不機嫌なロマンチック





1


 重たい。
 思わず足を止めて、ふうと息を吐く。
 調子に乗って買いすぎてしまった。右肩と左肩、それから両の手にもそれぞれぶら下げたショップの紙袋。達成感はあるけれど、流石にこれだけあれば嵩張るし重たい。参ったな、途中でタクシーを拾おうかとも思ったが、今日一日の予想以上の出費に断念する。
 よいしょと荷物を持ちなおし、はたと顔を上げると、真横にあるそのショーウィンドウに、目が止まった。
 綺麗に磨き抜かれたガラスの向こう側を、暫し見下ろす。
 視線の先にはペアリング。清楚な輝きを放つその横には、マリッジリングフェアのポップが、白を基調とした爽やかな造花のブーケと共に飾られてあった。
 まばゆいほどのその輝きに、ほう、とため息をつく。
「……綺麗だ……」
 プラチナ、ゴールド、ダイヤモンド。ディスプレイされたそれらは、ライトの光を受けて、きらきらと魅力的な光を放つ。
 自分が選ぶなら、どれが一番良いだろう。腰をかがめて覗き込み、あれもこれもと、自分の指に照らし合わせて想像する。毎日つけるならシンプルな形が一番だし、でもやっぱり可愛いくて洒落たデザインも素敵だし。
 その中で、ひと際輝くそれに目が止まった。
 小粒のダイヤモンドが一つだけあしらわされたその指輪には、シンプルながらも酷く鮮やかな輝きを放っている。暫し見とれ、でもこれって幾らぐらいなんだろう……視線を外して隣に並んだ値札、そのゼロの桁数に思わずくらりと眩暈がした。
 たらりと汗を流しながら、それでもじいっと見つめる。値札の隣に記載された聞き覚えのある有名宝飾ブランド名に、成程納得した。そりゃそうだろう、他と違って群を抜いて綺麗だもんな。流石はブランド物、やっぱり憧れてしまう。
 うっとりと見入る横。からん、と軽やかなドアベルの音に、何気なく顔を上げる。
 ショップの中からは、肩を組んだ男女のカップルが出てきた。密やかに耳元で何かを囁き合いながら、くすくすと密やかな笑い声を上げる二人には、恐らくお互いしか見えていないのだろう。こちらに気づく事無く背を向けると、寄り添うように向こうへと歩いて行った。
 子供の頃の夢は、好きな人の花嫁さんになる事だった。綺麗なドレスを着て、真っ白いブーケを持って。父親の腕につかまって、厳かにそこを歩き。教会のバージンロードのその先には、恋い焦がれて一緒になる、素敵な旦那様が笑顔でこちらに手を差し伸べて―――。
 そこまで夢想して、はっと我に返った。
「……何だべ、今のは」
 咄嗟に浮かんだその顔に、思わず頬に手を当てて首を振る。違う、違う。自分の思い描くのはそうじゃなくて、もっとスマートで、スタイリッシュで、都会的で、ロマンチックで、王子様みたいに素敵な人。決して決して、あんな男じゃない筈だ。
「まったく、冗談じゃねえべ」
 小さく口の中で呟くと、チチはそのまま振り切るような動きで、その場を立ち去った。





 各駅停車の駅を出ると、既に夕陽で空が茜色に染まっていた。
 長く伸びた自分の影を見下ろしながら、日中の暑さが残る道を、肩にかけたバッグを抱えなおしながら歩く。
 チチは自分の住むこの住宅街があまり好きではなかった。下町の昔ながらの街並みは、良く言えば風情があるが、チチの目から見れば酷く古臭くて野暮ったくて、生活の匂いがそこここに満ち満ちている。都会の大学へ通うようになってからは、特にそれが酷く所帯じみて目につくようになった。
 たとえば。お洒落で洋風の家が立ち並ぶ都会の新興住宅とか、郊外のレトロな洋風の家とか、アーバンチックなデザイナーズマンションとか。もしも自分がそんな所に住んでいたら、コンプレックスであるこの野暮ったい訛りも無かったかも知れない。男手ひとつでここまで育ててくれた父親には悪いが、自分の生まれた境遇が何だか酷く運悪く思えた。
 古ぼけた文化住宅を抜け、静かな日本家屋を横切り。そしてひと際大きく古ぼけた木張りの壁を折れた所で。
「っひゃああああ」
 突然。
 思わず上げたチチの声を非難する者はいないだろう。買って来たばかりの紙袋を咄嗟にかばったのは、我ながら上出来だ。
 前触れ無く、頭のてっぺんからかけられたそれは……水か? 前髪の先からぽたりと滴るそれに、大きな瞳を幾度も瞬きする。
「うわ、わりい」
 その家の玄関先からひょっこりと覗かせたのは、予想と違わぬ見慣れた顔。それをチチは、おもいっきり睨みつけてやる。
「……何て事すっだよ、悟空さ……」
 低く絞り出すようなその声に、彼女の怒りの度合いを推し量り、慌てて両手を合わせてひきつり笑う。
「す、すまねえって。ワザとじゃねえよ」
 水撒きしてたら、オラ、調子に乗っちまって。
 手にあった桶と柄杓を放り置くと、首に巻いていた手拭いを取り、濡れたチチの頭や肩を拭ってやる。
「ほら、最近昼間、結構暑いだろ」
 庭の草木も、その暑さにやられちまってさ。
 やたらと汗臭い手拭いでごしごし拭われるが、その遠慮の無い力加減ではただ痛いだけ。ふるふると震える肩。付き合いが長いだけに、彼女の怒りを肌で感じ、慌てて話題を探す。
「そ、そう言えばオラ、そろそろおめえんとこ、行こうと思っていたんだ」
 そろそろ、おめえが帰ってくるかなって思っててさ。
「もうええだよっ」
 いい加減、やめてけろ。手拭いを持つ彼の手を乱暴に押しのけて、チチは思いきりぷいっと顔を背けて見せた。
 悟空はもう一度悪かった、と謝るが、それを無視してチチはずんずん歩きだした。突き進むその小さな背中を追い掛けつつ。
「何だよ、そんなに怒んなよ」
「怒ってねえだ」
「でも、機嫌悪いじゃねえか」
 困ったように眉根を寄せながら、それでも隣に並んで歩く。
 ちらちらと横目でこちらを窺うその視線に、じろりと睨みつけ。
「……まーた、そっだら服着て……」
「あー、だって楽だからなー」
 のほほんとした声。
 彼が身につけているのは、絣の入った古風な柄の甚平だ。恐らくは、亡くなった彼の祖父のものだろう。着るものに無頓着の彼は、家にいる時は大抵それか、道着を着ていた。
「何で、普通に洋服を着ねえんだ」
 今時の同年代の着ているような、ごく普通の服を。お洒落しろとまでは言わないが、これじゃまるで、山奥の修行僧か、何処ぞの偏屈陶芸家みたいじゃないか。
「いいじゃねえか。別に」
 家にいる時ぐらい、どんな格好をしていようと、誰かに迷惑かけている訳でもあるまいし。
「並んで歩くおらが恥ずかしいべ」
「恥ずかしいっつーても、隣じゃねえか」
 敷地こそ結構あるとはいえ、お隣同士のこの距離なのだ。見られるにしても、昔からのご近所さんぐらい。何が今さら恥ずかしいんだ?
 むうっと頬を膨らませるチチに、すいと逞しい腕が伸びる。
「ほら、貸せよ」
 そのお隣同士の距離だと言うのに、悟空はチチの肩にかけている大きな紙袋をひょいひょいと取ると、軽い動きで自分の肩に引っかけた。
 ちらりと見上げると、にっと笑う。その男っぽい笑顔が、チチにはやたらと癪に障った。





