プロローグ ここは、随分と穏やかな海だ。 海のもの特有の忙しない風こそあれ、波はあくまでも落ち着き、乗船しているフェリーは殆ど揺れを感じない。晴れ渡るとは言い難いものの、薄いヴェールの雲から透けた陽が、心地よい温度を担って降り注いでくる。船のエンジン音に紛れて届く海鳥の鳴き声さえ、何処までも長閑だ。 ギルベルトはデッキの手摺に肘をつきつつそれらを眺めていたが、ふと、潮風に紛れた気配に気付き、顔を上げる。そのタイミングと同時に、客席からの扉が開いた。 手に持っていたスマートフォンを操作しながら、こちらにやってくる弟の姿に、にかりと笑う。 「おう、どうだった」 「ああ、なんとか連絡が取れた」 全くあいつは。顔を厳めしく顰めて、ルートヴィッヒは盛大な溜息をつく。 日本に到着した時点でメール連絡をしたのに、一向に反応が無い。移動しながらの再三の連絡にも返答が無いので、まさかと思いつつ電話をすれば、案の定、今起きた所だと能天気な声が帰ってきた。ちゃんと憶えていたよお。電話口でへらへらと笑っていたが、あれは間違いなく、すっかりきっちり忘れていたのだろう。 その声が脳内で再生され、ケセセと笑いが込み上げる。相変わらず、らしい、よなあ。そんな所も可愛いぜー。あんまりあいつを甘やかさないでくれ。ルートヴィッヒは眉間の皺を深めながら隣に並び、手摺に腕を掛けて溜息をついた。 項垂れた形の良い後頭部を一瞥。この生真面目な弟は、人付き合いが悪い訳でもないのだが、言葉足らずで誤解を与えやすい面がある。ある意味、これだけ気安く言い合いが出来る友人の存在は、お兄ちゃんとしては喜ばしい。振り回されているようにも見えるが、その実、陽気で優しい彼に助けられている面だって充分見受けられた。 なんだかんだと、良いコンビでやってるみてえじゃねえか。によっと口元を綻ばせ、頬杖をつきながら海と空の狭間へと視線を移す。 そんな兄の視線に気付き、脱力した頭を上げると、倣って海の向こうへ視線を遣る。波と、風と、船のエンジンの音。春から初夏へと移行する季節、この国の風は優しく、暖かく、包むような湿度がある。 「なんつーか、不思議な色だよな」 何処までもクリアな地中海とも違う。コントラストの鮮烈な南国とも違う。突き刺すようなモノクロの北国とも違う。ふんわりと霞がかかったような。しかし深みと透明感があるような。始めてきた場所であるはずなのに、どこか懐かしいような。 矛盾しているようで、違和感のない。両極端な筈なのに、両立させている。こんな不思議な海の色を、自分は今まで見たことが無かった。 穏やかで、繊細で、曖昧なまま、何もかもを一緒に混ぜてしまえるような懐の深さを思わせる独特の色彩は、恐らくこの国特有のものだろう。目元を和ませる兄の横顔に、弟はふっと唇を綻ばせた。 「そう言えば、この辺りの気候は、地中海に似ているらしい」 特産品も、オリーブ、レモン等のフルーツ等、微妙に被るものが多いようだ。まあ、そこが今回あいつが参加を決めたポイントにもなっているようだな。イタリアに似ている気候なら、きっと食べ物も美味しいに違いないと。懐かしいような感覚は、もしかするとそこから来ているのかもしれない。 「流石は、フェリシアーノちゃんだぜー」 美味しいモン、好きだもんな。快活に笑う兄の横顔は、慣れない外国に来ているとはいえ、纏わせる空気が随分リラックスしているようだ。もしかするとこの国の醸す、何処までも平和な雰囲気が作用しているのかもしれない。 「でも、優しい色をしている」 「……そうだな」 「来てよかっただろう」 太陽を背に、にかりと笑って頷く。おう、そうだな。 「俺様、ここが気に入ったぜ」 コロッケの引力 到着した港は、この島の大きさに見合って小ぢんまりとしていた。 全体的に朴訥とした風景が広がる中、しかし脇に建てられた案内所のビルだけはまだ新しく、そしてやけに近代的でスタイリッシュだ。違和感を与えるものではないが、のんびりした田舎の風景に、そこだけがどうも目を引き寄せられてしまう。 