女神達の共存論





「主任、この資料についてですが」
「主任、先ほどの取引先からお電話です」
「データをファイルアップしておきました、主任」
「先日の件ですが、主任を出せと言ってきてます」
「あっ、主任。課長がお呼びです」
「ちょっとこれ、見ていただけませんか、主任」
「主任ーっ」





はーっ。
休憩室のテーブル。自動販売機のコーヒーを相手に、チチは溜息をついた。
「お疲れみたいね、チチさん」
空いた向かいの席につくのは、同期で入社したブルマだ。 技術部に所属しているが、彼女もチチと同じ、主任という肩書きを持っている。
何故かうまが合い、部署が違うのにも関わらず、仲も良かった。
「営業部も大変そうねー」
「そっだなー」
頬杖をついて、出るのは溜息ばかり。
仕事は楽しい。 やりがいもあるし、性に合っているし、今の役職につけたのも、それなりの 評価を受けた賜物であると思っている。
でも。流石に、それなりに大変なのは大変なわけで。
「そう言えばさ、人事部の部長から何か言われてない?」
「別に。何かあっただか?」
やっぱりあいつ、あたしだけかー。
憤慨したように、ブルマは腕を組み、むすっと 唇を突き出した。
「あいつさー、あたしの男関係を、ねちっこく聞いてくんのよ」
はあ?とチチは片眉を上げた。
新しいプロジェクトが始まるに担って、どうやら 人事に多少の異動があるらしい。
どうやらそのプロジェクトの責任者候補に、ブルマが 入っているらしい。
「ベジータさの事、言ってやったら 良かっただよ」
「言ったわよー」
とりあえず(?)付き合っている男はいる。
でも それを聞くと、今度は結婚の予定はあるのか、先の計画は決まっているのか、そんなこと 細かい事まで質問してくるのだ。
「だからあたし、言ってやったわよ」
結婚はわかりません。 でも、結婚しようとしまいと、仕事をやめる気は毛頭ありません。
あの強面の部長に 啖呵をきるブルマが想像できて、チチは肩を竦めて笑った。
「ま、その点チチさんは 結婚してるもんねー」
つんつんと、チチの薬指にある指輪を指して笑う。
「似たような事なら、おらも聞かれたことあるだよ」
丁度主任に選ばれる前、人事部に 何度かそんな質問に答えさせられた。
「で、何ていったの?」
「ほんとの事言ってやったら、黙られただよ」
ぽんぽんと下腹部を叩き、ぺろりと舌を出す。
成る程、とブルマは相槌を打った。
「でもさ。これって、絶対セクハラよね」
頭にきちゃう。
怒ったように言い切るが、それでも半分は判っている。
人事部としても、セクハラのつもりは全く無いのだろう。 ただ女性社員は、結婚と同時に退社をする可能性が高い。 役職を与えた途端、結婚で止められては、人事も大変なのだ。
おまけに。結婚しても 仕事をやめないとは言え、妊娠ともなれば、どうしても仕事から離れる期間が 必要となってしまう。その後の、出産育児ともなれば、家族の協力が無ければ、 仕事との両立など、まず不可能になるのだ。
最近は育児休暇制度を設ける会社も少なくは無い。 だが人間の休みの最中であっても、会社は仕事を休めない。
女性が会社で重要な役職に つきにくいのは、そんな理由もあるからだろう。
どうしようもない事。
しかしそう割り切ってしまうには、どうにも理不尽な理由である。
小さな電子メロディー。
聞き覚えのあるそれに、チチは慌ててポケットの携帯電話を探った。
電話じゃない。メールの着信通知だ。
キーを押して、受け取ったメールを読む。
「なあに、ダンナサマから?」
「んだ」





