魔女と拾い猿
<5>





 悟空は森の中を疾走した。
 気を付けろと忠告されていた筈であった。油断するなと。それに頷いたのは自分だ。
 己の迂闊に臍を噛むが、しかしもう遅い。
 間に合え、間に合え。黄金の瞳で前を睨み据え、悟空は呪詛のように胸の内で何度もそう唱えた。















 火の手が上がったのは、悟空がフライパン山から離れた場所へと足を運ばせている時であった。
 たまたまチチも森の奥にのみ自生する薬草の採取に出掛けていた、その隙である。辺りに広がる焼けた匂いと、立ち上る煙に嫌な予感がして、急いで屋敷へと帰ると、もうそこはごうごうと燃え盛る炎に包まれていた。
 呆然とするチチを、こん棒や、鍬等を持った麓の村人が、ぐるりと囲い込んだ。










 背中を強く押され、チチは縺れるようにどさりと倒れ込む。
 後ろ手に縛られた手首や腕には、必要以上に縄が食い込み、その先が痺れてもう感覚もない。二の腕から胴を拘束する縄は肺をも圧迫し、息苦しさにけほ、と小さく咳き込む。
 押し込まれたのは、村の中心地にある小さな教会であった。罪人を閉じ込める牢屋などないこの田舎の村で、ここが精一杯の独房代わりなのであろう。
 森に隠れて村を監視していたのか。恐ろしい魔獣を飼っていて。屋敷には沢山の魔石が。あれを集める為に厄災を呼び込んだ。もしやこの魔石で魔物を作ったのは。矢張り全ての元凶は魔女だったか。
 動けぬこちらを見下ろしながらの勝手な憶測に、チチは大笑いしたくなる。そんな訳あるか。買い被りも甚だしい。彼らの中の魔女とは、どれだけ万能な力を持っているのか。聖地の神殿に住まう神様だって、世界を見守ることしかできないのに。
 第一、隠れるもなにも、あそこは自分が生まれ育った場所だ。それに、魔女に魔物を作る力なぞある筈がない。魔物を作ったのは人間の負の想念であり、寧ろ生み出したモンスターを退治したからこそ、魔石があそこにある訳で。ついでにあの魔獣は見た目が恐ろしげに見えるだけで、中身は能天気なお人好しで、魔石が沢山あったのは――彼から貰ったものを大切にしていたに過ぎない。
「おめえ達……本気でそんな事、信じてるだか?」
 笑いさえ含んだ嘲る声に、黙れと怒鳴りつけられ、同時に頬を張られた。拳を握って息を荒げるのは、見えない恐怖に怯え、震える足を踏ん張り、それを必死に隠そうと虚勢を張る、まだ年若い青年であった。
 勿論、そこで怯むチチではない。
「馬鹿じゃねえだか? 勝手に勘違いして、おら達の所為にするでねえっ」
 煩い、魔女の癖に。ぐいと襟元を掴まれ、そのまま乱暴に床へと叩きつけられる。打った肩が痛いが、チチは意地でも呻き声を上げなかった。
 肘で無理矢理体を支え、真正面からきっと睨み据える。掴まれた時に破けた襟首がはだけ、薄暗い教会の中、その胸元の肌色がやけに白く目に焼き付く。
「大の男衆が、女相手に手ぇ上げてっ。おめえら、恥ずかしくねえだかっ?」
 向こう見ずな啖呵は、時に人の凶暴性を刺激し、獣性を煽る。
 それが、服を乱して拘束される清楚な佳人であるなら尚更だ。
 齢の永き魔女とは言え、チチは見た目は少女だ。くるりと大きな目と頬の丸みは初々しささえ残り、しかし剥き出しになった腿や縛り付けられることで強調される胸の丸みは、やけに艶めかしい。負けん気のままに向ける鋭い眼差しとそれらのアンバランスさは、脅えを孕んだ男たちの劣情を、無駄に掻き立てる威力がある。
 しまった、と思った時には、細い足首を掴まれていた。
 男の力で無理矢理膝を折り曲げられ、ぐいと開かれた時に、漸く男の意図を察したチチは顔を青褪めさせる。抵抗するが、魔女とは言え力は人間と同等だ。護身術程度の武術こそ見つけてはいるものの、拘束された状態では充分に発揮できない。ましてや、体重をかけて伸し掛かられれば、女の力では限界がある。
 おいやめろ。構うもんか。こいつは魔女だ。自分の立場を解らせてやる。どうせ死刑だ。火炙りにする前に、この体。
 腿に這わされる指の嫌悪感に、ぞっと鳥肌が立つ。チチは攻撃魔法を知らない。薬や食材、素材の調合や加工には自信があるが、しかしそれ以外は極基本的な魔法しか持っていない。
 ならば――チチは早口で術を唱えた。
 途端、柔らかい光が押し倒された体を包む。術式に反応する光はゆらゆらと色を変え、そして最後のセンテンスを紡ぎ終えると、煌めきは彼女の体に吸収されるように消えた。
 なにかの魔法か、呪詛か。距離を取り、身構え、警戒する彼らは、今のは何だと彼女に叫んだ。
「ま、魔法をかけただ」
 自分の体に。
 難しい魔法ではない。魔女なら誰もが知る、極基本的なものだ。まさかこれを使うことになるとは思わなかったが、ささやかながらも脅しとしては使えるだろう。
「使い魔の、契約魔法だべ」

