ショコラーデの勇気





シンプルながらも機能性を重視した設計の、なかなかに使い込まれた広いキッチンにて。
片や、シャツの袖を腕まくり、ギャルソンエプロンを颯爽と巻き付けて。 片や、三角巾で頭を包み、爽やかなチェック柄のエプロンを可憐に身に纏い。
それぞれの紐を、それぞれに気合を込めて、それぞれの力加減できりりと引き締めると、 生真面目に姿勢を正し、生真面目な顔のまま、生真面目な視線を合わせる。 そして同時に、よし、と頷き合った。
「よおし。それじゃあ、始めるぜ」
本日のプロイ先生の特別講義は、世にも美味しいショコラーデ・トルテの作り方だ。 俺様の講義は厳しいからな。体力に気を付けて、しっかりついてこいよ。
「はいっ」
若草色の瞳を瞬きさせて、リヒテンシュタインは歯切れの良い返事をした。









1・まずは下準備

「面倒だと思うだろうが、これをするだけで、作業の流れが格段に変わる」
材料と道具は、予め邪魔にならない場所に全て準備しておく事。 卵とバターを室温に戻しておくのは勿論、材料はグラムを測ってボウルに入れておく、 粉類はふるいにかける、使用する容器や道具は並べておく。
これらは制作過程に置いて、左程重要には見えず、省略してしまう輩も少なくは無い。 しかし、作業の最中、何が起こるかは判らない。 予測しなかったアクシデントにも即座に対応できるよう、後で忘れていた何かに慌てる事が無いよう、 緊急の事態に備える為にも、作業の流れを把握する為にも、 これは省く事の出来ない最も基本的なものだと肝に銘じろ。
「この手間を惜しむんじゃねえぞ」
意外に思うかもしれねえが、仕上がりの如何が、ここで決定的に変わってしまうことだってあり得る。 それを充分に理解するんだ。
「はいっ」
腰に手を当て、とくとくと説明するプロイ先生の前、リヒテンシュタインはちょこちょと動き回り、 指導のままに作業を始める。 小さいながらも一生懸命なその様子に、プロイセンはうんうんと満足気に頷いた。 成程、流石はあのスイスの妹だ。ちっこいながらも、なかなか筋は良さそうじゃねえか。
それにしても。
「この時期に、ショコラーデ、ねえ」
このイベント、日本だけじゃなく、欧州でも浸透しつつあるのだろうか。 並んだ材料の中、ショコラパウダーの入った小さな缶を手に、思わずぽつりと漏らしてしまう。 それにリヒテンシュタインが振り返った。
「プロイセンさま?」
真っ直ぐに向けられた、若草を思わせる色の瞳。 それがこちらの胸中を探るようにも見えて、ついどきりとしてしまう。
「あ、いや、うん。丁度、俺様も作ろうと思っていた所だったからな」
ショコラーデを使ったトルテか、クーヘンか、何か甘いお菓子をさ。お前、すっげえタイミング良かったぜ。
ケセセと笑い声を上げると、プロイセンは手にしたショコラパウダーの缶を、アルミボウルを持つ彼女に手渡した。





2・バターを溶かす

「所謂、湯せんだな」
弱い直火にかけて溶かす方法もあるが、これはなかなか技術もいるし、リスクも多い。 慣れない初心者や、自分の技術に自信の無い物は、敢えて冒険を犯す必要はねえ。 己の技量を弁えた上で、己に合った方法を選択しろ。
「わかりました」
彼女が選択したのは、当然ながら手堅い基本系。 湯を入れた鍋に一回り小さなボウルを浮かべ、その中でゆっくりとバターを溶かす方法だ。
「熱湯に気を付けろよ」
「はい」
おっとりとした返事ながら、その目は酷く真剣だ。さぞや一生懸命なんだろうな。 引き締められた丸みの残る横顔を一瞥し、プロイセンも隣に並ぶと、 同じように自分用に準備したバターを湯せんする。
アルミ製のボウルの中、とろりと形を無くしてゆくバターを見下ろしながら。
「しっかしさあ」
「はい?」
「なんで、俺だったんだ?」
手元から視線を外さず、会話を交わす。
リヒテンシュタインが自分にショコラーデ・トルテの作り方を請うたのは、 プロイセンとしてはかなり意外であった。
まあ彼女とは、同じ地域に住んでいるだけに、スイスを通じても、それなりにそれなりな関係はある。 しかし、お菓子作りが趣味なのは寧ろムキムキの弟の方だし、 美味いものを望むなら、近隣に世界的にグルメな変態が住んでいる。 一緒に作って楽しいなら、暴力系フライパン女がいるだろうし、 教えを請うなら、素材からしてやたらとこだわりのある坊ちゃんの方が、彼女とうまが合いそうだ。
それなのに、何故ここで俺なんだ?
「プロイセンさまは、ものを教えるのがとてもお上手な方かとお見受けしました」
弟君であるドイツさまを始め、独立前のアメリカさまや、 開国したばかりの日本さま……皆さんとても素晴らしい御国ばかりです。
確かに、プロイセンが指導した諸国は、時代を越えて、今や世界に名立たる強国へと変貌している。 それこそが、プロイセンの指導能力の証と言えよう。
見上げられる素直な瞳に、勿論悪い気はしない。
「おう、まあな」
お前、なかなか見る目あるじゃねえか。ふふんと胸を張ると、リヒテンシュタインはにっこりと笑った。





