまったが、 まさかそれが君のような人だったとは知らなくて。
顔を赤くして言い募るルートヴィッヒに、彼女は怪訝に首を捻った。 捲し立てるような長文で早口のドイツ語を聞き取るのは、まだまだ困難なのである。
「あー、大丈夫だから」
けほ、小さく咳をしながら喉元をさすり、ギルベルトはぽんとルートヴィッヒの肩に手を乗せる。
「こいつ、俺の弟。ルートヴィッヒ」
ムキムキで怖い顔しているけど、大丈夫、悪い奴じゃねえから。 ゆっくりと、簡潔で分かりやすいドイツ語で、言い含めるように説明すると、 漸く彼女はほっとしたように眉尻を下げた。
そして、改めてルートヴィッヒを見上げると、ぺこりと頭を下げる。
「本田桜です、ギルベルト君にはいつもお世話になっています」
拙い発音のドイツ語で告げると、顔を上げた。
左右に並ぶ兄弟を見上げ、ほうと感心したような息をつく。 そして、眩しそうにに瞬きすると、実に嬉しそうな花咲く笑顔になった。
―――素晴らしいです、目に眩いです、美形兄弟超眼福です。
無意識に零れた日本語の意味は判らない。 しかし、なんなんだ、そのきらきらした目は、そのうっとりした笑顔は。
判り易い憧憬の眼差しを目の当たりに、並び立つ真顔のゲルマン兄弟から、見えないハートがぽろぽろとこぼれ落ちた。





「お前んトコは、どんな姉貴なんだ?」
そうですねえ、少し小首を傾げて考える。子供の頃から、結構お姉さんっ子だった自覚はある。 勿論身内の贔屓目もあるだろうが、それなりに大和撫子的要素も備えているだろう。
「まあ、ある意味典型的な日本人女性でしょうね」
料理が得意で、いつもにこにこしていて、争い事が嫌いで、でも結構努力家で、 意外に自分で何でもやろうとするし、芯のしっかりした所もあります。 ちょっと抜けていて、やや危なっかしい所は、御愛嬌でしょうね。
「まあ……ちょっとミーハーな所もありますけどね」
「ミーハー?」
「所謂、面食いなんですよね」
軽い訳でも、惚れっぽい訳ではないのだが。 老若男女、人に限らず、動植物含め、ついでに有機物無機物、二次元三次元問わず、 何かにつけて姉は綺麗なものに惹かれる傾向がある。 本人曰く、自分に無いもの強請りらしい。
「男も女も、綺麗なものに惹かれるのは当然だろうが」
男女も国も関係なく、それって普遍的な事だぜ。 きっぱりとしたフォローに、そうなんですけどねと菊は苦笑する。
でも、そう考えれば。もしかすると目の前の彼女は、姉の嗜好に非常にストライクなのではなかろうか。
透き通るような白い肌も、光を受けるときらめく銀髪も、貴重な宝石のように珍しい瞳の色も、 彫刻のように彫りの深い顔立ちも、バランス良くすらりとした手足も。 姉から見れば、正に「綺麗」の対象となり得そうである。
「どうした」
向けられる視線に、どうした?ユールヒェンが聞くと、いえと菊は首を傾けた。
「バイルシュミットさんの御兄弟なら、さぞかしお綺麗でカッコ良いでしょうね」
地味な日本人としては、なんだかとても羨ましいです。眩しそうに微笑みながらの言葉に。
「おう、当然だぜっ」
俺様と血の繋がった兄弟だからな、小鳥のように超美人で、カッコ良いぜ。
ふふんと自慢げに唇を吊り上げて高笑いするが、やたらと顔が熱い。心臓が浮き立つ。 思わず誤魔化すように俯いて、レポートへと視線を落とす。 おい、なんなんだ、そのきらきらした目は、そのうっとりとした笑顔は。
素直な憧憬の眼差しを目の当たりに、手元のレポートを捲るユールヒェンから、 見えないハートがぽろぽろと零れ落ちた。

















◆ ケルン ◆
ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州にある、ライン川中流の古い都市。
ケルン大学は欧州最古の大学の一つ。オーデコロン発祥の地としても有名。
古代より交易が盛んであり、京都とは姉妹都市でもあります。




end.




ブログの小ネタより書き直し
ケルンはツアーで一日滞在した程度の知識のみです
2012.06.03







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