 古ぼけた板張りの壁のその隣、こちらもまた年代物の純和風家屋がチチの家だ。
 門の引き戸をからりと開けると、その後ろからごく当然のように悟空も一緒に入ってくる。玄関をくぐり、靴を脱いで、そのまま台所に入ると、大きなテーブルの上に悟空は持っていた紙袋をどさりと置いた。
「おっちゃんは?」
「さあ。もうじき帰ってくると思うだ」
 言いながら、チチはテーブルの上に置かれた紙袋を確認する。どうやらどれも、さっきの水難からは免れていたらしい。
 ほっと一息ついて、一番手前にあった紙袋の中を取り出して広げる。ひらりと翻るそれを自分の体に当てて見ると、いつの間にやら背後に立った彼が同じように覗き込んでいた。
「……何だべ」
「いやあ、別に?」
 悪びれずにへへっと笑う顔を睨みつけ、そして、乗せられた紙袋の内の一つを取ると、ぐいと悟空に押しやった。
「おめえには、これだべ」
「へ?」
 訳も分からず受け取り、小首を傾げながら中から取り出したそれは、メンズもののカットソーだった。
「おらにか」
 間近に寄せられる笑顔に、チチはぷいとそっぽを向く。
「セールでたまたま安くなっていたから、買っただけだべ」
 そんな恰好ばっかりしているから、たまにはちゃんとお洒落ぐらいしろと思ってな。大した値段ではなかったし、単なるついで。たまには自分で服ぐらい選ぶだよ。
 憎まれ口をさらりと流すと、サンキュー、と悟空は笑う。広げると、値札が付いていた。本当に大した金額ではなかったようだ。それを指摘すると拳が飛んできた。悟空に対して、チチは力に遠慮はしない。
 鞄と紙袋の山を手に二階への階段を軽い音を立てて上がり、自分の荷物を全て自室において、台所に戻ってきたところで。
「なあ、風呂借りていっか?」
「ええだよ」
 バスタオルは、脱衣所のいつもの所に置いてあるべ。
 エプロンをつけながらのそれに、悟空はおうと軽く返事して、そのまま勝手知ったる風呂場へ向かった。
 悟空の祖父は、チチの父親の兄弟子にもあたる間柄だ。家は隣だし、チチ自身も幼い頃はその道場へ通い、一緒に拳法を習っていた時期もある。当然二人は顔馴染で、むしろ物心ついた時には、家族同然の付き合いが極当たり前にあった。遠慮なくこうして家の中を徘徊するのも、昔から普通に行われていた日常茶飯事なのである。
 台所から食欲を刺激する香りが立ち上がり始めた頃、からりと玄関が開く音がして、父親が帰ってきた。
「おお、チチ。今けえったぞ」
「おかえり、おっとう」
 仕事から帰ってきた父親を迎えると、タイミング良く風呂から上がった悟空が、脱衣所から姿を現す。
「お。おっちゃん、帰って来たのか」
「おお、悟空でねえだか。えれえ久しぶりだなあ」
 図体の大きいチチの父親は、からからと大きな声で笑って、湯上りの彼の肩を叩く。
 何だ、さきに風呂さ入ってただか。さあ、飯だ飯だ。チチの飯はうめえぞ。おめえも腹一杯食ってくとええだよ。見かけと同じく中身も豪快で飾り気のないチチの父親は、ばんばんと兄弟子の孫の肩を抱き、大皿に盛られた夕食の並ぶテーブルにつかせた。
 父親は子供の頃から、素直で性根の真っ直ぐな悟空に、随分入れ込んでいた。手料理に舌鼓を打つ中、悟空と父親は、まるで親子のように和やかに会話を交わしている。
 ビールのプルトップを開けながら、ふと思い出したように。
「そう言えばおめえ、何とかっちゅう武道大会に出るって言ってただよなあ」
 ああ。口いっぱいにご飯を頬張りながら頷く。武道家である彼は、武道大会に出場することがある。
「今月末だ」
 口をもぐもぐさせながら答える彼に、気負いは全く見られない。いつだってそうだ。悟空が試合前に緊張しているのを見た事が無い。むしろこれからの腕試しが、楽しみでわくわくしているぐらいだ。きっと、根っからの武道家なのだろう。
 おお、そっかあ。おめえは悟飯さんの孫だべ、ぜってえ優勝間違いなすだ。いやあ、頼もしいなあ。満足そうに頷きながら、牛魔王はビールを飲み干すと、ぷはあっとアルコール臭い息をついた。
 悟空は確かに強い。子供の頃からよく大会に出場すると、ほぼ例外なく好成績を収めていた。学生の頃は、武道の部活動のインターハイで優勝もしたし、高校を卒業の頃にはオリンピック選手として、各大学や団体からも幾度となく勧誘されたらしい。だがそれらを全て断って、進学もせず、今は亡くなった祖父の予てよりの願いでもあった道場の後を継いでいる。
「ヂヂも子供の頃は、よぐ悟空さの試合の応援に行ってただな」
 観客席から一生懸命応援する幼い姿を思い出し、懐かしげに目を細める。
「覚えてっか、ヂヂ」
 おめえ、あの頃は悟空さが試合に勝つ進む度に、えっれえ喜んで歓声を上げてはしゃいでて。
「んでその度におめえ、流石はおらの悟空さだべーって……」
「覚えてねえっ」
 父親の会話を遮る、きっぱりはっきりした声。彼女の声には、実に判り易い不機嫌さがありありと滲み出していた。
 その気迫に押され、思わず父親もぐうと息を詰まらせる。妙な緊張が流れる中、悟空のむしゃむしゃと食事を貪る音だけが止まらない。
 暫し間を置いて。呑気な声。
「チチも参加してたじゃねえか」
 実際、彼女の武道家としての腕も確かなものだった。幼い頃には二人で一緒に、試合に出場したことだってある。
「おめえ、全然道場に来なくなったもんな」
 昔は結構強かったのに、もったいないぞ。武術が嫌いになったのか? へらりと笑って、無邪気な顔で。
「また、観に来てくれよ。弁当持ってさ」
 ばん、とテーブルに箸を置く乱暴な音に、男二人はびくっと体を震わせた。流石に悟空も、その空気を悟ったらしい。
「……チ、ヂヂ?」
 恐る恐ると言った父親の声に。
「ごちそうさま」
 いっそ憎々しげにはっきりとした発音でそう告げると、そのまま立ち上がり、台所から出ていく。ついでのように、乱暴に絞められた引き戸の音に、残された二人は同時に肩を竦めた。
 苛立った足音が階段を登り切るのを聴き届け、男二人は目を見合わせた。





 自室の扉を閉じると、そのまま苛立ち紛れに、どっかりと自分のベットの上に腰を下ろす。
 最近は、家に帰るとずっとこうだ。大学へ行っている時は良い。でも、家に帰るとどうしてもイライラしてしまう。そして、その原因は自分でも分かっている。
 ふと、顔を上げると、壁に掛けられた姿見があった。鏡の向こう、不機嫌な顔をした自分が、腕を組んでこちらを睨みつけている。眉根に寄った皺の深さに、いけないいけない……人差し指でマッサージするように撫でて宥めた。
 そして、改めて鏡に映る自分の姿を見つめる。
 子供の頃からずっとこの街で住んでいて、チチにとってここが世界のすべてだった。だけど、高校を卒業して、ここから距離のある都会の大学へ行くようになると、如何に自分の住んでいた世界が小さかったかを実感した。
 都会に憧れて、大学へ行った訳ではない。だけど、そこにあった新しい刺激は、チチの乙女心を満たしてくれるものが溢れていた。そして、その刺激に触れた途端、自分を振り返り、その滲み出る生活臭いあれこれに恥ずかしさを覚えた。周りにいる誰も彼もが、眩しく見えた。そして、自分もそうなりたいと思った。
 でも、ふと自分の周りを見回すと、そうはなりきれないギャップに打ちのめされる。どんなに努力しても、どんなに着飾っても、所詮は田舎者。その事実を一番実感してしまうのが、この家にいる時なのだ。
 当てつけだとは分かっている。苛立ちの原因は、自分。その事を自覚して、自己嫌悪して、そして更に苛立つ悪循環に陥っているのだ。
 ベットの上には、今日買い物をしてきた諸々が無造作に置かれている。
 少々奮発して買ったワンピースは、今雑誌でも人気のセレクトショップで、吟味に吟味を重ねて選んだ。店員さんも太鼓判を押してくれたそれは、清楚な柄は可愛くて、我ながらなかなか似合っていると思う。
 初めて買ったパンプスは、華奢で、少しヒールを高めにした。デパートのコスメカウンターにも寄って、美容部員さんにあれこれ相談して、新色のアイパレッドとルージュに決めた。イヤリングとネックレスは小さめだけど、この服にはこれぐらいが似合う筈。
 鏡に映る自分は、そりゃあ田舎臭いし、野暮ったいかもしれないけれど。でも、自分だって磨けばそれなりに光るはずだ。
 そう、それこそが女の子の特権。
 負けてたまるもんか。そう、ぐっと拳を握ったその時。
 小さなノックの音に、チチはびくりと肩を竦めた。
「なあ、チチ」
 扉の向こうからの声は、如何を問わずに誰だか判る。
「何だべ、悟空さ」
 扉越しの素っ気無い返事。それにやや気後れしつつ。
「えっと……オラ、帰るな」
 夕飯、ごっそーさん。あと服、サンキューな。律儀にそれを告げにきたらしい。
 階段を降りる気配。台所にいる父親と二、三何か会話を交わすと、からりと玄関が開く音がした。窓の外からは、一人分の足音が夜闇に響く。
 その音が気になり、チチはそっとカーテンの隙間から顔を覗かせる。
 後姿は気配に敏感だ。体を捻るようにこちらを振り返ろうとするのに気づき、慌ててチチは窓から離れる。
 心臓に手を当てて、深呼吸すると、ぶるぶると頭を振った。
 違う違う。自分の求めている王子様は、あんなデリカシーの無い、能天気な格闘技馬鹿ではない。指輪の前で思い描いた、ロマンチックなタキシード姿の旦那様は断じて彼ではないはずだ。
 狭い世間で彼だけが全てだった、昔の自分では無い。















2


 時間をかけてシャワーを浴びて、髪を整える。慣れないメイクを丁寧に施して、ほんの少しだけ優しい香りの香水を纏った。
 そして、買ったばかりのワンピースに袖を通す。見立てたイヤリングとネックレスもつけ、鏡の前でバッグを幾つか合わせ、ヒールが高めのそれを箱から取り出す。鏡の前で、くるりと自分を見回し、全身を最終チェックする。よし、これでばっちりだろう。
 家の鍵をかけると、何となく緊張した心持で門を出る。
 駅へと向かう道には、悟空の家でもある、道場の前を通らなくてはいけない。開けっ放しの門の前をそおっと窺い、人の気配の無い玄関先に無意識にほっと胸をなで下ろすと、チチは早足に通り過ぎた。
 走り去ったその後。道場の奥からの、高らかに響く電話の音には気付かなかった。





