フロイライン彩時記
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 床の上に新聞紙を広げて並べた、その前。ぺたりと割座するユールヒェンは、前のめりの姿勢を正すと、ふうと息をついて肩の力を抜いた。
 よし書けた、持っていた筆を青磁の筆置きに乗せる。そして新聞紙の上、細長い半紙の上部を両の指で摘まみ、目の前に掲げた。 真っ黒い墨で記されたのは、歪で何処か踊ったような文字。隣に並べて置いていた見本のものと見比べて、ユールヒェンはむうっと眉間に皺を寄せた。
 確かに同じ筈なのに、やっぱり見本とは違う。
 記したのは、「ヒラガナ」と称するらしい、己の名前を形作る日本語であった。 強制はしませんが、やはりこの国に滞在する以上、ある程度の日本語を知っておいた方が良いでしょう。 なにかあった際、全く知らないのと、多少なりとも理解出来るとでは、状況が変わりますから。 そう勧められるまま、ユールヒェンは菊から日本語を学ぶことになった。
 見本を字を書いたのは菊だ。日本の文字が全く分からないユールヒェンの目には、得体の知れない呪文のようにも見える。 しかし彼の書いたそれが。酷く整っていて美しい字であろうことは、なんとなく理解できた。
 ただ、どうにもこの「フデ」とやらが慣れない。 文字は先の硬いペン先で書くことが普通であったユールヒェンにとって、絵筆のように柔らかなこの筆記用具は、どうにも力加減が掴み難い。 教えられた通りの持ち方で書き進めるものの、毛先がプルプルと震えてしまう。 結果、何度やっても太い文字が不自然な波を描き、見ようによっては妙に呪われたような怨嗟感を演出してしまっていた。
 字は、書く人そのものを写すと言われています。心を落ち着けて、精神を集中して書けば、きちんと文字に現れますよ――菊はそう言っていたが、これじゃ誤解されちまいそうだ。 そんなつもりはねえんだけどよ。唇をへの字に曲げて、ユールヒェンは腕を組んだ。
 ふと、顔を上げる。
 この家は不思議だ。きちんと仕切られた、しかし何処か開けっ広げな間取りは、周囲の静けさを強調するが、しかし同時に微かな空気の動きが伝わり易い。 菊の元に来てからこちら、緊張や気が張っているとは別の意味で、ユールヒェンは妙に気配に敏感になったような気がした。
 床のきしむ音と、衣擦れ。近づくそれを追うように視線を動かすと、案の定、この部屋の襖の前で止まった。
「すんません、お嬢。よろしいですか」
 掛けられた声に、ヤーと返事する。すっと開いた襖から、気前の良さそうな大阪の笑顔が現れた。
「菊さんがお帰りになりました、お嬢を呼んではります」





 大阪に案内されたのは、隣接する母屋の建物だ。
 この家にやってきてからこちら、ユールヒェンは一度もこの建物に入ったことはない。 離れと称する住居に比べ、随分と広い造りであるらしい建物だが、しかし何処か生活感の無い、他人行儀な空気が満ちている。 そう言えば、実質ここには菊が一人で住んでいると、一番最初の日に教えられていたな。
 菊は、今朝早くから一人で外出していた。家にいることが多い彼は、しかし時折こうして出掛けることがある。帰宅は午後になったり、夜半になったりと様々だ。 どうやら今日は早い帰宅であったらしい。
 庭に面した廊下を通ると、何やら楽しそうな声が聞こえて来た。来客か? 珍しいな。
 賑やかな襖の前に足を止めると、大阪が声をかける。連れて来ました。ありがとうございます、中へ。その返答に、すらりと引き戸が明けられた。
 その向こうを目に、思わずユールヒェンは紅色の瞳を瞠った。
 漸く見慣れて来た、徹底された典型的日本家屋のこの屋敷。しかしこの部屋だけは違っているらしい。 天井の低さは相変わらず、だがその畳の上に敷かれたのは、落ち着いた模様の描かれた、しっかりと厚みのあるシルクの絨毯であった。 中央には繊細な飾り彫りの施された西欧風のラウンドテーブル、そしてそれに合わせた革張りクッションと手摺の付いた豪華な椅子。 後ろには、背の高いスタンドライトの傘や、壁に掛けられた西洋絵画も見える。
 不思議なちぐはぐ感の共存した室内、着物姿で椅子に座る菊の前には、やけにきらびやかな西欧人が座っていた。
 軽く頬杖をついてこちらを眺める視線に、ユールヒェンは分かりやすい怪訝さで以って、片方の眉を吊り上げる。なんだ、この女。
「例のお嬢さん?」
「はい、そうです」
「ボンジュール、可愛い子猫ちゃん」
 初めまして。お姉さんって呼んでくれていいのよ。軽く手を振り、にこりと笑う彼女の唇から零れた挨拶は、欧州で聞き覚えのある言語であった。
「彼女はフランソワ・ボヌフォアさん。フランスからいらした方です」
 ああ、やっぱり。肉感的な唇は艶のある紅に彩られ、長い睫毛に縁取られた眼差しは、ラテン系にありがちな滲み出る色気を含んでいる。 女性らしさを強調したドレスは、ファッション大国フランスで人気のあったスタイルで、惜しみなく彼女の肢体の柔らかな曲線を強調していた。
 胡散臭そうに身を引いてねめつけるユールヒェンに、彼女は何やら愉快そうに目を細める。 優雅な仕草で立ち上がると、腕を組みつつ、ふうん、へえ、成程、ぐるりとユールヒェンを見回した。
 姿勢を伸ばして、菊を振り仰ぎ。
「素敵なマドモアゼルじゃないの」
 なーによ、本田ちゃん。私にちっとも靡かないと思ったら、こんな素敵なワカムラサキを隠していたのね。
 ワカムラサキ? なんのことだと首を傾げるユールヒェンに、菊は笑って首を振った。誤解ですよ、勘弁してください。 第一、光源氏を名乗るには、流石に私では役不足です。全く、相変わらずフランソワさんの我が国の文化の見識と理解の深さには恐れ入ります。あらあら、ご謙遜。 二人にしか理解できない楽しそうな会話のやりとりに、むっとユールヒェンは唇を曲げる。
「じゃ、早速だけど、この子をお借りするわね」
 はい、お願いします。テーブルに着いたまま、ぺこりと頭を下げる菊に、疑問符を浮かべつつ瞬きするが。
「さ、行きましょうか」
 こっちこっち。ほらほらほらほら。くるりと背後に回られるて肩に手を乗せられると、そのままフランソワはぐいぐいと隣室へと押しやってくる。 強引な促しに戸惑いながらユールヒェンは振り返るが、しかし視線の先の菊はにこりと笑って頷くだけ。彼の様子から、どうやらこちらに悪い事ではないと思うのだが。
「本田ちゃんは覗いちゃ駄目よ」
 ここから先は、女の子以外は立ち入り。男性禁制なんだから。
 人差し指を立てるとウインクをひとつ、フランソワはぴしりと襖を閉めた。





