アーモンド



 スーツに腕を通しながら、寝癖を撫でつける。鞄を手に取りながら、ぱたぱたと廊下を駆ける。玄関で忙しなく靴を履きながら、手首の時計を確認する。うわ、もうこんな時間じゃないですか。
 日本は後ろを振り返った。
「じゃ、後はよろしくお願いします。プロイセン君っ」
 ぽちくんとたまさんをお願いします。取り入れた洗濯物は、応接間にそのまま置いて下さってて結構です。お昼ご飯は冷蔵庫に昨日の炊き込みご飯と、筑前煮が残っていますから。今日は早めに帰ると思いますが、もし遅くなるようならメールしますね。それから、ネット注文した荷物が来る予定なので。あ、代引きなので。お財布は台所の棚の引き出しに入っています。
「おう、分かってるって」
 玄関まで見送りにやってきたプロイセンは、抱きかかえていたたまを足元に下ろす。
 つか、お前こそ忘れ物はねえのか。昨日のデータファイルは持ったか。ハンカチは? 携帯は? 見下ろす元師匠に、日本は改めて見回した。鞄、ポケット、大丈夫、大丈夫、全部持っている。
「おら、ネクタイ曲がってんぞ」
 少し身を屈め、ネクタイの結びを丁寧に整えてやる。
「あ、ありがとうございま……す」
 自然、近付いた顔の距離に、日本は思わず身を固くした。ほんのりと染まる頬の色。寄る辺のない視線は、うろうろと逡巡し、結局斜め向こうへとそっぽを向いたような位置に落ち着く。ちらと視線を上げたプロイセンは、そんな日本に瞬きし、優しく目を細める。そしてによっと、口の端を吊り上げた。
 突然、わしゃわしゃとその髪を撫で回す。相変わらず、俺様好みの触り心地だぜ。
「ちょ、止めて下さい。プロイセン君っ」
 これから出かけるのに、くしゃくしゃになるじゃないですか。もうっ。手を払い、唇を尖らせて手櫛で梳く。しかしほんのりと赤くなった顔を、プロイセンは見逃さない。
「ダンナサマ、イッテラッシャイマセ、だっけ」
 は? ぽかんと視線を戻すと、間近から覗き込むプロイセンの真紅の瞳が、悪戯っぽく笑った。
「俺様、チョー良妻賢母だからな」
 家事をこなして、留守を守って、家を出る旦那を玄関先まで見送って。すげえ、完璧じゃねえか。前に一緒に観た日本のテレビで、こんなシーンあったよな。
「オクサマに、行ってきますのチューは? ダンナサマ」
 片目を閉じて、わざとらしく唇を突き出すプロイセンに、日本はかあっと顔を赤くする。
「なに言ってんですか、もうっ」
 あれ、バラエティのお笑いコントだったでしょうが。変な事ばっかり覚えているんですから。むぎゅっとプロイセンの顔を押し戻し、ぽこぽこと頭から湯気を出す。
「大体、事前に連絡下されば、ちゃんとお休みも取ったんですよ」
 わざわざドイツから来て下さるのは嬉しいが、それでも一言、メールででも構わないからひと声欲しい。そうすれば、こちらとしてもそれなりに準備することができるのに。
「俺が来る度に、いちいち休める訳でもねえだろうが」
 それはそうですが、と言葉を詰まらせる。
 なにせ、プロイセンの訪日はかなり多い。既に引退という身の彼は、ふらりとやって来たと思えば、そのまま一ヶ月、二か月と滞在することも珍しくない。当然ながら、現役国家でありワーカーホリックで名高い日本が、それに合わせて休暇を取れるとも思えない。
「でも……前に、観光に行きたい場所があるって言ってたでしょう」
 折角だし、お休みをとって、そこにご案内したいなって思っていたんですよ。 それに、食べたいって言っていたものとか、召し上がって頂きたかったものもあったから、来日に合わせてお取り寄せするつもりでしたし。仕事だって、それ相応にペース配分しておけば、内容によっては多少の日をずらしてもらったりとかも出来ますし。それから、それから。
「別に良いんだよ」
 勿論一緒に居られるのは嬉しいが、プロイセンとしては日本にオモテナシをされたい訳ではない。求めているのは、そうじゃない。