 会場は、スタイリッシュな外装が目を引く、小洒落た洋風居酒屋だった。モダンな和風スタイルの個室に案内されると、既にもう殆どのメンバーが揃っている。
 チチ達のグループが入ってくると、待ってましたと声が上がった。
 緊張に気後れしていると、気さくな声がこっちこっち、と掛けられる。言われるままに、チチは肩を竦めて腰をおろした。
 今回参加したのは、大学の友人のサークルの合同コンパだ。今までも幾度となく誘われてはいたのだが、そう言った場が苦手なチチは、いつもやんわりと断っていた。
 その彼女が、今回は珍しく自分から行きたいと言い出したのである。珍しいと笑われつつも、お堅い彼女の心境の変化に、嬉々として誘ってくれたのだ。
「はじめまして、だよね」
 隣に座っていた青年が、優しい口調で声をかけ、目の前に置かれていたグラスにビールを注ぐ。初顔のこちらを気遣ってくれているのだろう。それを感じて、チチは緊張を少し和らげた。やっぱり、勇気を出して来て良かったと思った。
 さて、これで全員集まって乾杯か……との流れの中、まだ一人来ていないらしいとの声が上がる。
 えー、あいつ、やっぱり来るのか? コンパって、嫌いじゃなかったっけ。いやあ、たまには顔を出せって言ったから。わざとコンパって言わなかったんだろ。じゃなきゃ、あいつ来ねえよ。だから、時間ぎりぎりに電話したんだって。
 そんな会話が、チチの頭上で交差する中。ふと、周囲の男性陣が、やたら体つきのしっかりしている事に気がつく。何となく疑問と不安に思いつつ。
「なあ……そう言えば、サークルって、何のサークルだべ?」
 友人のサークルは聞いていたけど、合同と言う事は、別のサークルと一緒なのだろう。チチに声をかけられて、隣の青年はああ、と笑った。
「一応、俺達は武術のサークルなんだ」
 結構皆、いろんな大会にも参加してて、そこで知り合ったメンバーばっかりなんだ。
 武術大会にチチがぴくりと反応したと同時に、からり、と個室の扉が開かれた。
「よお」
 遅れちまって悪かったな。
 聞き覚えのある声に、ぎょっとチチは顔をひきつらせた。
 そおっとそちらへ顔を向けると、遅れて到着した噂のその人が、皆に促されながら入ってくる。
 ひょい、と顔を上げた所で、固まったまま凝視するチチと、まともに視線がかちあった。
「あれ、チチじゃねえか」
「ご、悟空さっ?」
「何でおめえがこんな所にいるんだ?」
 不思議そうな顔の問いかけ。それはこっちの台詞だ。
 そして、まるでそれが当然の如く、ちゃっかりチチの横に腰を下ろす。
「なっ、何で、ここに座るだよっ」
「え。だって、空いてっから……」
 きょとんと無邪気に目を丸くする悟空に、冗談じゃない、思わず腰を上げ掛けるが。
「あ、乾杯すっぞ」
 移動しようとするのを悟ってか、細い手を引き、ひとまずその場に座らせる。
 これで全員が揃ったらしい。一同手にグラスを持つと、幹事の乾杯の声が上がった。
 それが終われば後は無礼講。皆それぞれに、和やかな話し声が上がる中。
「……なあ」
 むっつりした顔でビールに口をつける隣のチチに、悟空が声をかける。
「何怒ってんだよ」
「別に……」
 短くそれだけを告げると、あとは視線さえ合わせない。
 それ以上声を掛けられる空気ではなく、こんな場所で無理強いして聞く事でもなく。とりあえず悟空は、目の前に並べられた料理に意識を向ける事にした。
 なあなあ……と、テーブル向こうから声が掛けられる。
「二人は知り合いだった訳?」
 どうやら、さっきのやり取りから判断されたらしい。
 まさか。慌てて否定しようとするチチよりも早く。
「ああ」
 家が隣同士だからな。あっさりと肯定される。チチは牽制するように睨みつけるが、悟空がそれに頓着する様子はない。
 そうだったんだ。じゃあ今回は二人で参加? いや、全然知らなかった。それにオラ、今日はこんなに集まってるって知らなかったぞ。だって、教えたら来ねえだろ、お前。違いねえや。
 打ち解けたやり取りから、二人の親しさが窺える。成程、昔から悟空は武術大会に良く出場していた。彼は案外人懐っこい、顔馴染のメンバーが出来ても不思議はない。
 黙って聴きながら、チチはビールを一気飲みする。その飲みっぷりに、悟空が少し眉を顰めた。
「おい、あんまり無茶すんなよ?」
 おめえ、そんなに強ええ方じゃねえんだから。
 恐らく二人には極当たり前の会話なのだろうが、それだけにその距離の近さが滲み出ている。
「なあ、悟空。チチさんって、子供の時はどんなだった?」
 ん? 大皿料理を一人で貪りながら、顔を上げ、うーんと唸る。
「昔っから、あんま変わんねえな」
「例えば?」
 そうだなあ。
「負けず嫌いだし、すぐ怒るし、すぐ泣くし……あと、料理がすっげえうめえな」
 へえ、と周りの声が上がる。一見、純情で清楚な印象のある彼女だ。負けず嫌い云々はさておき、料理が上手いというのは、成程イメージにぴったり当てはまる。
「てか、何で料理上手って知っているんだよ」
 尤もなその突っ込みに。
「だって、いっつも食ってるもん」
「ご、悟空さっ」
 声を上げるチチに、なあ、と笑う。
「いっ、家が隣だから、し、仕方なくだべっ」
 昔から家族ぐるみの付き合いがあったし、一人暮らしだし、自分の事には無頓着だし、野性児だし、見ていられないから。慌てて言い訳のような言葉を連ねるチチの横、いつも悪ィな、とのほほんと悟空は笑う。
「あー、まあ、チチさん、何か良いお嫁さんになりそうなタイプだもんな」
 その言葉に、向こう隣りに座っていた別の青年も、うんうんと頷く。
「こう、しっかりしてそうだけど、守ってあげたい感じだし」
「良い奥さんになりそうなタイプだよな」
「そ、そうだか?」
 照れてはにかむ様子さえ、可憐に見せるその横で。
「でも、こいつ、結構強ええぞ」
 昔はオラの道場で、一緒に武道を習っていたからな。ありのままの悟空の言葉に、チチは顔をひきつらせる。
「っ、何を言うだよっ」
「下手な男なんか、全然平気でやっつけちまうもん」
 笑顔の彼に、悪意がないのは判っている。彼なりの褒め言葉なのだろう事も理解している。だがそれを、わざわざ今、口にすることはなかろうに。
 それ以上、余計な事は言わねえでけろっ。視線でそう訴えても、勿論そこら辺に察しが良い相手ではない。
 へらりとしたそれを、怒鳴りつけてやろうと口を開きかけた所で。
「道場って、何かやっているんですか?」
「ん? ああ」
 向こう隣りからの華やかな声に、悟空は顔を向けて頷く。
「こいつさあ、今は武術の道場主やっているんだよ」
 すげえ強くてさ、大会でもしょっちゅう優勝するんだぜ。傍にいた誰かの説明に、きゃあと声が上がる。
 へえ、凄いんですねえ。優しそうに見えるのに。強いんですか? だって、腕なんてすっごく太くて逞しいですよね。悟空の話題に、数人の女の子が集まる。どうやら声をかけるタイミングを見計らっていたらしい。
 それを横目で見ていると。
「悟空ってさ、あれで結構もてるんだよな」
 隣りに座っていた青年が、チチにそっと耳打ちした。
 知っている。小さい頃からずっと同じ学校に通っていたのだ。朴念仁で武術にしか興味がないけれど、それだけに純粋で、素直で、面倒見も良くて、強くて、でも笑うと案外可愛い顔をしていて、だけど真剣な顔をすると意外なくらいに精悍な目になって。だからこっそりと人気があったなんて、きっと彼は知らないし、興味も無かったのだろう。
 ふん、関係ねえだ。
 ぷいと顔を背けると、隣の彼ににっこりと笑い、ビールジョッキを追加した。





