「チチは、居なくなったりしねえよな」


それは呪縛の言霊だった。











バナッハタルスキーの宣誓


















「なあ、チチ」
「何だ」
「今日さ、一緒に出掛けねえか」
へ?とチチは目を丸くする。
二人が結婚しておよそ一カ月。 チチが夫からそんな誘いを受けるのは、初めての事だった。
もしかして、これがデートのお誘いって奴だべか?
二人は初めて出会ってから、 六年間の空白の得て漸く再会し、その場で即結婚した。恋人らしい何かを始める前に、 それらを全て飛び越えて、一気に夫婦になってしまったのである。
夢に見ていた甘いシチュエーションが頭を巡り、チチは一も二も無く頷く。
「行く。おら、何処にだって、悟空さと一緒に行くだっ」
勢い付いた返答に、きょとんと夫は目を丸くする。期待いっぱいの瞳に気押されながら、 それでもそんな妻の様子に、うんと笑って頷いた。
「なあなあ、 何処に連れて行ってくれるんだ?」
わくわくとした瞬きに。
「オラのじいちゃんの所だ」





子供の頃からの夢は、「素敵なお嫁さん」になる事だった。
母親は、 物心がつく前に早世した。だからチチにとって母親の面影は、城の大広間に飾られた、 父親の牛魔王との結婚式を描かれた肖像画だけである。
絵の中の母は、 とても幸せそうに笑っていた。
その隣に立つ父も酷く嬉しそうで、 村人から恐れられているような片鱗など、ちっとも窺えない。 そんな絵を見上げて育ったチチにとって、好きな人と結婚することは、幸せで、嬉しくて、 平和になる事への象徴だった。
「どうすんだ、それ」
テーブルに乗せられた、 どっかりと大きな重箱。そこに詰め込まれる目にも美味しそうな弁当のおかずの数々に、 悟空は嬉しそうに瞬きする。馨しい香りに、さっき腹一杯の朝食を済ませたにも関わらず、 お腹の虫が新たな食欲を訴えていた。
「これは、お供えだべ」
だから食っちゃなんねえぞ。伸ばされる食指を、チチはぺしりと払う。
「お供え?」
「んだ」
叩かれた手をひらひらさせて首を傾げる夫に、 チチは小さく苦笑する。
出会った頃から恋し続けた少年は、 優しくて、逞しくて、純粋で、素直で、そしてどうしようもないほど無知だった。
初恋の人は、間違いなく素敵な人だった。
惚れた欲目もあるだろうが、 少年らしさの残る顔立ちは素朴ながらも精悍で、 その無邪気な笑顔には人を引き付けるような愛嬌がある。その上武道の腕は天下一だし、 友人達からも慕われ、信頼を寄せられ、神様さえも彼を認めていた。 流石は自分の選んだ人だと、チチは誇らしくさえあった。
でも、違う。 世界を救った救世主が、必ずしもチチの求める理想の王子様だとは限らない。
それを思い知ったのは、結婚して直ぐの事。
夫になった人は、 確かに神を超えるような力を持っていた。しかし、その分常識という枠組みが、 ものの見事にすっぱりと、頭の中から抜け落ちている人だった。
「なあなあ。オラ、腹減っちまったぞ」
お腹を押さえ、情けなさそうに声を上げる様子に、 もう…と呆れて溜息をつく。ついさっき、あんなに沢山の朝食を平らげたばかりなのに。
困った人だな、苦笑しながら。
「お供えし終わったら食べても良いだぞ」
「ほんとか?」
「おら達のじいさまと、三人で食うべ」
お墓の前で広げてな。 そう告げると、夫は少し驚いたように目を丸くして。
「おう」
酷く嬉しそうに笑み零れた。





筋斗雲で行けば随分早い距離なのに、悟空はかの祖父の元へは、 いつも歩いて向かうようだった。
大きな重箱を両手に持つ夫に、どうして?尋ねると、 どうしてかな、と笑い返す。答えになって無い。でも、チチは聞き返さなかった。 その代わりに、変な悟空さだな…そう笑った。
共に生活を始めて直ぐに判ったが、 明朗な印象があるにも拘らず、夫は言葉足らずであり、そして無口でもあった。 頭で考えた事や感情を説明するのが苦手なのだろう、そんな自分を自覚しているようだ。
反対に、チチはおしゃべりが好きだった。だから二人でいると、チチが話し役、 悟空が聞き役になる場合が殆どだった。
「孫悟飯さんの事は、おっとうに聞いただよ」
チチは、恋した少年に関わる事を、少しでも知りたかった。言葉の約束だけの関係を、 彼に対する知識を深める事で、少しでも手繰り寄せたかったからだ。
淡く幼い心ながら、 少女らしい努力もしていた。立派な妻になるように、料理を勉強した。家事だってした。 そして、いつまでも来てくれないつれない人を迎えに行く為に、武道だって身に付けた。
でも、この男はすっかり忘れていた。
幸いだったのは、彼は約束を守る人だった。 あっさりと了承すると、神になる誘いを断り、自分の手を取ってくれた。もっとも、 神になるという事の意味を、あの時の夫が理解していたのかは分からない。
常識がすっぽりと抜けた夫は、それと同時に、常識的な知識も見事に抜けていた。 しかも、自分の無知に対して素直で、それを恥じない。 「なんだ、それ」という幼児のごとき彼の疑問に、チチは根気をもって、 一つずつ噛み砕いて説明しなくてはならなかった。
本当の意味で夫婦になる事への知識さえ欠けていて、思わず責めてしまったこちらに。
「じゃあ、おめえが教えてくれよ」
ベッドの上で無邪気なままにそう言われた時の恥ずかしさを、 チチは一生忘れる事が出来ないだろう。結婚してひと月余り、お互いの体温に躊躇が無くなったのは、 本当にここ最近の話だった。
正直、早まったか、と思う事は多々あった。
勢いに任せ、手探りのまま始めた結婚生活だ。腹が立ち、呆れ、悲しくなり、 途方に暮れ…そんな連続の毎日に、こんな筈じゃなかったと後悔した事は、 一度や二度ではない。
勿論、初恋のこの人を愛している。だけど、無邪気なまま、 子供がそのまま大きくなったような夫に、何も知らねえくせに…と、 チチは時々本気で腹が立つことがあった。





