囀りの処方箋 パオズ山で祖父と暮らしていたある日、小さな雛鳥を拾ったことがあった。 どうやら親鳥とはぐれてしまったらしい。生まれて間もない雛鳥は、産毛のような羽毛をぷくぷくと膨らませ、くちばしをぱくぱくさせ、親を呼び、空腹を訴え、必死で存在を主張し、餌を強請っていた。 両手で抱えるように連れ帰ったこちらに、祖父悟飯は良い顔をしなかった。野生動物に人間が手を貸すのは御法度だからだ。 でもじいちゃん、このままじゃ死んじまうぞ。こいつ、もっと生きてえって言ってるぞ。な、きいてみろよ。ほら。生きてえ、生きてえ。ぴーちくぱーちく。 こちらの熱心な懇願に根負けする形で、独り立ちして野生にちゃんと帰すまでと約束し、雛鳥の面倒を見ることになった。 雛鳥はなかなか手が掛かった。少しでもお腹が空くと、小さなくちばしをぱかりと開ける。そして小さな体に似合わない声量で、目一杯呼んで、求めて、訴えて、主張する。お腹が空いた。自分はここ。早く早く。もっともっと。なので、しょっちゅう餌を探しに行かなくてはいけなかった。 おめえ、うるさいやつだなあ。 でもその必死さが可愛らしい。そして、いじらしい。くちばしに餌を押し込めてやればば直ぐに啼き止む、その素直さも微笑ましかった。 賑やかな雛鳥は、餌を与える以外にも、手の平に乗せてやると静かになった。 その体温に安心するのか、包まれる感覚が親鳥の腹の下を思い出すのか、急に大人しくなると、円らなまなこを細くして、やがては閉じてしまう。そしてそのまま全てをこちらに委ね、眠ってしまうのだ。 全てを晒し、許し、安心しきった無防備な姿と、ぴーちくぱーちくと姦しかった時との落差。 げんきんな奴だなと呆れるが、それでもその純粋さが、堪らなく愛おしいと思った。 結婚したての頃、急に怒りだしたチチを目の前に、悟空はふとそれを思い出した。 どうしてそんな昔のことを。彼女の怒声を右から左へ流しながらつらつら考え、そして気が付く。ああ、そうか。似ているのだ、あの雛鳥とチチが。 ぴーちくぱーちく、やたらと必死で賑やかなところも。なにかを訴えたいのであろうが、しかし何を言っているのか理解できないところも。小さな体を大きく見せようと、肩を怒らせて手足をばたばたさせているところも。 思えば、くるくると良く動く大きな目も、小さな体に精一杯の力を込めてぷるぷる震えているところも、華奢な体がやけに柔らかそうでか弱そうな所も、チチはあの時の雛鳥に似ている。否、そっくりだ。 だから、悟空はチチを抱き寄せた。 あの時の雛鳥は、手の平で包んでしまえば良かったが、しかしサイズ的に彼女にはそうもいかない。なのでそれに近い感覚で、ぎゅっと力加減を配慮して抱きしめてやる。雛鳥はこれで安心し、静かになったのだ。だからチチも同じになるんじゃないか。単純な思考、そのまんまの行動であった。 果たして、チチはすぐに大人しくなった。 つい先ほどまでぴーちくぱーちく姦しく声を荒げていたのに、抱き寄せた途端、急に言葉を失くし、顔を真っ赤にする。細くて柔らかな体は驚きに震えており、それを宥めようと背中や後頭部をさすると、更に驚いた様に身を縮ませた後、やがて体の力を抜いてそっとこちらに凭れかかってくるのだ。 ああ、やっぱり同じだ。悟空は嬉しくなった。 なんだ、こうすりゃいいのか。簡単じゃねえか。 きゅうと悟空の胸元にしがみ付く彼女は、あの時と同じだ。たまにぐりぐりと頭を寄せてくる仕草も、無防備に身を委ねる様子も、目を閉じて俯く角度も、雛鳥と同じ。それに気が付くと、なんだか笑いが込み上げてきた。 なに笑ってるだ。腕の中のおっかない声を、へらりと笑って受け流す。まあまあ。なにがまあまあ、だ。調子に乗って。しかしその声に、先ほどまでの尖った険悪さはもうない。 そのことが嬉しくて、更にぎゅうぎゅうと彼女を抱きしめる。こら、悟空さ。そう言いながら、彼女は嫌がる素振りも、抵抗も見せなかった。 以来、悟空はこの手段を用いるようになった。 家を出たまま何日も帰らなかった時。一緒に都へ行く約束を忘れてしまった時。毎日の修行を咎められた時。 目を吊り上げてぴーちくぱーちくする彼女を、暫く好きに啼かせた後、悟空はいつもぎゅっと抱き寄せる。最初はじたばたと抵抗するも、やはり彼女はいつも最後には力を抜いて、こちらにそっと凭れかかってくるのだ。 ついさっきまで、あんなに怒っていたのに。あんなに煩かったのに。あんなにおっかなかったのに。 途端にしおらしくなるのが面白くて。全身で頼られているようで可愛らしくて。悟空はチチのそんな姿を見るのが、堪らなく好きだった。そんな彼女が見たくて、時に判っていながらも、敢えて怒らせるときさえあった。 何より、彼女は抱き心地が良い。 小さくて、柔らかくて、すっぽりと腕に収まって、そしてふんわりといい匂いがする。