3・卵を泡立てる

「まず、ここが第一関門だ」
割った卵に砂糖を加えて、軽く混ぜる。ここまでは簡単だ。
だが問題は、更にその卵液を、白くもったりするまで泡立てる点にある。 ここは、力と、体力と、スピードと、根気と、妥協しない不屈の精神が必要となる所だ。
泡立てる事によって作られた液中の気泡により、焼き上がりの膨らみが決定付けられる。 手際良く、しっかりと、きめ細やかに泡立てる事こそが、トルテの仕上がりを大きく左右する。
「お前のような細腕には辛いかもしれねえが、ここが踏ん張りどころだと思え」
いいか、ここで負けたら、自分が思い描くショコラーデ・トルテにはならない。 理想と現実のギャップを目の当たりにし、己の弱さに打ちのめされ、後悔する羽目になるだろう。
「判ったかっ」
「はいっ」
よし、良い返事だ。
「泡立て器はやや大きめを使え、泡立ち難ければ軽く湯せんしろっ」
液と泡立て器が触れ合う表面積を増やせば、動きが少なくとも混ぜる量は大きくなる。 人肌程度まで温めれば、泡立てしやすくなる。妥協はせずとも、頭は使え。 こういったささやかな知識を得る事の大切さも学ぶんだ。
「はいっ」
カシャカシャカシャカシャ……広いキッチンに、二つ分の忙しない音が重なった。
リヒテンシュタインの奏でるもの比べ、プロイセンのリズムは慣れたものである。 これでも、菓子作りは結構得意だ。昔はよく、幼い弟の為に作ったものだ。 それを何かの会話で口にした時、あの爺は随分驚いた顔をしていたけどな。
私も食べてみたいです、プロイセン君の作ったお菓子。 普段はしらっとした顔ばっかしてんのに、こんな時だけは目をきらきらさせて、餓鬼みてえに強請って来て。 だから、良いぜと了承した。その代わり、絶対に受け取れよ。拒否すんなよ。ちゃんと食えよ。 そう念を押すと、勿論ですよとほわほわ笑いやがったから。
だから、渡してやるよ―――ああ、バレンタインデーにな。
待ってろよ、天然爺め。 普段は不必要なまでにしっかり空気を読む癖に、 自分に向けられる恋愛感情になると、途端にレーダー狂わせやがって。 判れよ、察しろよ、気付けよ、感じ取れよ。 言っちゃあなんだが、こちらは下心持参で、わざわざ東洋の際果てまで足を運んでんだ。 いい加減、襲うぞ、この野郎。
不意に、隣のリズムが一旦止まる。
見ると、腕がだるくなったのであろう、利き手から反対の手に泡立て器を持ち帰る所だった。 既に殆ど泡立ったプロイセンと違い、リヒテンシュタインの卵液は、まだまだ時間が掛かりそうである。 一生懸命ではあるようだが、それでもぎこちなさは如何ともし難く、疲れも見え始めていた。
「ほら、貸せよ」
自分のボウルを横に置いて、プロイセンはリヒテンシュタインへと手を差し出す。 腕が疲れたろ。慣れてないもんな。少し手伝ってやる。
「いいえ、大丈夫ですっ」
予想外にきっぱりとした拒絶。それに、お?と目を丸くすると。
「だって。きちんと私が作ったものをお渡しすると、決めましたもの」
プロイセンさまの優しさはとても嬉しくて、とても有り難いのですが、でもこれだけは譲れません。 決意に満ちた眼差しに、女の子らしい健気さが透けて見える。
「……そっか」
お渡しする―――まず頭に浮かんだのは、あのツンツンとしたハリネズミ国家だ。
この少女の傍には、常にあいつがいた。 誰にも気を許さず、周囲を寄せ付けない彼にとって、唯一の例外が彼女である。 そして同時に、彼女が無心に慕い、信頼し、常に拠り所とするのがあいつだ。 守り、守られ、その事に疑いさえ持たず、常にセットで寄り添う二人の間柄に、今更誰も疑問を抱かない。
そうだよな。贈り物なら、誰の手も借りず、自分で作ったものを贈りたいよな。
「よし、もう少し頑張れっ」
にかりとプロイセンは笑うと、その折れそうに細い背中をぽんと叩き、続きを促した。





