コスメに纏わる幾つかの話題





チチの目は良く動く。
話をしている時、相槌を打つ時、声を出して笑う時、 小首を傾げて考える時、しかめっ面をして怒る時。
くるくると動く目に合わせ、 それを彩る長い睫毛もぱちぱちと瞬いていた。





座ったカフェテーブルの向い側から、じいっと覗き込んでくる視線。 最初は左程気にしていなかったが、無邪気ささえ含みつつも露骨なそれの居心地悪さに、 やがてチチは眉根を寄せた。
「…何だべ、悟空さ」
怪訝に長い睫毛を瞬きさせると、 合わせる様に悟空も瞬く。ふうんと感心したように頷いて。
「おめえの睫って、 紫色だったんだな」
一拍の間をおいて、思わずチチは、あははと快活に笑った。
違う、違う。軽く首を横に振りながら。
「カラーマスカラだべ、これは」
「カラーマスカラ?」
勿論悟空は、マスカラの知識など持ち合わせていない。 チチの説明から察するに、要は睫毛を長く見せる為の化粧品であるらしい。 今日はそれに色がついたものを、チチは使っているようだ。
「綺麗な色だろ?」
グリーンの偏光パールが入ったブルーパープルで。普通にしていたら殆ど黒と変わらないけど、 光の加減によっては、青っぽくなったり紫っぽくなったり緑っぽくなったり。 変に目立つ訳ではないが、それでもちょっと伏せ目がちにした時とか、 微妙なニュアンスに発色するし。
「紫色は、 白目を綺麗に見せてくれる効果もあるそうだべ」
あまりはっきりした色じゃなくて、 この微妙に…程度がポイントなんだべ。
とくとくと嬉しそうに説明するチチに、 ふうんと間延びした声を上げる。悟空には良く判らないが、チチがそう言うなら、 そうなのだろう。
「それにしても、悟空さにしては珍しいな」
普段は新しい服を着ようが、髪形を変えようが、空しい位に全く気の付かない朴念仁である。 それなのに、こんな些細な色に気が付くなんて。
「おらの事なんか、 ちっとも見てくれねえのに」
「そんなことねえぞ」
どうだか。 肩を竦めると。
「オラ、いっつもちゃんとチチの事見てるからな」
至極大真面目に告げられて。
「…もう、悟空さってば」
こっぱずかしいこと、言わねえでけろ。言葉以外の意味は含まないと判っていながらも、 思わずチチは赤面する。
両の手で包む頬は、知らずに綻んでいた。





カフェで軽食を取った後、二人は映画館へと向かう。
金曜日の最終上映ともあって、 人の多さに危惧していたが、公開から少々日も経っているからであろう、 人波も落ち着いているようだ。やや後ろながらもそれなりに観易い席を確保できた。
並んで腰を下ろすと、チチは腕を絡ませてくる。それに、 悟空は不審そうに片眉を上げた。
「何でそんなにくっつくんだよ」
人混みの中でもあるまいし、映画館の中でくっつく必要ねえだろ。
色気も何もあったもんじゃない、歯痒い位に素っ気無い言葉。それに反発するように、 チチは腕に力を込めた。
「恋人同士って言うのは、こうするもんだべ」
困ったように眉を顰め、だけど悟空はそれ以上の文句は言わない。その代り、 小さく欠伸を漏らした。
眠たげに目を擦る仕草に、 そう言えばさっきのカフェでも、あまり良くなかった事を思い出す。 あれは照明の所為ではなかったらしい。
「仕事、忙しいだか?」
最近は朝が早く、 帰りも随分遅い事は知っている。なかなか互いのスケジュールが合わない状況下、 今日は半ば無理矢理デートに漕ぎ付けたのだ。
眉根を寄せるチチに、 大丈夫だって、と悟空は笑う。
「チチ、この映画、観たかったんだろ」
映画情報が公開された頃から、ずっと観たいと話していたのを覚えている。 ロードショーからは随分経ってしまったけれど、 それでも折角こうして時間が出来たし、一緒に見に行こうって約束もしていたから。
「だども…」
唇を尖らせて何かを言おうとした所で、上映開始のアナウンスが流れた。



