トラックや自動車、オートバイがフェリーから下船するその脇、一枚ずつ乗船券を受け取る中年の係員に半券を渡すと、二人は漸くコンクリートの地面に足を下ろした。ゆらゆらと頼りない波の感覚ではない、どっしりとした大地の感触にほっと一息。さて、迎えは何処に……そう顔を上げた途端。 「チャオー、ルートー」 「フェリシアーノ」 「フェリシアーノちゃんっ」 勢い良く走って来る見慣れた姿に飛びつかれ、そのままぎゅうとハグされる。 久しぶりー。待ちくたびれたよー。相変わらずのムキムキでありますー。日本は初めてだったっけ? 大丈夫だった? 迷ったりしなかった? でさ、日本のベッラって、すっごく可愛い子が多いと思わない? 大胸筋にぐりぐりと頭をこすりつけられてルートヴィッヒは溜息を一つ、とりあえず痛くない程度にその脳天を拳で叩いた。 「離れろ、馬鹿モン」 これじゃ、まともに挨拶もできないではないか。彫りの深い顔のしかめっ面はなかなか迫力があるが、しかしこれも慣れているのだろう。痛いなあもう、脳天を抑えながら、フェリシアーノは可愛らしく唇を尖らせる。 「元気そうだな、フェリちゃんっ」 「あ、ギルベルトも来たんだ。久しぶりー」 嬉しそうに両手を広げてわくわくとハグ待ちに、フェリシアーノはにこりと天使の笑顔を返した。そのままくるりと背を向けると、ルートヴィッヒの腕をぐいぐいと引く。ほら、こっちこっち。早くおいでよー。 「こら、引っ張るな」 「菊ー、お待たせー」 フェリシアーノがぶんぶんと手を振るそちら。少し離れた場所に佇む姿にルートヴィッヒはおやと顔を上げ、ギルベルトも片目を細める。二人の視線に気付き、ぺこりと頭を下げるのが見えた。 彼……で合っているよな? ルートヴィッヒとギルベルトは心の中で疑問詞を浮かべた。何せ欧州から見れば、アジア人は線が細く、男女の境が酷く曖昧に見えてしまう。彼もすらりとした痩せ型で、小柄で、柔和な笑顔と優しげな顔立ちが性別をぼやかしていた。 引き摺られるようにやってきたルートヴィッヒ、そしてその後ろについてくるギルベルトに、菊と呼ばれた彼はにこやかに会釈する。 「菊の方はもういいの?」 「はい、終わりました」 「じゃ、行こうよ。ほら、乗って乗って」 こっちこっち。腕を組んだまま促すフェリシアーノに、仕方ないな、ルートヴィッヒは呆れた顔をしながらもされるがままだ。 押し込まれたのは、レトロで丸みのあるデザインのコンパクトなワゴンカー。じゃれ合うような二人を微笑ましく眺めつつ、ギルベルトも続いて車に乗り込もうとするのだが、しかしスペースが無い。後部座席にルートヴィッヒとフェリシアーノ、ごく自然の成り行きで、二人が並んで腰を据えたからだ。 「こちらにどうぞ」 流暢とまでは言わないが、しかし聞き取りやすい英語だ。助手席の扉を開ける彼に、おうとギルベルトは顔を上げる。声低い。やっぱ、男だよな。ついまじまじと見つめると、菊と呼ばれた彼は疑問詞を乗せて小首を傾けた。 「あ、いや。ダンケ」 男にエスコートされちまってるぜ。ケセセと笑いつつ、助手席に滑り梱包としたところで、ドアの天井にごちんと頭をぶつけた。日本のコンパクトな車体は、ゲルマンの高身長には少々手狭であったらしい。 「すいません、大丈夫ですかっ」 いや、何故謝る。不注意なのはこちらだろうに。しかし言葉は声にならず、荷物で両手が塞がる中、くーっと中腰で肩を竦めて耐えていると、意外にしっかりと骨のある手が痛む頭を優しく宥めた。 その感触に、ギルベルトは目を丸くする。 きょとんと振り返ると、彼は咄嗟に伸ばした自分の手を慌てて引いた。あ、つい。失礼しました。初対面の、しかも大の大人の男性の頭を撫でるなんて。 「なにをやっているんだ、兄さん」 「ギルベルト、頭大丈夫ー?」 「あ……おう」 「少しの間だけ、我慢して下さいね」 小走りに車の前を回り、運転席に腰を下ろしてシートベルトを締める。腰を落ち着けたギルベルトがシートベルトを締めるのを確認すると、おもちゃのような小さな車がエンジン音を鳴らせた。 ○ こっちだよ。フェリシアーノに案内されたのは、古めかしくも風格のある木造家屋であった。 