4・粉類を混ぜる

「いいか、休んでいる暇はねえっ」
卵に作った気泡が消える前に、最初にふるいにかけた小麦粉とショコラパウダーを合わせ、 速やかに生地を仕上げるんだ。
「練るんじゃねえ、切るように混ぜろ」
最初に言った筈だ、卵を泡立てるのは、その細かな気泡がトルテの膨らみを作る為のものだ。 折角作った気泡を、ここで台無しにするんじゃねえ。 気泡を潰さないように、あくまで優しく、さっくりと、そして素早く正確に……お前なら出来る筈だ。
「はいっ」
もったりとし白っぽくなった卵液の上に、ふるいにかけてさらさらになった、 小麦粉とショコラパウダーが混ざったものを加える。 さっさっと混ぜ合わせるリヒテンシュタインの手付きを見下ろして。
「ついでに、しっかり愛情も混ぜ込んでやれ」
え、とびっくりして顔を上げる彼女に、にやり笑う。
「プレゼントなんだろ、それ」
さっき言ったもんな、自分の作ったものを渡したいって。 ふふん、と口の端を吊り上げながら、プロイセンは自分の作業を始める。
鼻歌でも歌いそうなプロイセンの横顔を、リヒテンシュタインはじいっと眺めるが、 ほら、手、止まってんぞ。その指摘に、慌てて作業を再開した。
手元から目を離さないまま。
「私……日本さまのバレンタインデーのお話を伺いまして……」
「ああ、やっぱそっかー」
欧州のバレンタインデーは、恋人同士が互いに花やプレゼントを贈ったり、愛を確認し合う日だ。 だが何処でどう変化したのか、何故か日本のバレンタインデーは、 好きな人にチョコレートを贈って、想いを伝える日となっている。
それを聞いた時は呆れたものだ。 製菓会社のアイデアと、お得意の魔改造と、妙なイベント好きが乗じた結果だろう。 しかし最近は日本から発信される映画やら、アニメやら、漫画やらの影響で、 日本情報に詳しい若者を中心に、欧米諸国にもその習慣が認知されつつあるとも聞く。
「その……そんなイベントがあるなら、あの、私も……えっと、その……」
ほんのりと頬を染め、はにかんで俯き、微かに手を震わせ、 それでも一生懸命作業をしながら、言葉を詰まらせるリヒテンシュタインに。
「ま、いいんじゃねえの?」
確かに変な習慣だけどよ。でも、そんなイベントに乗っかって、勇気を出せる奴だっているもんな。 ケセセと笑い声を上げると、顔を真っ赤にしながら、消え入るような声で、はいと彼女は頷いた。
そのいじらしい様子に、プロイセンも笑み零れる。全く、可愛いもんじゃねえか。 あいつも気難しいツラばっかしてねえで、ちゃんと受け止めてやれよ、 こいつの想いをさ……って、まあ、俺様が心配するまでもねえか。
「よし。八分通り混ぜ合わせたら、最初に作った溶かしバターを加えろ」
ボウルの上で円を描くようにして、偏りが無いように均一に混ぜ合わせろ。 油断をするな。しっかりと見極めるんだ。





