宇宙は密やかに呼吸する





in Deutschland――winter





 その瞬間、顛末を悟ったドイツは、耳まで真っ赤になって、わなわなと唇を震わせた。隣に寄り添うイタリアは、頬を可愛らしく染め上げて、驚きと満面の笑みを浮かべている。
 呆気にとられたそんな二人に、プロイセンはガッツポーズで拳を上げた。
「よっしゃ。俺様作戦、超大成功だぜーっ」
「なっ、に、兄さんっ」
 ふざけているのか。からかわないでくれ。
 怒ったような、照れたような、緊張したような、なんとも複雑な顔のまま怒鳴る弟に、プロイセンはしてやったりと歯を見せてケセセと笑う。
 そして、ポケットから小さなクラッカーを取り出すと、紐を引いて、パン、と音を鳴らせた。弾けるカラフルな紙テープ。ひらひらと舞い散る紙吹雪は、ご丁寧に全てハート型をしていた。芸が細かいことである。
「じゃあ、後はお二人さんで、な」
 行くぜ、日本。羞恥に染まった眼差しに、小粋なウインクを一つ。その矛先が怒りへと変わる前に、ぽかんと傍らに立つ日本の腕を取り、脱兎の如く扉の向こうへと飛び出した。





 澄んだ冬の大気に、弾んだ息が白く溶ける。きんと冷えた冬の星空の下を、ギルベルトと菊は走った。
 軽やかなプロイセンの足取りと違い、腕を引かれた日本は縺れそうになる足元を気にしながらついていくのに必死だ。元より、身長が違う……ええ、そうですよ、足の長さですね、恐れ入りますすいません。胸の内で眉を顰め、目の前の広い背中を睨み付けた。
 汗ばむ分厚いコートの下。はあはあと上がる息。このまま何処まで行くのだろう。そんな日本の疑問に答えるように、ステップを踏むような足の運びが、やがて、止まった。
 喘ぐように忙しなく白い息を量産する日本を振り返り、弾んだ息のまま、へへっとプロイセンは笑う。
「悪かったな、巻き込んじまって」
 荒い息を交えたまま、いえ、か細い声で日本は返答した。急激な運動で暴れる心臓を、胸に手を当てて宥める。長い呼吸を一つ、二つ。
「プロイセン君……最初から、そのつもりだったんですね」
 考えてみれば、ずっと妙な違和感があった。
 やけにそわそわしていたし、ちらちら二人を気にしていたし、そのくせなんでもねえぜと嘯いていたし、何か企んでいるような気配は感じていた。しかし、まさかあんな結果を狙っていたとは。
「だってあいつら、いつまで経ってもあのままだからな」
 我が弟ながら、あまりにも生真面目過ぎて、色恋沙汰には余りにも奥手に過ぎる節がある。微笑ましくもあるのだが、しかし流石にこのままじゃ、いつまで経っても二人の進展が見込めない。
 だったらいっそ……思い切って、その不器用な背中を、少々押してやったのだ。
「大成功、だっただろ」
 流石俺様。親父譲りの戦略は、現役を離れてもちっとも衰えていないぜ。自慢気に胸を張ってケセセと笑う横顔に、日本は戸惑うように眉尻を下げる。
「その……良いのですか?」
 ん? 不思議そうに振り返るプロイセンに、続く言葉を言い淀む。なんだよ、促すような視線に後押しされて、慎重に言葉を探しながら唇を開いた。
「だって……その、プロイセン君は、あのお二人の事を……」
 全てを注いで大切に育てた弟であるドイツを、ずっと昔から愛でるように見守っていたお気に入りのイタリアを、彼がどれだけ大切に愛おしく思っているのかは知っている。恐らくプロイセンにとってあの二人は、何よりも特別で、何よりも大切で、何よりも愛おしい存在だったのであろう。少なくとも日本の目には、プロイセンがどちらかに……或いは両方に、深い愛情を、いっそ恋情に近い感情を抱いていたと認識していた。
 それなのに、貴方は。
「良いんだよ」
 空を仰ぎ、はあと長く白い息を吐く。星空に、吐息が溶け込む。
「ヴェストとイタリアちゃん、俺様の大好きな二人が、お互いを好き同士で、んで、結ばれたんだぜ」