優しい体温も、とくとくと伝わる鼓動も、自分とは全く違うしなやかな肢体も、ぎゅっと抱いて全身で感じるのが好きだった。 こんな事なんかで絆されねえぞ。 誤魔化されたりなんかしねえからな。 これで許したなんて思わねえでけろ。 不貞腐れた顔で、時には涙目でそう口にするものの、でも結局、彼女は一番深いところでいつも全てを受け止めてくれる。丸く収めてくれる。勝手も許してくれる。 悟空はそのことを知っていた。 そうだった筈なのに。 これは一体、どういうことなのか。 思えば、彼女をぎゅっとしてどうにかならなかった時期は、過去にもあった。 一度目は、ヤードラット星から帰還した当初だ。 あれは、彼女の怒りも尤もだ。 死んで。大事なひとり息子を元大魔王に奪われて。生き返ったと思ったら、入院するほどの重体になって。大切な子供さえ、命の危険にさらしてしまって。その上勝手に病院を抜け出して。そのまま音沙汰無く、行方知れずになって。漸く帰還したと思えば、あれだけ嫌がっていた息子の修行をしたいと言い出して……。 振り返ってみれば、あれは多分「夫婦の危機」というやつだったのであろう。 彼女の怒りは、びりびりと肌に伝わってきた。しかし困ったことに、今までのお約束であったぴーちくぱーちくは無かった。 怒りに、欲求に、声に出して訴えてくれれば、いつものように好きなだけ発散させて、その後ぎゅっと抱きしめることが出来た。彼女は何も言わない。言いたいあれこれをぐっと胸の中に留め、飲み込み、静かなままに我慢する。 そしてその代わり、二人の間には見えない距離が出来ていた。ぎゅっとするにもその離れた位置は、こちらからだけでは手を伸ばしても届かない。それは、明らかな彼女の拒絶であった。 当時の彼女には、こちらに歩み寄る気が全く無いようであった。意地が勝っていたのかもしれない。もしかすると、歩み寄り方が分からなくなっていたのかもしれない。このままだと、永遠に距離は縮まらない。それは駄目だ。 だから、自分から近付かなくてはと思った。時間をかけてもいいから、少しでも、ゆっくりでも良いから。せめてぎゅっとするには手の届く場所まで、今は自分が動かなくてはいけないのだ。 その甲斐あってか、それとも時間が癒してくれたのか、結局彼女の寛容に甘えたのか。やがてチチは、再びぴーちくぱーちくを伝えてくれるようになった。 久し振りにそれを聞いた時は、堪らなく嬉しくなってしまい、飛びつくように抱きしめた記憶がある。痛いだよ。離してけろ。やめてけれ。じたばたと暴れて抵抗されたけど、それさえも懐かしくて、同時に心から安堵した。 大体、誤魔化すなと彼女は叫ぶが、しかしこちらとしては誤魔化している気は全く無い。 寧ろ自分としては、可愛がっているつもりでしかなかった。 二度目は、セルゲームの前であった。 直前になって突然訪れた二人だけの時間に、最初彼女は怒り心頭であった。何を考えてるだ。どうしてこんな時期に。勝手に一人で決めてしまって。ぴーちくぱーちく。 いつものように声を上げる彼女に、まあまあ、良いじゃねえか、そんな理由もあるんだしよ。穏便に済ませたくて、ぎゅっとした。 その時、確かに彼女は大人しくなった。 だがそれは、怒りが落ち着いたからではなかった。 二人きりになったんだしよ。そうだ、おめえ、デートに行きたいって言ってたよな。車で街に行ってもいいし、欲しいものがあるなら買いに行こうぜ。買物にも、好きなだけ付き合うし。他に何かして欲しいことはねえか? オラがおめえにしてやれることはねえか? いつまで経っても返らない返事。腕の中で小刻みに震える肩。背中を宥めると、ぎゅっとシャツの胸元を握り締められた。どうやら、失敗したらしい。 なんだべ……それ。 掠れた彼女の声は、涙で揺れていた。 怒られるのは嫌ではない。壁を作られるのは寂しかったが、それも彼女の怒りの形だったのだろう。 だが、泣かれるのは――どうすればいい? 怒りに泣き叫ぶのではなく、静かに、押し殺すように、堪え切れずに。そんな苦しい顔をさせたくはなかった。 この僅かな時間だが、今まで散々寂しい思いをさせていた、その埋め合わせをしたかった。今までの自分の身勝手を解っているから、謝りたかったし、感謝を伝えたかった。せめて彼女が喜ぶことをしたかった。 でもやはり、自分は彼女を可愛がることが下手なようである。 そして、今は。 「なあ、チチ。今度はなんも言ってくれねえんだな」 冷たくなる体を、体温を分け与えるように抱きかかえ。 力を失いくたりと弛緩した首を、零さぬように手で支え。 決して答えの返らぬ唇に、一言一句を逃さぬよう耳を寄せ。 ぴーちくぱーちく。ほら、眠ってねえでおめえの声を聞かせてくれよ。 今までこれが効かねえことはあったけど、今回が一番堪えるや。 脆い体を壊さぬようにぎゅっとして、悟空は噛みしめるように目を閉じた。 end. チチさんの可愛さを追求するつもりだったんだ 2020.04.23 |