5・型に流してオーブンへ

「ここまでくれば、あと一息だ」
最初の下準備で用意しておいた焼き型に、作ったトルテ生地を流し込み、熱したオーブンに入れる。 簡単なようだが、ここでもコツがある。
「生地を入れた型の底を、軽く叩け」
これは型の側面でも良い。 こうする事により、型に流し込んだ時に生地が取り込んだ、無用な空気を外に出すんだ。 ナイフでカットしたら中に大きな空洞が出来ていた……なんて、無様な真似は晒したくねえだろ。
「はいっ」
びしりと指を立ててそう言うと、リヒテンシュタインは大きく頷く。 そして真剣な顔で、持参して来たハートの形の焼き型の底を、とんとん、とんとん……と叩いた。 その様子を目の端に捉えながら。
「そーいや、あいつがそういうのに煩くってな」
首を傾げるリヒテンシュタインに、日本だよと肩を竦める。 丁度さっき話題に出た、チョコレートなバレンタインを作った張本人だ。
しっぽまであんこのたい焼きとか、中身たっぷりのクリームパンとか、衣の薄い海老の天ぷらとか。 普段はしらっと澄ました顔している癖に、食べ物の事になると、 途端に人が変わったように、細かく、うるさく、厳しくなりやがる。
「ほんっと、変な奴だよな、マジで」
「……でも、とてもお優しい方ですわ」
両手で支えるトルテの焼き型を見下ろしながら。
「私のような小国にも、とても敬意を持って接して下さいます」
ほわりと微笑む横顔に、おやとプロイセンは片眉を吊り上げた。
日本とリヒテンシュタイン、何か関係があっただろうか。 そう言えばあいつ、引き篭もりの癖に、何故か旅行は好きだ。 中欧を巡るツアーも人気が高く、スイスやドイツと共に、 リヒテンシュタインにも足を運ぶ旅行会社の企画が増えているらしいとは、 何かの流れでスイス辺りから聞いたような気もするが。
小さいもの、幼いもの、汚れないもの…兎に角あいつは、無条件に可愛いものが好きだからな。 メルヘンのようにこじんまりとしたリヒテンシュタインと言う国は、 確かにあいつにとっては「可愛い」魅力の対象となるだろう。
「プロイセンさまは」
「ん?」
「日本さまの習慣に、お詳しいのですね」
「あー、いや……まあ、そうか、な?」
まあ、あれだろ。一応、元弟子だしな。 現役だった頃から日本とは同盟を結んでいるし、ドイツとも経済的に関わりが深いし、 最近では日本文化に対する関心も高いし。
「お兄様も仰っておりました」
日本さまと元枢軸国は、今でもとても仲がよろしいと。 元師弟関係であったプロイセンさまは、今でも日本さまを気にかけ、可愛がっていらっしゃると。
「お二人を拝見して、私もそう思いました」
時折ではあるが、プロイセンはドイツと共に、公的な場に顔を出す時がある。 久しぶりの登場に、挨拶のお辞儀をする元弟子と、その頭を遠慮無く撫で回す元師匠。 そんな様子を少し離れた場所から目にしたリヒテンシュタインも、やはりスイスと同じ印象を受けた。 否、寧ろ。
「お二人には、特別な繋がりがあるように見えます」
元師弟と言う御関係からでしょうか。日本さまも、プロイセンさまも。 お二人の遣り取りには、他の方達とは違う、独特の気安さを感じます。
「いや、そうでもねえ、と思う……けど」
じいっとこちらを伺う、無垢な瞳。それに何やら居た堪れなさを感じ、空笑い交じりに、思わず視線を彷徨わせる。 おいこら俺様、なにうろたえているんだよ。 己の所存を誤魔化すように、仕切り直すように、自分用の丸い焼き型を、やや力を込めて台の上に置いた。
「よし、オーブンの温度は?」
「百八十度にセットしております」
「上出来だ。中は充分に温まっているか?」
「火を入れて、八分が経過致しました」
「なら問題ねえ、投入しろっ」
熱の籠ったオーブン。 二つの焼き型を鉄板に並べ、ミトンを嵌めた手で丁寧にその中へと収めると、ぱくんと音を立てて蓋をした。