 確かに、遊びに行ったり、楽しんだり、二人の特別な時間を過ごしたいとは思う。しかし一番欲しいのは、そこにある日常を、ごく普通に、ごく当たり前に、ごく自然に、傍にいて、笑顔を交わして、自然体で共有できるような、無ければ物足りなくなるほどの、そんな時間なのだ。
「お前に会いたくて、来ただけだしな」
 俺様相手に、んな気ぃ使ってんじゃねえよ。んなの、今更だろ、今更。
 腕を組んで笑い飛ばすと、日本は赤い顔のまま疑問詞を浮かべる。そんな顔に、心の中でほくそ笑む。お前はそうやって、あれこれ思い悩んでおけ。そして早く、俺様が傍にいるのが普通で、俺様と一緒なのが当然で、俺様の気配がなければ物足りなくて、俺様が見えなければ寂しくなるぐらいになればいい。
「それって、あの……どういう意味……」
「どういう意味だろうな」
 亡国とは言え、元軍国。戦略を練ることには長けている。どれだけ時間をかけようが、どんなに手間をかけようが、自分が欲しいものを手に入れる為の努力は惜しまない。
「手、出せ」
 言われるままに、ひょいと手を出す。握手をするような角度のそれに、そうじゃなくてこっち。手首を取って、掌を仰向かせると、羽織っていたパーカーのポケットから取り出したものを、その上に乗せてやる。
 銀紙の両端をくるりと捩じった、キャンディ包装のそれがひと握り。なんだろう、飴? 一つ指先で摘まむと。
「チョコレートだ」
 疲れたら、それ食っとけ。昔は欧州では、カカオは薬と同じ扱いだったんだ。適度な糖分は、リラックス効果を得られる。アーモンドは脳の活性化を促して、集中力を高める働きもするんだぜ。
 成程。どうやら、アーモンドチョコレートらしい。これは、良い気分転換とおやつになりそうだ。
「ありがとうございます」
 ふふっと笑い、ひとまずポケットの中に収める。
「では、行ってきますね」
 お留守番、よろしくお願いします。ぺこりと笑って踵を返そうとしたところで。
「おい、忘れもの」
「えっ?」
 不意を突かれて見上げたところで、プロイセンの手が撫でつけるように日本の前髪をかき上げた。露わになった額。一段高い上がり框からごく自然に屈むと、きょとんとしたまま無防備なそこに、プロイセンはちゅっと唇を落とした。
 優しい感触に、呆気にとられる。
 近い距離から覗き込む真紅の瞳が、してやったりと弓形にしなる。停止した思考がゆっくりと何をされたのかを理解するのと同じ速度で、ぽかんとした小さな顔が、じわじわと耳まで赤くなっていく。馬鹿め。隙あり、だ。
「プロ、イセンくっ……なに、を……っ」
 ぱくぱくと庭の鯉みたいに口を動かす日本に、ぷすっとプロイセンは笑った。
「変な顔」
「だっ、誰の所為ですかっ」
「俺様?」
 ぽこぽこと頭から湯気を出して肩を怒らせる日本に、プロイセンはふふんと腰に手を当てて唇を吊り上げる。
「爺をからかわないで下さいっ」
「からかってねえって」
 からかうつもりはねえよ。
 そう告げる声が思いの外優しくて、日本は一瞬毒気を抜かれた。真っ直ぐにこちらを見下ろす、グラデーションの瞳に射抜かれる。なーんてな……って、言って下さい。早く言って下さい。でないと、馬鹿で、愚かで、単純な私は期待してしまうじゃないですか。
「よーし、行って来い」
 ほら。急がねえと、遅れるんだろ。ほら、と靴箱の上の時計を顎で示され、指し示す時間にわっと日本は声を上げる。これは、いけない。
「ちょ、い、行ってきますっ」
 のんびりしている場合じゃなかった。鞄を持ち直し、慌てて玄関扉を横に開く。そのまま駆け出す後ろ姿に、プロイセンはひらひらと手を振った。
「おーう。仕事、頑張れよ」
 そして時々さっきの俺様を思い出して、精々一日悶えやがれ。

     ○

 全く、あの人は。
 家を出て、電車の中、仕事中、ふとした瞬間、幾度となくぽわぽわと浮かんでは消えるのは、今朝のプロイセンとのやりとりだ。その度に、むずむずして、顔が熱くなって、叫び出したい衝動に駆られる。