「ただいまー」
「お帰りー、チチ」
マンションに帰ると、いい匂いと共に、 湿度までが玄関まで充満していた。
「悟空さ、まーた換気扇してねえだろ」
「あ、悪ィ悪ィ」
台所、エプロンをつけた 悟空は、慌てて換気扇のスイッチを押した。
「あー、疲れただー」
言いながら、ぴたっと 悟空の背中にもたれるようしがみつく。
「仕事、大変みてえだな」
最近は「ただいま」の後、習慣のように、 必ずその台詞が出るようになってしまっていた。
背中の振動とともに伝わる言葉に、 んーと返事ともうめき声ともつかない声を発する。
「…今日のご飯は何だベ?」
「肉じゃが作ったぞ」
あと、スーパーでほうれん草が 安かったから、胡麻和え作ろうと思って。
横を見ると、茹だったほうれん草と、 擦った胡麻が並んでおいてある。
「これと和えたら良いだな」
「ああ」
隣に並んで、チチも夕食の用意を手伝う。
暫し煮物の煮える音と、 包丁とまな板の音だけが流れ。
「…なあ、チチ」
「ん?」
「あのさ…おら、今日も駄目だった」
ほうれん草と胡麻を和える手は、ぴくりとも止めずに。
「…そっか」
今日はやっぱり、早く帰れそうだ。
そんなメールが着いた時から、 それは何となく判っていたけれど。
「…すまねえな」
少し間を置いた後。
にこっと笑い、チチは悪戯っぽい目で悟空を見上げた。
「そっだなー。 悟空さがやさしーく、おらにキスしてくれたら。そしたら許してやってもええだよ」
その明るい声に、悟空は安堵に似た笑顔を見せる。
握っていた包丁を 一旦置いて。
そっと二人は顔を寄せた。





暗い寝室。
満ちた荒い呼吸が、やがて波が引くように落ち着いてゆく。 汗ばんだ額にかかる前髪を、無骨な手が優しく撫で付けてくれた。
「大丈夫か、チチ」
未だ熱が冷め切らない潤んだ瞳は、 電気もついていないのに、何故かはっきりと判った。
この人は優しい。
チチは悟空と身体を重ねる度に、いつもそれを思っていた。
気遣うような 指先も、宥めるような掌も、暖かさを分け合うような唇も。本当に本当に優しくて。
だから時々切なくなる。
涙が出そうになる。
「…チチ」
締め切らないカーテンの隙間から差し込む微かな光に、 はらはらと流れるチチの涙が光った。
悟空は困ったように眉根を寄せ、額に、それから 頬に唇を当てた。
そして。
いつから、悲しい習慣になってしまったのか。 下腹部を隠すように抑えた手を、そっと退かしてやる。
白い手が離れると、 そこには未だ微かに残る、引きつった手術の痕が覗いた。
「…ごめんな、悟空さ」
「何であやまんだよ」
頼りない亭主で、謝らなくちゃいけないのは、こっちだろ?
ふるふるとチチは首を振った。
そんな事ない。絶対にない。
ゆっくりとゆっくりと、落ち着かせるように髪を梳く手が心地よい。収まりきらない呼吸も、 不安定な心も、疲れた身体も。 この手の中で、丸くなってゆくようだ。
逞しい胸に擦り寄った。
「おら…悟空さを好きになって良かっただ」
この人と一緒になれて、本当に良かった。
この優しい人を好きになって。
「ほんとに、ほんとによかっただ」
噛みしめるように呟く。
その華奢な背中に手をまわし、 悟空はずっと、包み込むように抱きしめてくれていた。





知り合ったのは、学生の時。
サークルのコンパに駆り出されて、それから 付き合いが始まる。
初めて悟空を見たときのチチの印象は、はっきり言って それほど良いものでもなかった。
人が良すぎて、何処かぬけたような悟空に。
「この人、 このまま社会に出て、やっていけるのか?」
等と、随分大きな世話な事を思ってしまった。
案の定。
悟空は、現代社会のシステムに溶け込みにくいようで。大学卒業後も定職には就かず、 漫画家の夢を叶えるため、日々机と原稿用紙に向かっている。
書き上げた 作品を出版社へ持ち込むが、悉く断られ続けて、それでも諦めることなく 夢を追い続ける姿は、とても立派ではあるのだが。
それも生活が成り立つレベルに留めなくては、 結局世間サマは、落伍者のレッテルを張りつけてしまうのが悲しい事実。
見かねたチチが、押しかけるようにして、一緒に生活を始めた。甘い恋人同士の同棲なんて、 そんな可愛らしいものではない。二人でならば、それなりに 生活費も浮くから。それが一番の理由だった。
某大手企業に就職していたチチは、 それなりに収入も安定している。何とか切り詰めれば、悟空を養うくらいは可能だった。
そんなチチに、悟空は毎日食事を作る。
主婦並みにスーパーの安売り商品に気を配り、 (もともとそんなに贅沢好きでもないのだが)しみったれない程度の 節約を心がけた生活を常としていた。
チチは漫画の業界は良く判らない。
小学生の頃には少女漫画をよく読んでいたのだが、 中学に入ると部活に忙しく、高校以降になると必要最低限でしか、小説も読まなくなっていた。
だから悟空の描く作品が、世間一般でどんな評価を受けるのかは全く判らない。
でも絵だって丁寧だし、口で説明してくれるストーリーだって暖かい。 何より、これだけ熱意があるのだ。少しぐらい評価を得ても良いじゃないか。
そう考えてしまうのは、やはり「親の欲目」なのだろうか。





