薄い硝子にも似て透明な





白い薬一錠。
そして、もう一錠。





暗い、電気もついていないキッチン。飲み干したグラスをテーブルに置いて、 チチはふうと息をついた。
蓋を閉めようと、薬瓶を手にした時。
かたん。
背後の物音に振り返る。そこにはパジャマ姿の悟空。
死んだはずの大切な人。でも今は、こうして手の届く場所に、確かに存在していた。
「どしただ、悟空さ」
眠っているとばかり思っていた。起こさないように、 出来るだけ音を立てずに、ベットから抜け出してきたのに。
「起こしちまっただか?悪かっただな…」
にこりと笑うが、悟空は怖い目のまま、 手を伸ばした。そして。
「…あ…」
チチの手から取り上げたのは、透明な薬瓶。 中には白い錠剤が入っていた。
半ばまで減っているそれは、硝子の瓶の中で、 からからと乾いた音を鳴らせる。
「また飲んだのか」
以前目にした時よりも、 中身が増えている。つまり一瓶空けて、これは新しい瓶なのだ。
チチは答えず、曖昧な笑顔を向けた。
「ちっと嫌な夢、見ちまってな」
その答えを皆まで聞くことなく、 悟空は手にした薬瓶の中身を、そのままキッチンの流し台へざらざら流した。
「何すんだっ」
慌てて走り寄るが、それより早く蛇口を捻り、水を流した。 白い錠剤は、ばらばらと水道管を流れて行く。
それでもチチは、流し台へと手を伸ばす。無駄な足掻きだと判っているのか、 残った薬が無いかと、身を屈めて白い手で探った。
「もう、ねえ」
全部流れちまった。
背後からチチの両手を取る。細い手首。また痩せたようだ。
痛々しく目を細め、一度強く閉じると。
「わあっ」
重力を感じさせない力で、 ひょいと折れそうに華奢な身体を、肩に担ぎ上げた。
「ご、悟空さ?」
「夢、見たくねえんだろ」
だったら、夢も見ないくらいに、疲れて眠ってしまえばいい。
何かを言うより早く、悟空はチチを寝室へ連れ込んだ。





あたしの専門は機械であって、医者とか薬剤師な訳じゃじゃないんだけどねー。小難しい事は何でも 知っていると、勘違いされているんじゃないかしら。まあ、でも、天才だから、 これぐらいはどうって事無いんだけど。
ぶつぶつ言いながら、それでもブルマは、頼まれた薬を分析してくれた。
「で、どれぐらい飲んでるの」
うーん、と腕を組んで思い出す。
「朝に飲んで、それから昼だろ。晩飯ん時も飲んでて、 たまに夜中に起きて飲んでる時もあるなあ」
少なくとも、それぐらいはいつも目にしている。だがもしかすると、 悟空のいない間にも、飲んでいるかもしれない。
「あ。あと、時々別の 薬も一緒に飲む時があるなあ」
そっちは二、三錠だけだけどな。
そこまで聞いて、ブルマはぎょっとした。だけ?
「ち、ちょっと…」
薬の濃度と、一度に服用する錠剤の数を考えれば、幾らなんでも飲みすぎである。
「チチさん、様子おかしくなったりしてない?」
「ぼーっとしてたりはすっけどな」
それ以上では、どうもぴんと来ない。
がくりとブルマは肩を下ろした。所詮、悟空に繊細さを求めようとするのが、 そもそもの間違いなのだろうか。
ねえ、孫君。
たしなめるような声で。
「もっと、チチさんをよく見ててあげて」
「でも、あいつ、じっと見てたらあんまり見るなって言うぞ」
のろけか?ブルマは呆れて額に手を当てた。
「そうじゃなくって。しっかり見てて、しっかり捕まえといてあげて」
ここ、ではない何処へ行ってしまわないように。
念を押すように言うが、イマイチよく判らないのか眉をひそめる。





