アロマティック・リラックス





「なあなあ、悟空さ」
風呂から上がって寝室に入ったところ。 既にパジャマに着替えたチチが、待ちかねた様に手招きする。
「何だ?」
「ほら、こっちこっち」
ここに横になるだよ。
ぽん、と叩いて示されたのは、 広いベットの上。
「オイルマッサージしてやるだよ」





チチは凝り性で飽きっぽい。
少し前は楽器の演奏に挑戦して、その次はお花の活け方、 更にその次はビーズで作るアクセサリーに凝っていた。そして時々、 いろんな講習や教室で仕入れた情報を、こうして悟空相手に披露する。
そして、どうやら今は、 アロマテラピーとやららしい。何やら不思議な香りのするオイルとやらを幾つか手に取り、 チチはにこにこ笑っている。
「これは今日、教えてもらったばっかりなんだけんどな」
このアロマオイルでマッサージすると、すっげえ体が楽になるって、お店の講習会で、 今日聞いたんだ。折角だから、毎日修行で筋肉を使っている、おめえにやってやるだよ。
「おら、いいよ」
「ええから。ほら」
催促され、それ以上拒否する理由も見当たらず、 示されるままに悟空はベットにうつ伏せた。
「じっとしててけれな」
小さな小瓶から、とろりとしたオイルを手の平に乗せ、それを擦り合わせるようにして、 手に伸ばす。そして、悟空の背中へと滑らせた。
ふわり、と芳香が広がる。
「な、ええ香りだろ」
これはな、筋肉の疲れを取るって言われる、アロマオイルなんだべ。
得意そうに細やかに説明するが、当然悟空にはよく解らない。とりあえず、 へえ…と相槌を打ってみるが、その適当加減にぺちりと背中を叩かれた。
「悟空さ、 ちっとも解ってねえだろ」
こんなに可愛い若奥サマが、マッサージしてやってんだぞ。 それがどれだけ幸せな事か、もっとちゃんと自覚しなくちゃ駄目だべ。
ぷりぷり怒りながらも、チチは体重をかけて、悟空の背中を丁寧にマッサージを続ける。
「そう言えば、今日、ブルマさのとこさ寄って来たべ」
ほら、この間カプセルを一つ、 壊してしまっただろ。その修理を頼みに行ったけんど。今日中に直しておくって言ってたから、 おめえ、明日取りに行ってくれな。
うんしょ、うんしょ、と力を込めながら、 途切れ途切れのそんな会話。
悟空の体は、常人以上に鍛え抜かれている。盛り上がった筋肉は、 何処もかしこもやたらと硬い。勿論、チチとてそれなりに修行を積んだ体をしてはいるが、 それでもこの筋肉の塊をマッサージするのは、なかなかの重労働であることが伺える。
背中の後ろで、汗を流してマッサージを施すチチに。
「えっと…なあ、チチ」
「ん?痛かったか」
否、そうじゃなくて。
「もう良いよ。おめえ、大変だろ」
そう言って体を起こそうとすると、悲しげに揺らめく大きな瞳にぶつかった。
「悟空さ、気持ち良くねえだか?」
「そんな事ねえけどよ」
だって、 何だか申し訳ねえもん。おめえも、しんどいだろ?
困ったように苦笑する悟空に、 きゅっとチチは唇を噛み締めて俯いた。
明らかに解りやすい、落胆したその顔。 何かまずい事、言ったかな。弁明しようとするのだが、それより早く。
「…もう良いだ」
折角、マッサージしてやるって言っているのに。
ふいっと顔を反らせると、 そのまま背中を向けて、布団の中に丸まってしまった。