 あの人、絶対からかって遊んでいます。欧米人と違って、こちらはあんな接触とかスキンシップに慣れていないから、反応を見て楽しんでいるんですよ。きっと今頃は悪戯成功だって、笑っているんです。ええ、そうです、そうに決まっています。だって、そう思わないと。
「期待してしまうじゃないですか……」
 馬鹿師匠。どうしてあの時、「なーんてな」って、笑い飛ばしてくれなかったんですか。
 開国したあの時代に出会った彼は、日本に強い衝撃を与えた。素晴らしい文化、整えられた制度、崇高な思想……もろもろのそれらは、今も日本の深い部分に刻み付けられている。憧れがやがて形を変え、困った病として患ってから、実は結構な時間が経っている。
 日本は今の関係に満足している。激動の時代を振り返ると、この平和は夢のような時間なのだ。これ以上を望むのは贅沢であろう。しかし当のプロイセンは、こうして現れては、戯れのように日本の心をかき乱す。良いんですか? 本当にそんな事ばかりしていると、虎の子を起こすことになるんですよ。
 ――駄目だ。振り返ると、あれからずっと、プロイセンの事ばかり考えている。いい歳した爺が、全くどこの乙女なんだか。熱くなる頬に手を当て、はあと溜息をつくと。
「どうかしましたか?」
 隣から掛けられた声に、日本ははたと顔を上げた。伺うように隣で首を傾ける大阪に、慌てて取り繕うように笑った。いえ、すいません。ちょっとぼうっとしてしまいましたね。
「大丈夫でっか?」
「ちょっと人ごみに、酔ったのかもしれませんね」
 その横から心配そうにこちらを伺うのは、微笑みの国と称されるタイだ。いけない、いけない。日本は気を引き締めるように、背筋を正す。
「いえ。ああ、でも本当に凄い人ですからね」
 年々参加者も増えているようですし、規模も大きくなっているようですし。これは、来年にはもっと広い場所に、開催地の変更を検討しなくてはいけないかもしれません。
「ええ、嬉しいことです」
 賑わう周囲をぐるりと見回し、三人は嬉しい困惑に笑み交わす。
 街中の公園で開催された、このタイフェスティバルと称されたイベントは、予想以上の盛況ぶりだ。連なるブースやテントには人だかりが出来、中央広場に設けた舞台では華やかな民族舞踏や、ムエタイパフォーマンス、タイの人気歌手のミニライブなど、賑やかな盛り上がりを見せている。
「うちの国でも、日本さんのイベントは人気がありますよ」
 日本映画祭に、観光庁のジャパンウィークエンド、デパートでのジャパンフェア。この間のジャパンエキスポでは、沢山の若い人たちがわざわざコスプレで参加してました。
「こうして、文化的な面から交流を楽しめるって、すごく嬉しいですね」
 それに、すごく楽しいですしね。タイの素朴な笑顔に、日本も大きく頷く。
「本当です」
 定期的なイベントが開催されて、楽しみながら双方の文化に触れ、興味を抱き、理解を深み合え、そこから繋がりが生まれる。交流の窓口として、非常に望ましい形だろう。
「じゃあ、タイさん。次はウチの開催、お願いしますわ」
 うちも頑張って、ここに負けへんくらい、イベントを盛り上げますんで。よろしゅうたのんます。鼻息荒く意気込む大阪に、南国特有のおっとりとした笑顔が返される。
「はい、よろしくお願いします」
 握手を交わし、幾つかの言葉を交わし、それでは失礼します、そのまま日本と大阪はその場を離れた。
 園内の盛り上がりの中、日本と大阪は並んで歩く。さて、急ぎましょうか。車よりも、電車の方が早そうですね。ほな、こっちですな。今からやったら、予定より早く着きそうですわ。人ごみの中、駅に続く園の出口へ向かう。
「日本さん、今日は早く帰りたいーて言うてましたよね」
「すいません」
「プロイセンさん、また来てはるんですやろ」
 何でもない事のようにあっさりとした大阪の口調に、数拍間を置いて、えっと日本は振り返る。公的な訪問ではないので、誰にも特に連絡はしていなかった筈だが。
「なっ、んで……ご存知なんですか」
「うちらの情報網、舐めんといて下さい」
