序章・ジパング〜プロイセン王国 伊万里 その里は、離れた山の斜面に造られていた。 独特の特徴のある瓦葺の屋根が所狭しと並ぶ中、所々からぽつぽつと空に伸びるのは、赤茶けた煉瓦の煙突。 全く、不便な場所に作ったものだ。 馬の背からそれらを見上げ、咥えた煙管をぶらぶらと動かす。 海からは遠ざけて、川からも距離を取り、集落からも外れて、守られたというよりは隔離されたような隠れ里。 秘密が漏れないように開発者を軟禁したり、技術を守る為に熟練の職人をはぐれ里に移転させたり。 権力者のやる事は、西も東もどうやら同じであるらしい。 尤も、その背景に関しては、こちらの伺い知る部分では無い。 重要なのは、市場と、その価値。生産や開発云々には興味がない。 彼の思考は、極めてシビアであった。 うだるような夏の暑さの中、漸く見えてきた目的の建物に、彼はほうと息をつく。 大きな梁の目立つ、典型的な地域家屋。横引きの扉を全て取り払った、開放的な作りの作業小屋。 それぞれの職人が、それぞれの作業を勤しむ様子が、ここからも良く見えた。 巡らせた視線が、一点で止まる。 出入り口にて馬を止めると、こちらの顔を知る職人の一人が、あっと声を上げて頭を下げた。 それに軽く手を上げ、よっと馬から降り、薄い畳が敷かれた作業場所へと真っ直ぐ足を進める。 熟練の職人たちに交じり、一角に胡坐をかき、小柄な体躯を丸め、一心に作業に没頭する姿。 その正面で立ち止まり、見下ろすと、気配に小さな頭が上がる。 「ここにおったんか」 口に絵筆を咥えたまま、黒檀色の瞳が眩しげに細まる。軽く上がった唇の端は、笑顔のつもりなのだろう。 千年を超える老国とは思えないあどけなさと無防備さに、思わずふんと鼻を鳴らす。 「なんちゅう格好、しとんじゃ」 キセルをくわえた唇をへの字に曲げ、呆れたようなそれに、ああと首を傾ける。 なにせ、暑い。 開放された建物の中とは言え、人が集まれば、窯から近い場所ともなれば、それなりに熱気が籠るのは当然のこと。 作業に勤しむ職人の中には、褌一枚で動き回る者もいた。 手にあった刷毛を小皿の上に傾け、咥えていた絵筆を外すと、 抱えるように膝の上に乗せていた素焼きの大皿を傍らに置く。 剥き出しにしていた脛を裾の内に仕舞い、半肩をはだけていた薄物の着物の襟元を正し、 そうしてぴんと姿勢を正せば、途端に慎ましやかに見えるようになるから不思議だ。 「失礼しました」 こちらにいらっしゃっていたんですね。少々、没頭しておりました。 「おまが描いたんか」 「はい」 ほんの、手すさびですが。照れくさそうに笑いながら、横に置いた大皿へ視線を落とす。 大皿の中心、描かれてたのは花鳥の文だ。 やや右寄りに曲がった枝ぶりの梅の木、飛び交う二羽の千鳥、その周りには波紋、亀甲、唐草が、 ぐるりと取り囲むようにして縁取られている。 少し前までは藍一色でしか無かった図柄も、今は赤、黄、緑と、随分華やかな色味を増していた。 「器用なもんやざ」 最初は、隣国の見様見真似でしかなかった。 手法も、形も、デザインも。 しかし、模擬でしかなかったそれが、気が付けば改良され、研究され、発展し、熟練され、工夫され、 いつの間にやら似て異なるジャンルへと昇華を遂げていた。 後追いをしていた技術であった筈なのに、今や逆にオリジナルの国こそが、 彼らの意匠を模擬する要望を受ける程である。 「お褒めにあずかりまして」 てれてれとした笑顔には、妙な初々しささえある。本当に爺なのだろうか。 広い大陸をぐるりと回り、それなりに様々な国を見ているが、こんな国はそうそう見当たらない。 全く以って、変な国である。 煙管を手に取り、もう一方の手で懐を探り。 