かくして、占いババは予言した。
 この聖女こそが、母なるマリア。
 彼女こそが、この世を救う救世主の母になるであろうと。










ブラッディ・マリーは傅かない










 澄み渡るように腫れ上がった空に、祝福の鐘の音が高らかに響く。
 大聖堂で行われる婚姻式は、佳境であった。夫婦の契りを結ぶ新郎新婦が、祭壇の前に並び、最後の祝詞を聞いている。
 煌びやかな鎧を纏う花婿は、華々しい戦歴と功績を上げた聖騎士だ。都の王宮に仕える実力者であり、その整った容姿に自信を漲らせて片膝をつく姿は、厳粛な聖堂の中でもやけに華やかで人目を惹く。
 対する隣に並ぶ花嫁は、魔を退ける力を身に宿す聖女であった。魔法使いのように魔力を使うことなく、祈るだけで病を退け、撫でるだけで傷を癒し、触れるだけで魔を浄化する奇跡の力同様、純白のドレスを纏った姿はひたすら清楚で美しい。畏まった面持ちで首を垂れる横顔は、さながら白百合のようにたおやかであった。
 だが、その裏で交わされる噂話は不穏だ。
 これで何度目になるだろう。果たして無事に終えることが出来るのか。あの聖女は魔物に魅入られている。あれは血塗られた花嫁だ。予言の聖女は呪われている。
 そう、彼女が花も恥じらう年頃になってからは、特に。
 聖なる場である大聖堂には、下手な魔物が近付くことはない。建物周辺には、二重にも三重にも結界が張り巡らされている。その上今回の花婿は、聖なる力を宿した名高い騎士。間も無く儀式も終わる。今度こそ、この結婚式を成就させることが出来る筈。
 厳かなる空気の中、神への誓いと祝福の言葉を唱え、婚姻という名の契約呪文が終わりを告げる。
 二人の前に立つ祭司は聖典を置き、器に蓄えられた聖水に手を浸すと、軽く手を振るってその滴を二人へと飛ばす。そして蓄えた口ひげの下から、二人に契約の最期を伝えた。
「では、誓いの口付けを」
 しん、と静まる中、しわがれた低い声が隅々まで響く。
 集まった人々が固唾をのんで見守る中、主役の二人は形式通りに向かい合う。鎧に包まれた逞しい腕が花嫁を引き寄せると、自然、その小さな頤が上がった。くるりと向けられる射干玉色の大きな瞳に、花婿はにこりと安心させるように微笑む。
 大丈夫。結界は完璧だ。余程でない限り、闇の力は及ばない。誓いの口付けを果たし、二人で祭司に傅けば、それで儀式は終了する。二人の婚姻が成立するのだ。
 覗き込んでくる花婿を、花嫁は眉根を寄せて見上げる。胸の内に燻る靄を無理矢理飲み込み、やがて観念したように、新婦はそっと目を閉じた――その瞬間。

 ぱん、と水風船が弾けたような音に、新婦ははっと目を開いた。

 視界一面に飛び散るのは紅色の滴。生ぬるい飛沫がぱたぱたと頬を濡らし、赤いラインを描きながら伝い落ちる感覚に呆然とする。
 目の前にあるのは、どくどくと血潮を吹き出す、首のない花婿の体。ゆうらり、ゆうらりと左右に肩を揺らせると、人形のような体は、そのまま力無くあお向けに倒れ込んだ。
 だん、と倒れ込む音から一呼吸の間を置いて、四方から絶叫と悲鳴が上がった。
 悲鳴と怒声と飛び交う聖堂内。ばたばたと走り回る警備員と、聖職者たち。なんということだ。またしても。結界が崩されて。術者に被害が。国王に連絡を。
 憶測と、報告と、喚き声と、金切声が飛び交う聖堂の中心。目の前の惨劇に、血塗れの花嫁は呆然としたまま身動きも取れない。
 ただ震える拳を握り締め、遠くなりそうな意識を必死で繋ぎ留めていた。















