禁断の木の実とは。





赤い実談話











 時々。普段は子供と同じ扱いしかしていないこの人を、不意に男であると感じる時がある。
「ほら」
 差し出され、すまねえだ、と受け取ったのは、堅く密封された苺ジャムの瓶。チチの力ではびくりともしなかったその蓋は、悟空の手に掛かれば、なんの突っかかりも見受けられずにすんなりと開いた。
 馬鹿みたいに力持ちの夫は、こういう時には至極役に立つ。寧ろ日常生活において、これだけの無駄な腕力が役立つ機会なんてそうそうないのだから、こんな時こそ有効活用しなくてはいけない。
 さて、今日はこれでお菓子でも作ろうか。そう思ってキッチンに向かい立つと、とん、と後頭部に堅い胸板が当たった。振り返るより早く、不思議そうな顔をした夫が頭の上に顎を乗せ、背後から体を密着させて覗き込んでいる。
 この人は随分と背が伸びた。
 子供の頃は、こちらのほうが背が高かった。結婚した当時は僅かに彼の方が背が高い程度で、視線も随分と近かった。でも今、気付けば彼は頭一つ分を軽く追い越し、こうして上から見下ろされている。後半の成長期がやけに著しい。
 サイヤ人である彼は、若い時期が地球人よりも長いという話を聞いたような気がする。もしかすると、成長時期も地球人とは違うのかもしれない。
「それ、使うのか?」
「そうだけど……なして?」
「だって、作ったのは半年も前だったんだろ」
 食えんのか? 腐ってねえか? 腹壊さねえか? それ。
「大丈夫だべ。ちゃんと熱湯で密封保存しただよ」
 旬に摘んだフルーツは、こうしてジャムやコンポートにし、一年間楽しめるように保存している。密閉容器は煮沸していたし、しっかり砂糖で煮込んであるから、簡単には腐らないだろう。
 念の為に中指で表面を掬い、少しだけ舐めてみる。
「……うん、大丈夫だべ」
 匂いも変わっていないし、変な味もしない。きちんと保存されていたようだ。
 満足気に頷いた所で、その手首をすい、と背後に取られた。おや、と思う間も無く、指先に残ったジャムを、そのまま悟空はぺろりと舐めた。
「ほんとだ」
 極至近距離で、笑った眼とかち合う。瞳の奥には何かしら、意図的な色が透けて見えるようだ。
 捕えたそのままにもう一度、今度ははくりと指を咥え込む夫を、チチは不思議な心地で見上げた。





 所謂、男臭いタイプではない。
 確かに普段から鍛えているだけに、道着姿の彼はかなり筋肉質だ。しかし服で覆えば、鋼の肉体はあれ? と驚くほど、目立たなくなる。恐らくは着痩せするのであろう。加えてそのあどけない表情と純朴そうな眼の印象からか、良い歳した子持ちの大人のくせに、少年を通り越して、いっそ子供っぽいぐらいだ。
 目鼻立ちも決して人目を引くタイプではなく、どちらかといえば地味顔。でも実はちゃんと整っており、人好きのする可愛い顔をしている……と思うのは、やはり惚れた弱みか。
 そう言えば、以前ブルマとイケメン云々の話題が上がったことがあった。
 彼女曰く、世の中には、整った顔立ちをしていて洒落っ気があるけれどカッコいいと思えないタイプと、左程整った顔立ちをしている訳でもないし身なりにも頓着しないけれど、カッコ良く思えるタイプとがあるらしい。つまり、それが「男の色気」になるそうだ。
 惚れた欲目があるのかもしれないが、多分夫は後者なのだろうと推測する。だって彼は、全く外聞を気にしない。呆れるほどに自然体すぎる。最低限の身なりにさえ無頓着な様子に、少しは人様の目を気にしてけろ、何度もそう言ってはみたものの、結局今日まで改まる気配は無い。
 彼にとっては、どうでもいい事なのだろう。こればかりはもう、早々にあきらめた。





