「なあ。こっちとこっち、どっちが良いと思う?」
右手と左手には、 ネイルエナメルの小瓶。
ふんわりした光沢を放つ色彩が、チチの顔を挟んでいた。





仕事終わりの待ち合わせ場所は、いつもこのドラッグストアだった。
駅構内にあるここには、 薬や日用雑貨だけでなく、自然食品やちょっと珍しい輸入食品も陳列されている。 スーパー代わりにもなり、時間潰しにもなり、ちょっとした買い物も出来て、 しかも時間に遅れた際のチチの雷防止予防対策にもなる。
案の定、 大幅に約束の時間を遅れて到着したにも拘らず、 コスメコーナーに佇んでいた怒りっぽい待ち人は「ああ、やっと来ただか」程度の反応で。 それはそれで、ちょっと寂しい気がしなくもないけれど、でも険悪な顔でのこの後の時間を思えば、 悟空としては断然こちらを歓迎する。
「んー…どっちがええだかなあ」
やや呼吸を乱して必死に走ってやってきた悟空から目を逸らせ、チチはのんびり思案する。 右手と左手、交互に見やるそこにあるのは、極小さな小瓶。それがどうやら、 爪に塗るマニキュアだと気がつくのは、二拍も三泊も置いた後。
「どう違うんだ?」
その二つが。
悟空から言わせれば、白っぽい液体の入ったその二つは、 違いがあるようには見えない。
「もう。ほら、よく見るだよ」
な?
チチの説明によると。この二つのエナメル、一見似たような色味ではあるのだが、 片方はブルー系のラメパール、もう片方はピンク系のラメパールが入ってあるらしい。
夏っぽくてこれから使い勝手が良さそうなのはこっちだし、でも馴染みが良いのはこっちだし。 真剣な顔で悩みあぐね。
「なあなあ、悟空さはどっちがええと思う?」
そう振られても、 その極々微妙な二つの違いが悟空には判らない。馴染みとか、夏っぽいとか言われても、 要は爪に色をつけるだけだろう?
「別に、どっちでも良いんじゃねえのか」
本当にそう思ったから、素直に口にした答えに。
「おめえ、 どうでも良いと思っているだろ」
もう、悟空さには聞かねえだよ。
結局、怒られてしまった。





その後、チチは散々悩んだ挙句、ネイルを二色共購入した。
外食を済ませ、 さほど遠くない悟空のマンションに帰ると、ずっと気になっていたのか、 早速その二つを取り出し、うーん、と考え込む。その横で、 悟空は冷えた麦茶をグラスに注いだ。
少し考え、チチは一方の容器の蓋を開くと、 さっさっと手早く左の爪に塗ってみる。容器に入った色を見ているとはっきりした色なのだが、 爪に乗せると仄かにニュアンスが変わる程度で、色味が出る事が殆どない。 手持ちのネイルの上から乗せると、いろいろ使えるかもしれないな。
そんな事を考えながら、 左手の爪を全て塗り終えて。
「あ、しまっただ」
「どうした?」
「先に左手を塗っちまっただよ」
左右の爪にそれぞれの色を塗って、 違いを見比べようと思ったのに。
「先に左じゃ、駄目なのか?」
「左手で塗るの、 あまり得意じゃねえだよ」
聞き手は右だから。チチは普段ネイルを塗る時は、 先に不器用な左手で筆を持ち、その後利き手で筆を持つ。
しょうがねえなあと呟きながら。
「なあ。悟空さ、ちっと塗ってくれねえか?」
「おらがか?」
へっと目を丸くする悟空に、 笑顔で頷く。
「試しで色を見たいだけだから、な」
ささっと筆で色を乗せるだけだから。 そんなに難しい事じゃねえだろ?渋る悟空に、ネイルの瓶を差し出して。
「ほら、早く」
大丈夫、大丈夫。無責任に笑って促すチチに、ちぇっと舌打ちして。
「どうなったって、 知らねえぞ」
「いいからいいから」
少し唇を尖らせつつも、 差し出されるマニキュアの小瓶を渋々受け取った。