 華やかな結婚式場は、凄惨な殺人現場へと変わり、葬儀場へと変わった。
 そして日が沈み、満天の星と細い月が頭上に上る今、あれほど騒ぎにもまれていた大聖堂も、しんと沈むような静けさに包まれている。
 聖なる筈の建物が、魔力の侵入を許し、血塗られたのだ。穢れを浄化する為にも、今夜は立ち入り禁止となっている。中に入ることが出来るのは、浄化された空気を身に纏う、聖女のみ。
 一晩聖堂に篭り、穢れた堂内の空気を浄化させる任務を買って出たのは、主役になる筈であった花嫁であった。
 花婿であった彼のことは、どのような人物であるのかも知らない。一度顔を合わせたのみで、後は碌に口も利かぬまま、気が付けば婚姻の儀式の準備を遂行され、異を唱える暇も与えず強行されたのだ。それももう何度目だろう。慣れたものである。
 それでも、使者に対する追悼の気持ちはある。意に添わぬ結婚を強いられたとはいえ、ある意味彼も被害者だ。今更これだけ噂になっている呪われた聖女を花嫁に迎えようなどと、普通の男は思うまい。恐らくは、聖女の力と予言の救世主を我が国に引き込まんが為の権力者の。政治の。
 だからせめて、彼が安らかに神の元へと導かれますように。
 黒衣の喪服に身を包み、聖女は聖堂の壇上へと祈りを捧げる。腰を落として項垂れる、その頭から上半身をすっぽりと覆う大きな黒いベールは未亡人の証。婚姻の儀を果たせぬままであった彼女は、未亡人という立場ではないのだが、それでも、慰めだとしても、せめて鎮魂の助けになるならば……。

「お前も大変だな」

 その力と予言の所為で、意に添わぬ結婚を、次から次へと強いられる。いい加減諦めりゃいいのに、寧ろ花婿が死ねば是幸いと、他の権力者が次を宛がおうとする。全く、凝りねえ奴らだ。
 くつくつと含み笑い交じりの声。頭上から降りてくるそれに、聖女はベールの下の瞼をそっと開いた。
 胸を反らせるようにして見上げるのは、大聖堂の壇上の更に上。先細る天井、遥か高くにはめ込まれた、鮮やかなステンドグラス。月明かりの差し込む円形のそこには、腕を組み、足を組んで窓枠に腰を据えてこちらを見下ろす、悠々としたシルエットが浮かんでいた。
「なあ、黒衣の聖女サマ」
 最近は、そう言われているらしいな。聖衣より、ウェディングドレスより、喪服を来ている方が多いってな。
 影は、軽やかな動きで跳躍すると、すとんと彼女の前に降り立った。窓より差し込む月明かりに照らされながら、一歩一歩踏みしめるように歩み寄ると、座したままの彼女の正面に片膝を突く。
 そして、巨体を屈めるようにして、その小さなかんばせを覗き込んだ。
「奇跡の聖女……いや、チチ」
 にい、と唇を吊り上げるその姿は、まごうことなく異形。
 たてがみのようにボリュームのある長い黒髪と、禍々しく赤に縁取られた鋭い目元。腕や背に生え揃う野獣のような赤葡萄酒色の体毛に、くるりと楽しげに揺れるしなやかな尾、そのどれもが人とは違う魔性の生き物であることを主張している。
「お前にはそっちの方がよく似合う」
 白いドレスも良いが、あれは駄目だ。オレの前以外ではな。
 野太い指を伸ばし、黒衣のドレスと同じ色のベールの裾を引っかける。頭からすっぽりと覆う生地は透き通ってはいるものの、しかし灯の乏しい夜の聖堂では彼女の顔を見え難くしてしまう。それが魔獣には不満であるらしい。
 くいと指先で引っ張ると、滑らか手触りのそれは、なんの引っ掛かりも見せずに、するりと滑り落ちる。
 漸く見えた白く小さな顔に、野獣は至極満足そうに唇を吊り上げた。
 怯むことなく見据える清楚な顔は、例えるなら月明かりに花開く白い花。どこまでも凛とした眼差しは、しかし真正面から魔獣を捉えてきりりとねめつく。この強さがたまらない。魔物は喉の奥を鳴らせた。
「お前も断れよ」
 嫌なんだろ。政治の道具で、こんな風に好きでもねえ男に嫁がされるのは。
 魔物が襲い、怪物が闊歩し、あちこちで戦乱に荒れるこの世界。彼らは皆、聖女のもつ奇跡の力と、その影響力、そして占いババの神託である救世主の誕生を求めている。誰も彼女自身を見ていない。判っているくせに、しかし黙って甘んじるがままの彼女が歯痒い。
「いっそ、オレのものになっちまえ」
 あんな、見掛けばっかりのエセ聖騎士よりも、オレの方がずっと強い。あの程度の結界なんて、まるで役に立たねえぐらいにはな。
「それとも、まだ待っているのか」
 聖女は答えない。反応のない彼女に、呆れた溜息をひとつ。
「いい加減、諦めろよ」
 甘い声で、残酷な言葉を吐く。
「お前が待ってる男は来ねえぞ」
 強調するように、はっきりと告げる。
「教えてやっただろう。孫悟空はもう居ねえ」