 ずんずんと歩くチチの三歩後ろ、悟空は呑気な足取りでついてゆく。
「おーい、チチィ」
 そんなに速足で歩くとあぶねえぞ。
 チチはそれほどアルコールに強い方ではない。だけど今夜の見る限り、随分ペースが速かったようだ。ふらふらした様子に眉をしかめつつ、二次会にカラオケに行くと盛り上がる輪の中から、さり気なく引き離して家路を促したのは悟空である。
 悟空は、元々あまりアルコールが好きな方ではない。だから皆でこうして飲みに行っても、付き合い程度に最初に唇を濡らす程度しか口にしない。今日も殆どウーロン茶で、食事を消費する方に専念していた。
「最っ低だべっ」
 吐き捨てる言葉に、悟空がきょとんと瞬きする。
「何で悟空さが、来たんだべっ」
「いやあ、オラも良く知らなかったんだって」
 突然の電話で、たまには顔を見せろと呼び出されただけである。どうせ暇だしと出て来たが、それがあんな席とは聞かされていなかった。
「折角……」
 素敵な王子様を見つけようと、一生懸命お洒落してきたのに。
 吐き捨てようとした小さな呟きは、結局音にならずにそのまま吐息になって零れる。
「どうした?」
「何でもねえだ」
 おめえには関係のねえ事だべ。
 とは言え前を歩くチチの足元が、やや覚束ないのを見て取っている。ぐらりとぶれる体に、見かねて腕を伸ばした。
「ほら、でえじょうぶか?」
 武骨な手が、慣れた動きでチチの肩を支える。
「足、いてえんだろ?」
 歩き方で判る。慣れないヒールで、どうやら足のマメがつぶれているようだ。
「放っおいてけろ」
「そんな訳にもいかねえだろ」
 こんな彼女を捨ておける悟空ではないし、そんな間柄でもない。
「タクシー呼ぶか?」
「いらねえ」
「どっかで休んでいくか?」
「嫌だ」
 とは言え、顔は真っ赤だし、気分も悪そうだ。一つ息をつくと、悟空は半ば強引な力で引き寄せ、軽い動きでさっさとチチを背中におぶった。
「悟空さっ」
 いきなりなそれに抗議の声を上げるが。
「判ったから、そこでじっとしてろって」
 文句は明日、酔いが醒めてから聞くから。宥めるようなその声に、チチはぐうっと言葉をのみ込んだ。
 本当の所、足の痛みはかなり酷くて、一歩踏みしめるのも辛いぐらいになっていた。勢いで飲んだアルコールも、未だに覚めずに頭がぐらぐらしている。
 しっかりした足取りの背中に、観念したように体の力を抜いた。
「気分悪くなったら言えよ」
 チチは答えず、筋肉質な背中に脱力したまま目を閉じた。深く息をつくと、くすぐったそうに悟空の肩が揺れた。
 足取りに合わせてゆらゆらと体が揺れる。子守唄にも似た心地よさが眠気を誘う。とろとろと瞼が重くなり始めた頃。
「……大学、楽しそうだな」
 何処かしみじみとした響きに、チチはとろりとした目を瞬きさせた。
 なんかさー。うーん、と言葉を選びながら。
「ほら。オラ達って、ガキの頃から一緒だった時がなげえじゃねえか」
 ずっとお隣同士で。小学校も中学も高校も。同じ校区だから、当然のように同じ学校へ通っていた。自然、二人の世間は常に共通しているのが普通だった。
 二人で同じ学校へ通っていた頃は、登下校も殆ど一緒で、定期テストの時は一緒に勉強したり、ついでに毎日の弁当まで作って手渡していた。顔を合わせるのにタイミングを図る必要さえない、そんな毎日だった。
 だけど、今は違う。
 それがチチが進学して、悟空が道場を継ぐ生活になった現在。二人の生活する場所は、全く違うものになってしまった。
 悟空は道場にいる事が多いが、チチはここから通学に時間のかかる都会の大学に通っている。朝は早く、帰宅は夕方か夜。むしろ、顔を合わせない日の方が今は多いのだ。
 なんつーか、さあ。
「オラ達、これからどうなるんだろうって、思っちまった」
 寂しげというにはあっさりしていて、不安と言うにはけろりとしていて。でもきっとこれは、悟空が今抱いている純粋な疑問なのだろう。
 子供の頃は、今の生活が永遠に続くと思っていた。周りはどんどん変わっていっても、自分は何一つ変わらない。だから、永遠に今が続く事を、単純に信じていた。
 でも違った。たとえ自分は変わらなくとも、周りは変るのだ。
「オラさ、ずーっとチチと一緒かと思ってたなあ」
 ずっとお隣同士に住んでいて、ずっと飯を食わせて貰って。そんな生活がこのまま終わることなく続くと思い込んでいた。
 チチは目を閉じたまま、ぼんやりと口を開く。
「……そんなの……無理だべ」
 ため息交じりの声。吐く息がアルコール臭い。
 そうだよなあ、と笑い声が返る。その通りだ。
「……結婚でもすれば……続くのかもしんねえけどな」
 少なくとも、そうすればずっと一緒で、ずっと一緒に食事をする生活が続くだろう。
 聞き取れないほどの、尻すぼみの小さな声。チチ? 名前を呼ぶが、何時まで待っても返事はない。
 やがて響く、すう、と健やかな寝息。肩ごしに窺う健やかな寝顔は、子供の頃と変わらない。
 悟空はくすりと笑うと、小さな体を背負いなおした。















3


 台所に立って、不器用な手つきで玉ねぎの皮を剥きながら、悟空はぼんやりと考える。
「何だかなあ」
 鍋に火をかけると、包丁で四つ切にした玉ねぎと大目に牛肉を放り込む。みじん切りなんて出来やしない。それに、玉ねぎは豪快に使ってじっくり煮込むのが悟空は好きだった。
 軽く炒め、湯を足し、蓋をする。後は水の量に気をつけ、時間をかけてじっくり煮込めば良い。こういった料理は、細かい技術も無く、それなりに仕上がるからありがたい。
 殆ど毎日隣の家に厄介になっているとはいえ、そうじゃない日だって勿論ある。それに今はすぐそこのコンビニに行けば、それなりに何でも用意されている。だけどそれじゃあ物足りない。
「チチの飯が食えねえのも、辛えしなあ」
 おめえは食う事ばっかりだなあ。昔から、チチには幾度となく、それこそ毎日のように言われていた言葉。でも仕方ない。食べる事は生きる糧だし、旨い料理がたらふく食べられるのは悟空にとっての幸せでもある。
 別に、料理ぐらいは自分でもできるのだ。
 だけど、チチの使う魔法には、どんな料理も叶わない。
 それに。
「……それだけって訳でもねえと思うぞ」





「おーい、おっちゃん」
 玄関から声をかけると、家の奥から声が返ってきた。
「悟空さかあ。まあ、入れや」
 言われるままに、悟空は遠慮なく家に入る。台所に入ると、チチの父親が新聞を読んで寛いでいた。
「おっちゃん、チチは?」
「出かけていねえだよ」
 何でも、友達と食事をして帰るって言ってただ。
「そっか」
 残念そうながら、それでもあっさりと納得すると、台所のコンロの上に持ってきた鍋を乗せる。
「カレー作ってきたから、おっちゃん、一緒に食おうぜ」
「そっか、ありがてえな」
 いい匂いだべ。大きな体をゆすりながら、実に人の良い笑顔を浮かべた。
 新聞を折り畳み、食器棚からカレー皿を用意する。図体がでかい男二人が、並んで夕食の準備にとりかかるのは、傍から見れば滑稽ながらもなかなか微笑ましい。
 鍋のカレーを温め直しながら。
「おっちゃん、チチ、遅くなっかな?」
「かもしれねえな。最近は合コンとやらに、良く行ってるみてえだからな」
 あいつももう、いい年頃の娘っ子だからなあ。
「何でも、素敵な恋人さ早く見づけて、早く結婚してえんだと」
 全く、娘っつーもんは、持つもんじゃねえべ。はは、と何処か寂しげに笑うそれに、そっか、と曖昧に返事する。昔からチチは結婚願望が強かった。彼女が瞳をきらきらさせながら熱く語る夢物語を、悟空も聞いた事がある。
「昔はあ、よぐオメエの嫁さんになるっつーてたよな」
 おめえ、憶えてっか。笑いながら向かい合わせにテーブルに着くと、温まったカレーを目の前に並べて二人、食べ始める。
 幼いチチは、少々ませた女の子だった。結婚の言葉さえ知らなかった悟空に、お嫁に貰ってくんろ、と約束させたこともある。
「おらも、正直。悟空さとチチの奴が、本当に一緒になるんでねえべかと、思っちまってた時もあっただなあ」
 子供の頃から、二人はそれぐらい本当に仲が良く見えた。そうして、三人でずっとこの家で一緒に食事する生活が、このまま続くとと錯覚していた。でも、都会の大学へ行ったチチは、新しい世界で新しい出会いを探そうとしている。
 遠い視線でそう告げる言葉にを、悟空は黙って聞いていた。
「……まあ、こればっかりは、当人たちの問題だべ」
 おらの夢を、わけえおめっ達に押し付ける訳にゃ、いかねえからな。それにあいつは、気が強くて、意地っ張りな所がある。あっだら娘っ子、なかなか並の男じゃてえへんだべさ。
 大きな腹を揺すりながら、牛魔王は笑う。つられて、悟空も笑った。
 ふわりと風が吹き、カーテンが煽られる。それに誘われるように、二人、視線を窓へと向けた。
「……なんか、雨降りそうな空だべなあ」