「これ、もってきた」 以前言っていた本やざ。おま、みたいみたい言うとったやろ。 無造作に取り出すと、とん、とその頭の上に乗せてやる。 きょとんとそれに手を伸ばし、そっと両手に取って目の高さまで持ってくると、あっと日本は声を上げた。 「これっ。これって、あれですよねっ」 海を越えた遠くには、ここよりも遥かに進んだ国があると聞いている。 そこで研究された、我が国よりも理論的で、合理的で、実質的な、医学技術。 学術の為に、タブーに挑んだ人体の解体書。 「すごい、すごいですっ。ありがとうございますっ」 こんな研究が成され、医学に貢献する書物を出版できるなんて。本当に、素晴らしい事です。 もっともっと、私は貴方から学ばなくてはいけません。 「流石は、蘭学、ですね」 興奮に上気した世間知らずの幼顔を、表情を変えないまま見下ろす。蘭学――ねえ。 単なる近隣国が発行した本の翻訳本ではあるのだが、しかしそこで、敢えて訂正を入れることもしない。 言った所でこの老国、頑固な老人そのままに、 一度刷り込みをした思い込みをなかなか修正しないのは目に見えている。 まず、とりあえず。 「はよ、茶、いれま」 ここは暑くてかなわん。ぱたぱたと手団扇を仰ぐオランダに、日本ははい、と大きく頷いた。 ポツダム 広間の壁面にある豪華なマントルピース。 ロココ趣味溢れる装飾が施されたその上には、シノワズリの磁器が鎮座していた。 柔らかな藍色で染め付けた対の壷を左右対称に、異国の民族衣装を着た人形、口がすんなりと伸びた瓶、 受け皿のついた持ち手の無い蓋付きカップ、手の平サイズの蓋付き小物入れ。 等間隔に並んだその上に掛けられた、独特の色彩を帯びた色鮮やかな大皿……。 「お、小鳥」 紅の花を綻ばせる、奇妙に曲がった枝ぶりの木。 横に伸びた枝に一羽、そして羽根をはばたかせ今まさに降り立とうとするもう一羽。 躍動感のある、しかし丸みのある身体が可愛らしい小鳥が二羽、 実にシンプルな筆のラインによって表現されている。 なんだよ、この大皿はなかなか俺様好みじゃねえか。 腰に手を当ててによによと眺めていると、小さな音と共に扉が開いた。 「すまない、待たせたね」 入室してきた我らが大王に、よおと笑って振り返る。 どうだった。おう、ばっちりだぜ。例の町から引き抜いた、選りすぐりの職人達だ。 鉱山と窯さえ整える事が出来れば、こっちでも量産に漕ぎ着けるとさ。 ザクセンの強健野郎だけに、独占させてたまるかっての。 頼もしいな。王立として創業するつもりだ、品質を上げる為には出資を惜しまないと伝えてくれ。 満足な報告に頷きながら、王は彼の隣に並ぶ。 そして、同じく壁に掛けられていた大皿へと視線を向けた。 艶を帯びた美しき東洋の宝。王侯貴族がこぞって求めた白い金。憧れのその技術が、漸く手に入るのだ。 うっそりと王は目を細める。 そんな横顔をちらりと眺め。 「熱を入れ込むのも、程々にしてくれよ」 何せこの東洋からもたらされた貴重なポーセリン、蒐集に異常な情熱を傾ける王侯貴族は少なくない。 欧州に広まったシノワズリのブームは未だとどまるところを知らず、 特にチャイナと呼ばれる東洋磁器は、権力者達がこぞって買い求めていた。 東洋磁器と引き換えに自分の軍隊を売り、その結果、 弱体化した自国を売ったその国に攻め込まれた王さえいたのだから笑えない……否、笑えるのか。 何せ、そうやって他国を攻め込み、軍と引き換えに売った筈の東洋磁器を取り戻した張本人は、 他ならぬ自分達であるのだから。 「それだけ、魅力があるものだからね」 金銀宝石と同等の価値があるのだ。 自国生産が可能になれば、産業や経済効果は勿論、外交にさえ使えるだろう。 