男女が出会ったケルンの都で





 其の日は、冷えた朝で御座居ました。
 私は常と同じ時間、常の場所、常のヴエンチへと座して居りました。 多少寒かりし氣候爲れど、此のキインと張り詰めたる早朝の空氣は、目覺めたばかりの頭には寧ろ心地善く、 驛へと向かふ人々を背中に感じながら、目の前に流る々ライン川を眺めるのが、 独逸に來たりし頃依り私の御氣入りなのです。
 音声録音機のイヤーフオンを耳に装着すれば、私は何時ものやうに、聽取りし単語をノオトに書取致しました。 獨逸語能力は乏しいと自覺を持って居ります。 日々の講義に付いて行くのが精一杯の有様は如何ともし難く、 故に斯様に本國より持參したヴオイスレコオダアにて授業内容を録音し、大學へ赴く前の僅かな刻、 此のライン川の河沿のヴエンチにて、前日の復習と本日の豫習に努めるるを習慣として居りました。
 其の日も、同じで御座居ます。
偶々蝦蟇口型のペンケエスを開いた際、日頃依り要領の惡い私は、うつかりとペンシルを取落として仕舞いました。 コロ々々と轉がるペンシルを慌てて追ひ驅けるるも、シヤアプペンシルは其の儘歩道まで到達し給ひて、 通行人の靴に當り、其處で漸く動きを止めんとしたのです。
「大變失禮致しました」
 無禮を詫び給う此方に、彼は爪先に留まりしペンシルを拾うと、美しいオリイブ色の瞳を向けました。 さうして、「ハイ」とペンシルを手渡し下さつたのです。
「有難う御座います」
「如何致しまして」
 緩くウエエブの掛かりし亞麻色の髮を無造作に一つに束ねたる青年は、笑顏の儘首を傾げ、じいと此方を窺います。 若しかすると、東洋人が珍しいのでせうか。 真直ぐ見詰られる々に慣れぬ此方としては、何やら居た堪れ無き心地と相為りました。
「君は、毎朝此處に居るよね」
 早朝のヴエンチにて、幾度と無く録音機をリピイトさせ、持參した辞書にて確認を繰返し、 時折不器用に發音をする亞細亞人と謂ふのは、さぞや奇妙に映った事でせう。 しかし、自らの勉學に没頭する私は、向けらる々奇異の視線を氣にする餘裕も御座居ません。
「若しかすると、日本人かい」
 此れは後に知りし事と也給いまするが、如何やら彼の幼馴染が、現在日本に留學をして居るさうです。 なので、幼馴染の往きし日本國から來たりし當方に、興味を持つて居たやうです。
 肯く此方に向けし彼の笑顏は、朝の爽やかな光を具現するかの如き、 キラ々々と眼に眩しく煌いて居りました。


 嗚呼、其れが私と彼の、運命の出會いだつたの御座居ます。











――なんちゃってー。























 お待たせしました。掛けられた声に、ユールヒェンは携帯を眺めていた視線を上げた。
軽く肩が上下している。恐らく、こちらを待たせないように、急いで走って来たのだろう。 本当に律儀だよな。笑いながら、ユールヒェンは隣の椅子を引いてやる。
 ありがとうございます。 大学構内のカフェテラス、テーブル席の椅子に腰を落ちつける菊に。
「で、どうだった?」
 にま、と口元を綻ばせる。
「優、を貰いました」
 嬉しそうに報告する菊に、ぱあっとユールヒェンも笑顔になる。
 そっかー、良くやったじゃねえか、さすが俺様が教えただけはあるぜ。 黒髪をわしわしと撫で回しながら自分事のように喜ぶユールヒェンに、菊はえへへと笑み零れる。
 語学が苦手で、今まで「可」ばっかりだったのですが。 あの先生は厳しいので有名で、「良」を貰う人は多いみたいですけど、「優」は珍しいって。
「やるじゃねえか」
「師匠が判りやすく教えて下さったお陰ですよ」
 いつも、こちらが理解しやすいように、ゆっくりと、簡潔に、丁寧に、教えて下さいますから。 本当に、本当にありがとうございます。
 ぼさぼさの髪のまま向けるにこにこの笑顔に、ちぇっとユールヒェンはむず痒く舌打ちした。