 本降りになってきたようだ。
 窓ガラスに当たる雨粒の線が、さっきよりも多い。電車の扉口立ったチチは、丁寧に整えた指先で、窓ガラスに流れる滴のラインをなぞる。
 最近友人に薦められて、ネイルサロンで整えて貰ったベージュのフレンチネイルは、とても綺麗でつややかで、思わず自分でもほれぼれ見惚れてしまう。流石にプロは違うだなあ。 指先をひらひらさせ、その指を折りながら、先程までの経緯をもう一度繰り返す。
 先日の合コンで知り合った彼は、優しくて紳士だった。慣れないこちらを、鷹揚にリードするエスコート振りが、酷く頼もしかった。最近雑誌で紹介されたらしい、イタリアンのお店に連れて行って貰った。(高いお店なのに御馳走して貰った)食事の後のデザートを、甘いものが好きじゃないからと貰ってしまった。(苺のジェラードが凄く美味しかった)別れるにはまだ早い時間だからと、お洒落なバーに連れて行って貰った。(初めて飲んだカクテルは、とても綺麗な色をしていた)また良かったら二人で食事に行かないかって誘ってもらった。(携帯の呼び出し音を、自分専用にセットしてくれた)
 まるでドラマみたいなロマンチックなシチュエーションの流れに、チチは夢見心地で溜息をついた。まあ、これが誰かさんならとてもじゃねえがこうも行くめえ。大食らいだからあんなお店でなんか食べれないし、デザートなんてこっちの分まで平らげちまうだろうし、お酒なんて飲まないからお洒落なバーなんて知らないだろうし、携帯なんて義理で持っているだけで殆ど使わないだろうし。
 きっと、高価なイタリアンなんか量が少ないと文句を言うだろう。綺麗な色のカクテルも甘いだけだと、一口飲むだけでいらないというだろう。お洒落なバーも、落ち着かないとすぐに出たがるだろう。ああ、ムードもへったくれもありゃしない。
 だけど、美味しいイタリアンもデザートも、彼にも食べさせてやりたかったと残念に思う気持ちがある。綺麗なカクテルも見せたかったし、恥をかくのは目に見えているけど、やっぱりお洒落なバーでの反応が知りたかった。
 そこまで考え、自分がいつも誰かと彼を比べている事実に、チチはひっそりと落ち込んだ。
 つまり。結局、何をしても、そこにたどり着いてしまうのだ。
 そんな自分の思考に、ひとり落ち込む。
 ぽつりと呟く。
 何だか。
「……疲れちまったな」
 憧れていたロマンチックなデートコースを味わったのは良いけれど。慣れない場所、慣れない雰囲気、慣れない空気、慣れない相手に、チチは緊張の連続だった。楽しむ余裕なんてありはしない。自分の子供っぽさと田舎臭さを隠すのに気を配り、ずっと必死だった。
 背伸びをしている自覚はある。きっと今の自分は物凄く無理をしているのだろう。電車のガラスの自分の顔には、確かに疲労も映っていた。
 電車が止まり、プラットホームに出る。どうやら雨脚も増してきたらしい。おっとうには大体の帰る時間は伝えていたけど、どうしよう、電話して迎えに来てもらおうか、それもタクシーでも使おうか。改札口を通りながら、ぼんやりとそう考えていた所で。
「よお、チチ」
 お帰り。ひょい、と目の前に現れるその姿に、チチは大きな瞳をさらに大きくした。
「……悟空さ?」
「迎えに来たぞ」
 ほら、と傘を差し出し、人懐っこい顔でにっと笑う。
「何で、わざわざ……」
「んー、おめえ、傘持っていかなかったんだろ」
 おっちゃんが言ってたからな。コンビニ来たついでだ。
「……まーたおめえは、そっだら恰好で」
 恐らくは、こんな時間まで道場で練習していたのだろう。悟空は汗臭そうな道着のまま、片手にペットボトルの入ったナイロン袋を提げている。さっきまでのロマンチックな余韻が、この姿で一気に冷める。でも、肩の力が降りた気もした。
 帰ろうぜ。ぽん、と傘を開きながら、数歩離れた先で待って。もう一つの傘が開いて横に並ぶと、二人はそのまま歩きだした。
「おっちゃんが心配してたぞ」
 急に化粧したり、そんな恰好でふらふら出歩いてばっかだし。折角大学にやったのに、不良になっちまったんじゃねえかって。
「大袈裟なんだべ」
 こんな事、同世代の大学生なら、普通で当然の事だ。
 大学へ行く前までは、夜遊びなんて不良のする事だとチチも思っていた。だけど実際、同じ大学の友人たちは、皆もっと普通に、夜まで遊びまわっている。家が遠くて、いつも帰宅時間を気にしてしまう自分と違い、夜通し遊ぶ事だって特別じゃない。それを思えば、何だかんだと必ず家には帰る自分は、まだ全然お堅い方である。
「別に。おらは普通だべ」
「だったら良いけどよ」
 そこで、会話は途切れた。
 隣には、普段通り飄々とした、何を考えているのか分からない道着姿の悟空。
 不意に苛立ちを覚える。憧れのデートをしていた筈なのに、夢見たような一日だった筈なのに。すべてを終えた自分は、何故こうも隣の朴念仁を意識しているのだろう。しかも当人は普段と変わらず、何事もないような涼しい顔だし。
 きっと知らないのだろう。頑張ってお洒落をしても、美味しい食事をしても、お洒落なバーへ行っても、結局考えているのは悟空の事だと言うのに。楽しくても、嬉しくても、いつも悟空を引き合いに出して考えている事実に、理不尽な怒りが込み上げてきた。
 はあ、とチチはため息をついた。
 やり切れない心地でのそれに、意識を向けたのは悟空である。
「どうした」
 別に。疲れたように首を振りながら、もう一つ息をつく。
「何だか、むしゃくしゃした気分だべ」
 彼の足が止まったのは、丁度道場である自分の家の前にたどり着いたからだ。そのまま横を通り過ぎ、自分の家へと向かおうとするチチの腕を、ぐいと引く。
 なあ。やたらと嬉しそうに彼の顔に、チチは片眉を上げる。
「良い方法、知ってっぞ」
 おめえのむしゃくしゃした気分を、すっきりさせる方法が。
 にっと笑う顔の近さに、無意識に胸が鳴る。むしゃくしゃの原因が、一体何を言うか。
「来いよ」
 はあ? 腕を引っ張られ、そのまま玄関から中へ引き込む。強引な力に引きずられながら。
「ちょっと、悟空さ……っ」
「大丈夫だって、今誰もいねえよ」
 電気のついたままの道場に、にかっと笑う。誰もそんな事は聞いていない。思わず顔を赤くすると、ふと、悟空は真顔でチチの姿を上から下までじっと見つめる。今日はふわりとしたスカート姿である。覗いた膝あたりで止まった真剣みを帯びた眼に、チチはどきりと胸を鳴らせた。
「ま、いっか。オラのを貸してやっから」
 瞬きを繰り返すチチに、無邪気な笑顔で。
「むしゃくしゃする時は、体を動かせばすっきりするぞ」