 さて。色気とは一体何だろう。
 自分は女だ。男性が感じる女性の色気というものには、イマイチ理解し難い壁がある。
 カメハウスに行った時、何処ぞのスケベ爺さんが、「色っぽのう」と鼻の下を伸ばしつつ、如何わしい本を捲っていた場面に遭遇した。
 こちらからすれば下品この上なく、呆れて文句を言うと、「馬鹿にするもんではないぞ。良いか、男というものはじゃな」と黒サングラスをきらりと光らせて、あれこれ御託を並べて彼なりの講釈を連ねていた。どれも本当に情けない程どうでもいい下世話なものばかりではあったが、つまりそれが男性が女性に求める色気なのだろう。
 腹が立って、たまたま傍にいた夫の親友に話題を振ってみた。意外に誠実な彼は、照れながらも自分なりの意見を口にしていたが、それは彼の奥さんにそのまま当て嵌まっていて、随分微笑ましい回答だった。
 では、この人はどうだろう。
 尤も、幼い頃は男女の見分けもろくに出来なかったような、この上なく残念な朴念仁だ。どうせ、言葉の意味も解っちゃいないだろう。問い質したとて、碌な答が返らないのは目に見えている。
 ならば、スーパーサイヤ人はどうか。
 ブルマはあの姿がセクシーだと言っていた。そうだろうか。何処がと問われれば説明し難いのだが、チチはどうにも好きになれない。
 光を纏って逆立つ金の髪と、透明感のある翡翠色の瞳。客観的に見れば、それらは確かに綺麗に見えるのかもしれない。しかし今まで馴染んでいた面影が消え、見えない凶暴性と残忍性が滲み出るような姿は、寧ろ痛々しささえ感じられた。
 一度だけ、その姿で酷く露骨に誘われたこともあった。
 普段とは違った仕草で、耳元に吐息と共に甘く囁かれ、じりじりと身を寄せられ、ねっとりと唇を寄せられ、逃がさないと指を絡められて――慣れないそれに、真っ赤になって、結局何も抵抗できなかった自分が、今考えれば呆れるほどに馬鹿らしい。
 人間は学習するものだ。今もしそんな事されたら、間違いなく渾身の力で鉄拳をお見舞いしてやる。
 あんな風に迫って、子供だけ勝手に残して、さっさと死んでしまうろくでなしに、二度と騙されるものか。男の色仕掛けなんて、腹が立つだけだ。