満足気に言い切る王の言葉に、にんまりと唇の端を吊り上げる。 「あのいけすかねえ坊ちゃんを、羨ましがらせてやるぜー」 んでもって、あの生意気な女共々、俺様の凄さを思い知らせてやる。 ケセセと声を上げる彼に、くすりと王は笑う。 「オーストリアの女王は、ジャパンの方がお好みのようだがね」 「ジャパン?」 「漆器だよ」 アジアにしか生息しない植物の樹脂で作られたもので、あちらもまた不思議な魅力がある。 彼女にとっては宝石よりも魅力があるらしく、シャルロッテンブルグの磁器室のごとく、 居城の一室に漆器専用の部屋を作らせた程であるらしい。 「チャイナがそうであるように、ジャパンは日本という国で作られているそうだ」 海の遥か向こう、中国よりも遠く、東の一番端には、 黄金の国とも、太陽の昇る国とも言われる、不思議な国があるらしい。 そこで作られる磁器は、中国のように大量生産をされておらず、しかし色彩豊かで優れた意匠も多く、 オランダのみが専売で交易をしているので、日本からの輸出品は特に貴重品だ。 「その大皿も、日本から輸入されたものだよ」 観てごらん。中国のものとは確かに似ているけれど、よく比べると微妙な違いがある。 複雑な形状の磁器作成の際、中国製は幾つかの部位を組み合わせて成形するのでその継ぎ目があるが、 日本製はその継ぎ目が全く無かったり。 同じ藍色の染付でも、発色がふわりと柔らかかったり。景徳鎮にありがちな、縁の剥離が見られなかったり。 似ていると取られがちなデザインの趣向も、微妙に異なっていたり。 元々、最初に磁器を作ったのは中国で、日本はその技術を真似て作成されていた。 しかし、価格が安くて生産力のある中国製に対抗する為、 意匠に力を入れたり、欧州の好みに合わせた金襴手を作ったりと、工夫を凝らすようになった。 その結果、独自技術が向上し、最近では日本のような磁器を作るように、欧州側が中国に依頼する程までになる。 宮廷趣味をも併せ持つこの王は、芸術に対しても趣旨が深い。とくとくと語る様子に、片方の眉を吊り上げて。 「でも、どっちも、インディア、だろ」 インドの方角のもの……その意味合いを込めて、東洋は一括で称されることが多かった。 アジアの国は余りにも遠過ぎて、こちらからすれば何処も同じにようにしか見えない。 その通りだけどねと王は笑う。確かにこちらから見れば、インドも、チャイナも、似たようなものだ。 国も、言語も、人種も、文化も、美術も、区別がつかない。 「しかし、彼らから見れば、私達も似たようなものかもしれないね」 こちらが彼らを区別できないように、私達がフランスやイギリスと同じに見えても不思議じゃない。 その例えに、あからさまにげっと顔を潜める。いやいやいや、流石にそれはねえだろ。 この俺様が変態や眉毛と一緒とか、冗談じゃねえ。心底嫌そうに眉間に皺を寄せると、王は快活に笑った。 ちぇっと唇を尖らせる。 「まあ、模擬がオリジナルを越えた、良い例だよ」 私達もそれを見習って、今回の取り組みに挑まなくてはいけないね。 中国を越えたチャイナを。日本を越えたイマリを。 東洋に負けない、欧州一のポーセリンを作り出す為に。 意欲的な眼差しで大皿を見上げるフリードリヒ王に、プロイセンはおうと大きく頷いた。 ギル桜サイド・一部抜粋 マイセン一 「シノワズリと呼ばれる東洋趣味は、非常に人気がありました」 海を隔ててもたらされた東洋からの輸入品は、当時の人々の目には、さぞかし神秘的なものに映ったのでしょう。 その中でも特に、異国情緒溢れる東洋磁器は、非常に好まれました。 それらは白い金とも称され、高値で売買され、まるでその数を競うかのように、 当時の貴族はコレクションに情熱を傾けるようになったのです。 