しなやかな殺意













窓から差し込む朝日に目が覚めた。
寝室には、もう彼女の姿は見えない。 複雑な不安をを感じつつ、暫しまどろみを堪能していると、 やがて体が空腹を訴え始めた。
むくりと寝台から起き上がり、そして彼女の気配へと向かう。
扉から台所を覗くと、いつもの朝がそこにある。華奢な後姿と、 幸せな香りが立ち上るテーブル。瞬きを繰り返し、ぼんやりとその光景を眺めていると、 気配に振りかえる彼女がにこりと笑った。
「おはよう、悟空さ」
昨夜の余韻さえ感じさせない、変わらぬ爽やかな笑顔。毎朝のそれに、 悟空は少なからず面食らう。
「あー…おっす、チチ」
誤魔化すように頭を掻きつつ、くあ、 と欠伸をする。呑気なそれに、彼女の唇から、くすくすと鈴の音のような声が零れた。
「ほら、 顔さ洗ってくるだよ」
全くもう。おらの旦那様は、何て顔をしているんだか。 寝起きの顔を下から見上げ、寝癖でぼさぼさになった髪を、繊細な指がそっと撫でる。
醒めきらない眼で見降ろすと、たおやかに伸びる、傷一つない白い首筋がそこにあった。 確かめるように無意識に顔を寄せると、朝から調子に乗る出ねえ、 ぴんと指先で鼻を弾かれてしまった。
あいて、と鼻を押さえる。不満げに唇を尖らせると、 悪戯っぽく覗き込む黒目がちの瞳が、くすりと優しく細められ、さり気ない動きで頬にちゅ、と 唇が当てられる。
「早くしねえと、朝御飯、冷めちまうだぞ」
彼女なりの照れ隠しなのだろう、 やや乱暴にくるりと体の方向を変えられて、そのまま背中を押しやられる。何となく口元を緩めたまま、 抵抗する事無く洗面所へ向った。
ひやりとした台の前に立つと、正面にある鏡を見つめ。
―――その目が、真剣に細められた。
じっと見つめるその先。広めの襟元から伸びた、 筋張った太く筋肉質の首。
そこにくっきりと残るのは、赤く滲んだ爪の跡。
眉を潜め、そして唇を噛み締めると、悟空はそれを、そっと指でなぞった。
「…いて」
痛えよなあ。すっげえ、いてえ。
口の中だけで、小さく繰り返す言葉は、 伝えられない切実な訴え。
堪え切れない痛みに、ぐうっと目を強く瞑り。
「いてえよ…チチ」
こんな、小さな痕なのに、な。
ぐい、と蛇口を捻る。 音を立てる水飛沫。透き通った冷たさで、振り切るように、勢い良くざばりと顔を洗った。









初めてそれに気がついたのは、一体いつだったのか。
もう、思い出せなけれど。









「なしただよ、悟空さ」
修行から帰ってきた悟空に、チチは眉を顰める。
「あー、ちっと、な」
油断しちまったみてえだ。
破れた道着から血が滲んでいる。 肩から肘にかけての酷い擦り傷に、悟空は気まずく笑った。
多少のものこそ日常茶飯事だが、 普段の彼にしてはこれ程のものは珍しい。その痛々しさに、チチは両手で口元を覆う。
「大した事ねえよ、これくらい」
範囲が広いから酷く見えるだけで、傷に深さはない。 痛みも我慢できない程でもなかった。
ぼろぼろになった服を脱ぎかけるが、 凝固し始めた傷口に密着していたらしい。思わずいててと声を上げた。
「悟空さ、ほら、こっち」
腕を引き、椅子に座らせる。
「ちょっと、我慢してけろ」
濡れたタオルを持ってきて、 道着の上からそおっと傷口に当てる。触れた瞬間、走る痛みに思わずびくんと体が揺れた。
「…っ、いてえよ、チチ」
「子供じゃあるめえし、じっとしているだ」
諌める声は、 それでも幼子に対するように優しい。
丁寧に傷口を拭い、服を脱がせる。 露わになった逞しい体は、何処もかしこも傷だらけだった。整った眉根が、痛ましく寄せられる。
取り出した救急箱を開いて。
「うわ、い、良いよ、オラ、大丈夫だから…」
消毒薬を手にするチチに、既に腰が引けている。
「駄、目、だ」
これだけ広範囲の傷だ、 放って置くとばい菌が入るかもしれない。
「化膿したら、こんなものより、 もっと痛えんだぞ」
顔を顰めて諌めるが、悟空はひきつった顔で首を振る。
子供の様に消毒を嫌がる様子に、呆れて息をつく。こんなに酷い傷にはけろりとしているくせに、 何でほんの一瞬の痛みが我慢できないんだ?
「で、でもよ…」
「ご、く、う、さ」
じろりと睨むおっかない目。低い声に、彼女の怒りを感じる。
これ以上嫌がると本気で怒られそうだ。 消毒薬の痛みと、本気で怒ったチチとを、頭の中で天秤に乗せると、結論は一瞬で決まる。 結局、渋々ながらも、抵抗していた腕を大人しく引っ込めた。
最初から、 そうしてればええだよ。
消毒薬を浸した脱脂綿をピンセットで挟み、チチは丁寧に傷口を拭う。 それに悟空は顔をしかめ、染みる痛みに唇を噛み締める。子供だと言われようが、 やはり慣れるものではない。
それでも、傷口を覗き込む彼女の横顔の方が、余程辛そうに見えた。
「サンキュー」
治療を終えて、器用に巻かれた包帯に、漸く悟空はほっと体の力を抜く。
やや日焼けした筋肉質の腕に、真新しい包帯の白。そのコントラストに目を細め、 そのまま凭れるような動きで顔を寄せる。
「…チチ?」
白い包帯の上に落とされた唇に、 悟空は目を見開く。
柔らかく、優しいその感触。その位置から覗き込んでくる、切ない上目使い。 胸の奥に突き上がるむず痒い衝動に、思わず腕を伸ばしかけるが。
「…自分だけの体だと思わねえでけろ」
途方に暮れた声には、涙の余韻が隠されていた。
「悟空さが痛えと、おらも痛えんだ」
おめえは、全然知らねえみてえだけんどな。
「おら、すっげえ、痛えんだぞ」
痛みを堪える様に告げる言葉は、間違い無く彼女の真実だろう。
細い指を肩に添え、その上から額を乗せて。そっと目を閉じる姿は、見えない何かに祈りを捧げる様だった。











