ツインとダブルの方程式
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保育園からの帰り道、右に桜、左にギルベルトの手を握り、菊はマンションまで続く遊歩道を歩く。
今日は、ユールヒェンの帰りが遅くなるようである。 仕事が終わった頃に到着した彼女からのメールには、先に一緒に夕食を食べさせてやってほしいとあった。
今夜は薄切りの豚肉を使って、生姜焼きにしましょうか。 冷蔵庫にかぼちゃもあったから、小豆缶でいとこ煮でも作って。 ユールヒェンさんとギルベルト君、確かあんこは大丈夫でしたよね。 お味噌汁の具は油揚げにして、それから後は。
「なあなあ、きくー」
ぐいぐいと繋いだ手を引っ張るのは、左側のギルベルトだ。 大きな声で歌っていた特撮テレビのオープニング曲は、いつの間にか終了していたらしい。 歌い出しとサビの部分しか覚えていないらしく、それ以外は謎の宇宙人語で構成された歌詞であったが。
「はい、なんですか?」
見下ろすと、向けられるのは、独特な色彩をしたまっすぐな瞳。
「きくとゆーるひぇんは、けっこんしないのか?」











「ああ、だからか」
ペットボトルのキャップを回しながら、成程とユールヒェンは頷く。 最近やたらとギルベルトが結婚についてあれこれ聞いてくるのは、どうやらそれが理由だったらしい。
「今月末でお辞めになって、旦那さん方の実家に行かれるそうです」
保育園の保育士が結婚退職する話を知ったのは、昨日、担任の先生との会話からだった。 桜とギルベルトよりもひとつ年上のクラスを受け持つ彼女は、小柄で、目元に愛嬌があって、 その癖なかなか肝っ玉な空気を持っていて、いつもこちらに元気の良い挨拶をしてくれる。 明るい彼女なら、きっと良いお嫁さんになるだろう。
彼女とは直接の接点が殆ど無いギルベルトと桜は、同じクラスの子供達同様、 退職のお知らせに特別な感情は持たなかったようだ。 しかし、その折に触れた結婚の話には、甚く興味をそそられた模様である。
「そういや、昨日もテレビで見ていたな」
丁度今世間では、とある有名芸能人の結婚話が話題になっていた。 煌びやかな結婚披露宴の様子を映す芸能ニュースに、何が面白いのかやたらと熱心に見入っていたが、 成程、つまりはその影響か。
見遣った視線の先、緑鮮やかな芝生の映えるなだらかな斜面の中腹には、 手を繋いでのたのたと坂道を登るギルベルトと桜がいた。 こちらの視線に気がついたのか、ぶんぶんと手を振ってくる子供二人に、大人二人も軽く振り返す。
駅からのバスで十五分程の場所にあるこの自然公園は、子供向けの遊具はないものの、 沼地や丘や林をそのまま利用した緑化施設となっていた。 気軽に足を運べ、ちょっとしたアウトドア気分も味わえ、 家に籠るのも勿体無い天気の休日、突然思い立った行楽には丁度良い場所である。
「ギルの奴、桜と結婚するって張り切っていたぜ」
備え付けの丸太造りのガーデンテーブルの上、プラスチックパックに残った海苔巻を摘んだ。 途中にあったスーパーの総菜コーナーで買ったものだが、子供達は甘い稲荷寿司ばかりを好んで食べるので、 こちらが妙に残ってしまった。美味いんだけどな、サラダ巻き。
「みたいですね」
桜さんも言っていましたよ、ギルベルト君のお嫁さんになるって。 何処か虚ろな視線と声に、ユールヒェンはどうした? と顔を覗き込む。 いやあ、小さく溜息をひとつ。
「娘って……誰かの嫁に行ってしまうもんなんですね」
しみじみとした諦念の響きを込めたそれに、ぷっすーとユールヒェンは吹き出す。
「おっまえ、何言ってんだよ」
早いよ。なに、今からそんな心配してんだよ。 ケセケセと笑い声を上げる彼女に、むうっと菊は拗ねたように唇を尖らせた。
「だって、そうじゃないですか」
母親はいつまでも母親だけど、父親なんて寂しいものです。 年頃になったら、ウザいだの、キモいだの、臭いだの言われ、疎ましがられ、 並んで歩く事さえ恥ずかしがられ、洗濯物を一緒に洗う事さえ拒否されて、邪魔者扱いされるんですよ。 で、恋人が出来たらポイですよ。ポイ。男親なんて、所詮いつかは娘に振られる存在なんです。
「いや、桜はそんな子じゃねえだろ」
頬杖をついて未来予想図を語る菊に、ユールヒェンは瞬きする。 おいおい、こいつに何があったんだ。
「だったら、ギルの方が大変そうだぞ」
今でさえ、こんなに小生意気で、口も悪くて、やたらと無駄に偉そうなのだ。 その内こちらを見下ろすようになって、一人で大きくなったようなツラをするようになって、 あからさまにこちらを邪険にしそうである。 ババアなんて言ってみろ、その後頭部に回し蹴り入れてやるからな。
「ギルベルト君は、そんな子じゃありませんよ」
確かに乱暴な所があるかもしれませんが、でも人にして貰った事はちゃんと憶えている子だし、 面倒見も良いし、きちんと相手を思いやれる優しさも持っています。 一生懸命自分を育ててくれた母親を、悲しませるような事はしませんよ。
どうだか。肩を竦めるユールヒェンに、菊は絶対そうですと、強く念を押す。 そして、見つめ合ったまま、どちらともなく笑いが込み上げてきた。全く、何言ってんだ、自分達は。
「でも……なんだか二人が羨ましいです」
小さい子供の「好き」と言う感情は、余りにも素直で、真っ直ぐで、純粋で、眩しいぐらいに無垢である。 その想い一つで結婚という言葉を口にできる天真爛漫さは、今の自分にはもう決して持ち得る事が出来ないものだ。
「大人になると、いろいろ考え過ぎてしまうんでしょうね」
好きな人ができても、一緒になりたい人がいても、この人ならばという人と出会えても、 自分の感情だけでは動けなくなってしまった。 どうしても、自分の現状や、社会的な外聞や、将来の展望や、互いの生活や、様々な相性や、 そこから生じるその他諸々を考えてしまう。
「いつの間にか、好き、だけでは動けなくなってしまいました」
視線を落とす菊に、ユールヒェンは唇を引き締めた。 男と女がいて、そこに感情が生まれても、勢いで突っ走ってしまうには、それぞれが抱えるものは大きい。 社会人として働く以上、子供の保護者である以上、 自分だけがと言う無責任さが許されないのは、ユールヒェンも嫌になる程充分に理解している。
だけど――なあ、だけどな……。
誤魔化すように逸らした視線の先、丘の上へと登り切ったギルベルトと桜が見えた。 この位置からでは逆光となり、菊とユールヒェンは眩しく目を細める。
しっかりと手を繋いだ、幼い二人のシルエット。 傍から見るとなだらかな、だけど二人にとってはとてつもなく高くて険しかった、その一番上。
一緒に上ったそのてっぺんで、二人は幼いキスをした。