「おらの体を犯せば、おらの使い魔として契約することになるだよ」

 人間達の間では、魔女の使い魔や眷属になれば、死後は魔界へと落とされ、永遠に地獄を彷徨うという言い伝えもあるらしいだな。
「おめえらに、一生死ぬまで、魔女の使い魔として働かされる覚悟はあるだか?」
 二の足を踏む男たちに、不敵に唇を吊り上げ、壮絶な笑みを浮かべる。
「その覚悟が出来たなら、おらの体を好きにするがええだよ」
 ――その瞬間。










 獣の咆哮が、空を、地を、大気を震わせた。















 息が荒い。
 悟空ほどの体力があれば、この程度の距離を全力疾走したとて、それほどの消耗はない筈だ。しかし今。しかとチチを胸に抱いたまま、怯えるかののように体を震わせ、ひたすら慄く呼吸を整えようと喘ぐ。
 怖かった。彼女を失うかと思った。彼女を汚されるかと思った。彼女を奪われるかと思った。耐えられない。迂闊であった。何より、ここまで激情が抑えられないとは、自分でも思わなかった。
 チチを抱いて悟空が連れて来たのは、以前彼女に教えてもらっていた、森の奥の隠れ場所だ。
 逞しい腕に抱かれ、チチはもぞりと身じろぎ、激情を抑え込もうとする彼へと手を伸ばした。
「大丈夫だから……悟空さ」
 おめえが助けてくれたからな。おらは平気だべ。もう心配することはねえぞ。な? 悟空さ。
 幼子を宥めるように、その二の腕を擦る。その指先に悟空は歯噛みした。抱き締めている筈なのに、これではまるで、自分が彼女に縋り付いているようじゃないか。
 言いたいことは沢山ある。冗談ではない。死ぬかと思った。チチが、ではない。自分がだ。
 怒鳴りつけてやりたい感情の渦でいっぱいになるが、だが、どれも的外れなのだろう。分かっている。彼女が悪いわけではない。しかし気持ちは収まらない。この感情の高ぶりをどこに向ければ良いのか判らない。
 ぐう、と獣のように、悟空は喉の奥を鳴らせた。耐えるように、深く呼吸する。
 そして、決意を込めてその目を見開いた。
 腕の中のチチを見下ろすと、些か乱暴に悟空はその襟首を寛げた。
 露になる柔らかい肌の色に、目の前がかっと赤く染まる。その滾りのままに、なだらかな谷間に顔を埋めた。チチは瞬く。
「……悟空さ?」
「おめえを抱く」
 肩まで服をはだけさせ、そのまま細い腰をぐいと引き寄せた。丸みのある臀部を片手で鷲掴むと、流石にチチの体が跳ねた。
「さっきの魔法、まだ残ってんだろ」
 だったら好都合だ。今、ここで彼女と身体を繋げれば、そのまま悟空はチチの使い魔になることが出来る。そうなれば、もうこんな思いはしなくて済む。彼女が助けを呼べば、何処にいようとすぐに駆け付けられる。彼女が危険な目に合おうとも、自分の力で守ることができる。
 その力が欲しい。どうしても。
 しかしチチは慌てた。悟空の肩に手を当てて、必死で突っ張り押し留める。
「駄目だべ、悟空さっ」
「なんでだよ」
「おらは、おめえを使い魔にしたくねえ」
 この期に及んで、こいつは何を言っているのか。
「ずっと言ってるだろ。オレは構わねえって」
 チチがなにを躊躇しているのか、悟空にはさっぱり分からない。こちらの覚悟はとっくにできている。ずっと。昔から。彼女に拾われた時から。
 首筋に顔を寄せ、深呼吸をする。その甘い肌の匂いに、ぶわり、体を覆う体毛が逆立つような気さえした。そうだ。最初から、こうしておけばよかったんだ。柔らかい肌に犬歯を当てて、甘噛む。舌を這わせる。
「やめてけろっ」
「いやだ、やめねえ」
 本気を出した悟空に、チチの抵抗など赤子同然である。やめて、駄目、やめて。チチは魘されるように何度も口にするが、しかし悟空はその言葉を聞き入れるつもりはない。呼吸が荒ぶる。もう止めない。止めるものか。
「悟空さは、自由でいてえんだろっ」