瓦屋根が敷かれた日本建築のそこは、元は油を生産していた家の倉庫、土蔵と呼ばれる日本の建築物らしい。重みのある扉が僅かに開かれた入り口を潜ると、中はがらんと広く、吹き抜けた天井は高い。屋外との落差で暗闇にしか見えない室内、フェリシアーノは部屋の隅に置いていた照明機器のスイッチを押した。 そこで、ほお、とルートヴィッヒは声を上げる。 梁が剥き出しの天井から無数に吊るされているのは、透明感を帯びたグラスで作られた口広の瓶であった。蓋の内側にはそれぞれ電球が仕込まれているのか、LEDのほわりとした柔らかい光が瓶の中身を浮かび上がらせている。 「これは……ベネチアングラスか」 「うん、イタリアで作ったものを持って来たんだ」 「中に入っている、これは?」 「この島に住む人達の思い出の品なんだー」 コルクで封をされた瓶の中には、セピア色の家族の写真、片方だけ残ったイヤリング、錆びついたブリキのおもちゃ、色褪せた絵葉書、くたくたに使い古した財布、動かない時計……そんな大小様々な「捨てられずに残されていたもの」が閉じ込められている。全て島民からの協力を得て借り、その品に纏わる思い出を記した一言メモと共に封じ込め、天井から吊るして展示をしているのだ。 「壊れものだし、扱いも大変なんだよ」 一応、多少の衝撃には耐えられるようにガラスに厚みは持たせているものの、しかし安全の為、展示中も室内にはスタッフを常在させる予定にはしている。なにかがあった際を考慮し、フェリシアーノ自身も期間中は出来るだけ島に滞在する予定だ。 「来客が触らないように、展示室は一定距離で立ち入り禁止にした方が良くないか」 借り物でもあるのだし、安全性を重視するならそれが妥当であろう。 「もー、ルートは解ってないなあ」 距離を作っちゃ、意味が無いんだよ。この世界の誰かが持っていた小さな思い出を、間近で見て、覗いて、共感して、囲まれて、すれ違って、同じ空間で共有する……それが、この展示の狙いであり、醍醐味なのだ。離れた場所から傍観するのでは意味が無い。 「ならば、壊れない材質を使うべきではないのか」 プラスチックとか、樹脂とか。特に天井から吊るすというのなら、軽い素材の物の方が適していると思うが。 「だからー、それじゃ駄目なんだよ」 此処にあるものは全て、皆の大切な思い出なんだよ。壊れやすくて、キラキラしてて、肌触りだって滑らかなものだけじゃないし、透明だけどちょっと歪だったり、ほんのりカラーのついたフィルター越しに見えたり、思ったよりもずっと重みがあったり。まさにガラスに包まれたような、そんなものばかりなんだから。それを理解してもらう為の展示なのに、壊れない材質で作っちゃ、意味が無いじゃないか。 「む……そうか、成程」 「すげえなー、流石フェリちゃんだぜ」 えっへんと胸を張るフェリシアーノに、ギルベルトは感嘆の声を上げるが、しかしルートヴィッヒは顎に手を当てながら渋面を作った。 「しかし………………間に合うのか?」 現状、天井から吊るされたのはまだ極一部であるようだ。見れば幾つもの瓶が納められた箱が、部屋の隅に並べられ、寄せられている。照明器具も、備品も、どっさりと山積みされたままの状態だ。 「だーかーらー、お前を呼んだんじゃないか」 ルートヴィッヒは顔を顰めた。 扱うものだけに結構繊細な作業だし、力仕事もある。勿論、申請すればボランティアもスタッフも派遣してくれる手筈にはなっていたのだが、しかしその申込期日は何か月も前の話。今から緊急要請をしたとしても、この時期は何処の作品制作者も切羽詰まっており、なかなか手を回せる余裕がないらしい。 はあ、ルートヴィッヒは本日最大の溜息をついて、眉間の皺を指で抑える。急に来いと言われて不思議に思ってはいたが、矢張りな。そんな事だろうと思った。 「ねえ、ルートぉ、助けてよー」 此処にはイタリア語は勿論、英語だって分かってくれる人は限られているんだ。しかもこの時期だけ滞在する外国人の俺に、頼れる友達がこの島にはいないんだよ。ルートだけが頼りなんだ。お願いだよお。 泣きべそ顔になりながらヴェーと声を上げるフェリシアーノに、むう、とルートヴィッヒは腕を組む。