小走りで斜面を降りると、ギルベルトと桜はまっしぐらにこちらに戻って来た。 天気も良いし、山登りして、ここまで走って、一杯身体を動かした。 咽喉が渇いただろうとビタミン入りのジュースの紙パックを渡すと、二人は一心にストローを吸う。
空っぽになるまで飲み干すと、ギルベルトが直ぐ傍にいた菊を見上げた。 あのな、あのな。不思議な色彩を帯びたつぶらな瞳が、嬉しそうに笑う。
「あそこのうえで、さくらとけっこんしたぜ」
テレビで見たとおり、約束しますって言って、ちゅーもした。俺様、完璧だぜ。 胸を逸らせた満足気な報告に、ぷすっとユールヒェンは笑い、菊はやや眉尻を下げて笑う。
「ギルベルト君、桜さんを頼みましたよ」
まさか、こんなに早くこの台詞を言う日が来るなんて。 心の中でほろりと涙を流す菊に、おうっとギルベルトは自信満々に頷いた。
「だから、きくのことも、おれさまがめんどうみてやるからな」
男前ににかりと笑うギルベルトに、菊はきゅんと胸を鳴らす。なんですか、このイケメンは。
何処で得た知識なのか、どうやらギルベルトの中では、 結婚すると必然的に、相手の家族の面倒もみるものだと思っているらしい。 そうか、彼は幼いながらに、既にその覚悟もしてくれたというのか。これで、老後の心配は無くなりましたね。 流石は桜さん、立派な旦那様を見つけて下さったようです。
「よろしくお願いしますね」
おう、任せておけよ。
「おれさま、さくらもだいすきだけど、きくもだいすきだからな」
その告白に、おおと菊は目を瞠る。
「ユールヒェンさん、今の聞きましたかっ?」
やっぱり、ギルベルト君は優しい子です。大きくなっても、親を邪険にしたりしませんよ。 感動に拳を握る菊を横目に、おいちょっと待てよ、ユールヒェンは片眉を吊り上げる。
「こら。俺様は仲間外れかよ」
そこはアレだろ、ユールヒェンも大好きって付け加える所だろうが。 やっぱり駄目だこいつ、絶対大きくなったら桜や菊を優先して、俺様一人を見捨てるな。 別に良いけどよ。寂しくなんかないからな。あーあ、俺様の老後、一人楽し過ぎるぜ。
ちぇーっと唇を尖らせるユールヒェンに、傍にいた桜が控え目にその手を引っ張る。 見下ろすと、ふるふると小さな頭を横に振って。
「わたしはゆーるひぇんさん、だいすきですから」
大丈夫ですよ。ギルベルト君とおんなじくらい、ちゃんとユールヒェンさんの事がすごくすごく大好きです。 一人じゃないです。仲間外れになんてしません。
必死で言い募るひたむきな一生懸命さに、じいんとユールヒェンの胸が熱くなる。 やっぱり良い子だよなあ、桜は。なあお前、ホントにギルなんかで良いのか?  やめるなら今の内だぞ。いっそ、俺の嫁に来い。
「それに、おとうさんだってゆーるひぇんさんのこと、とってもだいすきです」
本当ですよ。そう言ってました。真剣な顔で言い切る桜の向こう、その言葉を聞いていたギルベルトも。
「ゆーるひぇんだって、きくのことがだいすきだぞ」
本当だぞ。俺様、知ってるぜ。結婚式のテレビを見ていた時、聞いたからな。
「それなのに、なんできくとゆーるひぇんは、けっこんしないんだ?」
菊もユールヒェンが大好きで、ユールヒェンも菊が大好きなんだろ。だったら、結婚すればいいじゃねえか。 大好きな人とは、結婚するもんなんだろ。俺と桜は結婚したぜ。何で二人は結婚しないんだ?