 むっつりと頬を膨らませて道場に入ってくるチチに、悟空はおっと目を見開いた。
 更衣室で着替えてきたのは、悟空の着替えの道着だった。当然体格の違いでかなり大きいが、それでも腰ひもを強く結んで裾を折り曲げれば、何とか着れないことも無い。流石に上は誤魔化しきれずTシャツ姿であったが、それもかなり大きくてだぼついていた。
 裸足に感じる、ひやりとした床の感触が懐かしい。思えば、チチも結構長くこの道場に通っていたのだ。独特の緊張感のある室内の空気に触れると、無意識に気が引き締まる。
「久しぶりだな、おめえがここに来るのも」
 チチは高校に入る頃から、道場に来なくなった。悟空はその理由を知らない。あえて聞くことも無かった。
「ほら、こっちこっち」
 ちょいちょいと手招きして、道場の中央へ誘う。不機嫌な顔のまま、とりあえず示される場所へと足を運んだ。
「おらじゃ、おめえの相手なんて務まらねえぞ」
 二人の実力には、明らかな隔たりがある。しかも、チチは武術から離れて随分経っていた。
「オラはおめえを攻撃しねえから」
 向かいに立ち、自信満々に笑いながら。
「どんな手段でも良い。一発でもオラに攻撃出来たら、チチの勝ちだ」
 むっとチチは眉を顰める。こちらの負けん気を煽るつもりらしい。
「チチが勝ったら、何でも言う事きいてやるぞ」
 勝負事のつもりか。不敵に笑う口元が癪に障った。指を組み、軽く腕を伸ばすと、改めて悟空の前に対面する。
「何でもって……本当だべな?」
「ああ」
 乗ってきたチチに、嬉しそうに頷いて腰を落とす。
「ハリーウィンストンの指輪でも?」
 わざと判らないであろう宝飾品メーカーの名前を出すと、案の定彼は「なんだそれ?」ときょとんと瞬きさせる。それでもまあいっかと呟き、ああ、と確かに頷いた。よし、言質はとってやった。
 チチは少し呼吸を整えると、腰を落として構える。懐かしい感覚。それでも体は覚えている。変わらない綺麗な構えに、悟空は満足げに笑った。
「来いよ」
 腰を落とす彼の瞳に、もう戯れは見えない。チチは床を蹴った。
 ブランクこそあれ、チチの動きは確かだ。師に教えられた基本通りの型は、彼女の真面目さも物語っていた。寸分の狂いも無く急所を狙う動きの正確さには、悟空も素直に感心する。力こそ無いが、彼女の攻撃は武術としての威力が確かに備わっていた。
 流れる様に繰り出される手刀や突きを、だが、悟空はきっちりと見切っていた。彼女の動きは、「基本に忠実」過ぎる欠点がある。同じ門派を習っていただけに、彼女の動きを読むのは容易い。しかも、ブランクの分だけ、流石に動きは鈍っていた。
 宣告通り、悟空は受け流す事に専念するだけで、攻撃らしいものは何一つ返されない。こちらを見据える黒い瞳には、真剣さこそあれ、充分な余裕が窺えた。悟空にとって、この組手自体、彼女の気分の発散に付き合っているに過ぎない。戯れではないけれど、決して真剣ではないのだ。
 風のようだ、と思う。とりとめがなくて、掴みどころがなくて、いつもするりと何事も無いようにかわされる。きっとそれが、彼の本質なのだろう。ずるい本質だ。それが、チチには腹が立つ。
 苛立ちの分だけ、冷静さは欠け、動きが散漫になる。その焦りが、更に苛立ちを募らせた。
 雑念を、彼は見逃さない。振り下ろした手刀を抵抗さえ感じない動きで手の甲で受け流し、悟空はするりと体を入れ違えた。あれ、と思った瞬間、彼の膝小僧がこちらの膝裏を軽く押す。子供の悪戯のようなそれ。自然、かくりと足が折れて、そのまま呆気なく床に膝をついてしまった。
 言葉無く、チチは唇をかみしめる。悔しい。攻撃しないと言ったくせに。何もこんな、相手を馬鹿にするような方法を使う事はなかろうに。きっと睨み上げると、悪戯を成功させた彼の笑顔がそこにある。息に乱れはない。こちらはもう、すっかりあがっているというのに。
「もう一度だべっ」
 すくっと立ち上がると、チチは更に攻撃した。悟空は意外そうに眼を瞬きしたが、それでも嬉しそうに、チチから繰り広げられる攻撃をかわす。彼は純粋に武道を楽しんでいるのだ。
 チチが高校に入り、道場に通わなくなったのにはそれなりの理由があった。
 もともと、武術が特別好きだった訳ではない。たまたま隣に道場があり、道場主が父親の兄弟子でもあり、そこに同年代の悟空がいたから、自然その流れで道場に通い始めた。仲良くなった悟空と一緒に武道を学ぶのは、一緒に遊ぶことと似ていた。彼が楽しそうに武道を学ぶから、それが楽しいものなんだと自分も思っていた。
 中学生の頃、周りの皆はチチが道場へ通い、その実力を知っていた。だからクラスの男子と衝突すると、子供特有の残酷さで、男より強い男女と罵られた。それがチチは嫌だった。女にとって、強い事は馬鹿にされることはあれど、決して褒められる対象にはならないのだ。
 自分は女なのだ。男とは違う。思春期に入り、それを自覚すると、自然道場からの足は遠のいていた。
 でも、目の前のこの男は、未だに昔と同じくこうして自分に対峙する。子供の頃とは違う。あの時はささやかだった力の差も、今は大きな隔たりがある。それでも、彼は昔と変わらない。こちらを見つめる瞳は昔のままだ。
 相手にならないと知りつつも、あの頃チチはこうして悟空と組手をするのが好きだった。こうしていると、彼は何事も見逃すことをせず、真正面から自分を見つめてくれるから。
 でも、気がついたのは何時だっただろう。
 その時の彼の眼は、決して自分が望んでいたものではない事に。
「ん? もう、終わりか」
 膝に手をついて、荒くなった呼吸を整えるチチを覗き込む。やはり体力差は否めない。彼に呼吸の乱れはなかった。こちらがこんなに必死なのに対して、彼は軽い準備運動程度にしか感じていないのであろう。
「……変わんねえな、おめえは」
 切れ切れの言葉に、ん? と瞬きする。
「昔っから、おらの事、女と思ってねえだろ」
 彼にとっては意外だったのだろう。心底驚いたように瞠目した。
「オラ、ちゃんとチチが女だって判ってっぞ」
 どうだか。女扱いしている相手に、こうやってストレス解消の手段に道場で組手に誘うもんか。
「まあ、対戦相手だもんな。男も女も関係ねえか」
 自虐的に呟き、肩で息をする。顎に伝う汗を手の甲で拭った。
 今なら判る。自分が欲しかったのは、対戦相手を見据える瞳じゃない。ちゃんと、女の子として意識してくれる、男の子の瞳だった。
 チチは変わったのだ、悟空を見る目が。
 でも、悟空は何時まで経っても変わらない。
「今日会って来た人はな、すっごく優しくて、大人っぽくって、ちゃんとおらを女性として扱ってくれただ」
 先日のコンパで知り合った彼は、悟空とは全然違っていた。一人の女の子として、ちゃんと見てくれていた。今回も気遣いの垣間見える優しさで食事に誘ってくれて、一生懸命お洒落した姿を可愛いと褒めてくれ、初なチチを有頂天にさせてくれた。
「今度の日曜日も、食事に誘ってくれたべ」
「そっか」
 オラの武道大会の日だな。けろりとした悟空の返事に、逆撫でされる。その激情のままに拳を振り上げた。勿論彼は油断することなく、構えを崩さずそれを避ける。
「馬鹿っ」
 この期に及んでまだ逃げるか。じわりと目に涙が滲んだ。こうなったら、意地でも殴り飛ばしてやる。
「悟空さのいくじなしっ」
「へっ?」
 何でそこでそんな事を言われるのか分からず、間の抜けた声を上げてしまう。ただ、それでも隙はなかったけど。
「悟空さなんか、おらを女として扱った事ねえくせに」
「んなことねえよ」
 現に今だって、女である彼女に怪我を負わせるようなことはしていない。先ほどのささやかな悪戯だってそうだ。第一、なんで今、そんな話になっているんだ?
「かわしてばっかりで、なにも出来もしねえくせに」
 話の流れを頭の中で反復させる。良く分かんないけれど、つまり。
「おめえを女として、攻撃しろっつーのか?」
「やれるもんなら、やってみるだよ」
 悟空さなんかに、出来っこねえだ。
 その言葉の一拍後、悟空はやや攻撃的に目を細めた。
 あっと思った瞬間。
 瞬きよりも早く、目の前には見た事がないほど真剣な悟空の顔があった。痛いくらいの眼差しに捕われる。目の前で見据える瞳には、瞠目する自分が映っていた。
 鼻先が擦れ合う寸前の、互いの呼吸を感じる距離。彼は武道家だ、間合いを詰めて相手の懐に飛び込む術に長けているのは当然の事。悟空にすれば本当に容易い動きである。
 すい、と足元をすくわれる。視界が揺らいだ。体が完全に宙に浮かぶ。受け身が取れない。背面に受ける痛みを覚悟したが、背中に回された腕に抱き込まれ、後頭部は大きな掌で受け止められる。腕一本の支えであるにも関わらず、床に倒れ込んだ瞬間、チチの体のどこにも衝撃は無かった。
「……できんだよ」
 これぐらい。
 一緒に倒れ込んだ圧し掛かる体は、先ほどまでの動きの為か、じんわり汗ばんでいた。ひたりと重なったお互いの体。心臓が衣服越しに、直接振動を伝える。睫毛の先が触れ合いそうだ。
 今、目の前にいるのは誰だろう。別人のように見える近距離に、チチは荒い息のまま瞬きが出来ない。
「でも、何でやらねえか、おめえ判るか?」
 真っ白な頭。いつまでも反応の無い彼女に、悟空はむすっと唇を尖らせて少しだけ体を離す。
「嫌われたくねえからだろ」
 チチに。
 子供っぽい拗ねたような物言い。先ほどまでの妙な緊張感が消えて、普段の良く見慣れたものだった。停止していた思考が漸く動き始める。
 一時期、チチは異性への意識が強すぎて、悟空と接近することを極端に警戒した時期があった。必要以上に体や顔が近づくと過剰な反応で嫌がり、真っ赤な顔をして本気で怒っていた。かなりぎくしゃくした時さえあったので、悟空はそれを恐れていたのだ。
 ふと、悟空の胸の下の小さな体が、小動物のように小刻みに震えている事に気がついた。重かったか、慌てて体をどかそうと手を床についた瞬間。
「嫌ーっ」
 思い切り良く振り上げた拳は、見事に悟空の頬に入った。悟空に対して、チチは力に遠慮はしない。
「いってーっ」
 勢いのまま、悟空は尻もちをつく。見事なパンチは威力が充分だ。殴られた頬をさすりつつ視線をやると、彼女は俯いたまま、複雑そうに唇を噛み締めて、むくりと半身を起こした。
 気まずい沈黙が長い。
「……あー、やられちまったな」
 それを紛らわすように、頬に手を当てたまま、ちぇーっと舌打ちする。
「オラの負けだな」
 さっきの約束。チチの攻撃をかわす事が出来なかった。オラ、油断しちまったな。わざと明るく声を上げるが、彼女からの反応は無い。
「チチ?」
 身を乗り出し、俯いてしまった顔を覗き込む。
「……え、と。怒ったか?」
 わりい。
 焦ったように謝る。子供の頃から、喧嘩をした時最初に謝るのは悟空だった。たとえチチに非があった場合でも、自分が謝る事で丸く収まるならそれで良いと思っているようだった。
 判っている。
 いつも意地を張って、背伸びをして、素直じゃないのは自分なのだ。
「……って、おい、チチっ」
 はらはらと涙を流すチチに、悟空はぎょっと身をひきつらせた。
「す、すまねえ。そんなに嫌だったか?」
 おろおろと窺う悟空に、俯いて顔を覆いながら、チチはふるふると首を横に振る。違うと言いたかったが、喉の奥が詰まって、声が出なかった。
 しゃくりあげる細い肩。そおっと手を乗せたが、今度は抵抗は無い。宥める様に撫でると、小さな体が何処か恥ずかしげに寄り添って来た。どうやら嫌われたわけではないようだ。
 暫しの逡巡の後、泣きじゃくる小さな頭を、出来るだけ優しい仕草で胸に抱き寄せる。
 雨は、もう止んでいた。















