EYES
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目を閉じる。

思い出がそこにある。





「チチ」
名を呼ばれ、はっとチチは我に返った。間近からひょっこり覗き込んでくるのは、 悟空の黒く、人懐っこい目。
ああ、とチチは今の状況を認識する。
ここはパオズ山の実家の台所。 今、悟空が帰って来たところだ。
ならば当然、まず出てくる言葉は決まってる。
「おら、ハラ減っちまった。何か食わせてくれよー」
「…そっか。わかった、今作っからな」
ちっと待ってろ。予想通りの言葉に、笑いながら エプロンを身に付け、 キッチンに向かった。
いつもと同じ日常。働きもせず修行に明け暮れて、家に帰れば ハラが減ったとご飯をねだる放蕩宿六。
全く、しょうがねえなあ。
そう思いながらも、 結局はそれを認知している自分もいるから、もうどうしようもない。
「なあ、おらも何か手伝うぞ」
「そっか?じゃあそこの皿、出してけろ」
「おう」
チチが料理を作るとき、こうして手伝いに来る事もあった。ただ何もせず、 テーブルに頬杖をつきながら、こちらを見ていることもあった。チチの手つきに、 時々感心したように声を上げる事もあった。うめえうめえと言って食べてくれるから (ほんとに何処まで味がわかって食べているのか、判らないけど)、 チチは料理が好きだった。
「なあ、悟空さ」
「ん?」
「…おらの作ったご飯、うめえか?」
「ああ、すっげえうめえぞ」
そっか。ふふっとチチは笑う。
「何だ?」
「んー、別になんでもねえだよ」
料理が出来た。テーブルの上に、盛りだくさんに並ぶ。 かなりの人数分作っても、大食らいのサイヤ人はぺろりと食べてしまうのだ。
「うひょー、うまそうだなあ」
「さてと。じゃあ、悟飯ちゃん呼んでくっか…」
そこまで言って、はた、と我に返る。つ、とチチは悟空を見つめた。
確かめるような、探るような視線に。
「どした、チチ」
ううん、と少し笑って首を振る。
「…いっか」
悟飯は呼ばないことにした。





山のように並べられた食事は、あっという間に平らげられた。日常の事だから、 チチも今更驚かない。綺麗に空いた皿の山が、なんだか気持ちいいくらいだ。
でも。
向かい合わせに座ってその見事な食べっぷり、両の手で頬杖をついて 眺めていて。
「チチ、全然食わねえじゃねえか」
「…おら、食いたくねえもん」
「だめだぞー、ちゃんと食わねえと」
ほら、とテーブル越しに手を取る。握った 手首はびっくりするほど細いのだ。
「折れちまいそうじゃねえか」
チチは苦笑した。きちんと笑えなかった。
そして真正面から、一度じっと悟空を見る。微かに唇が震えていた。
「なあ…何でだ?悟空さ」
泣き笑いで悟空の顔を覗き込む。
「違う、これはほんとじゃない」
俯き、首を振った。
「…チチ」





「夢なんだろ、これは。悟空さは死んだんだ。
もういねえんだ」



















ぼろぼろと涙を流す。
「おらは本物だぞ」
取ったチチの手を、両の手で包む。
懐かしい。あったかくて、大きくて、この上なく馴染んだ感覚。
それでも。この手の感覚がたとえ本物であったとしても。
「でも違う。おらにはこれは夢なんだ」
決して現実ではない。
悟空は死んでしまった者が行くあの世で、偉い人に修行をしてもらったと 聞いたことがある。そんな所に住むような偉い人だったら、こんな風に、夢の中で会わせてくれる ような力を、持っているのかもしれない。
でも、今は残酷だ。
こんな風に会うのは。
流れる涙を隠すように顔を逸らす。
「なあ、何で…」
肩を震わせ、ひっくひっくと泣きじゃっくりを上げた。
夢ならば。
夢の中なら、目が腫れることもなかろう。誰かに見られることもなかろう。 それでも声を押し殺すような、辛い泣き方だった。
悟空は立ち上がり、テーブルを回り込むと、 座ったままのチチを抱きしめた。
「死なねえでって言ったのに…」
「すまねえ」
「わかってるって言ったのに…」
「ごめんな」
「嘘つきだ」
うそつき。
ふえーんとチチは泣いた。
堰を切ったように泣きながら、悟空にしがみついた。
小さな チチの頭を、悟空は撫でる。ずっと、ずっと、撫でていた。撫でてくれる手の感触も、 大きさも、暖かさも、何一つ変わらずここにある。なのにこれは現実じゃないのだ。
全部、全部、全部。