あれ、と受け取った名詞を見て、チチは瞬きをした。この出版社の名前。この前悟空が、作品を 持ち込んだ所である。
商談の話もそこそこに終え、席を立つその人を、チチは呼び止めた。
「少し、お話出来ますか?」
とりあえず、会社から少しはなれた、 セルフサービスのコーヒーショップに誘う。 中途半端な時間帯だけに、人もまばらで随分空いていた。
「…ああ、そうなんだ」
切れ長のアイラインに、クールな美貌を持つ彼女は、チチの言葉に頷いた。
話を聞くと、彼女はたまたまその場に居合わせたらしい。一見、漫画家志望には 見えないタイプだ、と記憶に残っていたようだ。
「一つ聞きてえだ」
仕事中ではきちんと敬語を使っているが、プライベートになると、一気に訛りが出てくる。
「なして、悟空さの作品を、採用してくれねえだ?」
ずばり直球な質問に、 彼女は目を丸くした。
「担当の者がそう判断したのなら…単純に、ウチの 趣旨に合わなかったんだろうね」
チチの訛りにつられて、 彼女も飾り気の無い話し方で返してきた。
ぱんっと両手を合わせ、チチはぺこりと頭を下げた。
「頼む、お願えだ」
縋るように、目を覗かせて。
「一度で良いから、悟空さの原稿、採用させてくれねえか?」
困ったように、彼女は息をついた。
「それは…やろうと思えば、できない事はないかもしれないけど…」
じっと、その奥までも見透かすように、切れ長の青い瞳が覗き込んできた。
でもね。
「あんたの旦那、それで喜ぶような人かい」
本当に。
暫し、視線だけが交わり、言葉が消える。
唇を引き締めて。かくんとチチは、脱力した。
唇の端だけで笑う彼女にちろりと 視線を向け、コーヒーカップに口をつける。冷たい印象を受ける彼女の瞳が、 何処か優しく細められた。
「何か、思い出したな」
実はまだ 今の仕事に入りたての頃、丁度チチと似たようなことを、会社の違う部署の 上司に言った事があるらしい。そして、同じ言葉を返されたのだ。
あんたの気持ち、判らなくないんだよね。そう前置きして。
「実はさ、あたしの旦那、シナリオライターしててね」
これが、とにかく全く売れない。 たまに仕事がもらえても、二束三文のギャラだったり、誰かのゴーストのものだったり。 とにかく金銭的な生活力は、全くと言って良いほどなかった。
「だからあたしの収入で、生活は 何とか持ってんだけど」
バッグの中から、シガレットケースを出した。大丈夫?と 断りを入れて、煙草に火をつける。
慣れた仕草で煙を吐いて。
「ま、あたしも今の仕事が好きだし、楽しいし。それはそれでいいんだけどね」
ライターの仕事は自宅で出来るので、家事の一切は、殆んど彼に任せてしまっている。
「一度、あたし流産したんだよね」
ぽつりとした声に、チチはどきりと胸を鳴らせた。
仕事が忙しい時期で、丁度彼も仕事が入っていた。そんな、お互いの多忙が重なった状況下、 自分の体のことが、つい後ろ手になってしまっていたときだった。
流石に 精神的にもかなりショックを受けてしまって、随分彼には酷く当たってしまった。
その時。
「…おめえの旦那、なんて言っただ?」
軽く彼女は小首を傾げて、肩を竦めて見せた。
「何にも」
ただ、こちらが吐き出す全ての感情を、黙って受け止めてくれた。
妊娠中、思えば何度となく、彼は今の現状を止めて、ちゃんとした 収入のある仕事につくと切り出してくれていた。
それを止めたのは、まぎれも無くこちらで。 彼の優しさどころか、自分の身体も甘く見て、胎内に宿るもう一つの命をも軽んじていた。
あの日も。
確かに彼は、体調が悪いなら、仕事を休むように忠告してくれたはずなのに。
「ほら。収入だったら、あたしでも何とか補えるだろ。でも、さ」
それ以外で補えないものは、全て彼が補ってくれる。自分の中にある不安も、苛々も、 理不尽さも、否定することなく受け止めてくれる。
「チビで、親父っぽくて、馬鹿みたいにお人好しで、何だかもう、 どうしようもない奴なんだけどさ」
でも。
それでも。ほんとに必要な部分で、頼りになってくれる人だから。
「正直言ってさ、あたし、あんまり 家の事とかって苦手なんだよね」
料理も家事も、別にできないことは無い。でも 昔からあまり好きではなかったし、一人で暮らしていた頃なんて、殆んどおざなりだった。 綺麗好きでこまめな彼の方が、余程器用にやりくりしていた。
結婚して、二人のこんな 生活が始まると、彼は彼のできる事、こちらはこちらのできる事をこなし、案外上手く 共存しあっている。
「あんたの旦那もさ、きっと、おんなじなんだろ?」
にっ、と彼女は笑った。
「…おら、さ。結構強引に、結婚に持ち込んだんだ」
きっかけは、保険のことだったと思う。
給料面において、未婚か既婚で社内保険で多少の違いがある。少しでも金銭面で楽になるな、 そんな話から、結婚話に移行した。
その時、悟空はすぐに首を縦には振らなかった。 きっと、収入も無い自分の状態に、単純に後ろめたさがあったのだろう。 それをチチが、半ば強引に承諾させたのだ。
「今思えばさ。おら、焦っていたのかも知れねえ」
いつか。
出版社に認められて、仕事ももらえて、収入も入るようになった時。 この人は、どこかに行ってしまうんじゃないだろうか。
だって自分が悟空に できる事と言えば、金銭的な部分だけ。そんな不安が、心のどこかに あったのかもしれない。
「…それを言うなら、あたしだって、似たようなもんさ」
ぽつりとした声に、チチは驚いて目を丸くした。
「そうは見えねえけど…」
「なんで」
「だっておめえ…すげえ美人だし…」
その言葉に、彼女は顔をゆがめて、 皮肉な笑いを浮かべた。
「あんたね、この世の中に、一体何人の美人がいると思ってるんだい」
美人と呼ばれる人間なんて、それこそごまんといる。しかも見る者によって、それは 千差万別なのだ。考え方によっては、これほどいい加減で、曖昧な基準は無い。
「そんなもの、なんの頼りにもならないよ」
まともに自分の身の回りのことさえ出来なくて、 鼻っ柱が強くて、顔立ちだって、人に冷たい印象ばかり与える。 仕事だって、代わりなど幾らでもいるし、会社の経営状況によっては、いつリストラされるかも 判らない。
「でも、さ」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、少し笑う。
「きっと男共も、似たようなこと、考えてんじゃないかな」
くす、とチチも笑った。
そうかもしれない。そうなら嬉しい。
ふと、同僚のブルマを思い出す。
そういえば彼女が付き合っているベジータも、 仕事についておらず、 何処ぞの格闘技のジムに所属していると言っていたな。二人は同棲しているらしいが、 生活はブルマの収入で切り盛りしているらしい。
似たような組み合わせが三つ。 何だか可笑しくなってきた。
だからだろう。
「なあ」
チチは、カウンターテーブルに置いたままの、彼女のシガレットケースを指した。
「それ、おらにも一本くれねえか」
少し驚いたような顔をしたのは、チチが煙草を 愛飲するタイプに、見えなかったからかもしれない。
ケースを差し出すと、 チチは一本、煙草をくわえた。その前に、彼女はライターの火を差し出してやる。
煙草は特に好きな訳ではない。その昔に好奇心で試した事こそあれ、 今まで好んで吸おうとは思わなかったけど。
ふうーっとチチは煙を吐いた。
かれこれ何年ぶりかの一服は、少し咽喉にざらついた。
「今度さ、一緒に飲みに行かねえか」
「いいね」