4


 別に。これぐらい、大した手間じゃねえことだし。
「お詫びだからな、これは」
 チチは一人、頭の中でそう納得させながら、朝から弁当作りに精を出す。
 だって、わざわざ駅まで傘を持って、迎えに来てくれていたし。その前も、酔って、足を痛めて、歩けなくなったところを背負って連れて帰ってくれたし。
 そんなあれこれがあったけれど、その時のお礼もきちんと言ってなかったから。だからこれは、そのお礼とお詫びなんだ。
 大食らいの彼が食べる量は半端ではない。それでも、完璧なメニューの彩り鮮やかなお弁当は、我ながらなかなかの力作だ。お重に詰め込んだそれらを眺めて、こんなもんだろうと納得して。大きな風呂敷に包みこむと、時計を確認してチチは会場に向かった。
 今日は、悟空の出場する武道大会の試合の日だ。
 会場へ向かうと、予選試合はもう始まっていた。チチが想像していたよりも大きな大会らしい、会場には思った以上の人で溢れ返っている。
 何処にいるだろう。試合は各ブロックごとに分かれ、予選の勝ち抜きの後は、トーナメント方式になっているらしい。電子掲示板で悟空の出場状況を確認すると、チチは楽屋へ向かった。
 案内図を見ながら、メイン会場から奥まった場所にあるそこに到着する。楽屋には、如何にも強面な選手や、びっくりするほど巨漢な選手がごろごろいた。見るからに強豪そうな彼らに交じると、中肉中背の悟空はむしろ小柄に見えて目立たない。
 さて、何処にいるだろうか。男臭い楽屋をかいくぐり、チチは開放されたままの扉を一つ一つ見て回る。
 幾つ目かの扉を覗き込んだ所で。
「……あ」
 悟空がいた。逞しい体つきの武道家達に交じる見慣れた姿に、チチはほっと息をついた。
 少し離れた窓際の奥、ペットボトルに口をつけつつ、へらりとリラックスした様子で笑っている。出場前のぴりぴりとした緊張感が漲る楽屋の中、彼はちょっとばかり異質に見えた。
 小さく笑って、彼のもとへと一歩踏み出した足が、固まったまま動きを止めた。
 大きな黒目がちの瞳が、悟空の笑顔の先を凝視する。
 やや露出度のある華やかなカジュアルファッションの彼女に、チチは見覚えがない。どう見ても大会に出場する選手には見えない彼女は、親しげに悟空と談笑している。チチは心臓がドキドキするのを押さえながら、それでも動くことも出来ずにその二人の様子をじっと見つめる。
 綺麗で都会的な彼女は、悟空を前に実に鮮やかに笑い声を上げる。悟空はのんびりとした笑顔で、それでも時々困ったように肩を竦めたり、彼女との会話を楽しんでいるように見えた。この男がこんな風に女性と喋っている所を、チチは見た事が無い。
 やがて、彼女は鞄の中から取り出したそれを、嬉しそうに悟空につきだす。どうやら彼女が用意してきたお弁当らしい。それを悟空は、ごく自然な動作で受け取った。
 ぎゅっとチチは重箱を胸に抱きしめる。
 楽屋の入口から数歩離れ、そのまま隣の壁に寄り掛かる。心臓が痛いくらいに鳴っている。呼吸が苦しい。
 別に、約束をしていたわけじゃない。試合を見に来るとも、お弁当を持って来るとも、そんな会話は一度も無かった。だから彼女の作ったそれを悟空が受け取ったとて、どうせ何も持ってこなかった彼の事だろう、素直に好意を受け取っただけの事だ。
 それだけの筈なのに、どうして自分はこんなに落ち込んでいるんだろう。
 どうしよう、もう帰ろうか。朝から頑張って作ったお弁当だけど、彼にはもう別のお弁当が用意されている。張り切って作った分、今の自分は酷く惨めだった。
「あれ、チチじゃねえか」
 その声に、チチは驚いて顔を上げる。すぐ傍には、いつもの人懐っこい悟空の笑顔が、こちらを見下ろしていた。一人のようだ。さっきの彼女はもう見当たらない。
 瞬きするチチに、へらっと笑う。
「何だよ、おめえ来てたのか」
 今日は、前会った奴と食事に行くとか言ってたから、来ねえと思っていたぞ。
 いつもと同じ調子、いつもと同じ笑顔。こちらの気も知らない能天気なその顔に、チチは腹が立った。
「あ、それ弁当か?」
 サンキュー。一片の疑いもなく、当たり前のように差し出される手。当たっているだけに、本当に憎らしい。それをすり抜けて、ぷい、とチチはそっぽを向いた。
「何、調子に乗っているだ」
 勝手に自分のものだって、決めつけねえでけろ。半眼でじろりと睨みつけられ、いいっ? と悟空は困った顔をする。
「何だよ、食わしてくれねえのかよー」
 唇を尖らせて強請る様子は、小さな子供そのもの。何かを反論しようと口を開いた所で、館内アナウンスが流れた。どうやら、選手たちの集合時間であるらしい。
「じゃあ、オラ、行くな」
 予選が終われば昼休憩になる。そしたら、一緒に食おうや。言いながら、ぽんとチチの肩を叩き、その前を通り過ぎて会場へと向かう。
 その背中に、無意識にその名を呼んだ。振り返った人懐っこい顔に。
「え、と。試合、頑張るだよ」
「ああ」
 任せとけって。小さな悪戯小僧のように、にかっと笑うと軽く手を上げる。
 意気揚々と去りゆく背中。きっと、これからの対戦が嬉しくてたまらないのだろう。それを見送りながら、チチは複雑な心地で唇に笑みを浮かべた。





 試合はいくつかのブロックに分かれて予選を行い、その後乗った選手がトーナメントを組む方式だ。
 案の定、とも言おうか、悟空は全く危なげ無く予選を通過していた。少なくとも、今までの悟空の試合を見ていたチチに、予選通過の心配はなかった。何だかんだ言っても、彼の武道の実力は間違いがない。
 各ブロックの中からいち早くトーナメント進出を決めると、一足先に昼休憩と決め込むらしい。軽い足取りで観客席にいたチチの元に駆け寄ると、予選通過の報告と共に、にかっと笑ってブイサインをしてみせる。
「チチィ、弁当くれよ」
 疲れた様子も見せず、どっかりと隣に腰を下ろす悟空に、チチは呆れたように息をつく。
「こっだら時に、よくご飯が食えるもんだな」
 緊張で食事が咽喉を通らなかったり、体調を慮って軽い食事で済ます選手も多い。しかし悟空にとって腹一杯の食事は、エネルギーであり、力の原動力でもあるようだ。常に食い気は無くさない。
「でも、おめえは、その、もう持ってるでねえか」
 ん? と首を傾げる悟空に、もごもごと俯いて続ける。
「楽屋で、その、貰っていたべ? 女の子から……おめえ……」
 暫し考え、あー、と思い出したように頷く。
「もう、食っちまった」
 はあ? けろりと答える悟空に、チチは口をぽかんと開ける。
「貰ってすぐ食っちまったもん」
 もうねえよ。それに、あんなちょびっとの量じゃ、全然たりねえし。彼女と会う予定なんか無いから、弁当箱をそのまま返したかったし。
 あっさりとしたそれに、チチは一瞬驚き、そしてきりっと睨みつけた。
「馬鹿っ」
 その声の大きさに、びくっと体を震わせる。
「おめえ、最低だなっ」
「な、何でだ?」
 何でチチが怒るのか、悟空には判らない。心底不思議そうに瞬きを繰り返す鈍感男に、腹が立った。
「おめえは、本当に女心っつーもんを判ってねえだ」
 折角一生懸命作ってきた彼女も、これじゃあ作り甲斐かなかろうに。しかも、会う予定が無いから、そのまま弁当箱を突っ返す? 全く以て、デリカシーの欠片も無い奴だ。
 その上で、こうして自分に弁当を強請る馬鹿男に、チチは本気で殺気を覚える。
「だって、もったいねえじゃねえか」
 折角作ってきた弁当が、誰にも食べられる事無く処分されるなんて。
「もったいなかったら、おめえは何でも食べるだか?」
 餌を与えられた獣と一緒か、おめえは。もう少し、人の心を考えろ。
「結局、おめえは、飯が食えるなら誰でも良いんだな」
 最低だな。本当に。
「仕方ねえだろ」
 チチの言う事は良く分からないが、困ったように眉根を寄せて。
「あいつの恋人が、試合に出れなくなっちまったんだから」
 そのまま捨てるのももったいないって、くれたんだし。
「……へ?」
「予選で足を痛めたから……病院に行くって」
 全然大した事は無いけれど、念の為に病院に行くから、お弁当は食べれるか判らないから貰ってくれって。
 その二人は悟空とも顔馴染みの知り合いだったから、会場でその話を聞いて、捨てる予定の弁当を受け取ったのだ。大会でぐらいしか滅多に顔を突き合わせ得ることの無い相手だったので、弁当箱もいつ返せるか判らないから、貰ってすぐに食べたのだ。
 端的な説明に脱力した。
「……そう、だったんだべか……」
 何てお約束なオチなのだろう。思わず深いため息をついてしまう。
「それよりさあ、チチ、オラ腹減ったぞ」
 悟空には、チチの溜息の理由が判らない。早く早くと唇を突き出して強請る様子に、チチは脱力したまま、膝に乗せていた弁当の包みを開いた。
「すっげー。うまそー」
 豪華な弁当に、きらきらと目を輝かせる。
「これは、お礼だからな」
 そのためにわざわざ作って、こうして持ってきてやったんだぞ。ぶっきらぼうな宣告に、悟空はきょとんとする。
「お礼?」
 オラ、何かしたっけ。至極不思議そうに見つめる視線の真っ直ぐさに、おもわずチチはそっぽを向く。
「この間の……酔った時とか、雨の日に傘を持って迎えに来てくれたりとか……」
 ああー、悟空は納得したように頷いた。
「何だよ。今さらだろ、そんなの」
「親しき仲にも礼儀あり、だべ」
 きっぱり言い切るチチの頬が、ほんのり染まっている。彼女なりの照れ隠しなのだろう。
「ま。それでチチの飯が食えるなら、オラは嬉しいけどな」
 さーて。いっただっきまーすと手を合わせ、早速悟空はチチの弁当を貪る事に専念にした。
「ひゃー、やっぱおめえの飯はうめえなあ」
 もしゃもしゃと口にかき込み、頬袋を一杯に膨らませながら、至極嬉しそうな声を上げる。相変わらずの食べっぷり。何だかんだと言いつつも、こうして自分の料理を美味しいと言って食べてくれるのはやはり嬉しい。ついこちらも笑みが漏れた。
 ふと、悟空はまじまじとチチを見つめる。
「……何だべ?」
 いや。小さく悟空は笑う。
「……何かさあ、久しぶりだと思ってさ」
 口を動かしながらの言葉に、首を傾げる。
「最近は、チチの怒った顔か、機嫌の悪い顔しか見てねえ気がしてさ」
 その指摘に、チチは唇を引き締める。そうかもしれない。自分でも自覚がある。思わず頬に手を当てるチチに、へへっと笑いながら。
「やっぱ、オラ、チチの笑っている顔が好きだぞ」
 ストレートなその言葉に、チチはかあっと顔を赤くした。
 天然は恐ろしい。何故こうも、臆面も無くこんな台詞が吐けるのだろう。
「な、何言っているだよ……もう」
 むず痒い心地で俯くチチに。
「なあ、それよりも良いのか?」
 へっと顔を上げると、真剣に心配する顔がこちらを窺う。
「今日さ、約束があんだろ」
 道場で言っていた筈だ。確か合コンで知り合った奴と、今日は食事に行く予定だと。
「……ああ、あれは……その、夕方からだべ」
 だからまだ、時間はあるだよ。
 そっか、と頷くその軽さに、チチは胸が締め付けられた。誤魔化すように、自分用にポットのお茶を注いだところで。
「なあ、行くなよ」
 ん? と顔を上げると、親指についた握り飯の米粒を舐めながら、じいっとこちらを覗き込む目とかち合う。
「試合、最後まで観て行けよ」
 真面目な顔で告げられて、思わず返事に窮した。いつも思うのだが、この男は何を考えて発言しているのかよく分からない。だから、正直に尋ね返す。
「何でだべ」
 いきなり、急に。
 問われ、うーん、と悟空は椅子の上で手足を伸ばした。さて、何でだろう。伸ばした足を座席に乗せて、曲げた膝の上で腕を組む。
「おめえがいると、頑張れそうな気がするからかなあ」
 人ごとのような言い回し。だが、彼は眉根を寄せて首を傾げる。否、違うなあ。口下手の彼は、自分の感情を的確に表す言葉を一生懸命探す。
「気になるんかな」
 気になる? 同じ言葉を復唱すると、うんと悟空は頷いた。
「試合に集中できねえ気がする」
 それかもしれない、一番の理由は。口に出して言うと、改めてそんな気がしてきた。
「だって、別の男と一緒にいるんだろ、おめえ」
 自分の全く知らない所で、全く知らない男と、二人で仲良くするんだろ。
「良く分かんねえけど、それが嫌だ」
 きりっと前を見据え、少しだけ不機嫌そうな声を上げる。
 あのさ。
「優勝したら、賞金が出るんだ」
 賞金目当ての出場ではなかったから、はっきりと覚えていないけれど、確かそれなりの額だったと思う。
「それでほら、この間道場で言ってた、何とかっつー指輪」
 あの時約束しただろ。
「……ハリーウィンストン?」
 そう、それ。多分。あんまり名前は覚えていないけど。
「それ、買うからさ」
 だからさ。
「そいつじゃなくて、オラと一緒にいろよ」
 な?
 骨太の指が伸ばされて、そっと戯れるように、チチの指先に絡みつく。
 緩い力。振りほどこうと思えば、簡単に振りほどける筈なのに。
 唇をかみしめたまま俯くチチに、悟空はそおっと覗き込む。チーチ? 声をかけると、小さく「馬鹿」と言われた。うん、と頷く。
「馬鹿でも良いや。チチが一緒にいてくれるなら」
 へへっと笑うと、今度こそ、小さな手をしっかりと握りしめた。