 右手、そして左手。人差し指と親指に柔らかな輪郭を縁取り、左右合わせて夜空に指のハートを形作る。切れ長の目元を優しくしならせて、にんまり唇を吊り上げた。
「それって、すげえ幸せな事だよな」
 好きの形と、好きの形が重なる、その完璧な造形。その、なんと幸せなことよ。ケセセとプロイセンは笑った。
「それに。この先俺は、どうなるか解んねえだろ」
 当たり前の事を話すような、さらりとした口調。にも拘らず、その言葉は日本の胸の内側に、酷い衝撃を与えた。
 己が亡国であることを、プロイセンは既に受け入れ、そして納得し、見据えている。
 群雄割拠の欧州の歴史を歩いた彼は、国の誕生も、結婚も、消滅も、幾度となく目の当たりにしていた。自分が消滅したいと思ったことは無いが、だがこうしてここに存在している事実が、どれだけ特殊で奇跡的な事なのかも理解しているのだ。
「あいつらがどうなるかすげえ心配したけど、これで漸くすっきりしたぜー」
 あの二人なら、きっと末永くいい関係を長く続けることが出来るだろう。どうせなら、現役の国同士がくっつく方が良い。特にイタリアは、神聖ローマを失った辛さを知っている。あんな悲しさを、可愛いあの子にも、大切な弟にも、味わわせたくはなかった。
 これで俺様、超満足だぜ。
 形作ったハートを崩し、そのままうーんと星空へ握った拳を突き上げて、体を伸ばす。研ぎ澄まされた、冬の夜の空気。意識が冴える。身が引き締まる。心に沁みる。透き通るようだ。
「気持ち良いな」
 見上げる星空に目を細める。すげえ、良い気持ちだ。こんなすっきりとした感じ、久しぶりのような気がする。
 ああ――なんという爽快感。
「これで俺様、もう思い残すことはねえなーっ」
 大きな声は、夜空に溶け込んだ。このまま消えてしまっても、大丈夫だ。これなら、なーんにも思い残すことはなさそうだ。親父にも、胸を張ってそう伝えることが出来るだろう。
「……そんな事、言わないで下さい」
 低く、唸るような声に振り返る。日本? すっかり俯いた頭、今は旋毛しか見えない。不機嫌そうな声に唇を尖らせる。そんな、怒んなよ。そりゃ、お前を巻き込んじまったことは悪かったけどよ。
「あー……もしかしてお前、あいつらのどっちかが好きだったのか?」
 だったら、悪い事をしたよな。眉尻を下げるプロイセンに、顔を上げた日本は慌てて首を横に振る。
「違いますっ……あ、いえ、勿論好きですが。その、お二人は大切な友人です」
 ドイツとイタリアの仲睦まじい様子は、とても可愛らしくて、微笑ましくて、見ていてこちらも癒されていた。いつまでも平行線な様子が気になっていたのは、日本とて同様である。こうして晴れてお互いの気持ちが通じた様を目の当たりに出来たのは、日本にとっても嬉しいサプライズに違いはない。
 ただ一つ、どうしても気になる一点を除いては。
「私は……その、私は……」
 マフラーに顔の半分を埋めた日本の表情は、よく解らない。ただ酷く辛そうなその声に、プロイセンは片方の眉を吊り上げた。
「日本?」
「……私は……」
 言葉が上手く咽喉を通らず、固まったままの唇から、はあと白い息ばかりが吐き出される。
 それにプロイセンは、人懐っこい、懐の深い笑みを見せた。
「ほら、ちゃんと言ってみろよ」
 ゆっくりでいいから。焦らなくていいから。笑ったりしねえから。だからほら、お前の意見をちゃんと口にしてみろよ。今日は頗る機嫌が良い。お前のどんな考えだって、元師匠の俺様が、全部受け止めて、全部聞いてやるぜ。
 昔から……そう、初めて出会った頃から、この東洋の島国は口下手で、そしてやや言葉足らずなところがあった。周りに気を使い、その場の雰囲気を優先し、自分の意見をはっきりと主張できない面は、師として気になっていた弟子の長所であり短所だ。
 戸惑いに固まった感情を解きほぐすように、頭をわしゃわしゃと撫でられ、日本はぎゅっと目を閉じる。伝わる体温は儚い。息が詰まる。


