いつか孵る日











修行から帰ると、チチは小さな卵になっていた。











小さな卵を掌に乗せる。
卵になったチチは、堅い殻に覆われて、 酷く頑なだった。
長い修行に出て、ご無沙汰振りに家に帰って来たのだ。 折角、チチの作ったご飯を、腹一杯に食べたかった。
だけどそこにある卵は、声をかけても、宥めすかしても、丁寧に撫でても。 まんじりともせずに、ちょこんと掌に蹲っているだけである。
仕方がないから、 ご飯は自分で作る事にした。
食べ物を用意することに、厭いはない。 子供の頃から一人で生活する時期が多く、今でも修行で長く家を出る事もある。 自分の作るものは、とても料理と呼べるような代物ではない。 だけどそれに疑問を持つことなく、今まで自分でそれなりに作り、 まあそれなりのものを食べて生きてきた。
ただ、やっぱり。
チチと結婚してからは、ずっと彼女の作る料理を、極当たり前に食べていた。 久しぶりにそれにあり付けると帰ってきたのに、期待が叶わないのは、 かなり残念で、酷く物足りない。
空腹を紛らわす為だけに、 料理を作る。味などは良く分からない。適当に会った材料を、適当に調理して、 適当にテーブルに並べる。
折角作ったのだから、チチの分も用意する。 しかし、卵のままの彼女は何も食べなかった。





目が覚めると、元に戻っているかもしれないとも思ったが、 残念ながら期待通りにはならなかった。
翌日も、翌々日も、チチは卵のまま。 話しかけても、撫でてみても、ぴくりとも卵に反応は見られない。 小さくまあるく殻に閉ざされたまま、ただそこに蹲っているだけだった。
ちぇ、折角帰ってきたのに。
聞こえるように文句を言っても、 卵は何も変わらない。当てつけのように大きくちぇーっと声を上げても、 空しく部屋に響くだけ。どれだけ待っても、何の反応も無い。一人ぼっちの家の中、 沈黙だけが共鳴していた。





家の中は、しん、と静かだった。
チチと一緒に住むようになってから、 悟空の記憶の中では、この家にはいつも音があった気がする。彼女はくるくると、 本当に良く動く。扉がぱたりと開く音。台所で料理をする音。 風呂場で水の流れる音。そして、その合間に交わされる、何気の無い会話。
今、それらは何一つ聞き取れない。
おーい、と小さく声を上げてみても、 いつもなら返される声は、何時までも聞き取ることが出来ずに放置される。
音の無い家の中は、何処かうすら寒い、空っぽのただ広さがある。
こんなにここ、広かったっけ。
改めてぐるりと周りを見回すが、 どこも馴染みのあるものばかり。
ああ、でもそういえば。 昔祖父が死んでしまった直後、今と同じ感想を抱いた様な気がするな。
その後ブルマに出会い、ドラゴンボール探しや修行であちこちを巡り、 世界中を旅して。そうして漸くここに戻ってきた時は、 むしろ真逆の感想を抱いたけれど。
チチと二人で久しぶりに入った時、 悟空はまずこの家の狭さに違和感を感じた。
こんなに狭かったっけ。 疑問に首を捻る視線の先に傍らのチチがいて。そこで納得した。そうか、 あの頃と違うのだ。チチが子供の頃と見違えて成長したと同じく、 自分の体が大きくなった。そして、この家よりももっと広い世界を知ったからだ。
何より、一人ではなかったから…。
そこまで考え、 ぶるんと悟空は首を振る。何だか、縁起でも無い事を考えてしまった気分だ。
別にチチがいなくなった訳でも、また一人になってしまった訳でもない。
今もここにチチはいる。卵になってしまっているけれど。
じいっと悟空は、 テーブルに鎮座する物言わぬ卵を睨みつける。何だよ、もう。不貞腐れた声をかけるが、 やはり彼女からの返事は無く。悟空の耳に入ってくるのは、 無機質な時計の秒針音だけ。
押しつぶされそうな空虚なそれに耐えかねて、 誰かの所にでも行こうかと立ち上がるが、少しの躊躇の後、 結局またソファーに座り込んだ。
だって、自分が出かけている間に、 もしかすると、チチが卵から元に戻っているかもしれない。
そう考えると、おちおち出かける事も出来なかった。











チチも同じ事を思って、ずっとこの家で、帰りを待っていたんだろうか。























チチがどうしたら卵から戻るのか、自分には分からない。
いっそ、卵を無理矢理割ってみたらとも思ったが、流石にそれは、 取り返しがつかなくなりそうでやめた。
だったら温めたらどうだろうか。 母鳥が卵を暖めるように、大切に懐に抱きしめていれば、 いつか元のチチに戻るのかもしれない。
だって彼女は、 いつも傍にいてほしいと強請っていたから。
ちゃんと家に帰ってきてほしいとせがんでいたから。
どんなに怒っても、 どんなに約束を破っても、彼女はいつでも無償の愛情で、 何もかもを最後には必ず許してくれていた。
だからきっと、 今からでも遅くないはずである。











だが、それが仇になった。
卵は壊れてしまった。

















大切に、大切にしていたつもりなのに。
そっと、そっと触れていたつもりだったのに。
加減の無い力で、無意識の行動で、些細な油断で、罪の無い何かで。
壊れた卵は、もう二度と戻らない。











ああ、そうか。チチを壊してしまったのは、自分なんだ。
それを実感すると、漸く涙が込み上げてきた。























カナシミとサビシサか積み重なると、それは殻を作る。
ゆっくりゆっくり積み重なり、 丸まった体を包む殻の中、自分はただ独りぼっちになる。
独りぼっちは寂しいけれど、その代り、決して傷つく事も無い。何かを得ることはないけれど、 何かを失う事も無い。
ぬるま湯の中に身を沈め、胎内にいる子供のように、 なにものからも身を守るように体を丸め、そうして積み重なる頑なな殻の中。











全く、しょがねえべな。



















不意に、気がついた。
いつからだろう。頑なになった自分の殻越しに、 優しく細い指先が、慈しむように幾度も幾度も撫でるのを感じる。
何故だろう、 それは叫びだしたくなるほど、懐かしいものだった。

















その優しさに誘われ、この殻を突き破るか否か。
今、まどろみながら悩みあぐねている。










end.




自分の殻に閉じこもる
2008.08.29







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