 ふふんと楽しげに大阪は鼻を鳴らす。他所のお国の方には甘いと思われがちですが、うちの空港職員はちゃんときっちり仕事してますよって。てかあのお人、隠れも誤魔化しもせず、普通に一般客に紛れて入国してはりましたから。うちによう来てくれはりますし、ちょっと珍しい容姿やよって、目立ちますしね。
「それに日本さん、あのお人が来てはる時は、他のお国さんが来てはる時と違いますから」
 こう、気負いしてへんっちゅうか、おもてなしに変な構えがあらへんちゅうか。でも、えらい楽しそうやし。
「まあ……あの人は、他の国の方とはちょっと違いますから」
 国である以上、他国との関係には僅かながらも外交が左右される。対日感情や、時事的な事件等、意識をしない部分で、大なり小なり影響を及ぼしていた。相手によっては、構えたり、警戒したり、配慮したり、気を使ったりしなくてはならない時もある。
 その点、プロイセンは違う。彼は「亡国」だ。
 酷くイレギュラーな存在である彼は、対外的な関係を考慮する必要も無く、元師匠と言う事もあり、日本が留意を必要としない極めて数少ない貴重な存在でもある。現在は弟であり後継者でもあるドイツと一緒に暮らしてはいるものの、国としての影響などは殆ど無いといって良かった。
 それが良いことなのか、悪いことなのか、日本には解らない。 しかし少なくとも、この気楽で気安い間柄というのは、他者へ気を使い過ぎるきらいのある日本にとっては、一種特別な位置付けになっていた。
「ええですやん、プロイセンさんなら、俺らもあんま気ぃ使わへんお人ですから」
 国云々ってのもあるのかも知れませんが、なんや、ほら、ああいうお人ですやろ。そう言われ、日本はくすりと笑って頷いた。
「まあ、そうかもしれませんね」
 構え構えと口で言う割には、プロイセンはあまり手のかかる相手ではない。退屈すれば、一人で遊びに行く。気になれば、掃除する。ついでだからと、買い物も済ませてくれる。興味があれば、自分で調べて学習する。必要があれば、然るべき連絡をくれる。しかも、ドイツと言う立派な弟を育てただけあり、根は兄気質で、面倒見が良い。甘やかせるのも上手いので、日本自身もつい、彼の寛容に頼ってしまう。
「今回も、日本さんちにいはりますねんやろ」
「はい」
「相変わらずみたいやなあ」
 彼の日本滞在はあまりに多すぎて、日本宅には私室と言う名のプロイセン領まで、ちゃっかりと出来てしまっている始末だ。そこには彼専用の布団や寝間着、私物などもちゃっかり置かれていた。馴染み過ぎである。
「ほんなら、今日は早く帰らなあきませんな」
 なんやったら、今夜はお土産でも買って帰りますか。なんや、家族にお土産を買って帰る、お父さんみたいですなあ。
 あははと快活に笑う大阪に、もう……と日本は唇を引き締める。しかし、そうか、お土産か。夕食の後に食べられるような、なにか軽いものでも買って帰りましょうか。思案しながら前を向き、ふと、日本の視線が止まった。
 出口へと向かう、軽いカーブを描く遊歩道、ぞろぞろと動く人波。それに流されず、大人の腰ほどしかない背丈の幼子に違和感を覚えた。スカートの裾を握り締め、きょときょとと周囲を探す仕草に眉を潜める。これはもしかすると。
「……迷子さんでしょうか」
「日本さん?」
 失礼します、すいません、流れに逆らうようにして、そちらへと足を進める。不安に歪む丸い頬、緊張に強張る口元、今にも決壊しそうな涙目。頼るものが傍に居ない心細さに、か細い体がうろうろと彷徨っていた。それを見下ろし。
「おひとりですか?」
 掛けられた声に、びくりと体を震わせて子供は振り返った。警戒する眼差しに、膝を突き、同じ視線の高さから、日本は自分の持ち得る限りの穏やかさと優しさを持って、にこりと笑顔を向ける。きょとんと丸くなる瞳。
「お父さんか、お母さんは? 今日はどなたと一緒に来ましたか」
 ぼそぼそとした声は、お母さん、と答える。お母さんはどちらですか。問いかけに首を振り、滲む涙に唇を噛み締めた。やはり迷子であるらしい。
「ああ、大丈夫ですよ」
 泣かなくても良いです。可愛いお顔が台無しですよ。日本はスーツのポケットを探った。