何気に携帯電話の着信を確認すると、メールが一件入っていた。
発信は悟空。
今日は美味いもんをたくさん作るから、早く帰って来いよ。
声が聞こえてきそうな その内容に、何となく唇をほころばせながら、仕事場へ戻る。
帰ると同時に、新入社員の一人に呼び止められた。どうやら留守にしている間に、今日 有給を取った女子社員から、電話がかかってきたらしい。
「病院に行ってたそうです、彼女」
「どっか、体悪かったんだべか?」
その質問に、彼女は笑って首を振った。
とりあえず周囲に気を使い、チチを誘って、隣の誰もいない会議室へ連れて行った。
「妊娠、していたそうです」
へえ、とチチも声を上げた。そう言えば彼女、再来月には 結婚するといっていた。
電話では確認に産婦人科へ行っていた、と話していたらしい。結果は 良好で、現在二ヶ月目に入っているそうだ。
「そっか…良かったな」
とりあえず当人を慮って、このことは他言しないようにだけ注意する。 何にせよ、おめでたい話だ。そう二言三言、会話を交わしたとき。
「主任は、 お子さんは作らないんですか?」
チチが結婚していることは皆知っている。 結婚指輪も隠すことなく、いつも身に付けていた。
でも、結婚して長いであろうはずなのに、 チチからそう言った話題が出てくる気配が無かったのだ。少なくとも、 新入社員の彼女は、全く知らない。
「そっだな〜」
「あ、もしかして、子供は 欲しくないとか?」
「そんな事もねえけど」
苦笑する。
「おら、子宮がねえからな」