ぼんやりしている時は、確かに多かった。
何時だったか、修行から帰って来た時、 キッチンで包丁を持ったまま、ぼうっとしている時があった。
手元を見ると、料理の最中なのだろう、野菜が途中まで刻まれたまま。動く気配さえ見えない。 悟空が傍まで近づいても、一向に気が付く様子はなかった。
「チチ」
名前を呼んでも反応は無い。
ぼんやりとした視線は何を映すでもなく、ただ手元へと落とされているだけ。
「チチ?」
肩を揺すると、やっと反応があった。ぴくりと身体が震え、間近から覗き込む 悟空に、心底驚いたように目を見張る。
「どした?」
「…悟空さ?」
何でここにいるんだ?
まるでそう訴えるかのような目。
硝子のような目をぱちぱちと瞬きして、確認するように、幾度か唇だけで悟空の名を呟く。 そしてやっと納得したように笑った。
「すまねえな、ぼんやりしてただ」
「熱でもあんのか?」
疲れているなら休んでろよ。ひょいと手を取ると、必要以上に チチの身体が震えた。
「大丈夫だっ」
悟空の手を振り払った拍子に。
「…あっ」
持っていた包丁で、自分の手の甲を切ってしまった。
「うわっ」
驚いたのは悟空の方だ。ぽたぽたと滴る出血の量に、おろおろする。
「だ、大丈夫か、チチ」
そのうろたえた悟空の様子に、チチはきょとんとする。
「何、慌ててるだ」
こんな傷、全然大したことはない。
「悟空さ、もっともっと酷い傷、いっつも作ってるでねえか」
いっぱいいっぱい。 たくさんたくさん。死んじまうくらいに。
ぽかんとしたチチの声には、何処か薄ら寒い、 空虚な響きがあった。
ぽたり、ぽたり。
床には真っ赤な染みが幾つも滴る。





薬を飲み始めたのは、悟空が生き返ってから。だから、昔と呼べるほどそう遠くはない。
「落ち着くからって」
いつもそう言って、飲んでいた。
「…確かに落ち着きはするでしょうね」
聞いたことも無い薬の成分の名前を、ブルマは幾つか連ねる。
「まあ、つまり精神安定剤よ、抗不安剤」
それもかなり効き目の強いもの。 個人差はあるが、通常、日に何度も飲むようなものではない。 せいぜい眠る前に一錠服用すれば、充分に効用のあるものだ。
それだけの量を常用していたら、 幻覚を見ていてもおかしくなかろうに。ぼうっとしているだけでは済まないはずだ。
「その薬って、あんまし良くねえのか」
「薬だから…当然それなりの効用はあるわよ」
しかしこの成分には、依存性の強いものも含まれている。
摂取過多は、 肉体へも影響を及ぼすだろう。 一時的な効果こそあれ、薬を乱用するだけでは、結局は根本的な解決にはならない。
それが心療系の薬であれば、尚の事だ。
「急に薬を止めるのは、 逆効果かもしれないけど」
それでも、量は早急に減少させる必要があるだろう。 これじゃ、麻薬と変わらない。





肩に、触れる。
腕に。胸に。手に。頬に。
時々、チチはこうやって悟空に触れる。
閨での愛撫のような、熱情を引き出すようなものではない。 ただ、触れて確認するような、何かを確かめたいような、そんな幼子にも似た動作だった。
「くすぐってえよ」
悟空はくすくす笑うが、チチは至って真剣そのものだった。
「悟空さ、悟空さ」
何度も小さな声で名前を呼ぶ。呼びかけではなく、 そう自分の口で声を発する事によって、何かの呪文をかけているかのようだった。
「何処にも行かねえだな?もうずっとここにいるだな?」
切羽詰ったような目で見上げられ、何度も何度も問い掛ける。その度に悟空は笑って 「ああ」と頷いた。
そしてその答えを聞く度、いつも決まって、力なくふるふると首を振る。
「嘘だ。悟空さはそう言って、いっつも行っちまうだ」
「でも、帰って来るじゃねえか」
今もすぐ傍にいる。
一度は死んだものの、結局ここにまた帰って来た。 だからここで、こうして触れることだって出来るのだ。
…でも。
「そう言って、またどっか行っちまうだ」
いつもいつも。
透明な瞳は、泣き出しそうに悟空を映す。
毎日のように何度も繰り返される、堂々巡りの会話。
一体どう言えば、判ってもらえるのだろう。