きっと。
きっとチチは本当に心配し、痛みを感じているのだろう。 彼女は、その場限りの嘘を口にする人間ではないし、そんな部分で器用でもない。
でも、この爪痕が痛い。
肩の傷よりも、染みる消毒薬よりも、死にそうな大怪我よりも。
首筋に残るか細い痕の方が、何百倍も、何千倍も痛かった。











「おめえと一緒にいると、心配が尽きねえだな」
救急箱を仕舞い込みながら、 笑ってチチはそう言った。
傍にいたら、毎日怪我して帰ってくるのを心配して。 遠くに行ってしまっても、どうしているのか心配で。それでも自分は、喜んで戦いに臨む夫を、 ただここで待つことしか知らない。
心配で、心配で。 息が出来なくなるくらい、こんなにも苦しいのに。
「悪ぃな」
悟空は困ったように笑う。心配するな、と言いたい。でも、 きっとそれは無理なのだろう。
ふと、重なる視線に微笑みが消える。
「おめえがいなくなったら…おら、心配が無くなるのかな」
楽になれるのかな。
苦しくなくなるのかな。
消えた表情のまま、ひっそりと紡がれた小さな呟き。
「自由に…なれるのかな」











チチは、オラから自由になりたいのか?



それは、きっと。
永遠に口に出来ない質問なのだろう。





























そうして、今夜も繰り返される。











窓から差し込むのは、僅かな月明かり。
音も無く動くシルエットは、 寝台の上でそろりと半身を起し、傍らに横たわるその人を静かにじっと見下ろす。 闇で見えない瞳の奥。瞬きだけは、長い睫毛の動きで読み取れた。
伸ばされる、細い腕。
眠りを妨げる事が無いように、細心の注意を払った指先が、 その癖の強い髪を梳き、すっきりした頬を撫でる。そこには、決して疑いようの無い愛しみが、 確かに込められていた。
戸惑いがちな指先は、やがてゆっくりと輪郭を辿り、 顎の形を確かめて、するりと首筋に添えられた。先細りの指先が、優しく、 優しくそこを宥めて。
しなやかな掌が。
右手、左手と、しっかりと逞しいそこに添えられた。
圧し掛かるように上になり、微かに震える両の掌に力が込められる。柔らかい力加減に、殺気は皆無。 それでも、限りなく優しい力で、真綿のようなもどかしさで、両の掌が絞られる。
「ふ…くっ、う…」
噛み締めた唇から、押し殺した嗚咽が零れた。苦しい、苦しい。 胸が張り裂けそうだ。でも、手に込める力を抜く事が出来ない。
ぷつり、 と爪先が柔らかい皮膚に食い込んだ。
「チチ」
ぴくりと、細い指に込められる力が、 止まった。
闇の中、うっすらと月明かりに浮かぶ顔。閉じられていた瞳が、酷くゆっくりと開かれ、 真正面から瞳と瞳が合う。
焦点の合わない目。否、違う。潤んだ涙で見えないのだ。
なあ、静かな声で問いかける。
「オラを殺してえのか?」
はたはたと零れる涙が、 下から見上げる悟空の頬を濡らす。いたいけな唇が、可哀想なくらいに震えていた。
ゆっくりとチチは首を振った。
「オラが嫌いなのか?」
その言葉に、強くかぶりを振った。
違う。好きだ。大好きだ。誰よりも大好きだ。苦しいくらいに。苦しくて、苦しくて、 呼吸が出来ないくらいに、心囚われている。
でも、だけど。
「…楽になりてえんだ」
だから。
震える指先に、ゆるりと力の込められ、 悟空は僅かに目を細める。
でも、これじゃ殺せない。鍛え抜かれた武人の体に、 こんなささやかな力なんて通用しない。それぐらい解っている筈なのに、何故こんな事が、 毎夜繰り返されているのだろうか。
だけど―――痛い。苦しい。このか弱い指が。
「チチは…オラがいなくなると、楽になるんか?」
責める訳でなく、切実な瞳でそう尋ねる。
震える唇は、確かに否定の言葉を形作った。
でも、声は届かない。
音の無い二人きりの寝室。 吐息が触れ合う程、すぐ傍にいる筈なのに。
それでも、決して届かない。











一緒にいたい。傍にいたい。
誰よりも、ずっとずっと。
その願いは確かに真実だ。
でも、それがこんなに苦しいのは何故だろう。











「オラ…おめえに、どうしたら良いのかな」











明かりの無い寝室に、苦しく押し殺した啜り泣きが響く。
逞しい胸に顔を埋め、力なく首を横に振る頭を、宥めるように撫でる。



















虚空の闇を見つめたまま。
悟空は、細い体を抱きしめることしか出来なかった。
















end.




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2008.10.07







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