 昼休憩が終わり、予選を勝ち抜いた選手たちが、会場中央にある武舞台に集まっていた。
 観客席からそれを見下ろしていると、不意にバッグの中から聞こえる着信音が鳴った。耳慣れないそれに、慌てて携帯電話を取り出す。画面に表示されたメールの差出人に、チチは困ったように眉根を寄せた。
 キーを操作して到着したメールの本文を見ると、例の彼からの今夜の待ち合わせの確認のもの。
 それをじっと見つめ、チチは丁寧に言葉を選んで返信メールを打つ。全てを打ち終え、転送すると、彼のメールアドレスと電話番号を、すっかり電話帳から消去した。
 これで、お終い。もう、彼からの連絡は来ない筈。
 罪悪感と半分、すっきりした気持ち半分で、携帯電話を鞄の中にしまい込むと、会場のアナウンスが流れた。トーナメント試合が開始される。
 沸き上がる会場。舞台の中心には、見慣れた道着を着た悟空が姿を現す。逞しい対戦相手を前に、リラックスした様子は酷く頼もしい。ああ、自信たっぷりだな。こんな悟空はきっと負けやしない。おらの悟空さは、絶対負けない。
 チチは目を細めて、小さく噴き出す。
 全く。優勝賞金がどれぐらいのものかは知らないけれど。
「悟空さ、あの指輪がいくらか、解っているだか?」
 膝の上に頬杖をついて、堪らずにくすくすと笑った。
 よし、解った。
 ハリーウィンストンの為に、精々応援してやろうじゃないか。















5


「いいっ、これってこんなにするもんなんかあ?」
 ショーウィンドウに飾ってあったそれに、悟空は思わず声を上げた。
 金銭感覚に疎いとの自覚はあったが、それでもこれは度を過ぎているだろう。貴金属品に興味はないので、その価値などは判らなかった。それでも生活必須品でもないものなのに、こんなに小さなものなのに、何でこんな値段なんだ?
「悟空さ、おらの言う事、何でも聞いてくれるって言っただよな」
 この間の、道場で。
 逞しい腕に自分の腕を絡ませて、にっこりと天使の笑顔でチチは言う。その後ろには悪魔の羽が透けて見えているけれど。
「そりゃそうだけどさ……」
 確かに、手に入れた武道大会の優勝賞金は、チチのそれに当てるつもりではいたのだが。それでも、連れて来られた店先の、ディスプレイされている指輪の隣のプライス。予想以上のゼロの並び具合に、流石の悟空も冷や汗をかく。何か間違ってないか、これ。
 参ったなあ、これじゃあ、あと何回大会で賞金を貰わなくちゃいけねえんだ。
 生真面目に眉根を寄せる悟空に、チチは肩を竦めて笑った。何だよ、真剣に悩んでいるのに、そんなに笑うなよ。真面目な彼の言葉に、更に笑いがこみ上げる。
「ええだよ、悟空」
 冗談だから。欲しかったこれを見て、どんな反応をするのか見てみたかっただけ。あまりにも予想通りで、もう満足だ。
「でも、おめえ、これが欲しいんだろう」
「だって、結婚指輪だぞ」
 同じデザインで並んだペアリングは、ウェディング用のものである。
「これは、結婚する人が買うもんだべ」
「じゃあ、結婚すっか」
 あっさりしたそれに、はあ? とチチは間抜けな声を出し、目の前のあっけらかんとした顔を凝視した。
「何を言っているだ、おめえは」
「だから。結婚すっかって」
 そのままの意味じゃねえか。
「……言っている意味、解っているだか?」
 ああ。へらりと笑う緊張感の無い顔。
「結婚すりゃ、ずっと一緒なんだろ」
 チチとずっと一緒にいたいと思っていることは、紛れも無い事実だ。だからその手段が結婚というのなら、本気でしたいと思う。悟空はそれが短絡的だとは思わない。
「確かにそうだども……」
「じゃあ、良いじゃねえか」
 な?
 小首を傾げる笑顔が案外近い。警戒心たっぷりにしかめっ面を作って見せるが、顔が熱い。
「それともチチ、嫌なんか?」
 オラと結婚すんの。無邪気な瞳に見つめられ、ぐっと言葉が詰まる。熱くなった耳が、更に熱くなるのを感じる。
「い、嫌……じゃ、ねえけんども……」
「よし、決まりだな」
 じゃ、これからもよろしくな。
 へらりと笑う幼い顔を見て、がっくりとチチは肩を落として溜息をついた。
 ムードもへったくれもありゃしない。子供のころから夢を見ていた、憧れのプロポーズシーン。胸ときめくようなロマンチックな場所で、ムードたっぷりの雰囲気で、二人で見つめあって……ああ、もう、とんでもない。
「何なんだべ、全くもう」
 現実なんてこんなもの。夢はあくまで夢。きっとこの先も、これからも、自分が描くロマンチックは、きっと悉く潰され、妥協を余儀なくされてしまうのだろう。
 だけど、でも。
「で、やっぱこれにすんのか?」
 結婚指輪は。骨太い指に示される、ショーウィンドウの件の指輪。きらきら光るそれは、夢みたいに綺麗で、ロマンチックで魅力的だけど。
「……いらねえだ」
 チチはゆっくりとした動きで、首を横に振る。
「こんな指輪つけてたら、おめえのご飯なんか作れねえもんな」
 憧れの指輪は、いつも身につけるには、あまりにも緊張しすぎてしまって、結局何も出来やしない。そう、所詮はそんなものなのだ。
「いいのか?」
 んだ。笑って頷く。もう、憧れに未練はない。ロマンチックじゃなくても、目の前にある現実の方がずっといい。
「きっと、もっともっと、おらにぴったりの指輪があるだよ」
 悟空さ、一緒に選んでけろ。な?
 見上げてくる満開の笑顔。ぎゅっと腕に抱きつくチチに、悟空は自然な動きで身をよせて。


 額に当たる、柔らかい唇の感触。


 触れたのはほんの一瞬。すぐに離れた顔は、悪戯が成功した時みたいに、酷く嬉しそうだった。今された事を理解すると、湯気が出そうにチチは顔を赤くする。
「―――っもうっ、いきなり何するだよっ」
 思わず力いっぱい突き放そうと手を突っぱねるが、それを予想し、悟空はひらりと身を離してにしし、と笑う。やっぱりチチは面白い。
「全く、ムードもへったくれもねえんだから、悟空さはっ」
 もう少し、ロマンチックを判るようになるだよ。
「でも、充分、ロマンチックじゃねえか」
 幼馴染で、子供の時に結婚の約束をして、そして結婚指輪の前でのプロポーズと、キス。これはこれで、充分ドラマみたいで、充分ロマンチックだと思うぞ。
「……だども……」
 唇を尖らせるチチに、悪びれずにへらりと笑う。
「じゃあ、教えてくれよ」
 オラ、そーゆーの、良く分からないからな。指先で頬を掻く悟空に、ふむ、とチチは視線を彷徨わせる。
「……判っただ」
 第一、悟空さのロマンチックは、まず基本が間違っているだ。
 その指摘に目を丸くする悟空の前に立ち、きりっと見上げる。下から大きな瞳が、光を受けてきらきらしている。そっとがっしりした肩に手を乗せて。
「ええか、悟空さ」
 キスって言うのは、そこにするんじゃねえ。唇の前に、人差し指を立てての指南。
「じゃあ、何処にするんだ?」
「決まっているだろ」
 知ってるくせに。



 爪先立ちながら、そっと寄せる唇。










 まずは、ロマンチックの第一歩。










end.




2008年のオンリーイベントにて発行した
コピー本のウェブ公開
自分的「無茶しやがって……」レベルの、少女漫画風味

鳥山明先生へ、追悼と最大級の感謝を込めて
2024.03.09







back