原因は唯一つ。
「孫君のせいでしょ」
相談したブルマにあっさり言われた時は、 随分びっくりして、目を瞬かせた。
「おら、何もしてねえぞ」
心底訳が判らずにそう言うと、 ブルマは盛大な溜息をついて見せた。
「あんたね、もう少しチチさんがどんな 気持ちでいたのか、考えなさいよ」
彼女は 今まで大切な人を、家族を、何度も何度も失ってきた。
しかも悟空はセル戦の時、 ドラゴンボールで生き返る所を、拒否までしたのだ。
そんな人が、ひょっこり帰ってきた。
嬉しいと同時に、不安なのだ。 今度は何時この人を失うことになるのか、不安で不安で堪らないのである。
「…でも、おらは生きてるぞ」
ちゃんとここにいる。
「じゃあ、それをチチさんに、ちゃんと判ってもらえるように、努力しなさい」
いい気味だ、ブルマは嫌味でなくそう言った。
今まで散々勝手ばかりして、心配させて、 不安にさせ続けていたのだ。死んだ時だって、チチがどんな気持ちで その死を受け止めようとしたか、この男はちゃんと判っているんだろうか。
それで今度は何事も無かったかのように、ひょっこり舞い戻っているのである。 考えようによってはこんなに、随分都合のいい、虫のいい話もなかろう。
「今度は孫君が、死ぬほど心配する番よ」
今まではチチさんが心配した、 その何十分の一かでも、しっかり味わいなさい。






喧嘩も、何度か交された。
薬を飲むな、と悟空は言うが、チチはそれを聞こうとしない。
「ただの薬だろ、そんな目くじら立てることじゃねえだよ」
「そんな事言ってんじゃねえ」
珍しくも声を荒立てる悟空に、それでもチチは はぐらかすように話を逸らせる。
何度捨てても、 薬はすぐに購入されている。きりが無い。
一度、本気でかっとなった悟空が、 つい強い力でチチの腕を掴んだ事があった。
その常人離れした腕力に、 チチは一瞬顔をしかめたが。
「おらを、殴るだか?」
向けられたのは透明な目。
声はヒステリックな訳でも、震えている訳でもなく。 ただ無垢な子供にも似た、静かな疑問詞。痛いぐらいのそれに、悟空は言葉を失った。
殴る事なんて、できるわけが無い。
悟空は、自分の腕力が どれほどのものかを正確に把握していたし、常人の身体に手をあげればどうなるかぐらい、 判っていた。
それに。たとえここで力に物を言わせたとて、何の解決にもならないのだ。
腕力は、なんて無意味なのだろう。
幾ら強くても。 世界を救うほど強くても。こんな時には、何の力にもなれない。





「チチさん怖いのよ、きっと」
「何が?」
「孫君が」
これ以上失うのが。





「おかえり、悟空さ」
「おう、ただいま」
向けられた笑顔は明るい。
今日は調子が良いようだ。 そうでない時は、酷く不安そうだったり、理由もなくヒステリックに怒られたりもするのだが。
「夕飯、もうちっと待っててけれなー」
鼻歌を歌いながら、 危なげのない手つきでじゃが芋の皮を剥く。
いつもと変わらない穏やかな様子は、 何処か結婚した頃を彷彿とさせ、その空気に悟空は安心した。
「なあ、悟空さ」
何気なく声をかけられ、何だ、と返事をする。



「おめえ、今度はいつ、かえってこねえんだ?」































無邪気にも似た笑顔での言葉。
じゃが芋の皮を剥く手は止めず、暖かい湯気の立つキッチンで。
チチはそう言って、鼻歌を歌っていた。




end.




7400カウントHIT、らりきちさまよりのリクエスト。

当然!『悟チチ』でお願いします!
A、あつあつ&らぶらぶ&いちゃいちゃ+やきもちが入り混じった『悟チチ』
B、かなりのシリアスモードの『悟チチ』
・・・どちらもなるべくなら、時代背景はcottonさんにおまかせします。
(もしおまかせではやりづらい時はAなら新婚時代、Bならパラレルでお願いします。)

(メールより抜粋)


一応Bを選んだつもりなのですが…。
ごーめーんーなーさーい!!
シリアスと言うよりは、むしろダーク。
あいたたた…後味悪すぎですね。(滝汗)
チチさんは、薬に頼るタイプではないと思います。
むしろ現代パラレルであれば、
悟空のほうが頼りそうですね。
(フォローの言葉になってないです、cottonさん)
らりきちさま、 とんだリク外し野郎で、
ほんっとに申し訳ありませんでした。
2002.04.03







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