 寝癖の付いた髪を撫でながら部屋に入ると、ふわりと芳しいコーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。 キッチンに向かう何やら機嫌良さげな背中が、こちらの気配に振り返る。
「よお、ルッツ」
「お早う、兄さん」
 今日は早いな。んー、まあな。コーヒー飲むか。ああ、貰おう。
 マグカップを取り出そうとキャビネットの前に立つと、兄の前、 コンロに掛けられたミルクの入ったミルクパンに気がついた。 そしてその隣に並ぶのは、コーヒーを淹れたグラスポットと、見覚えのあるステンレス製の保温魔法瓶。
 カップの付属したそれはサイズがやや大きく、日常使いにしては少々嵩張るので、普段は殆ど使用しない。 なので棚の奥に仕舞い込んでいたが、わざわざそれを引っ張り出したのだろうか。 兄に飲み物を家から持参して持ち歩く習慣は、無かったと思うが。
 何とは無しにそれを眺めていると、ん? と視線が向けられた。 差し出された手に取り出した自分のマグカップを乗せると、鼻歌交じりに淹れ立てのコーヒーを注ぐ。
「ミルク、いるか」
「あ、ああ」
 温めたミルクを慎重にカップに注ぎ、ほらよと手渡される。珍しい。 久々に口にするまろやかな味わいに目を細める横で、兄は鍋に残ったミルクとコーヒーを水筒に注いでいた。
 丁寧にしっかりと蓋をして、漏れないかを確認して、よしと満足そうに頷いて。
「じゃ、行ってくるな」
「もう行くのか?」
「おう」
 ミルヒカフェの入った保温ポットを手に、椅子の上に乗せたナップサックをひょいと肩に引っかけると、 口笛を吹きながら足取りも軽く、ギルベルトは玄関へと向かった。