「私は、貴方に幸せになって欲しい」


 彼にとっては、余程予想外の言葉だったのであろう。虚を突かれたままのきょとんとした顔を一瞬、だが宣告した通り、プロイセンは日本の言葉を決して笑い飛ばしはしなかった。
「俺様はすげえ幸せだぜ」
 生真面目な顔で言い切る。
 国として、フリッツ親父と言う上司にも巡り合えた。兄として、ゲルマンの悲願でもあるドイツをここまで立派に育て上げた。可愛いイタリアちゃんもいるし、まあバカばっかりやっているけど、それなりに気の置けない奴らだって身近にいる。
 それに、今まで自分が培った諸々は、きちんと後世に伝えることが出来ている。勿論その中には、東洋のプロイセンと呼ばれたお前だって含まれているんだぜ。


「だから、なんでお前が泣くんだよ」


 ぐし、と鼻を啜る、俯いてしまった元弟子の後頭部をさらりと撫で、ぽんとその肩に手を乗せる。細く、薄い肩。線の細い東洋人の容姿は、欧米人から見れば女性的にも見えるが、しかしコート越しに伝わる骨格の感触は、女のものでは有り得ないしっかりしたものだ。
 下を向いたまま、日本はかぶりを振る。泣いていません、言葉に出さない幼子のような仕草。ニヨとプロイセンは唇を吊り上げた。こら、馬鹿弟子。
「弟子のお前がそんなだと、俺様がすげえ惨めな奴みてえじゃねえか」
 そうじゃない。そんなつもりはない。でも、違う。
 一人楽しいと嘯きながら、しかしプロイセンは常に誰かに愛情を求めていた。古くは隣国の美しくも勇ましい女性、太陽のように明るく素直なあの子、そして手塩にかけて育てた何よりも大切な弟分。
 しかし、その惜しみない愛情が報われたことは一度も無い。
 きっと彼は否定するのだろう。自分は充分報われたのだと、満足していると、幸せなのだと、笑って自分の愛情の形を肯定するのだろう。自分の言葉を偽ることはしない彼は、確かに間違いなく幸せなのだろう。
 しかし、与えることには惜しみないくせに、与えられることに不慣れであり、それに自身ばかりが気付いていない。常に自分の大切なものを最優先する為に、当たり前に身を削り、傷を負う事に躊躇わない。それが切ない。それが悲しい。苦しい。
「オラ、日本」
 小さな顔を両手で挟み、ぐいと顔を上げさせる。
 自分よりも幾分か下に位置する顔を窺うと、唇は噛みしめているが、確かに涙は流れていないようだ。泣いてはいない。しかし、こいつは泣いているのであろう。自分の歴史の内、ほんの僅かの間しか接点を持たなかった、今は亡き国を気遣って。
「変な同情、してんじゃねえよ」
 ぺちりと秀でた額を叩く。いた、思わず声が上がった。にかりとプロイセンは歯を見せて笑う。
「勘違いすんな。俺様はお前が考えている以上に、幸せに貪欲なんだぜ」
 思い残すことは無いかもしれないけれど、しかしまだまだやりたいことはある。譲れないことがある。足掻きたいことがある。プロイセンという国は消えてしまったけど、その存在まで消してしまうつもりはない。
 生き汚いと呆れられようが、執念深いと蔑まれようが、しつこいと笑われようが、それでもまだその先を求めることを止めはしない。
「同情なんかではありません」
 ただ。


「貴方がいないと、私はとても悲しい」


 とても。本当に、とても。悲しくて、苦しくて、寂しい。
 貴方がいないと嫌なのです、駄目なのです、耐えられないんです。同情とか、哀れみとか、憐憫とか、そう言うのではなくて。私は貴方に居てほしい。そして、貴方に幸せになってほしい。貴方が当たり前に惜しみなく与えた分だけ、貴方は当たり前の幸せを受け取ってほしい。
 一言ずつ、切実に、言い含めるようなそれに、プロイセンは瞬きを繰り返す。自然に落とされた視線に、小さな旋毛を見つめるしかなかったが。
 そして、気が付く。