そうは言っても、なあ。 「さっきの彼は、どうなんだ?」 港からホテル、そしてここまで自動車で送ってくれただろう。彼は英語を話していたじゃないか。友人じゃないのか。 「あ、菊の事?」 どうやら彼の名前らしい。名乗りもせずに荷物を預ける為にホテルと、そしてこの展示場所まで三人を送ると、そのまま直ぐに去って行ったが、単なるタクシードライバーという感じでもなかった。もしかすると、彼も関係者なのか。 「違うよお」 フェリシアーノはふるふると首を横に振る。 「菊はね、ポチたま食堂のシェフなんだ」 ○ 島には唯一、町と呼ばれる地域がある。とは言え、この僅かな人口の島の中では比較的家屋が集中しているだけ。バス停を中心に、島で唯一のスーパーと幾つかの商店、飲食店、簡素な役所の建物とやや年期を感じる集会所が点在する、そんなささやかな一帯だ。 町の中心を横断する道から一つ隣の筋、島カフェ「ポチたま食堂」はそこにある。 どうやらこちらも、元は民家であったものをリノベーションした建物らしい。木目を生かした外装は、日本風でありながらも何処か北欧風を彷彿とさせる、モダンでシンプルなデザインとなっている。外壁を取り払われた敷地にあるそこは入り口も大きく、開放的で、門前には本日のメニューが記載されたブラックボードイーゼルが立てられていた。 落ち着いたベージュ色のレンガが敷かれたアプローチを通り抜け、大きなガラスの引き戸を開くと、フェリシアーノはカウンターへと手を振る。 「チャオー、きーくー」 清潔感のあるキッチンカウンターから、港で目にした小作りな顔立ちがひょこりと覗いた。こちらを認めると、にこりと笑う。 「いらっしゃい、フェリシアーノ君」 店内には、二人掛けのテーブル席が三つ、中央部に団体及び相席用の大きなテーブル席が一つ、そしてカウンター席が四つ設置されている。外装同様、木目が美しいシンプルなインテリアで統一され、清潔感のある店内は、デザインとしてもなかなか美しい。どうやらこの店のリフォームを手掛けた担当者は、随分と洒落たセンスの持ち主であるようだ。 フェリシアーノは迷うことなくカウンター席に座ると、カウンター向こうへと身を乗り出した。 「今朝はありがとう、助かったよー」 「いえいえ」 実は、港へ歩いて向かうフェリシアーノをたまたま見つけた彼が、同じく港へ向かうからと車の便乗を申し出てくれたらしい。でなければ、とてもじゃないが、船の到着には間に合わなかったようだ。それを聞いた時、ルートヴィッヒは額に手を当てて項垂れてしまった。 で、ついでにホテルまで送ってくれたのか。しかも、そのまま作品の展示場所まで連れていってくれたのか。日本人は外国から来た旅行客に親切だと聞いたことがあったが、来日早々身をもってそれを体感してしまった。 「ねえねえ、今日のランチはなに?」 「コロッケですよ」 「わはー。俺、菊のコロッケ、だーい好き」 親しげに笑顔を交わし合う二人に、とりあえずルートヴィッヒとギルベルトも並んでカウンターに腰を下ろす。いらっしゃいませ、上品に声をかけると、彼は三人の前に綺麗なカットグラスに入ったお冷と、個包装されたウェットペーパーを置いた。 「あ、改めて紹介するね。言ってたでしょ。こっちがルートで、そっちがギルベルト」 今更ながらの大雑把な紹介に、ルートヴィッヒは眉間に皺をよせ、ギルベルトはらしさ余りにケセセと笑って頬杖をついた。 「この店をやっている、本田菊です」 ネイティブではなさそうだが、しかし丁寧な英語だ。 「ルートヴィッヒ・バイルシュミット。こいつの友人だ」 君のことは、フェリシアーノから聞いた。今朝の事といい、いろいろ良くしてくれているようで感謝する。一度席から立ち、生真面目な顔でぎこちなくジャパニーズオジギを見せると、菊は慌てて腰を下ろすように促す。 「いえそんな。フェリシアーノ君とは良いお友達ですから」 こちらこそ、いつもお店を利用して頂いていますし。楽しい方で、お店に来て下さると、女性客も喜んで下さるんですよ。 