バスルームビーナス





「何だ、これ」
紙袋からごろごろと出てくるそれらに、悟空は目を丸くした。
「これは石鹸だべ」
で、こっちは入浴剤で、こっちは泡風呂になるタイプ。 ほら、これなんか、固形タイプのシャンプーだべ。
拳骨サイズの丸いバスボムや、 不揃いにカットされた固形石鹸、プラスチックカップに入ったヘアパックに、 シャンプーバーや液体ソープまで。何やら随分と、沢山あるようだ。
「今日、町で見つけてな。ついつい、いっぱい買ってきちまっただよ」
甘い香りやら、すうっと爽快感のあるもの。柑橘系やらハーブ配合やら、 一見何やら美味しそうに見えるものまで。紙袋いっぱいに入っていたそれらを広げながら、 チチは嬉しそうに笑った。





チチは風呂が好きだった。
悟空も嫌いじゃないが、彼女の「好き」は、悟空のそれとは、 また随分と質が違うらしい。
とにかく長い。入ってしまえば軽く一時間、 長いときは二時間を裕に越えるぐらい、延々と入り続ける。そんなに長い時間入浴するなんて、 逆上せるんじゃないかと思うのだが、チチを見る限り、そんな様子は伺えない。
彼女の説明によると、「半身浴」とやらを実行しているようだった。
およそ十五分から二十分程、心臓より下までのぬるめのお湯に、のんびり浸かる。 そうすれば、結構汗が流せて、長時間湯船に浸かっていても湯当たりする事が無い。 言ってみれば、簡易サウナのようなものらしい。
湯に浸かっている間、チチは持ち込んだ雑誌や文庫本を読んでいる。 だから、読み物が佳境に入ると、時間延長と回数増加を厭わない。
おまけにチチは、髪を洗うのも体を洗うのも、悟空と違って時間をかけ、 やたらと丁寧だった。そして時々、パックとか言う何だか怪しげなものを、 顔や髪に塗りたくる。これは、時間を置いて洗い流さないと効果が無いらしく、 更に時間が必要になるのだ。
しかも、「お手入れ」と言う奴は、 風呂の中だけでは留まらない。
入浴後、タオルで体を拭った後だって、 あれやこれやと全身に塗りつける。水のような液体やら、とろりとしたクリームやらを、 これは顔用、これは脚用、これは手用…と、一つ一つ伸ばしているのだ。
悟空から見れば何だか面倒臭く思えるのだが、当のチチには、どうやらそれが楽しいらしい。 ひとつひとつの作業を、まるで神聖な儀式でもあるかのように、 毎日毎日飽きもせずにこなしていた。
「何で、そんな面倒臭い事するんだ?」
「男と女は、違うんだべ」
お肌も弱いし、乾燥だってしやすい。 ちゃんと水分と油分を補充し、手入れしてやらなければ、肌が荒れたり、 ごわごわしたり、薄くなったりもするのだ。
「悟空さだって、 自分の奥さんには、いつまでも綺麗でいて欲しいって思うだろ?」
大きな瞳で期待いっぱいに覗き込まれれば、素っ気無い返事なんか出来やしない。
悟空は、曖昧な笑いで誤魔化した。