 襖が閉じられたこちら側。やや薄暗い部屋に連れられ、ユールヒェンは更に目を丸くした。
 なんだ、これ。
 部屋の中央に山積みにされたのは、大きなトランクだ。重量を感じさせるそれらが、部屋の中に幾つも置かれ、並べて、積まれている。 立ち尽くすユールヒェンを通り過ぎ、フランソワはそれらの蓋を開けて見せた。
「素敵なの、いっぱい持って来たのよ」
 可愛らしいお嬢さんだって聞いていたから、もーお姉さん、張り切っちゃった。 うふふと楽しそうに含み笑いながら、トランクの中から取り出したそれを広げて見せる。
「ねえ、これなんてどう?」
 このレース、なかなか手に入らない特別製のものなのよ。これはね、着た時のシルエットが綺麗に出るから、かなりお薦め。 こっちのだって、私にはあまり似合わないけど、凄くお気に入りだったのよね。見てよこれ、凄くモダンなデザインで洒落てるでしょう。
 楽しそうに説明しながらひとつひとつ広げて見せるのは、欧州では普通に見慣れた、女性用のドレスやワンピース等の服であった。
 その中の一つをひらりと取り出すと、フランソワはユールヒェンの前に合わせてみる。 うん、話を聞いて適当に辺りを見計らったけど、サイズは丁度良さそうよね、良かったわ。満足そうに頷いた。
「本田ちゃんに相談されて、昔の衣装箱から引っ張り出したけど。懐かしいわあ」
 可愛らしい女の子がうちに来たからって。西洋の服なんて、どんなものがいいか判らなくてって。 我が国の服を着せても差支えはないのでしょうが、やはり慣れたもののほうが良いかもしれませんって。だからいろいろ探してきたのよ。当然、下着だって持ってきているから。
 話しぶりから察するに、どうやらこれらは、フランソワがもう少し幼い頃に着ていた古着であるらしい。 ファッションにこだわりのあるフランス人らしく、どれも手入れはきちんとされており、中には新品同様のものまである。
「ほらほら、突っ立ってないで、ちょっと着てみてよ」
 これなんて、どう? あ、こっちの色の方が似合いようよね。とりあえず脱いで脱いで。大丈夫、女同士なんだから。
 こちらの意見もお構いなしで、フランソワはあっという間にユールヒェンの着物を脱がせる。そして、手に持っていた青藤色のそれを、ぼすっと頭から被せた。 こら、暴れない。腕はここ。後ろ向いて。こっち向いて。うん、やっぱりお姉さんの見立ては完璧よね。
 着せられたのは、胸元にピンタックがあしらわれたワンピースだ。 よく見ると布地には細やかな花柄となっており、ボリュームのあるパフスリーブには小さなリボンに彩られ、ふんわりと広がるスカートはふんだんなフリルが裾に施されている。 派手すぎず、地味過ぎず、しかし女の子らしさが主張された、実に可愛らしいものであった。
「似合っているわよ、見てみなさい」
 いらっしゃい、こっちに。手を取ると、フランソワはユールヒェンを鏡台の前に誘う。
 全身が映るそれの前に立つと、成程、先ほどまで纏っていたキモノよりは違和感がないようだ。 この馴染みのある形の服の方が、西欧人の自分にはしっくりくるのかも知れない。単に先入観と、目の慣れだけなのかもしれないが。
 しかし、ユールヒェンはしかめっ面をする。
「……いいよ」
 ん? 首を傾げるフランソワに。
「ひらひらしたの、苦手だから」
 昔からそうだった。女らしくすることを嫌悪するつもりはないが、しかし裾の長い服はあまりに重く、そしてどうにも動き難い。
 ドイツにいる頃からそうだ。お洒落を楽しむに年齢にはまだ早く、興味もなく、男子と同じ服を着て遊び回っているのが常であった。 動きやすさを基本に考えるユールヒェンにとって、レースやフリルをふんだんに使ったドレスは、どうにも性に合わない。