 自分は、彼の事を知っているようで、実はあまり知らなかったことを。






























in Japan――spring





 大気に溶け込むような、柔らかく、しかし何処か儚げな笛の音が始まった。
 追随するのはバグパイプにも似た音を響かせる管楽器と、張り詰めた弦が醸し出す穏やかな共鳴。不思議な音色が奏でる独特の旋律は、この国特有の音楽で、確か雅楽と言われるものであるらしい。
 境内を埋めるひとだかり、その視線の中心は、吹き晒した木造建築物の一角、こけら葺き屋根の舞台だ。年期の入った古い能舞台は、数年に一度催される神事の真っ最中である。
 祝詞を読み上げ、祈祷を終え、雅楽が演奏され、能楽が奉納される。気が遠くなるほどの歳月、変わる事無く催される、雅で鮮やかな古典絵巻物の世界。境内に集まる人々はこの小さな神社の伝統ある神事を、興味深く見守っていた。
 さて、その一角。舞台から目の届かぬ裏方。
 出番を終えた日本は、小面を手に舞姿のまま幕の内を進む。
 お疲れ様でした。お疲れ様です。今日は暖かくて良かったですね。前回は季節外れの雪が降ってて。ああ、そうでしたよね。お食事用意しておりますので、お先にお召し上がりください。はい、ありがとうございます。
 すれ違う関係者達と軽く会釈をしつつ、さやさやと木の葉が触れ合うような会話を交わす。そのまま控室を設けた隣接する本堂へ向かおうと、楽屋口で草履を履こうとしたところで。
「……ああ、丁度お見えになりました」
 開け放したままの建物の入り口、扉の外側。
 こちらを振り返った顔馴染みの宮司が、登場した日本の姿に声を上げる。疑問のままに顔を上げた日本は、彼の向こうに見えた姿に、くるりとその目を丸くした。
「よお」
「プロイセンさん?」
 思わず声を上げる日本に、カジュアルな普段着姿のプロイセンはにかりと笑った。