「そして、その魅力に見せられた一人の王が、自家製造へと乗り出しました」 ああ、隣に並び歩く彼女は軽く頷く。そのくだりは、ここに来る前に読んだ書物で目にしている。 「確か……アスグウト強健王、でしたでしょうか」 どこか嬉しそうに彼女が告げたその名前に、案内をしていた工場長は目を丸くした。 そして、吹き出しそうになる笑いを抑えながら。 「いえ、アウグスト・ストロング王です。ア、ウ、グ、ス、ト」 頭の中でその名を数回リフレインさせて、暫しの間。 漸くその違いを悟ると、あっと彼女は両手で自らの口を押さえた。 「失礼しました」 お恥ずかしい。聞きかじりの知識で、賢しらに、無知を曝してしまって。 似てはいるけど微妙に残念な間違いに、耳まで真っ赤に火照らせる。 言い訳がましいが、異国の名前は覚え難い。 身を縮こまらせ、恥じ入りながら俯く彼女に、工場長は朗らかに笑いながら首を横に振った。 「よく御存知ですね」 フロイラインは、とても勉強家でいらっしゃるようだ。失礼ながら、私は貴国の王の名を誰ひとり知りません。 こちらの歴史に興味を抱いて下さっていたとは、とても嬉しく思います。 工場長は穏やかに目を細めた。 「王は、錬金術師を雇い入れ、磁器研究に専念させました」 元よりこの小さな町は、都市からも離れ、大きな川もあり、自然の要塞に守られている。 堅牢な城は、警備が容易で、輸送するにも、機密を守るにも、非常に適した場所だと判断されたのだ。 若き錬金術師は試行錯誤を繰り返し、苦労の末に、漸く欧州で初めての磁器の完成を果たす。 しかし、その秘密を他に漏らさぬようにと、王は錬金術師を軟禁した。 そのストレスで酒浸りとなった彼は、若くしてその生涯を閉じてしまった。 現在は麓に工場を移転させているが、百五十年に渡って城は工場として利用され続けていたのである。 「工房は、全てそれぞれの専門に分かれております」 角を折れると、小さな扉が幾つも連なる廊下へと続いていた。 その一つを開き、どうぞ、彼女を中へと誘う。 入室した部屋は、ゆったりとした広さがあった。 壁際に並んだ簡素な棚には、大小様々な形の素焼きの陶器が並んでいる。 そして大きな作業台には、それぞれの作業に勤しむマイスター達が腰を下ろしていた。 彼らは入室者達にちらと視線を向けるが、直ぐに手元へと意識を集中させる。 見学者は珍しくない。特に現在、繁盛に東洋から来る客人は、今の彼らにとって特別では無かった。 「作業は各分野ごとに、専門の熟練者が従事しております」 成形、絵付け、焼成、彼らは皆、それぞれに熟練した職人であり、選りすぐりのエリートでもあります。 彼らの卓越した技術が、欧州随一と言われるこの町の磁器産業を支えているのです。 どうやらここは絵付け作業場であるらしい。 使い込まれた作業台へ向かう面々は、男性女性含め、比較的年齢幅も広い人材が見受けられる。 細い絵筆を繊細に操る様は、何処か洗練されていて、彼女は実に興味深そうに漆黒色の眼差しを瞬かせた。 「こちらをご覧下さい」 工場長は壁際の棚に置かれてあった、絵付けの施された素焼きのディナー皿を取り出した。 隣に並び、それを覗き込むと、まあと彼女は声を上げ、くるりとその黒目がちの瞳を瞬かせる。 施された文様は、明らかに西洋食器のものとは毛色が違っていた。 立体的な薔薇の花でも無く、豪華なレースでも無く、優雅なブーケでも無い。 そこに描かれていたのは、すらりと伸びた長い身体に鱗も繊細な、水神の象徴である龍の姿であった。 「こちらは、インディア部門の作品です」 インディア? 首を傾げる彼女に、インドの方から来た……という意味ですと注釈を付け加える。 