 やあ。背後から掛けられた少し大きめの声に、桜は振り返り、慌てて耳に装着していたイヤホンを外す。
「おはよう、桜」
「おはようございます」
 立ち上がってお辞儀をしようとする仕草を、そのままそのままと抑えるようなジェスチャーで制す。 そして彼女の隣、ベンチの空いたスペースにすとんと腰を下ろした。
「今日も頑張っているね」
 はいと差し出された紙コップ。 柔らかい湯気と甘い香りが立ち上がるカップの中身は、まろやかなミルヒカフェだ。 どうやら、近くのスタンドで購入したらしい。
「えっと……ダンケシェーン」
 綺麗な発音に、合格とばかりに軽くウインクが返される。 欧米人がすると実に様になるその仕草に、やや反応に困りながら、桜は両手で持った紙コップに口を付けた。 火傷をしないように慎重に啜ると、甘めのミルヒカフェはふわりと暖かく胸に沁み込む。
 今日はちょっと冷えるよね、寒くない? 大丈夫です、ここは日当たりが良いですから。 背中に朝日が当たって、暖かいです。ああ本当だ、そうだね。 今日は何の授業があるの? えっと……宗教史と、ドイツ文学と、基礎ドイツ語です。 後、留学生向けのドイツ語ヒアリングの特別授業があるので、それにも参加します。 その本 前から熱心に読んでいるね。はい、もう少しで読み終わります。日本文学のドイツ語訳です。 駅前の書店で目にして、ドイツ語ではどんな風に訳されているのか気になったので。 日本では有名な文豪で、お医者さまでもあった方で、この方もドイツに留学していたんですよ。
 拙い口調で、それでも丁寧にドイツ語を繰り出す桜に、彼は微笑ましく目を細める。
「うん、アクセントもばっちりだ」
 文法も合っているし、発音も間違っていないし、自然な会話になっている。 彼の素直な褒め言葉に、桜は気恥かしげに肩を竦めた。
 朝のほんの短い時間、彼とこうして会話を交わすようになったのは、ごく最近の事であった。
 転がったペンを拾ってくれたのが、まず最初。 それを切欠に顔見知りとなり、通り過ぎざまに手を振り合い、朝の挨拶をするようになり、 二、三の言葉を交わし出したら、こうしてドイツ語会話の手伝いをしてくれるまでには時間は掛からなかった。
「いつもお付き合い頂いているお陰です」
「君が一生懸命頑張るからだって」
 俺はほんの少しの時間、君とのおしゃべりを楽しんでいるだけだからね。 ひとつに纏めた長めの髪を無造作に肩に流してにこり笑顔でそう告げる彼に、思わず桜は見惚れてしまう。
 日本人の視点で見ると、欧州の人々は彫りが深く、本当に物語に登場する王子様のように整った容姿の持ち主が多い。 そんな人にこうして笑顔を向けられると、元より眼を合わせて会話をするのが苦手な国民性も手伝って、 居た堪れない心地になってしまい、つい視線を落としてしまう。
 それをどう取ったのか、彼はぽんと桜の肩に手を乗せ、そっと覗き込むようにして視線を合わせる。
「大丈夫、自信を持って」
 軽いウインクが余りにも様になっていて、はにかんだように桜は笑う。
 留学が決まった際、桜にとって最大の難関が、現地ドイツ語の取得であった。 必死で学びはしたものの、矢張り付け焼き刃感は否めない。 覚束無い会話スキルをフォローすべく、週に三度、大学の授業が終われば、学校とは別の語学教室に参加。 日々の授業に追い付くのも必死の有り様に、講義は全てボイスレコーダーで録音し、帰宅してから聞き直して復習。 そして、学校へ通う前には少し早めに家を出て、この川辺のベンチにて、本日分の予習に励んでいる。
「君の友人も、きっと俺と同じように思っているよ」
 ほら。 同じ大学の、いろいろ気にかけてくれて、色んな事を教えてくれる、 何かと頼りになる、とっても優しいって言っていた。
「そう……だと良いのですが」
 少々ぶっきらぼうながらも何かと助けてくれる彼は、 聞き取り難いであろうこちらのドイツ語に、いつも辛抱強く付き合ってくれている。 申し訳無いなと思うからこそ、せめてそんな彼に少しでも早く、少しでもきちんと言葉を伝えられるようになりたい。 それが、今の桜のささやかな目標のひとつとなっている。
「本当に偉いよね、君は」
 とんでもない、桜は笑って首を横に振る。
「それに、この留学は私のわがままですから」
 将来にも関係のない、自分の知的欲求を満たす為だけに実行した留学である。 自己満足を許してくれた家族の為にも、自分の為にも、ここで出来得るだけの勉強はしておきたい。
 哀しいかな、自分が人様に比べて、少しばかりのんびりしている自覚がある。 だからせめて、努力で補える部分だけでも、自分で何とかしなくては。 それが、自分に対する義務でもあるのだ。
「いつも朝早いみたいだけど、起きるの辛くない?」
「実家が、元々朝の早い家なので」
 家で勉強するのも良いのですが、特に朝起きた直ぐって、どうもだらだらしがちで。 だったら、こうして気分を変えた方が捗るかと思いまして。
「それに私、ここからの景色が、凄く好きなんです」
 ほら。桜は顔を上げ、指で示す。
 ライン川に面したベンチ。ゆったりと流れる父なる川の向こう岸には、一際目を引く荘厳な建物。 丁度この時間、川の光がきらきら反射して、見事なゴシック建築のケルン教会が映えていて、 空のグラデーションと相まって、とってもとっても綺麗ですよね。
「今自分は、すごく素敵な場所にいるんだって……そんな実感、しませんか」
 うっとりと見つめる桜に、彼はきょとんと目を丸くした。彼女の視線に習い、そちらへと視線を流す。
 なるほど。裏手にはなるものの、ここからはそのいかめしくも豪華な建築物が、実によく見えた。 普段は見慣れた当たり前の景色であるものの、改めて言われると、確かに荘厳で、美しい景色が広がっている。
「……ああ、そうだね」
 その通りだ。君に言われるまで、当たり前過ぎて、ちっとも気がつかなかったよ。
 にこりと笑って隣を見下ろすと、ね? ちょっと自慢げに桜は笑って首を傾けた。