「伸びるだ、如意棒っ」

 声と同時に、手の内に隠していたそれをぴんと親指で弾く。彼女の声に呼応し、親指程のサイズであったそれが、ぐうんと伸びた。
 艶やかなれど使い込まれだ朱の棍を、ぱしりと握る。
 チチは迷いのない力で、如意棒を横薙ぎに一閃した。ぶうんと空気が鳴る。それを見極めた魔獣は上半身を反らせて避け、床を蹴り、くるりと一転しながら距離を取る。
 床に両手をついた体勢で顔を上げるより早く、チチは跳躍する。距離を見計らい、慣れた手つきで棍を回して小脇に挟み、腰を落として対峙した。武道家特有の安定感のある構えに、魔獣はひゅうと口笛を鳴らせる。
 華奢でか弱げな奇跡の聖女様は、こう見えて武芸の達人だ。並みの達人程度では手も足も出ないであろう、大した腕前の持ち主である。
「おらは、おめえの言う事なんか信じねえ」
 修行の旅に出た孫悟空は、神様の元へと行ってしまった。強くなりたいと力を求め、極め過ぎて、内に秘めた闇の本性を目覚めさせてしまい、もう人ではなくなってしまった。人を超える力を手に入れてしまい、魔物へと成り下がってしまった。
 幾度となく、魔獣は彼女にそう告げていた。しかしその度に、彼女は否定する。誰よりも真っ直ぐで、明るくて、迷いがなくて、太陽のようなあの人が、闇に囚われるなどあり得ない。魔物の戯言など、誰が信じるものか。
 床を蹴り、如意棒を素早く繰り出す。
「悟空さは、おらと約束してくれただっ」



 オラ、もっと修行して強くなるから。
 お前を守ってやれるぐれえ、誰よりも強くなってやるぞ。
 そしたら、またここに帰ってくっから。
 また会おうな、チチ。
 ヨメってのは良く解んねけど、おめえがくれるもんなら貰いに来るぞ。