そうだろう、この模様は明らかにインドでは無い。日本、もしくは中国の流れを汲むものだ。 しかし昔の人々は、中国や日本、東洋をひとくくりに捉え、 東方から来たものは全て「インディア(インドの方)」と称していた。 「先に説明したように、欧州磁器は、東洋磁器の模造から始まりました」 なので最初は、その構造、形、絵付けなど、東洋磁器を見本とし、制作されていた。 その流れは消える事無く、インディアという部門として残され、 今も敬意を込めてシノワズリ磁器が継続して制作されている。 「よろしければ、過去作品ご覧になりますか」 資料室には、それぞれ主だった作品が、この工房の歴史として大切に保管されている。 勿論、その中にはインディア部門の作品も多数収められていた。 「是非」 「では、こちらへ」 資料室は隣の棟になりまして、磁器美術館としても運営しております。 促され、大きな背中の後に続いて戸口へと向かう。その耳に、きい、と軋む音が届いた。 それに引かれるように、何気なく彼女はそちらへと視線を向ける。 瞬間、色彩が消えた気がした。 この作業室の戸口は一つではなく、同じ面の向こうにも、同形の扉が設置されている。 その扉が開き、入室したのは、すらりとした体格の青年だった。 差し込む日差しに陰影を縁取られた横顔が、まるで磁器でのように白く、削ぎ落とされたように無駄が無い。 一流の職人によって作り上げられたような端正な美しさは、いっそ無機質感さえあり、 まるで等身大のビスクドールを見ているような錯覚さえ覚える。 色彩が消えたように感じたのは、彼の纏う色彩が、あまりに薄かったからだろう。 欧州の人々は得てして日本人よりも肌も髪も色彩が薄いのだが、それ以上に彼の色素は淡いのだ。 白磁の肌も、銀ともおぼしき髪も、軽く伏せられた長い睫毛も。 だけどそんな中、こちらに向けられたその瞳だけが――。 「フロイライン?」 びくりと肩が跳ねた。振り返ると、少し離れた場所から、不思議そうに工場長がこちらを伺っている。 如何されましたか? 問いかける視線に、いいえと首を横に振る。 慌ててそちらへと足を進め、戸口を通り抜けた所で、丁寧な手つきで工場長は開いていたドアを引いた。 きいと小さな音を立てる、やや厚みのある扉。それが閉じ切る寸前、そっと彼女は振り返る。 細い隙間から見える部屋の向こう側に、すいと横切る人の影が映る。 刹那。 柘榴色の瞳と、視線が重なったような気がした。 菊ユールサイド・一部抜粋 ドレスデン二 手紙だけのやりとりから、先入観を持つべきではないと思っていた。 禿のおっさんだろうと、出っ歯のデブだろうと、棺桶に片足突っ込んだヨボヨボの爺さんだろうと、 彼の研究者としての真摯な姿勢には変わりがないと。 そう、先入観は持つべきでは無かった。 「お、まえが……キク・ホンダか?」 「貴方が……ユールヒェン・バイルシュミット女史?」 同時に扉を開けた、あちらとこちら。出逢い頭にかち合ったお互いに、暫し驚いた顔のまま見つめ合う。 視線の高さがほぼ変わらない程の小柄で、やや線の細い身体。 見た目にもさらさらとした、見事な艶のある絹糸のような黒髪。 東洋系独特の彫りの浅い目鼻立ちと、しかし丸みのある柔らかな頬の輪郭。 女……じゃねえよな? 甚だ失礼とは思いつつ、思わずユールヒェンの第一印象はそれだった。 こっちが勝手に勘違いしていただけで、実際は女性研究員だったとか。 日本人の名前なんて、それが男のものか、女のものか、判別できねえよ。 そうなりゃ、シュタージにスパイ容疑で捕まるのこっちじゃねえか。 いやいや、事前の連絡では、日本人男性一名の入国だと聞いているし。 それにしても。