「ルートさんのことも、よく伺っておりました」 昔からの親友で、ムキムキでお菓子作りがお上手だって。カーナビで失敗した話とか、バレンタインのバラで誤解された話とか。今日遊びに来てくれることも、凄く楽しみにしてられたんですよ。穏やかにそう告げる菊に、ルートヴィッヒは少しはにかみ、じろりと隣に座るフェリシアーノを睨み付けた。 「ギルベルト・バイルシュミットだぜ」 こいつのお兄ちゃんで、んでフェリシアーノちゃんとも仲良しなんだぜー。胸を張って鼻息荒く告げると、菊ははいと穏やかに頷く。なあなあ、フェリちゃんは俺様の事、なんて言っているんだ? その質問には、至極さり気なく視線を外されたが。 「お二人は、アート祭に来られたんですか」 島のアート祭、正式名称は国際島のアート祭だ。 この地域に点在する島々を舞台として、三年に一度開催される、現代アートを中心としたトリエンナーレ形式の国際的なアートイベントである。作品のジャンルは、絵画や造形は勿論、演劇や芸能の公演、音楽コンサートやワークショップ等多岐に渡り、また様々な形で地域と連帯して催されるのが特徴だ。 元々過疎化の進む地域の活性化が目的で開始されたイベントだが、今年で三回目を迎え、年を追うごとに規模も大きくなり、国内だけに留まらず、海外からの観光客も増加し、注目度も非常にも高い。一部作品は通常期でも公開されているが、基本的に四月後半から十月後半までのまでの七か月の期間での開催となっている。 アート祭の開催開始まであと僅かだ。作品に携わるアーティストや関係者は勿論、ボランティアスタッフも、報道関係者もじりじりと島に増え、それぞれの準備に追われている。 そんな時期だけに、ひと足早く到着した観光客かと思っていたのだが。 「いや、俺は明後日には帰国の予定だ」 えっ、そうなの? 驚くフェリシアーノに、だから何度もそう言ったはずだろうがルートヴィッヒは睨み付ける。 今回は、緊急事態だから早く来てとフェリシアーノに呼び出され、無理矢理スケジュールを割いて来ただけだ。ホテルも帰国のフライトも、既に予定通りに抑えている。仕事もあるし、長居はとても出来ない。 「そんなの、聞いてないよ」 言ったじゃん。俺を助けてって。早く来てって。もう直ぐ始まるのに、間に合わなかったらどうするんだよー。 「俺の方こそ、なにも聞いてなかったぞ」 事情も言わずに呼びつけて。急に言われても、こちらだってスケジュールがあるだろうが。お前の無茶ぶりに、いちいち付き合ってられん。 「夏のバカンスにはゆっくり見に来るつもりだから」 「それじゃあ、意味が無いじゃんか」 もー、ルートの意地悪。ぶうぶうと唇を尖らせるフェリシアーノに、ルートヴィッヒを挟んだ向こうから、ギルベルトが身を乗り出す。安心してくれよ、フェリシアーノちゃん。 「ルッツの代わりに、俺様が滞在するぜー」 「え、なんで。いいよ」 だったら俺一人で頑張るから。 あっさりと却下され、見るに判りやすくギルベルトは肩を落とす。それを横目に、ルートヴィッヒはこめかみに手を当てた。 「だから言っただろう」 まず先に確認しろと。それから準備しても遅くはないだろうと。普段は充分慎重なくせに、何故そんなに先走ったのか。 「え、何? どうしたの」 「実は……もう長期滞在用の兄貴の荷物を、こちらに送っているんだ」 ちょっと待ってよ。流石にフェリシアーノが驚き、姿勢を伸ばす。それこそ、そんな話聞いていない。ルートなら兎も角、なんでギルベルト? 「住むところはどうするつもりだったの?」 「フェリちゃんのところに泊めてくれよ」 「やだよ。そんなの駄目に決まっているじゃん」 きっぱりと拒絶され、至極判りやすくショックを受けるギルベルトに、菊は脳裏で「があん」という音を聞き取った。 すんすんと鼻を鳴らせて背中を丸くする、ちょっぴり残念な彼に。 「フェリシアーノ君は、関係者専用の宿泊施設に泊まっているんですよ」 単身者向けの中期滞在用ホテルで、入居にはそれなりの制限があった。その性質上、どうしても関係者が優先的になりがちで、現時点でも問い合わせや予約者が多く、キャンセル待ちでさえかなりの人数になっている。 