暗い夜道を二人、言葉無く歩く。
ハイヒールの音が早まるその二歩後ろから、 悟空は困った顔で、背中で揺れる長い髪を見つめていた。
「…なあ」
「何だべ?」
その…と、視線を彷徨わせ。
「怒ってんのか?」
怒っている? 目を見開いて、チチは振り返る。
「何で。おらが?」
そう見えるだか? 今度はチチが戸惑う番になった。
「だって、さあ…」
久しぶりに時間の取れた週末の夜だと言うのに、二人は今、 チチの家路を最短距離で突き進んでいる。
普段なら、 この後何処かでお茶をして、さもなくば軽く飲みにでも行って。 そのまま終電ぎりぎりの時間まで一緒にいるか、 でなければどちらかの家に行くか…それがいつものパターンだ。
しかし今日は、 映画が終わると素っ気無いほど速やかに、チチは帰宅を切り出した。しかも、 いつものように家まで送ろうとする悟空を制してまで。
とは言え、 チチの家までの夜道はかなり暗く、少し前にも強盗事件が発生したような場所だ。 だから半ば強引にこうして一緒にいるのだが、それでもチチは酷く早足で突き進む。 まるで、一刻も早く別れたいとでも思っているかのようじゃないか。
「そうじゃねえだよ」
どうも誤解を招いたようだ。慌ててチチは否定する。
「だって…悟空さ疲れているみてえだもん」
本当は折角会えた週末だし、 もっと二人でゆっくり過ごしたかったのが本音だ。でも疲れているのに、 無理して突き合わせるのも申し訳ない。人一倍にタフな人だけど、 実際は本人が思う以上に病気に弱い事も知っている。
「オラ、平気だぞ」
「なーに言ってるだよ、映画館でずーっと寝ていたくせに」
こちらの肩に頭を持たれ掛けさせて、くうくうと心地良い寝息を立てていたのは、 一体何処のどなただったのやら。可愛らしく睨みつけてやれば、 たははと困ったように頭を掻いて誤魔化した。
「オラ、あーゆーの苦手でさ」
今日見た映画は、実にスタンダートなラブロマンスだった。 アクションやアドベンチャー的な作品が好きな彼には、確かに退屈だったかも知れない。
「すっごくええ映画良かったのに」
凄く感動したのに。いっぱい涙が出たのに。 でもその感激を分かち合い、語りたかった相手は、眠りこけて何も見ていないのだから。
「悪かったって、チチい」
「もうええだよ」
正直、映画の内容だけに、 こうなるだろうとは半ば予想もついていた。肩を竦めて苦笑するチチに、 通り過ぎる車の照明が正面から当たる。
その一瞬に、悟空はまじまじと見つめてきた。
「どしたんだ、それ」
「へ?」
「目の周り。紫色だぞ」
紫? 不思議そうに瞬きを繰り返し、あっとチチは両手で目元を押さえる。
そうだ、 今日はマスカラをしていた。映画館で涙を流した時、それを忘れてうっかり指先で拭ってしまい、 目の下に化粧が落ちてしまったらしい。
やんだあ、こっぱずかしい。 急いでバッグからハンカチを取り出し、鏡を探る。 しかし今日に限って小さめのバッグを持って来たので、 荷物を最小限に減らそうと、手鏡もコンパクトも入れて来なかったのだ。
「ほら、拭いてやるよ」
慌てるチチの手からひょいとハンカチを取ると、 悟空は少し身を寄せて見下ろす。
「じっとしてろよ」
添えられる手の平に促され、 チチは抵抗なく顔を上げた。
マスカラの色そのままに滲んだ目元を、 悟空は出来るだけ丁寧にハンカチで拭う。
「…取れるだか?」
もっと力を込めてくれても大丈夫だぞ。柔らかい感触と敏感な個所だけに、 遠慮があるのだろう。その手つきが、ややもどかしい。
「ん…もうちっと…」
頬に触れる吐息。近付く顔を、チチは至近距離で見つめる。
幼さの残る頬、 でも意外に精悍な顔立ち。普段は掴み所がないマイペースな笑顔ばかりなのに、 今は眉間に皺を寄せて、珍しくも至極真剣な眼差しで見降ろしていた。
「…よし、取れたぞ」
ふう、と息をついて肩を落とす悟空に、ふふっとチチは笑った。
「何だ?」
「さっきの映画を思い出しただよ」
今の自分達と、 似たシーンがあったのだ。
「確か、睫毛がついているから取ってあげるって嘘ついて、 目を閉じた彼女にキスをするんだべ」
でも悟空さは、しなかっただな。って言うか、 おらが目を閉じなかったもんな。くすくす笑って告げるチチに、 悟空はむうっと唇を尖らせる。
「オラ、嘘はつかねえぞ」
心外だとばかりの言葉に、 そうだなとチチも頷く。悟空は嘘が嫌いだ。勿論、チチも。
「それにさ…」
ん?と無防備なチチの面に、にっと笑って。