 好きな所へ行って。好きなだけ修行をして。好きなように戦って。
 空のように。風のように。雲のように。
 それが彼の本質だ。魔法で縛るようなことはしたくない。自由を奪うようなことはしたくない。足枷にはなりたくない。
 なにより、そうすることで彼に疎んじられたくはない。


 俯くチチの頤に指をかけ、こちらを向かせる。
「そうだな」
 でもな、チチ。衣擦れの音を立てて、腰帯をほどく。
「だったら、オレがおめえのものになるのも、オレの自由だ」
 彼女の上半身をするりとさらけ出させると、赤い獣は金の瞳を恍惚に細めた。

























 目が覚めた時、洞窟の中でチチは一人ぼっちだった。
 身体を包んでいたブランケットは、奥に隠していた葛籠から取り出したものだろう。気怠い上半身を起こすと、一人残された心細さに肩を竦めた。
「……悟空、さ」
 小さな声で名を呟く。呼吸を三つほど置いて、がさりと向こうで葉擦れの音がした。振り向くと、洞窟の入り口には、手に幾つかの果物を携えた悟空が佇んでいる。
 魔女が名を呼べば、使い魔は主の元へと参上する。近くにいたのか、偶々タイミングが合ったのか、それとも呼ぶ声が聞こえたのか――兎も角彼は、魔女の使い魔となったようだ。
 悟空はチチに持って来た果物を手渡すと、洞窟の奥へと向かった。蓋の空いた葛籠を取り上げ、チチに背を向ける位置で、中を探りながら。
「日が暮れる前に、パオズ山に行く」
「パオズ山?」
「おめえに拾われる前、オレがいた山だ」
 昔、修行に出た時にたまたま見つけた。あの山なら安全だろう。このフライパン山以上に人里からは離れているので、滅多なことでは人も入って来られない。結界も張りやすいし、温暖な気候だから、薬草畑を作ることもできる。
 手元の果物を見たままぼんやりとするチチを、背中越しにちらりと伺う。だが直ぐにつんとそっぽを向いた。
「オレは、ぜってー謝らねえからな」
 不貞腐れたような声での宣言に、チチは彼の示唆するものを悟り、静かに視線を向ける。
 それをどうとらえたのか、悟空は気まずそうに視線をうろうろさせ、ゆるゆると尻尾を揺らし、わしわしと髪を掻く。そして一人で業を煮やし、ああもうと立ち上がると、今度はどかりとチチの前に腰を落として胡坐をかいた。
「やめろ、とか、駄目だ、とは言ってたけど」
 ぐい、と強引な力で膝の上に引き寄せられて。
「おめえ、嫌だ、とは一度も言わなかったよな」
 だから、止めなかった。
 もし彼女の中に、嫌悪の色が少しでもあったなら、自制するつもりはあった。しかし、チチからは一度もそれを感じることはなかった。寧ろ、快楽に蕩ける眼差しや縋るように回された腕には、確かに彼女からの求めがあった。その事に歓喜した。
 がっしりとした胸に頭を凭れかけさせ、チチは諦めたように目を閉じる。なし崩し的な行為ではあるが、彼には彼なりの言い分と理由があった。それに、途中で抵抗を止めた時点で、ああ、そうだな、自分は、もう。
 だけど……小さく息をついて。
「一度交わした使い魔の契約は、破棄できねえんだぞ」
「知ってる」
「おめえはずっと、おらの傍にいなくちゃなんねえんだぞ」
「判ってる」
「もう、おらから離れることが出来なくなるんだぞ」
 悟空は不敵に口角を上げた。
「寧ろ、望むところじゃねえか」


「これで、今まで以上に、自由になれるんだからな」


 お前の気を読めば、直ぐに戻って来れるし。お前が呼びさえすれば、直ぐ傍に来てやれる。何処にいようと、隠れていようと、直ぐに見つけることが出来る。
 ならば、遠慮はいらない。これでむやみに心配することなく、何処までも遠くへ行ける。どんなに互いが隔てられようと、決して離れない保証が出来たのだから。
 そして、勿論距離だけではない。契約を交わした、このいじらしくもあどけない魔女にだって、また、自由のままに。





「離れてなんか、やんねえからな」
「上等」





 縛られることで得られる自由に、悟空は満足げにほくそ笑んだ。





end.




こうして、悪魔の名を掲げる救世主の登場まで
魔女の世紀は閉じられるのでした
2020.05.09







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