プロローグ・前日



     京都

 スーツケースをカートに乗せる賑やかな団体、携帯電話を耳に当てるビジネスマン、 久しぶりの再会に笑顔を交す家族、名残惜しそうに指先を絡める恋人達……。
 国際色豊かな人々が行き交う国際空港。 世界へ繋がる玄関口は、一つのスタート地点でもあり、または最終地点でもある。 広々としたロビーでは、出会いと、別れと、通過点を彩る、それぞれのシーンが繰り広げられていた。
 そんな人間模様を目の端に、設置されたベンチに座る菊は、眉を潜めて携帯電話のメールを送信した。 何とか頑張るって、本当に大丈夫なのでしょうか。我が姉ながら、少々おっとりし過ぎているところもありますからね。 大体、姉弟なんですから、心配するなという方が無理ですよ――ふう、と溜息をついたところで。
「ほら、本田」
 目の前に差し出されたのは、デミダスサイズの缶コーヒー。お前、微糖だろ。 わざわざ空港まで付き合ってくれたお礼に、俺様がゴチソウしてやるよ。 ケセセと笑うユールヒェンに、菊はにこりと笑ってそれを受け取った。
「ありがとうございます」
 いただきますね。受け取る菊の隣に腰を落とし、ユールヒェンもプルトップを開ける。 ドイツから日本に留学して間もない頃、見つけた時に驚いたものの一つが、このホットの缶コーヒーだ。 最初は不思議な心地で見ていたが、しかし慣れれば結構美味い。今はかなりのお気に入りになっている。
 香ばしさをのどに通し、二人同時にほっと一息。
「そろそろ到着したかな」
「定刻通りだったみたいですからね」
 そわそわとユールヒェンは天井からぶら下がる、大きな時計を見上げた。 機内から降りて、税関通って、荷物を受け取って……出口の直ぐ傍に待機しているとはいえ、ここまで到着するには時間が掛かるだろう。
「えっと、従妹さん、でしたっけ」
 今回、こちらの日本にいらっしゃるのは。
「おうっ」
 従妹と言っても、子供の頃から親戚間でも特に仲が良くってな。 本当の姉妹みたいに育ったし、あいつも俺の事姉さんって呼ぶんだぜ。
 そんな彼女から、日本旅行に行きたいとの連絡が来た。 聞くと、シーズンオフでかなり格安になった、日本への往復便チケットを見つけたらしい。 久しぶりに会いたいし、学校の連休も重なっているし、それを利用して遊びに行きたいのだがとの相談に、勿論否やはなかった。
「四つ年下っておっしゃっていましたよね」
 こちらで考えれば高校生か。それなのに、一人で海外旅行だなんて。頼れる親戚がこちらにいるとは言え、随分思い切った行動の出来る人ですね。
「あいつは俺様に似て、すっげえしっかりしているからな」
 まあはっきり言って、大好きでカッコいいお姉さまに、どうしても会いたくなったってのが本心だろうよ。 昔っから、結構寂しがり屋で、俺様にべったりだったし、もー、妹っていくつになってもお姉ちゃんに甘えたがるんだよなー。 やれやれと大仰に肩を竦めて見せるが、その割には実に良い笑顔である。
「それに、前々から日本には興味があるって言っていたからな」
 なんでも、日本映画が好きらしい。そこから、文化や、歴史にも、関心を寄せるようになったそうだ。
「でも、あれを全て観光するのは無理ですよ」
 日本観光で、行ってみたいところのリクエストはあるのか。 そんなやりとりに返ってきたというメールに記載されていたのは、トーキョー、アサクサ、アキハバラにフジサン、ヤクシマ、 スノーモンキー、ゲイシャ、ヒロシマ、サクラ、ジンジャ、スシ、ラーメン、テイエン、ユルキャラ……その他諸々と続くリストアップに、流石に見せて貰った菊も苦笑した。
 折角の旅行、気持ちは解るのだが、彼女の連休は五日間。飛行機での往復の移動時間を差し引くと、日本の滞在は三日間となってしまう。 その限られた日数の中、意外に広い日本列島、これだけ巡るのは流石に不可能だ。てか、今の季節、桜は普通に無理ですから。