 第一、これじゃあな。耳の上でつんと跳ねた短い毛先を、さり気なく撫でつける。
「まあまあ、そう言わない」
 貴方、折角イイ女になる要素が揃っているんだから、そんな風に言うのは勿体ないわよ。 笑って肩をとんと叩くと、フランソワは鏡台の上に置かれている櫛を手に取った。
 細やかな浮彫のされた柘植櫛で、丁寧に、丁寧に、宥めるような優しさで少年のような髪を梳く。 柔らかくて癖がつきやすいそれは、伸びるのにはまだ時間が掛かるだろう。 しかし独特の色彩は綺麗だし、ちゃんと手入れをして整えれば、きっと誰もが振り返る程に美しくなるに違いない。
 だが、そんな事よりユールヒェンが気になる事がある。
 少し迷ったように唇を引き締め、そして鏡越しに見つめながら。なあ。
「おまえ……あいつのなんなんだ?」
 先程の親しげな様子を思い出し、ユールヒェンはじとりと睨み付ける。 その質問に目を丸くすると、フランソワはふふっと楽しそうに含みのある笑みをこぼしながら。
「本田ちゃんとはお友達よ」
 安心しなさいな。貴方が心配するような間柄じゃないから。
 聞くと、フランソワは輸入業を営む父親と共に、美術鑑定士として現在日本に来日しているらしい。 たまたまフランス外交官の知人筋からの紹介を受けて知り合い、お互いの趣味や趣向も近しく、それが高じてプライベートでも親交を深めているようだ。
「ま、彼はなかなかキュートだけどね」
 東洋の神秘っていうのかしら。一見少年みたいに見えるけど、深みのある瞳とか、シノワズリそのもののミステリアスな雰囲気とか、しっとりとした色っぽさっていうの?  あれってちょっとそそられるわよねえ。お姉さん、結構好みよ。
 うふふと艶を含んだ笑みを浮かべるフランソワに、ユールヒェンの目が険悪な色を放つ。 あら、怖い。それをフランソワは大人の女性らしく、余裕と瞬きで受け流す。
「でも残念ながら、今のところ恋に発展しそうにはないわね」
 確かに彼は充分魅力的だが、東洋と自国フランスを往復する生活が長いフランソワとは、男女の深い関係を結ぶのは難しい。 まあ、今のところは――だけどね。
 疑いの眼差しが抜けないお嬢さんに、くすくすと笑いながら。
「女はね。恋をしたら、綺麗になりたくなるものなのよ」
 髪を整えて、化粧をして、ドレスアップして。そして好きな人に、自分の一番綺麗な姿を見せたくなるの。 確かにまだ、お洒落にもこのドレスにも全く興味がない年頃なのかもしれないけど。でもね、誰しもそんな時が来るものなの。絶対。
「今は、いつかの為に取っておきなさい」
 きっと、ひょっとするとそんなに遠くない未来、あの時のドレスを貰っておけば良かったって後悔する時が来るから。 だから、お姉さんを信じて、今は黙って貰っておきなさい。 勿論、普段着も沢山持ってきているし。これだけあるんだもん、一着や二着、気に入る服がきっとある筈よ。
 ぱちん、とフランソワはユールヒェンに髪留めを止めた。耳の後ろに器用につけられたそれは、真正面から見ると、長い髪を一つに纏めているようにも見える。 え、どうやったんだ? ユールヒェンは瞬きしながら、まじまじと鏡の中の自分の髪を見つめた。
「その時は、お姉さんに相談してね」
 恋の悩みなら、いくらでも相談に乗ってあげる。保証するわ。恋に関して、お姉さん程頼りになる人はいないんだから。
 腑に落ちない顔のままのユールヒェンに、フランソワは小粋にウインクをして見せた。





next?




恋をするには、まだちょっと早い
2017.06.08







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