「手を出してください」
 小さな紅葉のような手の平に丁寧に乗せたのは、キャンディ包みをされたアーモンドチョコレートだ。今朝、玄関先でプロイセンから受け取ったものである。美味しいですよ、チョコレートにはね、心がほっとする成分が入っているそうです。
 小さな手で銀紙の包みを開く幼子に、追い付いてきた大阪が苦笑する。
「ひとまず、案内所に連れていきましょか」
「そうですね」
 もしかすると、もうこの子を探しているお母さんが、連絡を入れているかもしれません。愛しきわが国民の頭を丁寧に撫で、手を差し出した。おそるおそると重なる小さな手。縋るような小さく柔らかいそれを、驚かせない力加減でそっと握り締める。
「さ、係員さんの所に行って、お母さんを探してもらいましょうか」
 自分のお名前と、年齢を言えますか。こちらですよと今来た道程を引き返そうと数歩進んだところで、幼子の足がひたりと止まった。円らな瞳が見つめるのは、直ぐそこにあった園の入り口の向こう――お母さん。
 瞬間、子供とは思えない力で、日本の手が振り切られた。あっと思うより早く、既に少女は駆け出している。お母さん、お母さん。必死に繰り返す叫び声に、あちらにいた女性が少女に気が付き、心底安堵した笑顔を浮かべる。ああ、見つかったか。案内所に行くまでも無かったですね。日本は口元を綻ばせるが、しかしはっと目を見開いた。
 母親らしき女性が立つのは、横断歩道のあちら側。点滅する信号が赤を示した瞬間。渡る人波が途切れる。小さな駆け足は前しか見ていない。
 危ない――声を上げるより先に、日本の体が動いた。

     ○

 よし、とプロイセンは雑巾を置いた。
 もう良いぜ、ぽち、ほら良い子だ。散歩から帰った玄関先。四つ足を拭い終えて家の中に上げてやると、わんと小さくひと鳴き、ぽちは尻尾をふりふり廊下の向こうへと歩いてゆく。
 それを見送り、靴を脱ぐ。ぽちのお散歩セットとリードをいつもの場所に直す。散歩ついでに買ってきた食料品を、冷蔵庫の中に仕舞い込みながら、えーっと……とここまでを振り返る。
 ぽちとたまに餌はやったし、冷蔵庫のノコリモノは美味かった。着払いの荷物は受け取ったし、配達を待っている間に掃除機もかけたし、ついでに散歩の途中にスーパーで特売の卵と美味そうなお菓子も買ってきてやった。
 他になんかやることなかったっけ。エコバッグをたたんで、いつもの収納場所に入れながら、今日一日の俺様偉業を振り返る。
 そして、無造作に傍に置いていた郵便物を手に、隣にある居間に入った。
 日本はいつも、新聞やまだ目を通していない郵便物を、一旦居間にある唐木の座卓の上に乗せている。日中掃除をした時にプロイセンも軽く束ねておいたが、更にその上、今しがた郵便受けから取ってきたそれを乗せようとした。しかし、一番上が昨日の新聞であることに気が付き、これはあっちの古新聞入れだな。ひょいと持ち上げ、その下に重なっていたものに目が留まる。
 手に取り、表、裏、もう一度表、まじまじと見つめる。どうやら旅行会社のパンフレットらしい。更にその下にはガイドブック。どれも日本の国内旅行のものだ。
 座布団に腰を落とし、パンフレットをぱらりと捲る。ふんだんに使用された、見事な風景写真そして見覚えのある日本語での地名。プロイセンは思わずによによと唇を吊り上げた。落とした胡坐の上に、するりとたまが乗って来る。
 覚えている。これは、プロイセンが行ってみたいと口にした場所だ。
 確か、前の前辺りの日本滞在時だったか。何気につけていたテレビの旅行番組で、この地方の観光地を案内していたのだ。興味を示したプロイセンを、どうやら日本は覚えていたらしい。そういや今朝、出しなにあいつも言っていたな。観光地に案内したいって。休みを取ってって。なんだよ、つまりこれの事か。