「どうした、チチ」
 呼ばれ、はたと我に帰る。どうやら、随分思考に沈んでいたらしい。
 両肩に感じるのは、しっかりとした腕の温度。いつの間にやら、夫が背後から腕を回して抱き付いている。
 今でこそこうだが、新婚当初、この良人は兎に角こちらを拒絶する仕草を見せつけてくれたものだ。
 あの頃の自分は、好きな人と一緒になる事が出来た喜びに、ひたすら有頂天になっていた。そしてこの朴念仁は、その舞い上がった行動のひとつひとつに、隠すことなく困惑顔で拒絶していた。
 今ならそれが、異性に慣れない子供の不器用な反応なのだろうと察することができる。しかし当時の自分は、そこまで彼の心を汲み取ることが出来る程、経験も知識も感情も大人では無かった。だからそのひとつひとつに、実に律儀に傷付いた。
 だが今は、そうでもないらしい。
 肩に掛かる重みにややうんざりと息をつくと、不思議そうに夫はこちらの顔を覗き込んできた。距離が近い。昔はあれだけこちらがくっつくのを嫌がっていたのに、それを夫が厭わなくなったのはいつの頃だっただろうか。
「なあ、悟空さ」
「ん?」
「おめえから見て、色気ってどういうものだと思うだ?」
「色気ってなんだ?」
 一言一句違わぬ予想通りの返答に、盛大な溜息を一つ。そう返されると思ったべ。落とした肩に乗せられていた腕をていっと払いのけると、悟空は宙に浮いた自分の腕を、手持無沙汰に泳がせた。
 つんと振り返らない小さな後頭部に、これは真面目に答えなきゃ駄目な事なのか? 無神経なりにもそう結論付け、うーんと腕を込んで考えてみる。
「ひょっとして、あれか? 亀仙人のじっちゃんがよく言うやつだろ」
 エッチな本とか、エアロビクスのビデオとかを眺めながら、鼻血を拭きつつ呟く言葉がそれだ。師の興奮に同意は出来ないが、まあ要するに。
「つまり、やりたくなるってやつだろ?」
 どうだ、当たっただろ。
 そう言わんばかりの良い笑顔付きでの身も蓋も無い言い方に、チチは気恥ずかしさを通り越して半眼になった。今更旦那相手に、この程度の露骨な言い回しぐらいで照れたりしない。語尾力の貧困さに呆れるだけだ。
 そんなチチの反応に、むうっと悟空は唇を尖らせる。
「なんだよ、違うのか?」
「違わねえって言えば、そうだけんど」
「じゃあ、あたりじゃねえか」
 オラだって、そんぐれぇ解ってんだぞ。拗ねたような口調は、彼の持つ子供っぽさを更に際立たせる。息子の悟飯でさえ、こんな顔はもうしない。良い歳した大人が何拗ねてんだ。可愛いなんて、絶対口にしてやらねえ。
「色気っていうのは、それだけじゃなねえだよ」
 こう、もっと、胸がどきりとするような。心臓を掴まれるような。そわそわして落ち着かないような。なんとなく目が離せなくなるような。つい引き寄せられてしまうような。心をときめかせるような。異性を強く意識させるような――色気というのは、なにも直情的なものだけではないだろうに。
「ま、悟空さに聞いたおらが馬鹿だっただよ」
 当てつけのような溜息を一つ。くるりと背を向けて食器棚に向かうと、その後ろを悟空もひょこひょこと付いて来た。なんで怒んだよ。不満げな声を上げる夫に、ずいとコーヒーカップを二つ押し付ける。無言でのそれに、お、おうと頷いた。
 ペアになったそれは、悟空とチチの揃いのものだ。
 悟空は受け取ったカップを一旦テーブルに乗せると、ケトルで湯を沸かした。食器棚からガラスのポットとドリッパーを取り出す。ペーパーフィルターをセットして、コーヒー豆を入れる。沸騰した湯を、そおっとドリップに注ぐ。
 特有の香ばしい香りが、辺りに優しく充満した。
 悟空にコーヒーの淹れ方を教えたのは、勿論チチだ。戦闘になれば誰よりも頼りになる夫は、しかし家庭生活の中では誰よりも頼りない。第一、家事を手伝うという概念すら端から頭にない、そのくせ人一倍手の掛かる、超ブラック旦那だ。
「せめて、コーヒーを淹れるぐらいの労わりを見せてけろっ」
 若い頃にそう爆発すると。
「でもオラ、淹れ方なんてわかんねえぞ」
 腹が立つぐらいのきょとん顔で返され、ならばと教えたのが、まず最初の第一歩。
 以来、こうしてコーヒーカップを渡すと、悟空は得たりとコーヒーを淹れる。掃除や洗濯など家事も碌にできないが、手が慣れた頃には彼のコーヒーは随分美味しくなった。褒めて伸ばす。躾は大切だ。
 武道をしているだけに、体幹が鍛えられた悟空は姿勢が良い。そしてその姿勢所以か、敵に対峙する時は実際よりも大きく長身に見えて、誰よりも頼もしく見栄えした。
 しかし、こうして台所のテーブルの上でちまちまとコーヒーを入れる背中は、やや丸まっている。何処か情けないような、頼りないような、所帯臭いような。宇宙一強い戦士ではない、自分の為にコーヒーを淹れてくれるただの不器用な男の背中が、チチは堪らなく好きだった。
 あー……でも、そうだなあ。ガラスポットの目盛を確認しながら、悟空は間の抜けた声を上げる。
「それなら、いっつも感じているかもしんねえな」
「なにをだ?」
「色気、だろ」
 さっき、言ってたやつ。
「おめえに」
 ちらと振り返ると、肩越しににかりと笑った。
 ほら、あれだ。おっかない顔をして玄関で待ち構えていた時は、胸がどきりとするし。美味そうな匂いを立ち上がらせながら料理をしていると、つい引き寄せられてしまうし。低い声で名前を呼ばれると、自分は何をしでかしたのかと、そわそわして落ち着かなくなってしまうし。たまに卒倒したりすると、心臓がぎゅってしちまうし。
 うんうんと頷く悟空に、チチはなんとも形容しがたい心地で唇を引き締めた。成程、そうともとれるのか。
「今もそうかもな」
 さっきみたいに並んで立った時、小さな旋毛や細いうなじを見下ろしてると、何となく目が離せなくなっちまうし。細い後ろ姿は、やっぱり男のオラと違って、チチは女なんだよなって実感するな。
「ほら、コーヒー淹れたぞ」
 ことりとテーブルの上、いつものチチの定位置にカップを置く。ぱちりと瞬きをひとつ。香ばしい香りに袖を引かれながら、チチはいつもの席に腰を下ろした。
 カップに口をつける。いつもと同じ深みと酸味が喉を通ると、ほうと息をついた。美味しい。
「大体さあ」
 悟空は頬杖をついて、柔らかく目を細めて唇を綻ばせる。彼にしては静かなそんな表情に、チチははたと目が離せなくなった。





