怒っても、笑っても、涙しても。
彼女はいつも出迎えてくれた。





「おかえり、悟空さ」










おかえりが待っている











まず、怒られっかな…と考えてしまうのは、もはや身に染みついてしまった習慣だ。 自分に意識こそ無いが、何かあった際には、真っ先にチチの反応を懸念してしまう無意識が定着している。
確かに急を要したとはいえ、一言も無くナメック星に来てしまった。 その上、悟飯を危険な目にあわせてしまった。中身を入れ替えられた時もあったし、 道着だってぼろぼろにしてしまったし、おまけに超サイヤ人にまでなってしまった。 ざっと振り返るだけでも、彼女が激怒する理由は存分に思いついてしまう。
悪い事したな、との自覚はあった。こりゃ怒っているだろうな。早くちゃんと謝んなきゃな。
だがその前に、どうしてもやらなくてはいけない事もあった。


―――決して、今のまま地球に戻ってはいけない。
悟空は冷静にそれを悟っていた。


超サイヤ人への変貌は、自分でも衝撃だった。
体中の血が沸騰して、その一番深い場所から爆発するような未知の感覚。 気のコントロールとは全く違うそれに、よくもあの時、 あんな綱渡りのようなぎりぎりのバランスを持ち堪えたものだと、改めて恐れを覚える。 あの時こそ必死であったが、今振り返れば、かなり危うい状況だったのだ。
超化した自分は、言わば激しい興奮状態にある。 力も、気も、感情も、コントロールが難しい。激情に飲み込まれたような状態での超化は、 自分だけでは無く、周囲にとっても危険だ。少なくとも、 超化を完全にコントロールすることが、目下自分に課せられた最重要事項である。
じゃなきゃ…チチを抱き締める所か、触る事も出来ねえや。
ピッコロに鍛えられた悟飯はともかく、彼女はちょっと武道を齧った程度の、 ごく普通の人間だ。ほんの少し力を入れて腕を引いただけでも痣が出来てしまうし、 ほんの少し力を込めて抱きしめただけでも痛いと怒られていた。 只ですらおっかなびっくり接していたのに、これじゃあ本気で彼女を殺しかねない。
何だよ、チチの奴、もっとオラに合わせて鍛えりゃいいのに。 そこまで考え、否、それは駄目だろうと、自分に思考に首を振る。
彼女があれ以上強くなる?そんな事、考えるだけで恐ろしい。やっぱりチチは、 あのままで充分だ。
ならば、努力するのはこちらの役目だろう。











「大変だよな、チチさん」
入院している最中、幾度となく仲間にそう言われた。
恐らくは、あの死闘の末に動けなくなっていた自分を飛び越えて、 悟飯の元へと一目散に駆け寄った彼女の行動からだろう。
だが、自分は当然だと思った。
チチはあの時、修業を受けて成長した悟飯を知らなかった。 彼女の中の一人息子の姿は、幼くて、泣き虫で、本が大好きで、暴力を知らず、まだ親の保護を必要とする幼子だ。 かつては天下一武闘会で優勝し、体を鍛える事に日々費やし、 ドラゴンボールで生き返ったばかりの自分と扱いが違うのは、当たり前だろう。
しかもあの時点において、自分は何とか意識を保ち、クリリンと会話を交わす事も出来たが、悟飯は気を失っていた。 ぴくりとも動かず横たわったままの我が子の姿に恐怖を覚え、 何を差し置いても駆け寄るのは、母としてごく自然な行動だろう。 何より入院した後は、連日病院に足を運び、二人分の世話を平等に焼いてくれていた。
確かにチチは傍から見れば、小うるさく、怒りっぽくって、扱い難く見えるのかもしれない。
でも実際は、一度怒鳴り散らすとそれで怒りは発散され、すぐに機嫌は戻る。 感情的にはなるけれど、単に正直で真面目なだけであり、自分の内で納得すると、それ以上後を引きずる事も無い。 しかも、彼女の中にある乙女心さえ満たしてやれば、扱いやすい単純さがあった。
だから普段は、さっさと素直に謝るか。でなければ彼女の怒りが落ち着くのを大人しく待ち、 その後程良く宥めてしまえば、それでもう収まる場合が殆どだ。
しかし、今回は違った。
病院で数え切れないくらい、確かに悟空は謝った。その度に彼女は、もう良い、と返していた。 口先だけの言葉。それが本心でない事が伝わる、素っ気ない空虚な響き。 現に彼女はずっと不機嫌だった。それがこちらには不服だった。
何だよ、ちっとも良くねえじゃねえか。しょうがねえだろ、あんな状況だったんだし。 それとも、あのままサイヤ人に皆殺しにされても良かったっのか? こっちだって必死に頑張ったんだし、他にどうすりゃよかったんだよ。
不満ばかりが積もり、思うように動かない体に苛立ち、 彼女の姿を見る度に息苦しくなって―――そんな最中に、口論となった。
今まで無かった程の言い争い。お互いに折れず、お互いに判り合えず、お互いに納得できず。
埒のあかないそれに、ちょっと出掛けてくるだ…そう言って部屋を出て行った直後、 漸く出来た仙豆を携えた師匠が入室してきた。