 印にページの角を折ったパンフレット。附箋の付いたガイドブック。一番お勧めのシーズン。隠れた穴場スポット。評判のグルメショップ。人気のあるお土産。情緒溢れるホテルや温泉宿……。チェックされているそれらのページを眺めながら、知らず目元が弧を描く。なんだよ、あいつ。俺様の事、好き過ぎるんじゃねえの? 膝の上のたまを撫でながら、へへっとプロイセンは肩を竦めた。
 そこで、思いついた悪戯に、にんまりと笑う。
 たまに占領された膝を動かさないように、よっと半身を伸ばし、座卓の脇に置いてある、漆塗りの小さなトレイを引き寄せた。ペンやハサミ、爪切りなどが無造作に入った文箱の中から、太めの赤マジックを取り出して、ぽんと蓋を開ける。
 ここに、ここも……こっちのページのこことか、それからこっちもだな。それぞれ目につけた個所に、プロイセンは赤ペンでチェックを施す。どれをとっても如何にもらしいチョイス。あいつはこれに気がついたらどんな反応するのやら。それを想像し、悪戯小僧宜しく、ケセセと声を上げる。さあて、今夜が楽しみだ。
 そこで、プルル……と電子音が鳴った。音源は、この部屋に置いてある電話の子機だ。
 他人に聞かれては困るような内容であったり、国として重要な件の場合、日本は基本的に携帯電話を優先して連絡を入れられる。そっか、着払いの荷物が来るとか言ってたけど、その連絡か。一件だけだと思っていたが、二件あったのかもしれない。プロイセンが腰を浮かしかけると、賢いたまはするりと膝の上から降りる。そして伝統的な床脇棚の隅に乗せられた、白い子機を取った。
 はい、そう応対すると、二、三拍の間を置いて、確認するような声が届いた。プロイセンさんでっか。その声には聞き覚えがある。
「おーう、大阪か」
 久しぶりじゃねえか。主要都市や、ドイツと姉妹関係を結んでいる都市が含まれている都道府県とは、それなりに面識がある。ハンブルグとの友好都市である大阪も、その例外ではない。
「ん……おう…………はあ? なんだよてめえ」
 伝えられる内容に、プロイセンは徐々に顔を険しくする。ドイツに帰れって。突然んなこと言われたって……いや、飛行機のチケットがどうじゃなくてだな。つか、それは日本が言ってんのか? だったら、てめえに言われる筋合いねえよ……ふざけんな。んな適当な言い分で誤魔化されるかよ、俺様を舐めてんじゃねえぞ。
「どういう事か、俺様が納得できるように話せ」
 眉間に皺を寄せ、声のトーンを低くする。電話の向こう側で、なにやら逡巡する様子が伝わった。別に困らせたい訳じゃない。そっちにもそっちの事情があることは、充分理解しているつもりだ。だからこそ、伝えられる範囲で良い、下手な誤魔化はせずに、納得できるように話せ。
 暫しの沈黙の後、解りましたと何やら覚悟を決めた声になる。丁寧に、順を追った説明。潜められたプロイセンの目が、その流れに沿って、ゆっくりと驚愕に見張られる。凹凸のある咽喉が、こくりと上下した。
 電話を持つ手に、ぎゅっと力が込められる。
「……判った、すぐそっちに向かう」

     ○

 タクシーが病院に到着すると、プロイセンは電話で聞いていた病室へと向かった。エレベーターの動きももどかしく、漸く到着した目的のフロアで降りる。逸る気持ちのまま廊下を駆けると、その先にある病室の前に、複数人の人影が見えた。
 プロイセンの足音に、最初に顔を上げたのは大阪だ。その前に立つ幾人かにも見覚えがある、どうやら部下と、日本の都道府県の内の数人らしい。
 息を荒げて到着したプロイセンに、一同は各々、押し殺した表情でぺこりと頭を下げた。プロイセンさん、大阪が一歩こちらに進み出る。
「日本は?」
「今、先生に診てもろてます」
 ちら、と大阪の視線が上がる先は、正面、白い病室の扉。人払いはしている。もともとこのフロアには、院内でも特別な病棟で、関係者以外は殆ど立ち入ることが無い。
「体の方には、特に問題は無いようなんです」
 交通事故と言っても、庇った子供共々、車との衝突は避けたようだ。受け身を取った際に出来た打ち身や擦り傷こそあるものの、どれも軽症と呼べるものばかりである。
 ただ、気になるのは頭だ。