 右に、左に。奥へ。自在に形や長さを変化させながら攻撃を繰り出す如意棒に、魔獣は押されるように後退する。
 大したものだ。これは只の棍ではない。持ち主の意を読み、自在に形を変化させる魔力が込められた、この世に二つとない武器である。先程の呼びかけに従った様子といい、この棍は彼女を自分の持ち主だときちんと認めているらしい。
 だが、残念だ。
 ふっと魔獣は笑うと、ぐうと拳に力を込める。眉間へと焦点を定められた如意棒の威力を見定め、堅い獣の体毛で覆われた左の手首で、その威力を横へと打ち払う。
 がつんと伝わる振動。そのままするりと反転して懐に踏み込むと、如意棒を握り込む近い位置へ、下から右の掌底が突き上げられる。強い衝撃に揺さぶられ、如意棒が宙に浮く。しまった。
「オレには当たらねえ」
 天下の名武器如意棒も、当たら無ければ意味がない。
 くるくると回転しながら空中に弧を描いた如意棒が、二人から離れた位置に、がらんがらんと空虚な音を立てて転がる。
 直ぐ目の前には、燃えるような眼差し。人の物ではない黄金の輝きを放つ、魔性の瞳。至近距離から見据えるそれが、愉悦を浮かべて細くなる。
「残念だな」
「……そうだか?」
 ふ、とチチは唇に笑みを刷く。その白い手を素早く伸ばすと、構えたままの位置にある、丸太のようなその手首をがしりと握り締めた。
 ぐあ、と魔獣は喉を鳴らす。
 ぐう、とチチは唇を噛みしめる。
 聖女の手の平と魔獣の手首。繋がったそこからは、じゅうと焦げ付くような音と共に、黒い煙が立ち昇る。広がる皮膚の焼ける匂いに、魔獣は力任せに腕を振り切った。
 勢いのまま、投げ飛ばされたチチの体が、聖堂のベンチに背を打ち、どさりと横倒れる。低いうめき声が漏れた。
「あっぶね……っ」
 お前、死ぬ気か。
 焼けつく手首を擦りつつ、魔獣は驚愕に目を見開く。彼女が掴んだ掌の形そのままに、手首にはケロイド状の焼けただれた跡が残っていた。
 燻るように残る痛みが、じわじわと広がる。聖なる力で傷ついた体は、魔獣の回復力をもってしても、治癒には時間がかかる。回復魔法も効かない。
 そして、こちらのダメージもそうだが、しかし彼女のダメージもまた等しい。
 チチはゆらりと身を起こし、魔獣を掴んだ手を庇いながら立ち上がる。先細りの指先まで白かった彼女の手の平は、今はどす黒く変色し、炭化したように焦げついていた。ぎこちない動きに、受けたダメージの大きさを悟る。
 因果なものである。
 聖と魔は、相反する存在だ。魔物にとって聖者の纏う清らかな光は肌を焼く炎となり、聖者にとって魔物の放つ瘴気は内から蝕む毒となる。その能力が高ければ高い程、その力が強ければ強い程、互いの存在は身を滅ぼす。
「おらに触ることさえ出来ねえくせに」
 なにが、オレのモノになれ、だ。
 チチはふん、と不敵に鼻を鳴らせる。そして身を低くして床を蹴ると、素早い動きで魔獣へ掴みかかろうと手を伸ばした。
「おっと」
 それを寸で避け、更に伸ばされる手にくるりと身を引く。更にもう一手、もう一手。武器も持たないので、ちょっとした鬼ごっこのようだ。
 チチに迷いはない。自らが傷つくことに、全く恐れがないらしい。こちらを素手で捕えようとする真っ直ぐな必死さに、魔獣は楽しげに口角を上げた。
「ほらよ」
「きゃっ」
 身を乗り出した彼女の頭にばさりと無造作に被せたのは、先ほどまで自身の頭を覆っていた、黒い喪服のベール。動きに絡まるそれを振り切ろうと藻掻くのだが。
「こうすりゃ、おめえに触れられる」
 ベールごと力一杯抱き留められ、チチは一瞬呼吸が止まる。
 自分よりも一回りも二回りも大きな巨体に、小柄な少女の体はすっぽりと包まれ、息が出来ない。岩のように筋肉が盛り上がり、鋼のように鍛え込まれた肉体は、力で抑え込まれれば女の細腕ではびくりともしない。
 その事実が悔しくて、チチは涙を滲ませた。
「は、離すだよっ」
「直接触ることは出来ねえが、これなら大丈夫だろ」
 幸いにも、彼女は肌の露出が殆ど無い喪服を身に纏っている。直接皮膚の触れない接触なら、先程のようなダメージは無かった。
 拳を握り締め、渾身の力を込めて、ベールの内側からどんどんとその分厚い胸板を殴りつける。しかし魔獣は咽喉の奥で笑うだけ。この程度の抵抗など可愛いものだ。寧ろ嫌がる身体を無理矢理捻じ伏せる倒錯が心地よい。
 もっと、もっと嫌がれば良い。そして自分の無力に絶望し、涙を流して、そして助けを乞うて縋るが良い。その黒い瞳に映すのが、自分だけであるならば。
「――チチ」
 ベールの上から大きな掌が、その形を確かめるように後頭部をなぞる。
 喜悦に唇を歪めながら、頬を摺り寄せる。獣のように、鼻先をこすりつける。可愛くてたまらないと細めた魔物の瞳で、ベール越しの聖女を間近から覗き込む。きらきらと潤む瞳は、満天の星よりも美しい。
 ベールを間に、鼻先が重なる。呼気が伝わる。寄せるのは、その唇。
 直接触れられないのなら、せめて今は。
 形の良い小振りな唇を、噛みつくように魔物の唇が塞ぐ。ベール越しの口付けに、くつくつと喉の奥で笑い、ぬっとりと舐め上げる。
 このまま――自分のものに出来たらいいのに。
 舌先に伝わる。慄く小さな唇が形作るのは、彼女が求めるその名前。