「オラを男にしたのは、チチじゃねえか」





 この修行馬鹿は、結婚する直前まで、「お嫁」は食べ物の事だと思っていた。
 その出自も影響してか、一般的な常識や知識からは縁遠く、勿論男女の事に関しても全くの無知であった。お互いに経験の無い者同士故、初めて体を重ねた時は本当に大変で、苦労して、今でも頭から消してしまいたいくらい気恥ずかしい――でも、とてつもなく愛おしい過去を共有している。
 あの時に比べれば、こんな台詞を吐けるようになっただけ、まだ成長したのだろう。
 この人を男にしたのが自分なら、自分を女にしたのもこの人なのだ。





 向かい側、チチから見て真正面のいつもの自分の席に座っていた悟空が、ひょいと隣に移動してきた。何やら思いついたのか、いたずらっ子のような顔になる。
 なあ、なあなあチチ。大きな図体でにじり寄り、すくい上げるようにこちらを覗き込み。
「キスしてくれよ」
 へらりと笑って自分の唇を指差す宿六に、思わず固まる。一体この人は、突然何を言い出すのか。言葉にならないそんな心の内が滲み出たのであろう。
「そしたら、トキメクだろ?」
 色気って、そーゆーやつなんだよな。ほらな。オラだってチチの言ってる色気の意味、ちゃんと判るんだぞ。
 ふふんと得意気に唇を吊り上げる顔は、なにやら自慢気で、無邪気で、嬉しそうで、子供じみていて、馬鹿みたいで。
 でも――ちゃっかりときめいてしまった自分は、やはりこの男のことが、どうしようもないくらい好きなのだ。





 無言のまま、窺うように首を傾けると、待ってましたとばかりに悟空は目を閉じる。
 至極素直なそれが可笑しい。幼いばかりだと思っている顔をじいっとみつめると、消えない傷がいくつもあり、口元には髭にも似た産毛が僅かに見えた。無邪気に見えても、数々の戦歴を乗り越えた、ここまでの年月を生き抜いた、様々な経験を積み重ねた、男の顔であった。
 さて。
 鼻先を弾いてやろうか。何時間でもこのまま眺めていてやろうか。それとも極上のキスをしてやろうか。
 宇宙一強いこの男の一足先の運命は、世界で唯一の妻である自分の胸先三寸で決まるのだ。





end.




不意に感じる男と女。
セックスネタとして書き始めました(え?)
エロ? 何だそれ、うめえのか
2019.09.14







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