「でも、お姉ちゃんとしては、可愛い妹の願いは叶えてやりてえじゃねえか」
 それが、頼られているなら尚更に。ちぇっちぇーっとユールヒェンは唇を尖らせた。
 彼女の期待に応えるべく、可能な限りの緻密かつ華麗なる俺様スケジュールを披露したところ、聞いていた菊から待ったが掛かった。 確かに様々な限界に挑戦すれば、かなりの観光地を回ることも可能かも知れないが、それは何かが違いますから。 幸いこの地元はそれなりに有名な観光地でもありますし、範囲をここに絞って、時間に余裕を見て、じっくり回った方が楽しめます、絶対。
 そんなアドバイスの中、気が付けば本田菊監修件コンダクターのツアーが、ナチュラルに誕生する。
 考えてみればユールヒェン自身、折角日本に来ているというのに、あまり観光らしいことはしていなかった。 この機会に、二人で楽しむ算段である。従妹が滞在する三日間、どうやら彼ともずっと一緒にいることになりそうだ。 缶コーヒーを傾ける菊の横顔に、へへっとユールヒェンは笑った。
 ぐいと缶コーヒーを飲み干すと、捨ててきますよ。おお、ダンケ。 空き缶を受け取って立ち上がったところで、あ、と小さく菊は声を上げた。
「もしかすると、この中でしょうか」
 正面のゲートから、ぞろぞろと出てくる人が増えてきた。到着時刻を考えると、この一団の中にいるかも知れない。 身を乗り出し、次々と姿を現す搭乗客達に、ユールヒェンは視線を巡らせる。
 従妹さんはどんな方ですか。えっと、金髪で、目が青くて、俺様に似てすっげえ美人で、可愛くて――居たっ。 咄嗟に口に出たのは、日本語ではなく、母国語であった。がばりと腰を上げる。
「モニカーっ」
 大きく手を振り、駆け出す。真っ直ぐ向かうのは、赤いスーツケースを引く、やや背が高めの、少し大人っぽい少女。 名を呼ばれて顔を上げると、澄んだ空色の視線がユールヒェンを捉えた。姉さん。 答える声。両手を広げ、勢いのままのハグで、二人は再会を確認し合った。
 久しぶりだな。ああ、元気そうだ。お前もな。ちゃんと食べているのか、病気とかはしていないか。 相変わらず心配性だな、お前は。ほら、よく顔を見せてみろよ。
 早口で交される、ドイツ語の会話。抱き合い、頷き、笑顔を交す様子から、二人の仲の良さが如実に伝わってくる。 微笑ましいショットを目の前に、菊はポケットからデジタルカメラを取り出すと、じゃれ合う二人にピントを合わせた。
「本田っ」
 振り返るユールヒェンと同時にこちらに顔を上げる、初めて日本にやって来たドイツ人の女の子。 カシャカシャと連続でシャッターを切る間を置いて、漸く菊はカメラから顔を離した。そして、軽い足取りで、二人の元へと走り寄る。
「失礼しました」
 気になさらないで下さいね。一瞬、不審そうに眉を潜める彼女に、菊はにこりと笑って会釈した。 何処かクールな印象の彼女は、成程親戚というだけあり、何処となく顔立ちが似ている。 四歳年下とは聞いていたが、矢張り日本人に比べると、随分大人びて見えた。
 紹介するぜ。あまり高さの変わらない、彼女の肩をがっしと抱いて。
「こいつが俺様の可愛い従妹、モニカ・バイルシュミットだぜ」





     ケルン

 コーヒーの入った紙カップを手に取ったまま、ギルベルトは片方の眉を吊り上げた。
「はあ?」
 尻上がりの声で反応を返され、自分の慣れないドイツ語が間違っていたのだろうかと、己が発言を振り返る。否、間違ってない。 単語も、文法も、言い回しも。だとすれば、悪かったのは発音か。
 桜は改めて、はっきりとした発音で同じ言葉を繰り返した。だから、えっと。
「火事に遭ったんです。アパート。今朝、早朝に」