子宮筋腫で子宮を摘出したのは、悟空に出会う前の話だった。
特に皆に話す事でもなく、 だからといって隠す事でもない。
だから問われれば答えたし、付き合った相手には、 頃合いを見計らって説明もしていた。引く人間もいれば、好都合とばかりに、 肉体関係を求める者もいた。
悟空は、どうしていただろうか。
そうか。病名も判ってなくて、 説明すると、感心したように何度も頷いていたかな。
それがどういう事か判っているのかと 問い詰めた所で、やっぱり笑って抱きしめてくれたんだっけ。
初めて男女の 関係になったときも、無意識に手術の痕を隠そうとした手を、やんわりと遮って。
おめえの命を繋いだ、大事な傷なんだろ。
そう言ってとても大切なもののように、 撫でてくれたっけ。この傷のお陰で、今こうして抱き合える事が出来るのだと、 笑ってくれたっけ。
その時、本当に。
この人を好きになって良かったんだ、そう思えたのだ。





「おかえり、チチー」
テーブルの上に並べられた本日の料理に、 チチは驚いて固まってしまった。
「どうしただ、これ…」
メールに「美味しいもん」とは書かれていたが、それにしても、随分豪華なご馳走が並んでいる。
今日はどちらかの誕生日だったっけ?ぼんやりと思い巡らすチチの肩に手を乗せて、 とりあえず悟空は椅子につくように促した。
目の前にワイングラスを置き、 本日何処かで買ったのか、ハーフサイズのスパークリングワインを開けた。
「今朝、出版社から電話がきたんだ」
朝?というと、あの出版社の人と会う前か。
話を聞くと。
例の出版社に持ち込んだ時、一旦預かってもらった悟空の作品を、他の編集者が、 別の漫画雑誌を取り扱う部へ持っていったらしい。
そして、そこでの採用が決まったのだ。
どうやら悟空の漫画は、 年齢層を若干上げたほうが、受け入れられやすいものであるようだ。
「読みきりだけどな、仕事も貰ってきたぞ」
一緒にお祝いしてくれるだろ?
そして、悟空の目に、つ、と真剣な 色が込められた。
「チチ、これからも一緒にいてくれな?」
「…えっ?」
悟空は照れくさそうに、鼻の頭を掻いた。
「だってさ。おらが仕事もらえるようになったら、 もう大丈夫だろーって、おめえ、どっか行っちまうんじゃねえかって思ってさ」
でも、そんなんじゃなくて。
おら、おめえがいねえとダメだから。
「…って。わっ、チチ」
いきなり、 ぽろぽろとチチの両の目から、涙がこぼれた。
採用してもらえたとて、読みきりの仕事をもらえたとて。それがそのまま収入に 繋がるほど甘くは無い。むしろ、大変なのはこれからだ。 だからこれからも、チチにはいっぱい助けてもらわなくちゃいけないだろうから。
含めるようにそう説明する悟空に、チチは言葉もなく、こくこくと何度も頷いた。
「良かったな、良かったな、悟空さ」
ぎゅっと首に抱きつくチチに、悟空はあやすように 背中を叩いた。
「チチには、いっぱいいっぱい頼っちまって、悪ぃけど」
これからも、ずっと一緒にいてくれな?





貴方のできること。
私にできること。




end.




某山田詠美氏の作品(だったと思いますが)より、
一部ネタを拝借しました。
ご飯を作れる男の人は、それだけでポイント高いです。
2002.02.18







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