「ほら。これは蜂蜜の石鹸で、お肌にすごく優しいって、お店の人が教えてくれただ」
で、こっちはアボガドオイルの入った、しっとりする石鹸。こっちのは、 ハーブの香りが良くって、すっごくリラックスできるって言ってたべ。
まるで、特別な宝物のように、一つ一つを手にとって見詰める。そんなチチの心情が、 悟空にはどうにも理解できない。
だってこんなの、ただの石鹸じゃないか。 確かに色も香りも違うが、使ってしまえばどれも同じ。いろいろ違いがあるかもしれないが、 そんな微妙な差など、いちいち実感できるものなのか?
大体悟空にとって、 石鹸とは体を洗うものであり、それ以上でもそれ以下でもない。 要は体が綺麗になれば、もうそれで充分なのだ。
まあ、チチが満足しているのなら、 それはそれで良いのかもしれないが。
「あ、今日はこれを使ってみるべ」
取り出したのは、ごろりと大きなピンク色の丸い物体。
「それ何だ?」
「泡風呂用の入浴剤だべ」
「泡風呂?」
「んだ。映画みたいで、おら、 一度やってみたかっただよ」
クエスチョンマークが頭の中に飛び交う悟空を見上げ。
「なあなあ。使ってもいいだろ?」
同じ風呂に後から入る者への、配慮なのだろう。 最も、そんな事に無関心な悟空が、今まで否を言った事は無いのだが。
「別に、かまわねえけど」
ぱあっと笑顔が花咲いた。
じゃあ今日は、 シャンプーもこれを使ってみて。それから、ヘアパックもしなくちゃいけねえな。
わくわくと、楽しそうに入浴スケジュールを組む様子は、まるで小さな女の子みたいだ。 風呂って、そんなに楽しいものだったっけ。何だかこちらも、うきうきが伝染してくる。
「なあなあ。おらも、一緒に入って良いか?」
「駄目」
速攻、却下された。


チチはいつも、一緒に風呂に入るのを嫌がった。
以前、あまりにも入浴時間が長いので、 彼女が出るまで待つのも面倒臭く、無理矢理一緒に入ろうとしたことがあった。 別にそれぐらい…と思っていたのは、どうやら悟空だけのようで、随分こっぴどく怒鳴られ、 叱られてしまった。
最初は単に恥ずかしがっているのかとも思ったが、 どうやら違うらしい。
要するに、チチにとって大切な入浴タイムを、 邪魔されるのがお気に召さないのだ。


「絶対、入ってくるでねえぞっ」
しっかりと念を押して、浴室へ向かう後姿。





まあ、でも。


そうやって嫌がられると。
逆に悪戯心を刺激されるのも、また事実な訳で。











「結構、泡立つもんなんだなあ」
感心したように声を上げ、チチはシャワーを止めた。
説明書きにある通り、入浴剤を放り込んだ湯船に、シャワーの勢いだけで湯を張った。 もこもこの泡は、予想以上だ。
そのバスタブに、うきうきしながら体を沈めた。
浴室いっぱいに充満する香りに、深呼吸する。水面に浮かぶ泡を両手ですくい、 ふっと息を吹きつけると、しっかりした泡が、消える事無く手の平から零れてた。
すごいすごい。本当に、映画で見た入浴シーンみたいだ。
腕を伸ばし、 すくい取った泡を乗せて撫で付ける。泡の中から足を出し、つま先を伸ばし、 そのままぱしゃぱしゃとばたつかせる。肌に当たるその感触に、笑みが漏れた。
「…気持ちええだなあ…」
うーんと伸びを一つ。はふんと息を吐いて、体の力を抜く。
湯気が満ちた浴室。熱気と湿度と独特のその香りに、何だか頭の奥がぼうっとしてくる。
ゆったりとした心地で、瞳を伏せた時。
「おーい、チチー」
浴室の扉の向こうに、 見慣れたシルエットが映った。
「んー、何だべー?」
気の抜けたような、 のんびりした返事をすると。
「おらも一緒に入るぞー」
はた。 蕩けていた瞼を瞬きさせた。
「ええっ?」
慌てて身を起こすと同時に、 がらりと浴室の扉が開く。
「っひゃーっ、すげぇ泡だなあ」
「ご、悟空さっ」
駄目だと言われる前に、うりゃ、と一声。
そのまま、バスタブの中に、 どぼんと飛び込んできた。