6・ちょっと小休止

「じゃ、ちっと休憩するか」
焼き上がるまでの三十分余り。不要な物の片付けを終えて、ここで暫しの休憩時間となる。
向かい合わせにテーブルに腰を下ろし、残ったショコラパウダーで作った、ホットココアを飲みながら。
バレンタインで思い出したけどよ。
「バレンタインシーズンに、日本に行った事があったな」
あれは、去年だったか、一昨年だったか。 プロイセンが日本へ遊びに行った時、土産物を持って来るのを忘れたことにが気付いたのは、 既に現地に到着してからの事。 手ぶらで行くとヴェストが怒るし、まあなんでもいいやと、偶々目に入ったデパートに立ち寄った。 そこで開催されていたバレンタインの催事会場に、圧倒されたものである。
広い会場にひしめき合う、国内外に名立たるチョコレートメーカーの出店スペース。 販売推進にわざわざ海外から足を運ぶ、有名無名のショコラティエ達。 輸入費用の影響からか、はたまたそれ以外の理由からか、自国とは比べ物にならないそのショコラーデの値段。 そして、惜しむ事無くそれらを買い求める、老若問わない女性客の数、数、数…。 おいこら不況、何処へ行った。そういやあいつ、結構な内需国だったな。
「日本さまの元へは、よく行かれるのですね」
「んー、まあ、な」
まあ、確かに、日本へはよく行っている。よく、というより、しょっちゅうだ。 理由は、暇な事もあるし、あいつの家は居心地が良い事もあるし、ゲームや漫画は面白いし、 元弟子の様子を見に行くのも元師匠の務めだし、それに、なんだ、あれだ、うん、あれだよ。つまり、その。
「実は。今回プロイセンさまにお願いした理由は、それもありました」
「それ?」
「プロイセンさまなら御存じかと思いまして」
「何を」
「日本さまの御眼鏡に叶うお味を」
頬杖をついて瞬くプロイセンに、リヒテンシュタインはおっとりと小首を傾げて窺う。 その言葉を理解するのに、一拍、二拍、三拍……ああ、と納得した。
「あいつの食いモンに対する情熱は、ハンパねえからな」
日本はグルメ国家としても有名だ。美味いものに対しては、金と、手間と、努力を惜しまない。 グルメ大国日本に認められる味ともなれば、何処に出しても安心だし、一種のステイタスにもなり得るだろう。
「なあに、心配ねえよ」
今日二人で作った、このレシピなら間違いない。 ドイツ認定の厳選したオーガニック食材を使い、健康ブームを配慮して甘さはやや控え目であるものの、 しかし上質のショコラーデはたっぷりと贅沢に盛り込んでいる。 加えて、こんなに丁寧に、こんなに一生懸命、こんなに心を込めて作ったトルテなのだ。
「あの舌の肥えた日本にだって、美味いと言わせる出来だぜ。絶対な」
自信満々に言い切るプロイセンに、はいとリヒテンシュタインは頷いた。