 何の話の流れであったか。桜が学校へ向かうのに早めに家を出ると聞いたのは、昨日の事であった。
 家の習慣で、日常的に早起きが身についているらしい。 その流れで早めに学校へ向かい、その途中にあるベンチに腰を下ろして、 足りない語学力を補う為の予習と復習をしているのだという。
 自分の不足した語学力を自覚し、一生懸命学ぼうという彼女の姿勢は知っている。 真面目な奴は嫌いではない。 少々危なっかしい所はあるけれど、自分できちんと努力する様子は見上げたものだと思う。
 まあ、あれだ。 あの下手っぴなドイツ語を指導してやれるのは、俺様ぐらいなもんだしな。 あいつだっていつも感謝しているって言ってたし、今朝はちょっと冷えるし、あいつは寒がりだし、 俺もまだ朝のコーヒーを飲んでねえし、一緒に飲むのも悪くねえし、俺様超絶優しいからな。 自分の思考に納得し、一人うんうんと頷く。
 場所を詳しく聞いてはいないが、大体は判る。 ライン川などひとつしかないし、彼女の住むアパートから学校までのルート、 その河沿いを歩けば嫌でもぶつかるだろう。 見つからなければ携帯で連絡しても良いけど、折角だから、突然顔を見せて驚かせてやるぜ。
 珍しい自転車で通学する子供を見送り、早朝ランニングする美女の胸元の揺れ具合に視線を流し、 犬の散歩をする老夫婦と朝の挨拶を交わし、国外から来た観光バスが吐き出す排気ガスに顔を顰め。
 そして。 向こうのベンチに見つけた黒髪に、おっと目を瞬きさせ、にんまりと唇を吊り上げた。
 見つけた。やっぱり居たか。
 へへっと笑み零れ、そのまま駆け寄ろうと踏み締めた足が、 しかし彼女の向こう側、隣に座るもう一人の影にひたりと固まった。
 ひゅ、と息を飲む。
 偶然居合わせた赤の他人同士で無い事は、直ぐ読み取れた。 だって、にこやかに笑顔を交わし合いながら話をする様子は、実に親しげだ。 こくこくと頷き、目を細め、慌てたように首を横に振り、たどたどしく唇を動かし、 ほうっと息をつきながら両手で持った紙コップに口を付ける横顔は、 湯気の所為か、それともそれ以外の所為か、ほんのりと上気している。 ぎゅうっと心臓が絞られるような痛みに、無意識に胸元を握り締めた。
 呆然としたままおぼこい横顔を眺め、そして改めたように、隣にある姿へと意識を向ける。 そこで瞬きを数度――はあ? 思わず尻上がりな声が零れた。
 おい、ちょっと待てよ。ぎゅっと拳を握り、足音荒くつかつかと歩み寄る。 その気配に気がつき、桜が振り返るよりも早く。
「なんでてめえが、ここにいるんだよっ」
 怒鳴りつけるその声に、びくりと桜は肩を震わせた。見上げたその姿に、目をぱちぱちさせる。
「ギルベルト、君?」
 どうしてここに? しかし彼の不思議な色彩を帯びた瞳は、桜を通り越してその隣を真っ直ぐ映している。
「それはこっちの台詞だ」
 睨みつけるような視線を受けたまま、驚いたように声を上げるのは、隣に座る彼だった。
 なんでお前が、こいつと一緒に居るんだよ。んなこと、お前には関係ねえだろ。 関係あるから聞いてんだよ。お前、桜と知り合いだったのか。 そうだよ。こいつとドイツで一番親しいのは、この俺様なんだからな。 同じ大学って……もしかして、お前の事? はあ? つーか、お前、やってんだよ、あのお譲さまにチクるぞ。 馬鹿、そんなんじゃねえよ。勘違いすんな。嫉妬か? 見苦しいな。
 早口でまくし立てる二人のドイツ語のやりとりに、間に挟まれた桜は、きょときょとと視線を左右に動かす。 彼らにとっては普通の速度であろうが、桜にはうまく聞き取れない。 いつもは聞き取り易いギルベルトのドイツ語でさえ、耳が全く追い付かなかった。
 うろたえる桜に、最初に気づいたのは彼だった。
「ああ、ごめんね」
 びっくりしたよね。庇うように伸ばした手を、ギルベルトが掴み、払いのける。 乱暴な仕草に身体を固くしたのは、それを目の前で見た桜の方だ。
「こいつに触んな」
 あからさまな敵意を向けるギルベルトに、彼は半眼になる。 相変わらず、ホント馬鹿だよな。血の気が多いのは、姉ちゃんと一緒か。
「俺と桜は、友達、だよ」
 そうだよね? 判りやすいドイツ語で確かめるように言われ、桜は目を瞠る。 友達。おともだち。その言葉を噛み締めつつ、照れ臭そうに頷いた。
 小花を散らすようなそれに、かちんとギルベルトは眉間に皺を寄せる。
「てめ……、なに嬉しそうな顔してんだよっ」
「え、だって」
 現地の言葉も頼りない自分に、大学とは違う場所で出来た、お友達、だ。友達が出来て、嬉しくない筈は無い。
 兎に角。彼は立ち上がると、腕を組んでギルベルトを見遣る。
「お前が勘違いすんのは勝手だけど、彼女に八つ当たりすんのはお門違いだぞ」
 てか、彼女の言っていた優しい誰かさんがお前だったなんて、本気でびっくりだぜ。 呆れをたっぷりと含めた溜息をつくと、改めてにこりと桜に笑顔を向ける。
「じゃあ、今日はもう行くよ」
 そろそろ時間だし。この馬鹿相手にするのも疲れるし。変な事言ってきても、相手にしちゃ駄目だよ。
「また、ね」
 ぽんと桜の肩に手を乗せて、牽制するようにじろりとギルベルトを睨みつけると、 くるりと踵を返して、彼はそのまま歩道へと向かった。 