「仕方ねえな。キャンプグッズを持ってきて良かったぜ」 「止めてくれ、兄さん」 期間中、ずっとキャンプを張って野宿するつもりか。眉間に皺を寄せての遮りに、ぷっぷくぷーとギルベルトは頬を膨らませる。だって、そのつもりで日本に来たんだぜ。どうやら、彼の中では島への長期滞在は覆せないらしい。 三人三様の弱り顔を前に、菊がカウンター越しにトレイを掲げる。 「お待たせしました」 「あれ? 俺達、まだ注文をしてねえけど」 つか、メニューも見てねえよな。 「ウチのメニューはこれだけなんです」 日替わり定食のみの食堂でして。アート祭の時期になったら、もう少し増やす予定ですが。でもご飯とお味噌汁はお代わり自由なので、遠慮なくおっしゃってください。 「随分、手抜きな店だな」 歯を見せて笑うギルベルトの頭上に、隣のルートヴィッヒの拳が落とされた。止めないか兄さん。失礼だぞ。 「すいません。なにぶん、ひとりで切り盛りしているので」 あまりメニューを増やすと、どうしても手が回らなくなってしまうんですよ。 「でもね、菊のご飯はすっごく美味しいんだよ」 俺、毎日ここのランチが楽しみだもん。それに俺だけじゃなくて、兄ちゃんだってそう言っているよ。ガイドブックにも紹介されたことがあるし、リピーターだって多し、ランチの数だって上限があるから早い者勝ちなんだよ。菊のお料理には、優しさと、工夫と、愛情がいっぱい詰まっているんだから。 「フェリシアーノ君にそう言ってもらえると嬉しいですね」 艶やかな木目の美しいプレートには、色とりどりのおかずの入った小鉢が乗せられている。如何にも家庭料理らしいそれらは、ヨーロッパではあまり目にしないものばかりだ。 不思議そうに瞬きする兄弟の隣、フェリシアーノは嬉しそうに箸を手に取る。彼の配慮なのだろう、それぞれのトレイには箸の隣にスプーンとフォークも添えられていた。 「典型的な日本料理ばかりなので、口に合わないものがあるかもしれませんが」 駄目なら残してください。無理はしないで下さいね。初めて食べるであろうドイツ人の二人に気使う菊に、心配ないよ、全然大丈夫だって、ねえルート。何故か全てフェリシアーノが受け応える。 「イタダキマース」 フェリシアーノがぱちんと胸の前で両手を合わせると、そうか、ルートヴィッヒも両手で手を合わせ、生真面目な仕草で頭を下げる。その隣のギルベルトはイタダキマスとひと声、迷った挙句、箸を手に取った。 「あ、これ。俺の大好物だー」 すっごく美味しいんだよ。ほらほら、ルートも食べてみてよ。小鉢に入ったわさび風味のトマトとタコのカルパッチョに、フェリシアーノは舌鼓を打つ。最初にこのカフェに音連れた時に食べたもので、以来彼のお気に入りメニューになっていた。 「……これは、美味いな」 ふむ、感心したようにルートヴィッヒが呟く。彼が口にしたのは、浅葱を散らした温泉卵に出し汁をかけたものである。頼りない程に薄い色の出し汁は、しかし不思議なコクとうま味がしっかりと利いていた。 「ありがとうございます」 そちらはナスとピーマンのみそ炒めです。日本の発酵食品を使っているので、ちょっと独特の風味があります。それは人参と切り干し大根……干した大根の煮付けですが、そちらは醤油……ソイソースで味付けしています。 「これ、うめめーっ」 なんだよ、これ。日本の料理かよ。思わず声を上げるギルベルトに、菊は嬉しそうにふふっと笑った。 「ごぼうのコロッケですよ」 きんぴらごぼうを入れたコロッケです。日本ではポピュラーな家庭料理ですね。しっかり味をつけたのでそのままでも食べられると思いますが、もし物足りなかったらこちらのソースをお使い下さい。島の特産物としてお土産物屋でも販売している、特製のソースなんですよ。 「いや、マジでうめえわ」 なんだよおまえ、どっかの有名ホテルのシェフかなんかだったのかよ。もっもっと頬張りながら真剣なまなざしを向けるギルベルトに、とんでもないと菊は首を横に振った。そんな大袈裟な。全て母親が良く作ってくれたような、極普通の、一般的な家庭料理だ。 