7・仕上げのデコレーション

「使う物は、各自の判断に任せる」
しかしこれこそが、トルテ自体を決定付ける要素となることを忘れるな。味覚的にも、視覚的にもだ。
先ず、味覚。ここで選ぶトッピングが、ベースのトルテを無限大に変化させる。 オーソドックスに攻めるもよし、素材を生かすもよし、意外性を求めるもよし、新境地を目指すもよし、 自分の個性を表現する場と心得ろ。
次に、視覚。中身を疎かにしないのは勿論だが、見た目の重要性はあえて言うに及ばず。 特にプレゼントとして作られたともなると、ここで発揮されるセンスこそが、相手に与える印象にも成りかねない。 自己アピールを集結させるつもりで挑め。
ただのデコレーションと甘く見るな。最後まで気を抜くんじゃねえ。諸君の健闘を祈る。
「はいっ」
リヒテンシュタインが用意したのは、粗めに裏漉しして素朴な食感が楽しめる、アプリコットのジャムだった。 初心者らしく、ここは敢えてシンプルなジャムを選んだらしい。悪くないチョイスだ。
「プロイセンさまは、何をお使いになるのですか?」
「ん?俺はこれだな」
手に取った瓶の中身は、自家製のオレンジマーマレード。 たっぷりのブランデーに漬け込んでアルコール分を残した、やや苦みのある大人向けのものだ。
「じゃあ、始めるぞ」
荒熱を取ったスポンジに印を付けて、ブレッドナイフで慎重に横にスライスする。 慣れないリヒテンシュタインは三等分、慣れたプロイセンは四等分。 その断面に、それぞれが準備したジャムを、刷毛を使って丁寧に塗りながら。
「プロイセンさまも、やっぱりこのトルテをプレゼントされるのですか?」
暫しの間を置いて。
「ああ」
「バレンタインのものとして?」
「……まあな」
ぶっきらぼうな返事に、リヒテンシュタインは軽く目を瞠り、じいっとこちらを伺う。横っ面に感じる視線。 なんだこの、続きの言葉を待ってます……と言わんばかりのプレッシャーは。くそっ、ああ、もう。
「多分……お前とおんなじ意味で、だよ」
柄じゃねえのは判っているけれど、でもいい加減、こうでもしなきゃ、あの鈍感爺に通じないだろうからな。
なかなか想いを伝えられないのは、何も内気で奥手な少女だけではない。 気が付いたらタイミングを逃し、ずるずると今の関係を引き摺ってしまった、臆病な不器用者だっているのだ。
そうだよ、笑いたきゃ笑え。今更なのは百も承知、恋愛下手なのはとっくの昔から自覚済みだっての。 つーかなあ、こーゆーのって、タイミングを逃すと、マジ言い難いんだぞ。
うう、と唇を噛締め、ジャムを重ねたトルテを上から抑えると、すっくと姿勢を正す。
「おら、ジャムを塗り終えたら、次に行くぞっ」
「はいっ」
最後はクリームでトルテ全体をコーティングし、仕上げのデコレーションをする。 そのコーティング用にと、それぞれが選んだのは。
「お前は、生クリームを使うのか」
「プロイセンさまは、ショコラーデのクリームですね」
リヒテンシュタインは、フレッシュな真っ白い生クリーム。 対して、プロイセンは湯せんで溶かしたショコラーデと生クリームを混ぜたショコラクリーム。 同じ土台を一緒に作っても、形も、中身も、外見も、随分違うものになりそうだ。
そうだろう。 たとえ、同じ気持ちを持っていても、人によって、接し方や、話す事や、アプローチが変わる。 それと同じく、トルテだって作り手によって変わるのだ。
ふふ、と笑い合い、ちらりと交わす真紅の視線と萌黄の視線。
「よし、競争だな」
どっちが、より綺麗で、よりカッコ良いデコレーションのトルテを作るか。
「はい」
私だって負けません。きりりと見上げるリヒテンシュタインに、にやりとプロイセンは唇の端を吊り上げる。 成程、こいつはおもしれえ。
パレットナイフを握った骨ばって大きな左の拳と、シリコンヘラを握った柔らかく小さな右の拳。 その甲同士を、互いに軽くとんと合わせる。
さあ、戦闘開始だ。





8・そして完成

「出来ましたっ」
「おう、こっちもだ」
出来上がった二つのショコラーデ・トルテを並べ、二人はおお…と目をきらきらさせる。
リヒテンシュタインのトルテは、純白のハート型。 真ん中には、予め用意されていたリボン型のマルチパンが乗せられ、 その周囲にはふんわりと絞り出したホイップが可愛らしくあしらわれていた。
プロイセンのトルテは、ショコラーデ色の丸型。 表面は艶やかさを強調させ、 一か所にだけ花の形に飾り切りされた小さなオレンジピールが乗せられた、 極シンプルでシックなものとなっている。
「よっし。上出来だな」
「はいっ」
俺達、すっげえセンス良いよな。マジ、美味そうに出来たぜ。 はい、素敵なトルテが出来ました。とっても嬉しいです。完成した力作に、満足気に目配せし合う。
「よーし、ヴェストやイタリアちゃんにも見せてやるぜ」
後で、俺様ブログにも載せてやる。携帯電話を取り出し、早速パシャパシャと撮影するその隣で。
「私も、お兄様にお見せます」
同じく、嬉しそうに携帯電話のカメラを構えるリヒテンシュタインに、おいおいと笑う。
「渡す前に、当人に見せちまっていいのかよ」
折角作ったんだし、開けてからのお楽しみにすりゃいいじゃねえか。
ケセセと声を上げるプロイセンに、リヒテンシュタインは瞠目した。 数度瞬きし、そして困ったように、申し訳なさそうに、だけど何処か強い意志を込めて、彼女は首を横に振る。
「このショコラーデ・トルテは、お兄様にお渡しするものではありません」
お兄様へは、日頃の感謝を込めたものとして、また別のものを用意しております。
「へ?」
予想外の言葉に、今度はプロイセンが瞠目する番だった。
えっ?あれ?違うのか? だって、こいつはあいつを慕っていたし、あいつもこいつを可愛がっていた。 だから彼女の作ったトルテの行方を、プロイセンは何の疑いも持たず、確信していた。
じゃあ、このハートのトルテの行く先は何処なんだ?
「相談したお兄様からも、頑張るようにとの応援を頂きました」
だから私、今年は勇気を振り絞るつもりでおります。 そう思って、このショコラーデ・トルテを作りました。敢えて、プロイセンさまにお願いして。
「それに……あの方が教えて下さいましたもの」
小さな手でそっと胸元を抑え、軽く瞼を伏せる。
そう、あの人は教えてくれた。 欧州の皆さんには、ちょっと私の国の神様は理解され難いのかもしれませんが。 そう前置いて、穏やかな口調で、優しい笑顔で、ほんの少しおどけたように。
「この日だけは特別に、勇気の神様が女性に味方するんですよって」
きゅっと唇を噛締めて、そして何処か挑戦的に見つめ返してくるリヒテンシュタインの瞳。 それが何なのか、どういったものなのか。
その真意を探ろうと目を細めた所で、柱の鳩時計が彼女の帰宅時間を告げた。