 腕に抱いた幼子を庇うように抱き締めた為、頭からコンクリートにぶつけて意識を失った。即座に病院に搬送し、診察と治療は済ませている。意識ももう戻っており、今は医師を呼んで、検診して貰っている最中だ。
「すんません、俺が傍にいながら……」
 ほんまに、ほんまにすんません。深々と頭を下げる大阪に、傍にいた都道府県の一人が、縮こまった背中を宥めて頭を上げさせる。
 きっと大丈夫。なんといっても彼は国だ、交通事故に遭ったぐらいで、そう大事になる訳はなかろう。多少の怪我なら、ある程度の時間をかければきちんと治る。現在国内にもそれらしい影響は見られない。都道府県たちはそう言い聞かせていた。
「プロイセンさん、わざわざ来て下さったのに、こんなことになってしまって……」
「いや、そんなことはいいから」
 項垂れたままの大阪に、プロイセンはやるせなく首を振る。
「ただ……祖国がこないなことになってしまった以上は、その……」
 電話でもお伝えしましたが、ほんまに言い難いことやけど、今回はこのまま一旦ドイツにお引き取りを――かちゃり、内側から、病室のドアノブが回された。
 振り返ると、看護婦が姿を現した。お待たせしました。どうやら、診察が終わったらしい。
 看護婦は揃った面々を一度確認し、プロイセンで一度止まった。どう見ても単一民族の日本人とは思えない彼の容貌に怪訝な表情をするが、このお人は大丈夫ですわ、大阪の口添えに納得したように軽く頷く。
 患者は事故のショックで、少々混乱しております。こちらも、確認したいことがあるので、皆様にお手伝いして頂きたいと思っております。落ち着いて、決して動揺させるようなことはなさらないよう、お静かに。それをお約束出来る方のみ、どうぞお入りください。
 何やら仰々しい念押し。首を傾げつつ、伺うようにめいめいが視線を交し合うが、了承すると順番に扉をくぐった。
 日当たりの良い、ゆったりとした個室。中央にあるベッドの前には、白衣を纏った中年の医師が立っている。来訪者に軽く頭を下げて一歩引くと、その向こうには、半身を起こした日本がいた。
「日本さんっ」
 うわああん、と大阪が声を上げて涙を流した。俺が傍にいながら、こんなことになるなんて。すんません、すんません。ほんっまにすんませんっ。
 大袈裟なまでに頭を下げ、ベッドにひたすら頭をこすりつける大阪に、日本は困ったように笑った。いえ、大丈夫ですよ。だから顔を上げて、ちょっとお顔を良く見せて頂けますか。
「すいません、ご心配をおかけしたようですね」
 えっと……少し小首を傾げ、自分に縋りつく彼をじいっと見つめた。瞬きを一つ。
「あー……お、おさかさん? でしたよね」
 そうですよね、確か。ああ、そうそう。
 一人で疑問符を浮かべ、そして一人で納得して、日本は何度も頷く。それから……あれ、えーっと……ああ、皆さんは、都道府県の方々ですよね。
 ぽかんとした大阪は、隣にいた都道府県を振り仰ぎ、そして助けを求めるようにドクターへと視線を向けた。中年医師は眉根を寄せる。
 困惑のままに視線を交し合う都道府県達の向こう。その輪に入らずこちらをじいっと見つめるプロイセンに気が付き、日本は訝しく瞬く。その視線に浮かぶのは、明らかな疑問詞と困惑。そして若干の気後れ。
 独特の虹彩を持つ彼の視線は、その切れ長の目元との相乗効果で、兎に角印象が強い。それが自国民ではなく馴染みの薄い白人種、強い目力と彫りの深い顔立ちとも相まると、言い知れない威圧感さえ感じられた。
 ひたりと定められたまま逸らされることないその視線に、他人行儀の習慣のままに、日本は小さく頭を下げる。そして、一番近くにいた大阪に、隠すつもりの無い音量で、そっと耳打ちをした。

「申し訳ありませんが……そちらの方はどちら様ですか」

 思わず目を瞠るプロイセンに、日本は顔を上げる。そして、にこりと当たり障りのない営業用の笑顔を向けた。





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