 その後ろ姿を見送って。
 そっと隣を伺う桜を、じろりとギルベルトは不機嫌に睨みつける。 切れ長の目には、その独特の色彩も相まって、なかなかな迫力が担う。 しかし、それを何処まで理解しているのか、この天然東洋人は少し視線を彷徨わせて。
「その……お知り合いだったのですか?」
「まあな」
 餓鬼の頃からの幼馴染みだよ。ぶっきらぼうなそれに、なるほどと頷く。二人の気安さはそれか。
 ふう、とギルベルトは息をついた。言いたい事は山とある。 お前、なにあんな奴と一緒にいるんだよ。なに親しそうに喋ってんだよ。 なににこにこ笑顔振りまいてんだよ。てか、なに? お前、男なら誰にでもへらへらするビッチかよ。
 しかし、それらを飛び越えて、一番最初に出てきたのは。
「あいつにはな、恋人がいんだよっ」
 妙に気位の高い、お嬢様の、誰もが公認の、ちゃんとした相思相愛の女が。
 きょとんと桜は目を丸くし、はあと曖昧な声を上げる。まあ、そうでしょうね。
「素敵な方ですからね」
 ほわりと笑ってのそれに、ギルベルトの機嫌はさらに降下する。 ちっと舌打ちすると、そのままぷい、と背を向けた。
 そのまま大股でずんずんと行ってしまう後ろ姿に、ぽかんとしたまま数拍。 慌ててベンチの上に置いていた荷物をまとめると、桜はその背を追いかけた。
 なんだかよくは分からないが、このまま別れてはいけないような気がする。 もしかすると、昨日早朝にここにいると口にした会話を、憶えていてくれていたとか。 面倒見の良い彼の事だ、もしかすると頼り無いこちらを心配して、わざわざ来てくれたのだろうか。
 えっと、えっと、なんと言えば良いのだろうか。 頭の中でドイツ語を探しながら、とりあえずコンパスの差から生まれる距離を埋めようと、 小走りになりながらついて行く。
 その気配を背中に、しかしギルベルトは振り返らない。くそ、ムカつく。 なんだよ、この女。人が心配して来てみりゃ、へらへらあの野郎と楽しそうにしているし。 別に、一人で大丈夫じゃねえか。俺様が居なくても、ちゃんとやってんじゃねえか。 俺様が心配する必要なんてねえじゃんか。馬鹿みてえ。あーあ、心配して損した。
 背中に聞こえるせわしない足音を耳の端に、しかしそれが突然、べちゃりと奇妙な音に変わった。
 へ、と振り返ると、少し離れたその後ろ、見事道路に転がる桜にぎょっとする。 慌てて戻ると膝をつき、その腕を取った。
「おい、大丈夫かよ」
 だからおまえ、なんでこう、何もない所で転けるんだ?
 打ったらしいおでこをさすりながら、うう、桜は顔を上げて膝をつく。 は、恥ずかしい……しかし、心配そうにこちらを覗き込むギルベルトと目が合うと、 はにかみながらもえへへと誤魔化すように笑った。 その顔を見ると、何だろう、身体の力が抜けるような気がした。
 全く、こいつは。はああ、ギルベルトは気の抜けたようなため息をつく。
「立てるか」
「は、はい」
 ちょっと膝も打ちましたが、でも今日は厚手のコットンパンツだったので助かりました。 立ち上がり、他に痛みが無いかを確認すると、桜は改めて大丈夫ですと頷く。 そうか、軽くギルベルトも頷いた。