泣きじゃっくリが少し落ち着いた頃。 あのな、と悟空は、胸に顔を埋めたままのチチに声をかける。
「もともとおらは、死ぬはずだったんだ」
未来から来たトランクスの話では、 人造人間が生まれる前に、悟空は病気で死んでいるはずだったのだ。それを 未来を捻じ曲げて、薬を貰い、生き長らえた。
考え方によっては、単に ほんの少し、セル戦という問題が解決するまで、生き長らえただけに過ぎない。
その猶予が終えたから、悟空は自分の死に対して、拒絶をしなかった。 理屈としては、単純にそれだけだったのだ。
でも。
「なあ。なあ、チチ。聞いてくれねえか」
真剣な声。
「おらさ、あの世で界王さまに 聞いたんだ」





「おめえの腹ん中、おらとの子供がいるんだってよ」
びくんと細い肩が震えた。


















泣き声が止まり、息を呑む気配がする。
やがてわなわなと体が震えた。
「…チチ」
悟空の腕を振り切り、がたん、と椅子から立ち上げる。その様子は怒っているというよりも、むしろ 酷く脅えているものだった。
すうっと血の気が引いている。
「ほんとけ…それ」
「界王さまが言ってたんだ、間違いねえって」
悟空は微笑んでいた。嬉しそうにも見えた。安心させるようにも見えた。
何故、そんなふうに笑えるのだろう。
「子供って…悟空さ、どういうことか、わかってるだか?」
引きつった笑いを作った。
「それがどういうことか、 判ってるだか?」
「…ああ」
「嘘だ。全然判ってねえっ」
拳に力を込めて吐き捨て、きっと睨み上げる。
「悟空さには、判らねえだよ。おら、これから一人で子供育てなきゃなんねえんだぞ?」
そんなこと出来るわけがない。
「悟飯だって、ちゃんとおっきくなったじゃねえか」
「違う。あの時は、おめえがいた!」
悟空さがいたから。
一人じゃなかったから。だから出来たのだ。
出産の時だって、乳児の時だって、ほんとに心細かったのだ。チチにとっては 初めての経験だったし、母親のいないチチに、こんな事で相談できる 経験者は身近に誰もいなかった。
でも、悟空が傍にいたから。
だから乗り越えられたのだ、ひとりじゃとても出来なかった。
それに。
「おらには、もう子供を育てる資格なんてねえだよ…」
項垂れ、呟く。
悟飯が生まれたとき、 この子だけは普通の子供のように育って欲しかった。
別に、武術が悪いとは思わない。でも チチは、ピッコロ大魔王と悟空の天下一武闘会の死闘を、目の当たりにしていたのだ。
確かに、誰かが何とかしなくてはいけない戦いであった事は、理解できる。でもそれを、 自分の血を分けた子供にさせるのだけは、嫌だった。
誰が自分の子供に、生死を賭けた 肉弾戦をさせたいというのだろう。 傷ついて、怪我をして、死ぬかも知れないような想いを、 悟飯にはさせたくはない。
だから武道から引き離した。
そして勉強に集中させたのだ。
勉強ならば、 いくら積んでも邪魔にはならず、学力があればそれなりの利点もある。普通に勉強のできる子に なって、ちゃんと働いて、労働の楽しさを知ってもらって。
そしてそんな中から生まれる、 当たり前で、ささやかな日常の幸せを知って欲しかったのだ。
でも、結局悟飯は、 戦いの中に飲み込まれていってしまった。
悟飯自身も納得をして。
悟飯は、本当に「いい子」に育ってくれた。「いい子」過ぎるほどに。
勉強ばかりを強制してしまう母親と、おおらかで正反対の父親との間で、悟飯は 自我を抑え、両方を立てなくてはいけない役回りでいなくてはならなかったのだ。 それが、必要以上に周囲に気を配り、自分自身を押さえ込み、そして自責の強い 性分を作り出してしまう。
悟空の死によって、それが更に浮き彫りになったとき、チチは心底後悔した。 重大な間違いを犯してしまったことに気が付いたのだ。
なのに、何故今更?