「今日は、本当にありがとうございました」
「おう。また、いつでも来いよ」
俺様が、きっちり教えてやるぜ。
玄関先にて、プロイセンはリヒテンシュタインを見下ろす。 その白い両の手は、出来上がったトルテが収められたケーキ箱を、とても大切そうに抱えていた。
送っていこうかとのプロイセンの言葉を、彼女は丁寧に辞した。 直ぐ近くですし、まだ明るいので大丈夫ですわ。しっかりとした物言いに、それもそうかと納得する。 小さいとはいえ、こいつも立派な国なのだ。余計な過保護は、あのハリネズミの兄だけで充分だろう。
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
はい。頷いた後、少しだけ首を傾けて。
「私、プロイセンさまを、とても尊敬しております」
強くて、戦術や戦略に長けていて、厳しいけれど、でもとてもお優しくて。 この敬意に偽りはございません。
真っ直ぐ向けられた瞳。そんなリヒテンシュタインからの賛辞に、プロイセンは瞬きを繰り返す。 普段なら高笑いでもして喜ぶべき所であるが、しかしそんな気になれないのは、 彼女の瞳の奥にきらめく、強い意志を読み取ったからだ。
「私、自分が何の力も持たない、無力な小国だと自覚しております」
国力も、経済も、知名度も、生産力も。 兄に守って貰わなければ存在もできなくて、他国を惹きつける強烈な魅力があるとも思えず、 何もかもがあの方に釣り合わないことは、充分に理解しております。
歴史的な接点も見当たらない、互いが互いを必要とするような関係性でもない、 他の諸国や、ましてやあの当時のプロイセンのように、国の在り方に深く影響を与えた訳でもない。
あの方はとても人気がある。様々な面で慕われている。 そんなあの方を取り巻く数多の国々に、ライバルとして認められる事さえ危ういだろう。
でも、それでも……泣き出しそうに下がる眉尻に、ぐっと力を込めて。
「私は、私なりに、頑張ろうと思います」
それを、お伝えしておきたかったのです。
あの方にとても近くて、私自身もとても尊敬している、プロイセンさまには。





そうか。
どうやらこれは、彼女なりの宣戦布告であったらしい。









「……マジかよ」
柔らかな午後の日差しの下。ぴんと姿勢を正した小さな後ろ姿を見送り、無意識に言葉が零れる。 どうやら、予想外のライバルが、こんな所にいたらしい。
漸くそれに気付いたプロイセンは、腰に手を当て溜息を一つ、己の迂闊さにくしゃりと前髪をかき混ぜた。




end.




オフのペーパー用に書いて却下したものをリサイクル
普日でも、日普でも、にょ普でも、もう何でも良いよ
真の意味での強敵は誰かと考えた結果
いろんな所を外している自覚は、常にあります
2012.02.22







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