「……助けて、悟空さ」





 がくりとチチの体から力が抜けた。
 それを支えながら、獣は鼻白む。やり過ぎたか。どうやら近付き過ぎたらしい。こちらの強過ぎる魔の瘴気に当てられ、気を失ってしまったのだ。
 そして、それはこちらも同じか。
 くらりと襲う眩暈を振り払うように、獣は軽く頭を振る。気怠い体に眉間に皺を寄せ、肩で息を荒げながら、腕の中の華奢な体を、丁寧な仕草でそっと床の上へと寝かせた。
 片膝を立てた姿勢で、喉元に手を当てて呼吸を整える。聖女の纏う光の浄化作用で、そろそろこちらも限界らしい。ひりつく胸の奥から深く息を吐き出し、横たわる彼女を真上から見下ろす。
 なあ、チチ。
「孫悟空は……もう居ねえ」
 嘘じゃない。本当に。この世の何処にも存在しない。
 眉根を潜めながら、魔獣はすい、と片手をあちらへと掲げた。
「来い、如意棒」
 不思議な魔力を携えた天下に二つとない宝武器は、決して持ち主を間違えない。呼応に応え、放置されたままであった如意棒は、かたりと小さな音を立てると、そのまま魔獣の元へと引き寄せられた。
 慣れた手つきでぱしりと掴むと、そのままそっと彼女の隣へと並べる。
 祖父から譲り受けた大切な形見の棍であった。別れる際、聖女として命さえ狙われる彼女へ、護身の為にと託したが、どうやら忠実にその命を守っているらしい。
 ふっと優しい笑みが、不敵な唇に浮かぶ。





 昔、誰よりも強くなりたいと願った少年は、修行の旅に出た。
 己を鍛え、鍛錬に励み、様々な敵と戦い、更なる高みを求めて神の元へと指導を乞うた。
 そして、限界まで極めたその先で、ついに内に秘めた闇の力を目覚めさせ、とうとう少年は人ではなくなってしまった。
 人を超える力を手に入れたと同時に、眠っていた魔物の獣性を呼び覚ましてしまった。
 今はもう、その面影すら残さない姿へと、変貌を遂げてしまったのである。





「もう、待つな。チチ」
 オレを、待つな。
 口ではそう言うくせに、誰かが彼女の隣に立つことは許せないなんて。
 滑稽な自分の矛盾に、魔獣は苦々しく唇を歪めた。





 悟空さ。
 声に出さずに呼ぶのは、ずっと心の真ん中に留める、愛しい初恋の少年の名前。
 先程の行為で、その唇は紫色に変色し、可愛そうなほどに酷くかさつき、血を滲ませて荒れている。甘美な行為の筈なのに、想いを交わす誓いの筈なのに、二人が交わせば文字通り、死をもたらす口付けとなってしまう。
 傷つくのがオレだけであるならば、どれだけ楽になれただろう。
 ひりつく己の唇を、野獣は手の甲で拭う。それだけでずるりと薄皮が剥け、割れた皮膚から滲む鮮血が、紅を引いたように赤く染める。
 それを親指で拭うと、腫れて熱を持った舌でべろりと舐め上げた。





 目を閉じた聖女の目尻に、つうと涙が静かに伝う。
 魔獣はそれに背を向けて、音もなくその姿を闇へと同化させた。





end.




設定詰め込み過ぎダークファンタジー
DB界のヨン様という可能性の獣に挑戦
ちょっとした遊び心。勿論、続かない
2020.03.21







back