「はい、これねー」
ばっちり直しておいたわよ。
「サンキュー、ブルマ」
修理の終えたカプセルを手渡され、悟空は満足そうにそれを懐にしまう。
昨夜のマッサージの件を引きずってか、今朝のチチはご機嫌斜めだった。 いつもの怒った顔よりも、凹んでいるような今の顔の方が、一緒にいてても居心地が悪い。
何故チチが急に機嫌を悪くしたかは、よく解っていない。でもこれを持って帰れば、 少しはマシになってくれっかなあ。
そんな事を考えながら、さて帰ろうかと、 ブルマに背を向けかけたところで。
「…あら?」
大きな瞳を瞬きして、 ブルマは悟空を覗き込んだ。
「何よ。孫君、香水でもつけているの?」
へ?と首を傾げる悟空に、鼻を近づけて、にこりと笑う。
「凄く良い匂いがするわよ」
すっきりして、でも嫌味の無い香り。
指摘され、 悟空はくんくんと自分の腕や服の匂いを嗅いでみた。言われてみれば、何処と無く、 そんな匂いがするようなしないような。
「あー…もしかして、昨日のかなあ」
鼻が慣れちまったみたいで、自分じゃちっとも気が付かなかった。
何?と尋ねられ、悟空は昨夜のアロママッサージを説明した。それにブルマは、 感心したように「へええ」と声を上げる。
「良いわねえ。素敵じゃない」
それって、家庭でエステをして貰っているもんでしょう。
「なによう。あんた達、 仲が良いのねえ」
ふふっと笑うブルマに、悟空は瞬きを繰り返す。マッサージの有無が、 どうして仲の良い悪いに繋がるのだろう。
「奥さんにマッサージして貰えるなんて、 すっごく贅沢な話じゃない」
あーあ、いいなあ。羨ましい。しきりと頷くブルマに。
「マッサージって、そんなにやって欲しいもんなんか?」
「だって、疲れた体には、 気持ち良いでしょ?」
孫君も、チチさんのマッサージ、気持ち良かったでしょう? そう聞かれて、うーんと思い返す。
まあ、確かに朝起きた時、妙に体が軽かった気もするし、 あの草みたいな匂いも悪くなかったし、夢も見ないでぐっすり眠れた気もしなくは無い。
「でもさあ、何だか、悪い気がするんだよなあ」
ほら、マッサージって、 向こうにすっげえ力を使わせるだろう?自分の常人以上に硬い体を自覚しているだけに、 チチのあの細っこい腕で、汗水流してわざわざマッサージして貰うと、 何だか申し訳なさが先立ってしまう。
「…あんた、まさかそれ、 チチさんに言ってないでしょうね」
「言っちゃ駄目だったのか?」
きょとんと目を丸くする悟空に、ブルマはこめかみを抑えた。
全く、もう。 この、超鈍感無自覚無神経甲斐性無し男め。なーんでこう、罪無く、 心無い事を言うのかなあ。
チチさんも、折角孫君の為を思って、 一生懸命マッサージしてあげたであろうに。その返答がこれじゃあ、報われるどころか、 悲しいを通り越して虚しくなってしまうだろう。
「だってよお…」
流石にしょぼくれた声を出す悟空に、ブルマは溜息を一つ。
「だったら。 孫君がチチさんのお礼に、お返しのマッサージしてあげたら良いじゃない」
貴方は知らないでしょうけれど。主婦だって、何だかんだと大変だったりするのよ。 あんたの為に、山のような料理を年中無休で作ってくれる奥さんへ、 日頃の感謝の気持ちを表すつもりでさ。
「あ、そっかあ」
ぽん、と手を打って、 成る程…と納得する悟空に、少しばかりの不安が過ぎる。
「一応言っておくけれど。女性の体はか弱いって事、忘れちゃ駄目よ」
あんた、 只ですら馬鹿力なんだからね。加減ってものを覚えておかなきゃ、冗談じゃなく、 チチさん殺し兼ねないんだから。
「うーん、そうだよなあ」
わきわきと自分の手を開いたり閉じたりするのを眺め、難しい顔をする悟空に。
「ねえ。ほら、ちょっと練習して見なさいよ」
椅子に座り、くるりと背中を向けて、 ぽんぽんと自分の肩を叩く。
いい?私は普通の、か弱いレディなんですからね。 思いっきり力を入れるんじゃなくて、優しくマッサージする要領で揉むのよ。
きりっと怖い顔で念を押され、とりあえず言われるままに、ブルマの肩を揉んでみる。
「…うん、なかなか上手じゃない」
もう少し力を緩めて。もっと右、そっちじゃない。 あれこれと注文をつけながらも、うっとりとブルマは目を閉じた。
「あー、 最近肩凝りが酷くてねー」
私の肩、すっごく硬くなっているでしょう。 これが辛いのよー。
「肩が硬くなると、辛えのか?」
肩凝り経験のない悟空の、 素朴な疑問に。
「そうよ、体はだるいし目は疲れやすいし、頭痛だって酷いんだから」
肩凝りは要するに、血液の循環が滞った状態である。確かに、ブルマの肩と自分の肩と比べてみると、 硬さの種類が微妙に違うようにも感じられた。
「それにね、 エステとかマッサージっていうものは、単に凝りを解すんじゃなく、ちゃんと意味があるのよ」
人は、肌と肌とが触れ合うだけで、安心するものである。赤ん坊が母親に抱きしめられて、 安心するのと同じ様に。マッサージだけでなく、手の平で接触する事だけでも、 肌の感触や体温を感じるだけでも、充分な「癒し」効果に繋がるのだ。
「触れ合う事って、とっても大切なんだから」