いや、しかし。でも、まさか――。 「まさか、こんなお若い方だったなんて……」 外見に反して低い声は、紛れも無く男性のもの。声変わりを終えた年齢に間違いはないようで、内心ほっとする。 焦点が掴み難い黒目がちの瞳を、ぽかんと驚愕に瞠ったまま零れた言葉は無意識であったらしい。 日本語でのそれが理解できず、思わず目を潜めたこちらに、彼ははっと我に帰ると、 慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。 いえ、違います、すいません、失礼しました。決して、女性差別的な意味では無くて、単純に驚いてしまって。 聞き取り難いドイツ語は、慣れていないのが良く判るイントネーションの悪さである。 否、落ち着け。無理にドイツ語を使わなくても、英語でも判るから。 ゆっくりとそう告げると、彼はもう一度すいませんと詫びの言葉を告げる。 「あの、バイルシュミットさんは、美術館の館長だと伺っていたので」 我が国では、博物館などの責任者を任されるのは、比較的経験豊富な年長者が多いのです。 それで、偏った勘違いをしてしまいました。恐れ入ります、すいません。 ややぎこちないドイツ語での弁明に、ああと軽く頷く。 どうやら、先入観を持っていたのは、こちらだけではなかったようだ。 それが可笑しくて、ぷすっとユールヒェンは吹き出す。 「こっちでは、東洋磁器の研究員が少ないんだ」 元より、あまりメジャーな学部では無く、この国は即金を望めない学問に力を注ぐことはしない。 「それに、先代の館長が西に亡命したばっかりでな」 良い研究者だったのだが、だからこそこの国の学問の在り方に見切りをつけたのだろう。 その上、彼には奥方と幼い子供が二人いた。この国では、考古学の研究のみでの生活は難しい。 繰り上がるようにまだ年若いユールヒェンに館長の任が下ったのは、 つまり、それだけ軽視された学問であることを示している。 その話に、ふと菊は眉根を寄せた。 複雑そうに視線を凝らすと、改めて姿勢を正し、ぺこりとユールヒェンに頭を下げる。 見慣れない不思議な仕草に瞬きすると、真摯な眼差しがこちらに向けられる。 「失礼しました」 「謝るなよ。それに、こっちもお互い様だ」 受取った手紙の落ち着きの感じる文面や、やや古風な言い回しから、 もっと年齢層の高い、年配の研究者かと勝手に思い込んでいたぜ。 そう言うと、菊は照れたように苦笑した。 ドイツ語の作文は、日本で出版されているドイツ文学を参考にしていたからでしょう。 ああ成程、納得した。 「とりあえず……ああ、ホテルに行くか」 日本と東ドイツに正式な国交は無く、入国に関して外務省は全く取り合わなかったと聞いている。 結局、複数国の民間業者を掛け持ち、随分回りくどいルートを使ってここまでやって来たらしい。 ひとまず今日はゆっくりと体を休めて……促すユールヒェンに、いえ、お気遣いなく。 彼は恐縮したように、ぶんぶんと首を振った。 「それよりも。早速ですが、是非美術館を拝見させて頂きたいのですが」 身を乗り出し、拳に力を込め、頬はやや興奮に赤くなり、暗い印象の瞳は妙にきらきらしてる。 ああ、そうか。こいつは、この為だけに、ここまでやって来たんだよな。 思わず唇を吊り上げると、彼は己の様子に気が付いていないのだろう、不思議そうに瞬いた。 いや、悪い。ユールヒェンは首を振り。 「それじゃあ、美術館に案内するぜ」 お前の目当てのものを見せてやるよ。にっと笑うと、彼は勢い付いて大きく頷いた。 続きは本文をご覧下さい
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