 そしてすいと背中を向けると、今度はしっかりと桜の手を握り締めて、歩き出す。
 引っ張られるようになりながら、桜はぎこちなく身体を固くする。 だって日本人の感覚では、幼い子供相手なら兎も角、異性と手を繋ぐ事など、 恋人でもない限りそうあるものではない。つい意識してしまうのは、仕方が無いだろう。
 やっぱり欧州の人は、日本に比べてスキンシップが過剰ですよね。 それとも、これ、小さい子供の面倒をみているみたいに思われているのでしょうか。
 やや緊張しながら、そっと隣を見上げる。 まっすぐ前を見たまま、こちらを見ようとしない横顔。 引き締まった唇が妙に頑なに見えて、まるで拗ねたように見えて、でも凛々しくて、少し笑う。 やっぱりこの人、とってもお綺麗です。
 ああ、そうか。すぐ転ぶこちらを心配してくれているのか。そう納得すると、桜は身体の力を抜いた。
「ギルベルト君、優しいですね」
 突然の言葉に、はあ? と漸く向けられた視線。それににこにこ笑いながら。
「さっきのあれが、普通の会話ですよね」
 彼との応酬を見ていて思った。やはり、ネイティブなドイツ語は、自分が思うより、もっともっと早い。
「いつも、私が聞き取りやすいように、ゆっくり喋って下さっていたんですね」
 普段使うようなスラングも押さえて、ちゃんとこちらにも解りやすいような、簡単な言葉を選んで。
「私、ギルベルト君と普通にお話できるように頑張りますね」
 だから、すいません。まだ、巻き舌も下手だし、憶えている単語も少ないし、 ヒアリングもなかなか追いつかないけれど。 だけど、頑張って勉強しますから、もう少しだけ待ってて下さいね。
 舌っ足らずで下手くそなドイツ語で、それでも一生懸命のその言葉に、思わずギルベルトは目を瞠った。
 歩く速度が緩む。手を握る力が少し抜ける。強い印象を与える目元が、柔らかな弧を描く。
「ったく、仕方ねえな」
 繋いでいない方の掌で、くしゃくしゃと艶やかな黒髪を撫でまわす。 きゃあと桜は肩を竦め、そこでふと、いつものリュックと共に彼の肩にかけられた、 一人分にしてはやや大きめな保温ポットに目が止まった。
 普段、彼は水筒を持ち歩かない。珍しい。しかも、ポットの上と下、カップが二つ付いているタイプである。 そっと窺うように視線を上げると、桜の視線を察したギルベルトは、気まずく水筒を背中に押しやる。 見えない位置に隠すように。無かった事にするように。気付くな、気付くな。
 暫しの間。
「やっぱり、ギルベルト君、すごく優しいです」
 だから、なんでこいつ、ドイツ語の言葉を探すのは遅い癖に、こんな時ばかり察しが良いんだよ。
 ぼさぼさの髪のまま向けられたにこにこの笑顔に、ちぇっとギルベルトは居心地悪く唇を尖らせた。

















◆ ライン川 ◆
スイス・ドイツ・フランス・オランダを流れる、欧州を代表する河川のひとつ。 ドイツにとっての父なる川とも言われ、河川は女性名詞が多い中、こちらは男性名詞。
河川際に古城が多い有名なスポットもあり、観光クルーズがとても人気です。




end.




冒頭の文体が色々間違い給うは、此れ仕様也
2013.03.16







back