なあなあ。
「まだ怒ってんのか?」
「当然だべ」
バスタブの中。 むっつりした声を出すチチを、背後から腰に腕を回して、膝の間に引き寄せる。 むすっと唇を尖らせる様子を背中越しに伺い、宥めるように、泡から覗いた細い肩に、 丁寧な手つきで湯を掛けてやった。
「絶対入ってくるでねえって言ったのに…」
「悪かったって」
「折角のんびり、お風呂に入りたかったのに…」
「チチの邪魔はしねえよ」
長湯するなり、本を読むなり、何でも好きな事をすればいい。 その邪魔をするつもりは無いのだから。
「そーゆー問題じゃねえ」
肩越しに、じろりと悟空を睨みつける。湯で上気したその頬が、 ほんのりとピンク色になっていた。
怖い顔をして見せても、おっかなく怒っていても。結局、一番深い場所で、 チチは何もかも許してくれている事を、悟空は知っている。
だって、ほら。 今も顔では怒って見せてはいるけれど、こうして肩口に顔を埋めたって、 嫌がる素振りはもう見せない。
―――それにしても。
「何か、 すげえなあ。この泡」
こんな泡だらけの湯に浸かっていたら、 出る時にちゃんと体を洗い流さなきゃなんねえな。それに、長く泡に浸かったままだと、 洗剤で体がぴりぴりしそうだ。
「この泡は、石鹸の泡とは違うべ」
肌の保湿成分が泡立っているだけだから。神経質に洗い流さなくても、特に害は無い筈だ。
「匂いも強いなあ」
「アロマオイルが入ってるだよ」
えーっと…と、 傍に置きっぱなしになっていた、バスボムの入っていた包みを取る。 ぺたりと張られたレッテルシールに、成分とその説明が書かれていた。
「これは、イランイランとジャスミンのオイルと、金のラメの入っているだよ」
ふうん。悟空は泡をすくって、まじまじと見詰める。 聞いたことのないアロマ成分の名前を言われても、当然ながらぴんと来ない。
「それって、何かいいことあんのか?」
「気持ちが落ち着いて、リラックスできるんだべ」
血行促進のオイルも入っているから、 体も暖まるぞ。
「ラメって何だ?」
「まあ…金色の粉みたいなもんかな」
「粉が入っているのか?」
「ほら」
すっと、チチは泡の中から腕を出して伸ばした。
「よーく見てけれ」
肌が、きらきらしてねえか?
細くて白い腕を取ってじいっと見ると、 確かに何となく、肌に細かい金色の何かがついているようだ。
「綺麗だろ」
肌が金色に光っているみたいで。
しなやかな筋肉のついたチチの腕を取り、 ふうん、と軽く頷いた。
「…そうだな」
綺麗だな。
自分のものと比べると、 白くて、華奢で、柔らかい。同じ人間のものとは思えない程、色も、形も、 肌触りも、全然違う。
悟空は、骨の太い指を辿るように滑らせると、 ちゅっと唇を寄せた。ぎょっと顔を向けるチチに、唇を当てたまま視線だけで笑い、 そのまま軽く吸い上げる。真っ白い二の腕には、艶かしい痕がついた。
「こら」
何やってるだ、どさくさに紛れて。
睨みつけてやると、 人懐っこい目が悪戯っぽく、こちらを覗きこんでいる。
「あんまり甘い匂いだからさ」
もしかすると、チチの腕も甘いんじゃねえかなーって思って。
はっきりと艶を含ませた瞳の色。骨の太い指先が、確かな意図を持って、 滑るようにうごめく。
「…おらの邪魔はしねえって、言ってたでねえか」
「へへ、まあまあ」
なーにが、まあまあ、だ。この、大嘘吐きめ。











「甘い匂いだなあ」
何だか、頭がぼーっとしちまうなあ。
くすぐったい吐息を首筋に感じながら、ぼんやりとチチは思い出す。
「…悟空さって、単純だな」











まめ知識。
イランイランの香りには、催淫効果があるとか無いとか。




end.




某●USHにて買い物をした模様
2004.01.29







back