「なあなあ、チチ」
風呂から上がって寝室に入るチチに、本日は先に入浴を済ませた悟空が、 待ちかねた様に手招きをした。
「何だべ?」
「こっちこっち」
ほら。ここに横になれよ。
そう言って悟空が示したのは、ベットの上。瞬きするチチに。
「今夜はおらが、チチにマッサージしてやるよ」
「ええっ?」
思わず声を上げてつい後退るチチに、悟空はちぇっと唇を尖らせる。
「ちゃんと加減すっからさ」
もう、ちっとはおらの事、信用しろよ。腕を引かれ、 促されるままに、チチはベットの上にうつ伏せになった。
「だ、大丈夫だか?」
何だか、 こええなあ。びくびくと肩越しに振り返るチチに。
「任せろって」
大丈夫、大丈夫。
言いながら、先日チチが使っていた、アロマオイルの瓶の蓋を開ける。
ふわりと、部屋中に広がる爽やかな香り。それを手の平に落とし、擦りつけるように広げると、 昨夜チチがやったのと全く同じ様に、そっとしなやかな背中に滑らせた。
「痛かったら言えよ」
「う、うん」
そのままするりと肩へと手を伸ばし、 悟空はその時初めて気が付く。





チチの細い肩は、ブルマよりもずっとずっと硬くなっていた。














「…チチ?」
どれぐらい、マッサージをしただろう。それ程時間をかけたとも思えない頃、 ベットに横たわる体に、反応が無くなった事に気が付く。名前を呼んでも返事が無く、 そっと悟空はうつ伏せた顔を覗いた。
閉じられた瞼。微かに開いた唇からは、 すうすうと健やかな寝息が零れていた。
どうやら、 マッサージの途中で眠ってしまったらしい。
眠くなるほど、気持ちよかったのかな。 そうでなければ、痛いと怒ったり、くすぐったいと訴えたり、 もうやめろと拒否するに違いない。
―――ああ、そうか。
昨夜、マッサージを拒否して、 傷ついたチチの顔の意味が、悟空は今、やっと判ったような気がした。


「おやすみ、チチ」
寝室の電気を消すと、悟空は出来るだけ振動を立てないように、 チチの隣の布団に潜り込む。そして疲れた体に腕を回し、ゆっくりと抱き寄せた。
規則的で、平和な寝息は、子守唄のようだ。
…成るほど。この感触は、 確かに安心するかも知れないな。





ふんわりと、アロマオイルの香りのする部屋で。
癒しの元に頬を摺り寄せ、 悟空はそっと瞳を閉じた。




end.




「バスルーム…」と「薄い硝子…」を
足して割ったようだ…(猛反省)
2004.11.23







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