 舌足らずながらも明瞭な発声に、カウント三秒、ごふっとギルベルトは、今さっき咽喉に通したはずのコーヒーを吹き出した。
 ゲホゲホとむせて咳き込む様子に、あら大変大変、桜は心配そうにバッグからハンカチを取り出すが、いや待て、心配するのはこっちじゃなくて。 差し出されたハンカチを軽く手で留め、ぐいと袖で口元を拭う。
 ごくりと息を飲み込んで。
「マジで?」
「はい」
 ひょんなことから知り合った日本からの留学生、本田桜の毎日は非常に規則正しい。 週単位の授業が乱れることはなく、ランチタイムに座る席も殆ど似たような場所であり、 特別な約束などせずとも難なく捕まえることが出来た。
 そんな彼女が今日は見当たらない。 講義室へ行っても姿が無く、教室にいた同じ講義を受けている留学生に聞いてみると、どうやら本日は朝から欠席だったらしい。
 真面目なあいつが、理由もなく休むとは考え難い。おいおい、ひょっとして風邪でも引いたのかよ。 優しい俺様が携帯に連絡を取ってみると、今は留学の際に利用したエージェントの事務所にいるらしい。
 ちょっと、いろいろ立て込んでいて。そういえば、朝から何も食べていませんでした。 そんなことを言うから、仕方ねえから超優しい俺様が、お前のランチに付き合ってやるよと、落ち合ったのがこのインビス。 カレーブルストを摘まみながら、おっとりとした声での衝撃の告白に、ギルベルトは目を瞠った。
「お、まえ……」
 がたりと腰を上げて身を乗り出し、やや斜に座った位置からテーブル越しに手を伸ばし、細く折れそうな肩を掴む。 がたがたと揺れるテーブル。きゃ、思わず声を上げる桜を、痛いくらいに真剣な眼差しが覗き込んだ。
「ギ、ギルベルト君?」
「体は? 火傷は? どっか怪我してねえのか? 病院に入ったのか?」
 不思議な色をした虹彩が、頭の上からつま先まで辿る。肩、腕、背中を確認するように手の平でなぞられて、桜はがちりと体を硬直させた。 こちらの無事を確認する為だとは解るが、でも近い、近いです、触られています。そして中途半端な体勢で、ちょっと腰が痛いです。
「だ、大丈夫です、体は。何ともありませんから」
 本当に、だから、あの、ちょっと、すいません、その。 控えめにこちらの腕を抑える手と、小さく消え入りそうな声と、俯いて真っ赤になった顔に、ああとギルベルトも我に返る。
 悪い、つい。いえ、すいません。距離を取り、ぎこちない空気のまま、カフェの椅子に座り直す。 暫し奇妙な間が流れ……って、否、それどころじゃねえよ。
「って、火事って、なんだよ、それっ」
「いえ、あの、火事自体は、大事には至らなかったんです」
 幸いにも、火災自体が小規模でもあり、ドイツの優秀なる消防団の迅速な活躍により、すぐさま消し止められた。 かなり古いアパートであったが、高性能な火災警報器が完備されており、そのおかげもあってアパート住民は皆速やかに避難した。 結局、炎による被害は出火した部屋のみ。怪我人もなく、火災による被害は、最小限に留められたといって良かろう。
 問題は、アパートの住居である。
「私……うっかり、窓を全開にしておりまして」
 昨夜は妙に寝苦しく、窓を開けて眠ってしまったのだ。 その為、出火元の真下に位置していた桜の部屋は、ものの見事に消火剤を浴びてしまう結果になってしまった。
「窓を開けて寝るって……お前なあ」
 一人暮らしで、夜中に、窓を開けっ放しで、寝るって。どんだけ警戒心がねえんだよ。 すげえ田舎でもない限り、普通そんなことしねえぞ。あっぶねえな。 呆れた声に、つい日本の感覚で、消え入りそうな声で肩を竦める。
 現在アパートは、放火の可能性が無いか、警察の現場検証がされている。 何とか最低限の私物こそ持ち出せたものの、鑑定の為にと桜の部屋は入室することもままならない。 年季の入った建物故、強度を含めた安全性の再検査もされることとなり、その結果を待ってからの入居再開になるようだ。