「堕ろすだ」
視線を落とし、ぽつりとチチは言った。
「おらにはできねえ。子供は堕ろしてもらうだ」
何も知らずに生まれた命に対して、不謹慎だという事は百も承知だ。 でも、今のこんな状態で、 とてもじゃないがまともに産めるとは思わない。
何より、自信がない。 育てらるわけないじゃないか。
「いや…おめえは産むさ」
顔をあげ、悟空を睨みつけた。
「堕ろすっ」
「そんなことはできねえ。おめえは絶対産むさ」
見下ろす真剣な眼差し。
ずるい奴だ。そんな目で見つめられれば、逆らえないのを知ってるくせに。
「勝手な事、言わねえでけろっ」





「おめえなんて」
声の限りに吐き捨てる。
「おめえなんて、でえっ嫌えだっ」

「…うん」
悲しそうに、悟空は笑う。
「でもな、チチ」



















チチがおらのことでえ嫌えでもな、
おらはチチが大好きだぞ



















「ほんとに、ほんとに大好きだぞ」
両手を取り、引き寄せ、胸に抱きしめる。ぎゅっと、確かめるように。
骨の太い 指が、ゆっくりと丁寧にチチの頭を撫でた。言葉で伝えられない思いを、そうすることで 少しでも伝えられるように。
「おめえは一人じゃねえ。悟飯も、ほんとにしっかりしている」
何もかにも、一人だけで 背負おうとする必要はないのだから。
髪に頬を摺り寄せる。
「おめえは、なんも間違ってねえよ」
間違ってない。悪くない。大丈夫。
何度も何度も耳元で囁く。辛抱強く言い聞かせるような声。ゆっくりと 流れ込み、じんわりと全身に染み渡ってゆくようで。
チチは 目を閉じた。強張った体の力を抜き、預けるようにもたれ、逞しい背中へと手を伸ばした。
深呼吸をする。太陽の匂いがした。ああ、悟空さの匂いだな。 そう思うと、また涙が滲んだ。





「嘘だよ」
「ん?」
「嫌えだなんて、嘘だからな」
「わかってるって」





























「ほら、悟飯ちゃん。いつまで寝てんだ」
カーテンが音をたてて全開にされる。
窓から差し込む朝の光に、悟飯は目を擦り、もぞもぞと布団の中から頭を出した。
「…お母さん?」
振り返り、にこりと笑う。久しぶりに見たその顔に、一瞬悟飯は呆然とした。
「どしただ?」
「ううん…」
不器用に、悟飯は笑い返す。
このところ見ていた母親の笑顔は、無理に作っているのが見て取れるものだったから。
そんな悟飯の様子に、チチはぷっと吹き出す。そして 急かすように、ベットから起こした。
「なあ、悟飯ちゃん。今度ピッコロさのとこ、一緒に行こうな」
連れてってけろ。
ピッコロは神様と共に天空にある神殿に住んでいる。悟飯に連れて行って 貰わなくては、チチだけではとても行ける場所じゃない。
「ピッコロさんに?」
んだ。大きく頷いてみせる。
「いろいろ気にかけてくれてたろ。いっぺんちゃんと、 お礼に行かねえとな」
そしてこの事を伝えておこうか。それに、神様にお願いすれば、ちゃんと 確認してくれるかも知れない。
チチは下腹部を撫でた。
「そしたら、おめえにも教えてやっからなー」
「えっ?」
笑顔は、随分と誇らしげなものだった。





そして、その向こうには、青空。




end.




管理人は今だ、
悟空さが生き返るのを拒否した理由がわかりません。
チチさんも、簡単には立ち直れないでしょう。
不満足。 きちんとリベンジを果たしたいエピソード。
2001.12.09







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