ナメック星に危険が迫っていた。急がなくてはいけなかった。
しかし、もうひとつ。
自分は間違いなく、「あの場」から逃げ出したかった。
彼女から発される、言葉にならないプレッシャーから逃げたかったのだ。

















果たしてあの時。
病院に戻って、空になったベットを見た彼女は、どう思ったのだろうか。



































「悟空さ、大好き」
結婚したばかりの頃。そう言いながら無邪気に身を寄せる彼女に、 最初は相当戸惑った。
別に他者と抱き合ったり、手を繋ぐ機会が皆無ではない。 しかし、喜んだり、嬉しかったり、何かの必要で接したりするものとは違う。 チチはただひたすらに、触れる事で悟空の存在を確認し、安心するようだった。
「夫婦ってのは、こういうものだべ」
自分は、夫婦と言うものが判らない。 だからチチにそう言われれば、そうなのかと納得するしかない。
ぎゅっと抱きついて来るチチは、昔じいちゃんと山で見つけた、生まれたばかりの子猿に似ていた。 一心に親猿を慕い、その後を追い、背中に腹にしがみ付き、 共にいるのが当然のような、まるで離れれば死んでしまいそうな、そんな無心で純真で無垢な愛情と信頼。 それと被って見えた。
でも、そうでは無い。チチが抱いていたのは、親子の愛情ではない。 間もなく、悟空はそれを知らされた。
あの新婚当初は、本当に無知だった。 思えば神様(とは言っても、あの神様ではあるのだが)は、実に見事な采配をしたものだ。 ある意味稀有な子供同士を結ばせ、手探りのままに、夫婦と言う関係を築かせたのである。 振り返れば、随分恥ずかしい事も多々あった。
でも今は、それで良かったと思っている。
恥ずかしさも含めた何もかもを知っているからこそ、二人には今があると思う。 そして間違いなく彼女でなければ、ここまで闘う事しか知らない自分と共に生活し、 こうして寄り添ってくれる事は無かっただろう。
恐らく、自分はある意味孤独だった。
自分は、ただ強くなりたかった。もっともっと、何処まで強くなれるか、誰も届かなかったその高みへと、 誰も届かない頂点へと登りつめたかった。その他には何もいらなかった。何も欲しくなかった。
チチは、そんな自分を、唯一引き止めた存在だった。
最初は理解できなかった。 だって今まで身近にいた仲間達は皆、自分が強くなりたいと願うことに賛成し、共感し、そして喜んでくれた。 なのに何故、チチだけがそれに眉を潜めるのだろう―――正直、その疑問は今も解けてはいない。
ただ、二人の間に子供が産まれ、その小さな命を腕に抱いた時、 チチが求めるものが何なのかを、ほんの少しだけ掴めたような気がした。
チチと結婚する前まで、自分は本当に自由気ままに生きていた。何ものにも縛られていなかった。
自由と言うのは、縛るものが無いということだ。縛るものが無いということは、 自分は何も持っていなかったということだ。何も持っていないということは、 自分は一人だということなのだ。
失うものが無かった一人ぼっちの自分に、 失っては困るものを作ってくれたのはチチだ。
人としての孤独も、 人として命を繋ぐことも、無条件の愛情も。全て彼女が、体当たりで教えてくれたのだ。

















多分、誤解されているのだろう。
チチは大変な女でもなければ、 自分は苦労もしていない。
だが、それで構わないとも思う。
彼女の良さは、自分だけが知っていればそれで良い。





だって。
(誤解が解けて良い妻だと知られたら、チチを取られちまうじゃねえか)





























ヤードラット星人は、地球人とは違った能力があった。
まず、意思の疎通は言葉ではなく「感じる」ものである。 なので、フリーザの宇宙船に乗ってやって来た筈の悟空は、その素性を即時に悟られた。 警戒される事無くむしろ歓待され、宇宙船の修理も快く引き受けてくれたのは、本当にありがたかった。
身体が完治し、超化のコントロールを何とか可能にした頃、彼らの特殊能力である「瞬間移動」の存在を知った。
その技術が読み取った「気」の持ち主の元へと移動すると聞いた時、悟空は一も二も無く教えを請うた。 知った気を感じる事さえ出来れば、何処にいても瞬時に帰る事が出来る…時間が掛かっても構わない、 どうしても、何としてもその力が欲しかった。























早く帰ろう。
ただまっすぐにこちらを映して手を広げる彼女の元に。
明け透けな笑顔と、差し出される細いかいな。 寛容に広げられたその腕にしがみ付いていたのは、間違いなくこちらである。
望郷という言葉は知らないが、自分は今、彼女の所に帰りたい。自分の帰る場所は、そこだけだ。





「悟空さ、大好きだべ」





おかえり。諸手を広げて出迎える笑顔。
瞼の裏にそれを思い描きながら、間もなく修理を終える地球行きの宇宙船の前に佇んだ。




end.




一年前に書き上げて没ったものを修正&リサイクル
ある意味、「バナッハタルスキー…」の続編
甘えるなと言いたい、言ってやりたい
2011.04.11







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