「新しいアパートは、エージェントも一緒に探して下さるそうです」
 ただ、流石に今、直ぐ、見つかる訳ではない。 とりあえず今夜のホテルは決めてくれたものの、新しい入居先が決まるまで、どれぐらいかかるか解らない。 暫くは、ホテル住まいになりそうだ。
「……災難だったな」
 そりゃ、学校も休むよな。
「でも、運が良かったですよね」
 確かに大変な事件であったけれど、怪我もなく、火災も大したものではなかったし、その被害者もいないのだ。 出火元の真下にいたにも関わらず、火災報知機に驚いて避難したので、桜自身直接火を目の当たりにもせず、特別怖い思いもしなかった。 ハプニングではあるが、結果を見れば、幸運と言えよう。
「いや、充分運が悪ぃって」
 ほわほわ笑う桜に、思わずツッコミを入れる。留学中に火事に遭遇してアパートから追い出されるって、どんだけだよ。 何処か抜けてて人の良いこの留学生は、何かにつけてプラス思考が働くらしい。
 はあ、ギルベルトはわざとらしい溜息をついた。あれこれ言いたいことはあるけれど。 とりあえず真っ先に、言ってやりたいことがある。
 むすっと唇を尖らせて。
「なんで、直ぐ、俺様に連絡しねえんだよ」
 そんな大事になっているなら尚更だ。ちゃんと俺に言えよ、頼れよ、相談しろよ。なんだよ、お前は。 最初にやることが違っているじゃねえか。
 じとりと睨み付けてやると、少し瞠目した後、桜は嬉しそうにへらりと笑う。
「そうですね」
 ごめんなさい。ただ、あれから本当に忙しくあれこれが回っていた。 ギルベルトからの連絡が来て、初めて時計を見て、そこで漸くお腹が空いたことを思い出した程だ。
「ギルベルト君にそう言ってもらえて、すごく嬉しいです」
 心配して下さったんですよね、私の事。心配して貰っていたんですね、私。 見るからに嬉しそうに笑う桜に、ちぇっとギルベルトは舌打つ。
「で、ホテル。何処だよ」
「あ、こちらです」
 落とさないようにと財布に入れていたのは、小さなカード。どうやらフロントの置いていた、案内用の名刺らしい。 表にはホテル名と住所と電話番号、裏には簡単な地図が記載されてある。なんだよここ。 今まで住んでいた所よりも、随分不便な場所じゃねえか。
「エージェントに紹介されました」
 現地事務所から近い場所なんです。担当して頂いた方が、凄く親身になって下さって。 もしかすると今夜、時差の関係で遅い時間に日本から連絡が来るかもしれないから、できれば近いほうが良いだろうって。 アパートが見つかるまで、そこに滞在できるかは、まだ判らないんですけど。
 ふうん、軽く頷きカードを返す。ってことは、ひとまず今日は、そのホテルにいたほうが良い訳か。
「じゃ、明日、だな」
 朝、迎えに行くから、直ぐに荷物が移動できるように準備しておけよ。桜ははい? と小首を傾ける。
「だから、俺様の所に来いよ」
 使っていない部屋もあるし、学校にも近いし、絶対こっちの方が良いだろ。 ぱちぱちと瞬きし、そして漸くギルベルトの言わんとすることが伝わった途端、ぴょこんと肩が跳ね上がった。
「え、でも」
 そんな。予想される言葉が出る前に、小さなおでこをぴんと指先で弾く。あいた。
「良いから、黙って俺様のいう事を聞いておけ」
 困ってんだろ。こんな状況になって、戸惑ってんだろ。だったら、変な遠慮なんてしないで、人の好意は有難く受け取れっての。 じゃあ聞くけど、これがもし逆の立場になった誰かがいたら、お前はどう考える?
 デコピンされた額を抑えて言葉に詰まる桜に、にかりとギルベルトは笑った。
「四の五の言わず、てめえは素直に俺様の世話になりやがれ」





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