「菊のお料理はね、日本のママンの味なんだ」 ヘルシーで、優しくて、何処か懐かしくて、毎日食べても飽きなくて。素敵だよね。まるで暖かくて可愛い、日本の素敵なベッラそのものだよね。 うっとりとした眼差しは非常にイタリア男らしく煌めいているのだが、しかしその口元が小リスのように膨らんでいる。うむ、成程。隣のルートヴィッヒも忙しなくもぐもぐと口を動かしながら、言葉なく頷いていた。 ごくんと咽喉を上下させたギルベルトが、空になった皿を示す。 「もっとくれ。これ」 「コロッケですか? おかずのお代わりは追加料金が発生しますが……」 「おう」 「あー、すまない。その、俺も頂けるだろうか」 「あ、ずるいー、俺も俺もー」 ちょっとお時間頂きますね。そう断りを入れて、菊はコンロの火をつけた。カウンター内をてきぱきと作業する様子を、ふむとルートヴィッヒは感心したように眺める。 「君は、この店を一人で運営しているといったが」 「はい、そうですね」 なので、どうしても何かと時間がかかってしまって。菊は申し訳なさそうに眉尻を下げる。 「そんなの、全然仕方ないよ」 料理も、給仕も、後片付けも、菊が一人でやっているんだから。だからメニューが少ないのは仕方ないし、時間だって貰わなくちゃいけないの。怒った顔をしてみせるフェリシアーノに、いや、そんなつもりじゃなくて、ルートヴィッヒは慌てて首を横に振った。いや、そうじゃない。料理は絶品だし手際も良く、感心したのだ。 「若いのに大したものだと、そう思って」 そう付け加えた途端、しばしの沈黙の後、菊は吹き出しそうになる口元を慌てて抑えた。あははと隣でフェリシアーノも快活に笑う。 「菊はね、俺よりも年上なんだよ」 ギルよりも上で、この中でも一番年長者さん。因みに一番年下なのは、ルート、お前なんだからね。 びしりと指を突き付けられての衝撃の真実に、思わずルートヴィッヒはぽかんと口を開き、カウンター向こうを二度見した。隣に座るギルベルトも、目を丸くする。 「思ったよりもおじさんですいません」 ああ、いや、失礼。己の勘違いにごほんと咳払いをする。ああ、その、あれだ。 「ならば、期間中は大変ではないか?」 聞くところでは、アート祭の期間は、この島にはかなりの観光客が集まるようではないか。特にこちらの料理は本当に美味い。フェリシアーノの話では常連客やリピーターも多いようだし、手際が良いとは言え、たった一人でカフェを運営するのは、相当な労働力であろう。 そうなんですよねえ。じゅう、とフライの音と共に、香ばしい匂いが漂う。 「前回は、島の学生さんがアルバイトに来て下さってましたけど」 とりあえず稼ぎたいと考えているタイプだったので、かなりしっかり入ってくれて、あの時は随分助かったものの、今年は学校を卒業し、都会の大学に行ってしまった。一応アルバイトを募集はしているものの、しかしこの時期は島内のあらゆるショップが同じようにアルバイトの募集をかけており、何処も人手不足になっている。 「条件は悪くないのと思うのですが」 給料は、島内ではまあ平均並み。ただ、どうしても休みや休憩時間が少なくなってしまうのが、ネックになっているのかもしれない。その代わりに賄いがつくのですが、それだけでは最近の若い人には、なかなか難しいのでしょうね。 首を捻りながら、揚げたばかりのあつあつコロッケを乗せた小皿を、それぞれの前に置いてゆく。ちょっとだけ、おまけですよ。ついでに隣に乗せられたウインナーの素揚げは、可愛らしくタコの形に飾り切りされていた。すげえと瞬くギルベルトの横で、ルートヴィッヒは目をキラキラさせて凝視する。 「賄いって……ここで働きゃ、毎日こんな飯が食えんのかよ」 「前のアルバイトさんには、結構好評だったんですけどね」 食べることが好きな子でしたから。結構喜んでくれていましたよ。 「よし」 決めた。ポンと手を叩き、によりと笑ってギルベルトは菊を指差す。 「期間中、俺様がこの食堂を手伝ってやるぜー」 続きは本文をご覧下さい
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