「けっこんしたらしあわせになれるって、せんせいがいってました」
保育園の先生が言っていました、結婚して、幸せになるって。 お父さんとユールヒェンさんは、幸せになりたくないんですか?
疑問詞をたっぷり浮かべた質問。子供の正論は、単純なだけに、実に論破が難しい。 ちらりと見ると、ぎこちない顔でこちらを見つめるユールヒェンと目が合った。 動揺が滲み出たそれに、こちらも妙な汗が流れる。多分二人とも、同じくらい顔が赤いのだろう。 笑って受け流すタイミングを逃してしまい、奇妙な間にやけに心臓が音を立てる。
ええっと……少し視線を彷徨わせ、こほんと咳払いを一つ。誤魔化すように、大仰に困った顔を作ると。
「私とユールヒェンさんが結婚してしまうと、桜さんとギルベルト君は結婚できなくなってしまいますよ」
なんと。衝撃の言葉に、二人の子供は目を見開いて、それぞれらしい衝撃の表情となる。
「なんでだっ?」
だって、菊は首を傾けて。
「兄妹で結婚はできませんから」
私とユールヒェンさんが結婚して夫婦になると言うことは、つまりギルベルト君と桜さんは兄妹になります。 兄妹間での結婚は駄目だって、法律で決まっていますから。 法律を破ってしまうと、警察さんが来て、怖い所へ連れて行ってしまいます。 もしかすると、死刑になるかもしれません。そうなってもいいんですか?
義兄妹間の婚姻が例外になる事には触れず、わざと声を低くして怖そうに言ってやると、ぐうと二人は言葉に詰まる。 それは困る。イヤだ。 涙目になるギルベルトと呆然とした桜に、ちょっと言い過ぎただろうか、菊は申し訳なさそうに苦笑する。
「だから、このお話はここまで。これでおしまいです」
私もユールヒェンさんも、桜さんとギルベルト君が幸せになってくれれば、もうそれで充分なんですから。 判りましたね。
俯いた小さなつむじが二つ。しかし、ぱっと桜が顔を上げた。
あのね、あのね。両手を口元に添えて、酷く神妙な面持ちで、潜めた声での一大決心。
「おとうさんと、ゆーるひぇんさんのこと、ないしょにしますっ」
絶対に、絶対に誰にも言いません。 私と、ギルベルト君と、お父さんと、ユールヒェンさんの、ここにいる四人だけの、誰も言わない秘密です。 だから、お父さんとユールヒェンさんが結婚しても、誰にも判りません。きっと、大丈夫ですよ。
嘘をつくのはいけない事だけど。法律を守らなくては駄目だけど。 ばれてしまったら、警察さんに怖い所へ連れて行かれるかもしれないけど。でも、でも。
「みんながしあわせじゃなきゃ、しあわせじゃないんですっ」
私とギルベルト君だけじゃ駄目なんです。お父さんも、ユールヒェンさんも、一緒に幸せが良いです。 皆が幸せにならなくちゃ嫌です。
「だから、ぎるべるとくんも、ぜったいにないしょですよ」
いつものほんわりしたものではなく、きりりと引き締めた顔の桜に促され、ギルベルトも深刻な顔で頷いた。
「わかった」
俺様、絶対誰にも言わねえ。菊とユールヒェンの為だったら、何があっても内緒にしててやるぜ。 俺達だけの、絶対内緒の、死んでも誰にも言わない、一番の秘密だからな。
生真面目な顔で口にチャックをするジェスチャーをすると、小さな両手でぎゅっと口を押さえた。