「おー、すげえ」
 開いた蓋から現れた内側に、プロイセンは嬉しそうに感嘆する。
 早春を意識した幕の内弁当は、実に華やかな彩りであしらわれていた。黄色い卵で包んだ茶巾寿司に乗せられたのは、ほんのりした色が可愛らしい桜の塩漬け。さやえんどうと椎茸の含め煮、薄桃色に染まった酢漬けの花蓮根、柚子風味の唐揚げ、鰆の焼き物、春山菜のきんぴら、それらの上には花型に飾り切りされた京人参が散りばめ、飾られている。
 目にも楽しいそれらに、日本もほんのりと頬を緩ませた。
「豪華なベントーだな」
「ご近所にある料亭が、提供して下さっているんです」
 毎年この神社の祭事の際は、氏子でもある近所の料亭の主人の好意による食事の差し入れがされていた。なかなかに本格的な特製弁当は、流石料亭の味だけにとても美味しく、好評で、毎年参加者の密かな楽しみにもなっている。
 ふうん、感心しながら、プロイセンは慣れた手つきで備え付けの箸を割る。
「お前んトコのこれ。ベントー。すっげえ人気があるよな」
 交通や情報がグローバルになった昨今、各国の情報はインターネット一つであっという間に世界中に伝わる。そんな中、近年人気が急上昇しているひとつが、日本の弁当文化だ。
 小さなランチボックスに詰められたそれは、欧州の国で見られるものに比べると、特出して多様であるらしい。食への拘りが強いというのもあるのだろうが、元より凝りやすい国民性なのだろう。
 季節に合わせた花見弁当や懐石弁当から始まり、地方色溢れる駅弁、お手軽からヘルシー志向までニーズに合わせたコンビニ弁、子供向けにはとどまらないレベルでのキャラ弁、等々。日本発のベントウは、今や世界的にも有名になっていた。
「食べ難いものがあれば、残して下さいね」
 食文化は難しい。味覚や好き嫌い以前に、食べる習慣の無いものもあれば、宗教や文化的に受け付けられないものもあるだろう。同じ日本人でも好みの違いはある、異国人が食べられないものがあるは当然だ。
 んー、曖昧な返事をしつつ、プロイセンは器用に箸を使う。見慣れない何かをまじまじと見つめた後、箸先に挟んだそれをぱくりと口の中にいれた。
「お、うめえな。これ」
 もっもっと口を動かすプロイセンの横に、日本は暖かい日本茶を注いだ湯呑を置いた。その隣には、念の為にペットボトルに入れたミネラルウォーターも並べる。独特の苦みのある日本茶を苦手とする外国人は多い。だがプロイセンは、迷うことなく湯気の立つ湯呑に手を伸ばし、啜った。
 これ、ちっと甘いな。こっちは酸っぱいけど、ピクルスか? 歯応えがあるけど、俺様結構この味好きだぜー。
 一つ一つを味わいながら味覚を楽しむ彼は、意外にもこちらの国の食事にあまり抵抗を見せない。欧米では敬遠されがちな餡子も美味いと喜び、催促する程の好物である。
 日本は自分用に入れた茶に口を付け、目の前でぱちぱちと爆ぜる焚火へと視線を向けた。日当たりの良い参集所の中庭は、春を思わせるほどに暖かい。緋毛氈を敷いた縁台を円形に並べた中央に大きな焚火も設けてはいたが、陽光の下なら充分に寒さを凌げる陽気だ。
 そんな春の気配に頬を緩め、弁当に舌鼓を打つおぼこい横顔を眺めながら、プロイセンは目を細めた。
「見てたぜ、さっきの。」
 おまえの、あれ。女みたいな面を被って、鈴がいっぱいついた楽器みたいなの持っていたよな。
 楽しそうに向けられる紅の瞳に、日本ははにかむように苦笑する。
「御覧になっていたんですか」
 既に日本は、能楽衣装から小ざっぱりした普段着の和服に着替えている。先ほど、楽屋に姿を見せたあのタイミングなら不思議はなかろう。隠すようなことでもないが、しかしどうも面映ゆい。
「お前んところのダンスって、あれだよな、俺達の方とは全然違うよな」
 欧州のダンスは多少の違いこそあれ、もっと動きがリズムカルだ。しかし今プロイセンが目にしたものは、ゆっくりと、静かで、たおやかで、所作の全てが粛然としている。神事故の威儀なのかも知れないが、讃美歌とはまた違った独特の静穏さがあった。
「お恥ずかしい限りです」
「なんで? 良かったぜ」
 能楽自体の巧拙までは理解でないが、自国と全く違う文化を目にするのは興味深く、知的好奇心を刺激させられる。特に日本は、古い伝統がそのままそっくり形を変えずに伝承される性質が強い。先程の能楽も、今も遠くから流れる雅楽も、恐らくこちらから見れば途方もない昔から受け継がれ続けたものなのだろう。
「お前、毎年あれをやってんのか」
「ええっと、毎年ではありませんが」
 日本自らがしなくてはならないものではなく、参加する時も、しない時も、まちまちだ。その昔、何代か前のここの神主と縁があり、以来お互いに無理のない程度に参加を続けている。それに、神事としての神楽舞は、基本的にお社に従属する巫女や宮司等の神職者が執り行う。日本が演じたのは、あくまで神事後の行事のひとつとしての能楽だ。
 ふうん、咀嚼に口を動かしながら、プロイセンはじいと日本を見遣る。
 射抜く様に真っ直ぐ向けられるプロイセンの視線は、視線を避ける傾向の強い日本にとって、やや気後れするものであった。彼にそのつもりはないのは充分理解しているが、しかしその切れ長の目や、独特の色味を持つ虹彩は、昔から何やら緊張をもたらす力を持っている。密やかに特別な敬意を抱いている相手であれば、尚更だ。
 日本は視線を落とすと、それとなく姿勢を正す。
「……それよりも。良くここが分かりましたね」
 プロイセンが来日するとは、全く聞いていなかった。確かにこの神社は歴史があり、考古学的にも由緒正しくはあれど、国内でも特別知名度のあるもので無し、ましてや海外からの外国人が知っているとはとても思えない。しかもこの祭りへの参加は、公的なものではなく、全く私的なものである。