とは言え。
元々指先が器用な訳でなく、筆で色を塗る事さえ何年ぶりかという話。
「あ、量が多いだよ」
もう少し液の量を加減して。厚ぼったくならないように薄めに。 時間をかけずにささっと手早く。
アドバイスされるままに、何とか筆を滑らせるのだが、 これがなかなか難しい。
絵の具とは違って、エナメル液はややもったりしていて、 思った以上に塗り難い。しかもエナメルの筆は小さく、これまた小さなチチの爪をなぞるのは、 なかなか神経を使う作業だ。
指先が震えそうなくらいに神経を集中させるのだが。
「…何だよ」
くすくす密やかな笑い声に、悟空はむっと顔を上げた。
「だって、悟空さ。 何か、すんげえ真剣なんだもん」
眉間に皺を寄せて、凄い真面目な顔で、顔を近づけて。 でかい図体した大の男が、背中を丸めて必死の形相で小さな指先の爪を覗き込んでいる姿は、 それなりに笑みを誘ってしまう。
つい笑ってしまうチチに、悟空は唇を尖らせる。
「笑うなよ」
こっちはすんげえ真剣にやっているのに。それに、おめえが笑うと、 指も動くだろ。
「ごめんごめん」
悪かっただな。おらも、真面目に塗って貰うから。
訳の判らないその言葉に、お互い疑問を持ちもせず。あとは二人、黙って指先に集中した。





両の手の指先を伸ばし、ライトに翳して見比べる。
「どうだ?」
「そっだなあ…」
瓶の色を見ると二色に大差は無さそうだったが、こうして爪に乗せて光を受けると、 微妙なニュアンスが出てくる。肌馴染みも良いし、光の加減によって、不思議な色身になる。
「うん、綺麗な色だべ」
これならいろいろ使えそうだ。満足そうに頷くチチのその評価に、 悟空はちょっと不満そうな顔をした。
「じゃなくて…」
聞きたかったのは、 そっちじゃなくて…。
言葉無く抗議する悟空に、チチはあははと笑った。
「悟空さ、 結構上手えだよ」
初めてにしては、結構上手に塗れているべ。ありがとうな。
照れ臭そうに、それでも嬉しそうに頭を掻く単純な反応に、チチは笑いたいのを抑えながら。
「でも、これ。直ぐに取らなきゃな」
「何で」
折角一生懸命塗ったのに。
「だって、左右の色が違うんだぞ」
二色の違いを知りたかったから、試しに塗っただけなのだ。 ベースコートもトップコートも重ねていないし、剥げるのは時間の問題である。それにこんな指じゃ、 家事も料理も出来やしない。
「そっかあ…」
折角、一生懸命塗ったのに。
「最初に、試しで塗るだけって言ったでねえか」
至極残念そうな悟空に笑いながら、 ほら、とドラッグストアの買い物袋を手の甲で押しやる。中には、ネイルと一緒に買ってきた、 フリーズドライのベジタブルチップスが入っていた。
「今度塗る時、またお願いするだよ」
頼むな、悟空さ。笑顔でそう言われ、むず痒いような顔で、悟空は麦茶のグラスに口をつけつつ、 チップスの袋を開けた。
「あ、悟空さ。おら、人参な」
あーんと口を空けるチチに、 不思議そうに瞬きする。それに、ほら、と手をひらひらさせた。
「おら、 自分じゃ取れねえもん」
綺麗に塗られた指先。塗ったばかりのエナメルは、 乾燥するまではいま少し時間が掛かるのだ。
だから、ほら。
母鳥からの餌を待つ小鳥のようなそれは、妙に幼い。普段はしっかり者のチチの、 こんなあどけない様子に、思わず悟空も頬を緩めてしまう。これじゃあまるで、 餌付けでもしている気分になってしまう。何だか、いつもと反対かもしれない。


「うめえか?」
「うん」
次は、そのおっきなカボチャな。


「…ま、たまにはこんなのも良いよな」
「何がだ?」
何でもねえ。言いながら、 小さい子供にするように、チチの頭をぐりぐり意味無く撫でる。
訳が判らずきょとんと目を丸くするチチに、悟空はチップスをもう一枚差し出した。





end.



イメージは、資生堂PNのネイルのヴェールカラー
夏になると、ネイルに凝りたくなります
2006.08.02







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