と言う訳で。
何故か桜とギルベルトに手を引かて連れて来られたのは、先程子供二人が上っていたなだらかな丘の上。 一番上のてっぺんに到着すると、ギルベルトと桜はほらほらと菊とユールヒェンを促す。
「ぜったいに、ないしょにしますから」
「だから、やくそくして、ちゅーするんだぞ」
自分達もここで結婚したのだ。だから今度は、菊とユールヒェンの番である。 それが子供達の主張である。だから、どうしてこうなった。
何とか言ってやって下さいよ。視線で助け船を求めるが。
「ま、キスさえすりゃ、こいつらも納得するだろ」
うろたえる菊と違い、ユールヒェンはニヨニヨ笑っている。 あっさりと軽い口調。そうか、彼女にとってキスとは、毎日の就寝前に交わす挨拶と同等のものなのだ。 こちらの、日本人の感覚とは違う。この欧米人め。
「嬉しそうですね」
半眼で見遣る菊に、そりゃまあな、肩を竦める。
「自分の育てた子供が良い子に育ったら、嬉しくもなるだろ」
ちっこい身体で、いっちょ前にこんなに真剣に親の幸せを考えてくれているのだ。 ホント、健気だよな。そう言われ、確かにと菊も思わず口元を綻ばせる。
くすくすと笑い合う菊とユールヒェンに、不思議そうに首を傾げ、 しかし小さな掌でぱたぱたと腰を叩いて、早く早くとせっつく。参ったなあ。 判りやすく戸惑いを見せる菊を目の前に、ユールヒェンはギルベルトと桜を見下ろした。
「ほら。秘密なんだから、お前らはあっち向いてろ」
お前達が見ていたら、ちっとも秘密にならないじゃねえか。
その言い分に、単純な子供達はあっさりと納得したらしい。 とことこと少し離れると、こちらに背中を向けて二人並んでしゃがみ込み、両手で自分の目を隠して俯く。 そうか、その手があったか。ほっと菊は息をついた。
力を抜いたその肩の上、がっしとユールヒェンは押さえつけるように手を乗せる。
「ほら。お前も目、閉じろよ」
絶対内緒なんだろ。誰にも秘密なんだろ。 子供達だってああして目を閉じて、見ないようにしているんだ。お前も目を閉じなきゃな。
「え、あの、ユールヒェンさん?」
探るように揺れる、黒目がちの瞳。 深みのあるその色には、何処までも真面目で、誠実で、もどかしい程のこちらへの配慮が映し出されている。 それを、ユールヒェンはケセケセと笑い飛ばした。
「ばあか、そんなに考え過ぎるなって」
純粋な子供の約束に付き合うだけだ。只のキスだろ。気にする程の事じゃねえ。お前も、俺も。そうだろ。
言い聞かせるような声音には、気のせいだろうか、 誰に対して納得させているのか判らなくなるような、切実な響きが込められていた。
瞬きを数度、菊はふっと男っぽく笑った。
「じゃあ、ユールヒェンさんも目を閉じなくちゃ駄目ですよ」
やや悪戯めいてつり上がる唇。 吹っ切れたようなそれに、切れ長のユールヒェンのアイラインが柔らかい弧を描く。
「了解」
一歩近づく二人の距離。伸ばされた腕。そっと伏せられた睫毛。
透き通った青空の彼方、ぴいと尾を引く雲雀の鳴き声が聞こえた。





「なー、おわったかー」
「まーだでーすかー」
しゃがみ込んで両手で目を隠したまま、待ちぼうけの子供二人は、背後にいるであろう大人達に声を掛ける。 もう良いかい、その問い掛けに返事はない。 目を開き、ぱちぱちと瞬きし、指の間から視線を交わすと、そおっと二人は手を外す。
どうかな。もう良いかな。終わったかな。ちゃんと結婚したかな。
戸惑いながら肩を寄せ、ギルベルトと桜は同時に後ろを振り返った。




end.




ちびっ子には、夢と希望と妄想が詰まっております
余力があれば小、中、高校生編も書きたいですな
2012.12.16







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