「んー、大阪に聞いた」
 朝、お前んちに行ったら、誰もいなかったからさ。何処かで時間を潰そうかとも思ったが、念の為に連絡してみたところ、ここを教えられたらしい。
 おや、日本は瞬きする。プロイセンが大阪との連絡先を知っているような間柄だったとは思わなかった。
「それは、すいませんでした」
 わざわざおいでになったのに。
「いいっての。俺様が連絡もしねえで来ただけだからな」
 お前に非がある訳じゃねえよ。だから、謝るな。
「まあ、おかげで面白いモン見られたからな」
 満足そうににんまり唇を吊り上げる独特の笑みは、恐らく本人の意図するところではなかろうが、皮肉めいていて、悪戯めいていて、何かを期待されているようで、どうにも落ち着かない心地になってしまう。反応に困ったまま、曖昧に口元を綻ばせるに留め、ひとまずは視線を落として食事に集中する。なので、そんなこちらにうっそりと目を細めるプロイセンに、気付くだけの余裕はなかった。
 ふと、ひと高らかな鳥のさえずりが聞こえた。
 二人同時に顔を上げる。見ると、直ぐそこ。見事な枝振りの佇まいを見せる梅の木に、鮮やかな色合いの鶯が羽を休めている。ホーホケキョ。ひと足早い春の訪れに、思わず日本はほんわりと口元を綻ばせる。
「フーリューってやつか?」
 確か、お前んトコでそう言うんだろ。こういうの。ワビサビだっけ? ゼンだっけ? それとはちょっと違うか。
「よくご存じですね」
 まあな。得意気に唇を吊り上げるプロイセンに、音に出さずにふふっと日本は笑う。
「我が国では、鶯はとても愛されている鳥なんですよ」
 春の訪れを象徴し、今ここにある綻ぶ梅との組み合わせは、縁起物としても人気の高い組み合わせだ。
「そういや、割とよくあるよな。そのデザイン」
 ほら、あれだ。口の中のものを飲み込んでから。
「ドレスデンにも山ほど残っているぜ。ザクセンの、お前んとこのコレクションが」
 ああと頷く。ドイツ、ドレスデンには陶磁器の所蔵で有名なツヴィンガー宮殿がある。遠い海を経て遥々欧州へと運ばれた日本で生まれた古伊万里は、今に続く典型的な日本画の意匠のものが、数多くの作品に登場していた。
「あいつほどじゃねえけど、俺様も集めていたからな。お前んトコのチャイナは」
 陶磁器コレクションはザクセンが有名ではあるが、勿論プロイセンとて例外ではない。あの当時のシノワズリブームは欧州中を沸かせ、権力者たちは先を争うようにして収集していたのだ。
「左様でしたね」
 開国の当時、何もかもが先進んでいた西洋諸国は、日本にとっては憧れであり、目標であった。煌びやかで色彩豊かな彼らの瞳に映る自国の文化など、さぞや平凡で地味なものに映るだろう。
 そう思い込んでいた中、意外にもこちらの独自文化が新鮮に受け止められていた事実を知った時は、心底驚いたものである。野蛮だ、未開だと蔑まれること無く、純粋に好意的な評価ををされていたことは、日本にとっては喜びであった。
 シルクロードの時代に取引された絹や宝物から始まり、磁器や浮世絵を運んだ大航海時代を経て、クリック一つで地球の裏側が見える現代は……差し詰め、弁当か?
 くふ、と小さく笑う日本に、なんだよとつられてプロイセンも笑う。
「いえ……異文化交流も、時代によって変わって来たな、と」
 思えば、あの頃眩しい程に憧れ、何もかもを取り込みたいと熱望した師と、こうして春の陽気の下で穏やかに弁当を食べるなど、想像だにしなかった。時代は随分と変わったものである。
「そうそう。それだよ」
 今日、ここまで足を運んだのは。
 弁当を離す間も惜しむように行儀悪く箸を咥えると、傍らに置いていた分厚い茶封筒を引き寄せ、ほらよと差し出した。何だろう。疑問符を浮かべつつ一旦弁当を隣に置き、行儀の良い所作で受け取ると、中に収められていたそれを引き出す。おや、これは。
「独日交流協会の交流イベントのスケジュールと資料」
 束ねられたレポートを捲る。二カ国間の親善交流は、毎年催されている恒例行事だ。クラシックコンサート、交換留学生の交流会、産業フォーラム、フォトコンテスト……今年も双方の国で、様々な交流イベントが予定されている。
 昨年行われた様々なイベントとその盛況ぶりを思い出し、ふんわりと日本は口元を綻ばせる。それを横目に、プロイセンは咥えた箸を手に取り、湯呑を啜って。
「日本とドイツの友好事業、今年からは俺が担当する」
 くるりと目を丸くして、日本はプロイセンを見る。今まで、長年ドイツと共に進行してきた仕事だ。互いに忙しい身ではあるものの、双方楽しく取り組んでいた仕事だっただけに、当人ではない、代理人に引き継がれるとは思いもしなかった。
 そんな日本に、プロイセンは片方の眉を吊り上げる。いや、違う。勘違いするなって。最初は渋られたし、半ば強引にもぎ取った。
「俺がやりたいって言ったんだ。ヴェストに」
 ずいと身を乗り出すと、ニヨ、と唇を吊り上げる。





「俺は、お前の事、もっと知りたくなった」





 頭上で鶯が啼き、ばさりと飛び去る気配がする。
 小春日和の陽光の中、射抜かれる瞳の強さに、日本は瞬きを繰り返した。





end.




「そして惑星は静かに恋をする」

……と続くフレーズ&設定の下
書きかけ放置していたオフ本の没ネタ
単独でも無理のなさそうな二章分だけ晒します
ここから始まり、ゆっくりと歩み寄る二人――な予定でした
2019.10.25







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