そして、ひょいと重なる唇。


「別に、そんな事しなくてもいいだろ」
わざわざ、面倒臭い嘘なんかつかなくてもさ。
悪戯が成功した子供と同じ顔。思わず触れた唇を押さえながら、 真っ赤になった顔でむうっとチチは悟空を睨みつける。
「もう…そっだら話じゃねえべ」
要は映画に出てきた、そんなシチュエーションとムードの問題だ。 全くこの男は、ロマンチックをちっとも判っちゃいない。
「じゃ、嫌だったか?」
存外に真面目な顔で問われ、思わず視線が落ち着かなく彷徨う。
「…嫌じゃ…ねえけど…」
その返答に、へらりと悟空は笑う。 チチは唇を尖らせてそっぽを向いた。
「で、どうする?」
「何が?」
チチの手に、目元を拭ったハンカチを握らせながら。
「やっぱりこのまま帰るんか?」
こちらを見下ろすその眼には、チチだけに悟る事が出来る、ほんの僅かな艶が滲んでいた。
「…だって、悟空さ疲れてるでねえか」
仕事が大変な事も知っているし、寝不足も、 疲れているのも知っているし。無理して、本当に倒れたりしたらどうするんだ。
「だから、チチが一緒にいてくれるだろ」
むしろ、そっちの方が良いじゃないか。 理屈なのか屁理屈なのか、実に調子の良い事を言う。これが裏の無い真性の天然だから、 全く以てこの男は性質が悪い。
それにさ。
「オラ、チチと一緒にいる方が、 落ち着くからな」
重ねられたままの手が、そのまま包み込むように握りしめられる。
「…悟空さの嘘つき」
そんな事言ってても、こっちから連絡しなければ、 電話もメールもなかなかしてくれないくせに。
「嘘なんかつかねえって」
オラが嘘が嫌いで、苦手な事は知っているだろ。
「大体悟空さは、 いっつも調子が良すぎるだよ」
自分勝手で、こちらの気持ちなんて、 全然考えてくれないくせに。もう少し、乙女心とおらの気持を理解するだ。
ぶつぶつと尖る唇。覗き込むと、視線が逸らされる。でも、ぷうと膨らんだ頬は、 それでもほんのりと上気していた。
へへ、と悟空は笑う。
「なあ、チチい」
ぎゅうっと抱きしめて、甘える様に額に頬を擦り寄せた。暫しの間もなく、 チチは怒らせていた肩を、やがて諦めたようにふうと落とす。
「…もう、悟空さったら」
恨めしそうに見上げてくる大きな瞳。 それを見下ろしながら、口や表情とは裏腹に、実はちっとも怒っていない事を、 正確に読み取る。
いつも、チチを見ているのだ。何を考えているかなんて、 すぐに判る。現に今こうして抱きしめていても、チチは嫌がる様子も見せず、 背中に腕を回しているのだから。
な、やっぱりそうだろ。
「オラ、 チチの事よく見ているからな」
確信のままにそう告げると、もう一度唇を寄せた。




end.




イメージはBOKのマスカラファンタジストBL903
カラーマスカラ好きで、結構派手な色も使います
2009.03.28







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