不意に、会話が途切れた。
木漏れ日の下を歩きながら、沈黙が続く。 居心地の悪いものではない。第一、夫は会話に関して、あまり重きを置いていなかった。
こちらから話す事も無く、並んだ二人分の影を追いながら歩いていると。
「じっちゃんが死んだ時さ…」
ぽつりとした声に、振り仰ぐ。視線が合い、 少しの逡巡の後、悟空はそのまま続けた。
「オラさ、人が死ぬって事、 良く判っていなかったんだよな」
脈絡のない流れ。珍しい。この人が自分から、 こうして話をするなんて。
勿論、山でずっと暮らしていたから、動物が死んだり、 自分が食べる為に何かを殺す事もあった。だけど、自分の最も身近な存在が消える事と、 死を繋ぎ合わせる術を知らなかった。
「だからさ。最初はじいちゃんが死んじまったって、 理解できていなかったんだ」
動かなくなった屍。血みどろのそれに、 何も理解できない子供は、何度も何度も語りかけていた。
気を引こうと悪戯をしたり、 おどけてみたり、怒ってみたり、拗ねてみたり。だがいつまでたっても、 彼からの反応は無かった。
雨の日も、日照りの日も、屍の傍から離れなかった。 自分は祖父に嫌われたのかと思った。見捨てられたのかと思った。腐敗し、蛆が沸くその横で、 いつまでもいつまでも座りこんでいた。
「馬鹿だよな、じいちゃん死んじまったのに」
オラ、本当に何も知らなかったよな。
呟く声は、自分に言い聞かせるような、 ささやかなものだった。
何も知らない無知な幼い子供は、たった一人の頼るべき祖父を失い、 誰もいないこの山の中で、何も分からないままに、亡骸を地に葬った。
馬鹿だよなー。 困ったように眉根を寄せながら、誤魔化す様にへへ…と笑う。チチは言葉に詰まってしまった。





「ほら、ついたぞ」





墓石は、随分粗末なものだった。
見晴しの良い場所にあるそれは、 ともすれば見落としてしまいそうに、至極ささやかな造りであった。 まるで子供が石を重ねて遊んだ後の様な…実際当時の状況は、 それに近いものであったのかもしれないが…そんな、簡単なものだった。
「じいちゃん」
古ぼけた墓石に向かって、悟空は声をかける。きっとこの人は、 幼い頃からこうしてここで語りかけていたのだろう。
「オラのヨメだ」
一度、ちらりとチチを振り返り、確認するように笑う。チチは誘われるように、 その隣に立った。
「じいちゃんも知ってるだろ。牛魔王のおっちゃんの娘の、チチだ」
チチは姿勢を正し、厳粛な気持ちで、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、チチですだ」
自分の夫を育てた、唯一の家族。 そんな人との初対面に、身が引き締まる。
「おら、不束者ですが、悟空さの妻として一生懸命頑張りますだ」
だからどうぞ、今後ともよろしくおねげえしますだ。生真面目なチチの様子に、 悟空は穏やかに眼を細める。
二人で墓標の前に膝を折り、 目を閉じ、手を合わせた。静かに、深く、祈りを送った。
ゆっくりと、立ち上がる。 反応こそ見ることは叶わないが、夫の唯一の保護者に認めて貰えたのだろうか。 隣に立つ良人を見上げると、彼は満足したように笑っていた。だから、チチもほっとした。
もしかすると―――。
こうして、彼の家族との対面を誘ったのは、夫が自分と共に生きる、 覚悟をしてくれたのではないか。突然浮かんだそんな自分の考えに、チチははっと瞬きする。
確かに結婚の意味も、夫婦の何たるかも知らぬまま、幼い頃の約束をそのまま実行した。 しかしまだ短くはあるが、衝突を繰り返しつつも、生活を育み、お互いの肌の温度も覚え、 覚束無いながら、確かに二人は夫婦になろうとしている。
夫は、無知ではあるが、 愚鈍ではない。もしかすると、彼なりに結婚の意味を理解し、納得してくれたのではないか。 だからこうして、彼にとって唯一だった家族に、 新たに加わる自分を紹介してくれたのではないか。
視線を合わせたまま。
「あのさ、チチはさ…」
夫の笑みが消えた。
剥がれ落ちる、 笑顔と言う名のポーカーフェイス。後に残ったのは、その奥を確かめるような、縋るような、 酷く切羽詰まった色。こんな夫の顔を、チチは知らない。


「チチは、居なくなったりしねえよな」


じいちゃんみたいに、ある日突然消えちまう事は無いよな。
慎重に、 だけど何処か怯えたような声音は、チチが初めて聞くものだった。
死という概念も理解できないまま、大好きな人を土に葬った子供。たった一人の家族を失い、 一人ぼっちの孤独の中で、自分の孤独さえ認識できなかった子供。
切実な痛みを含んだ、 その瞳の向こう側。そのとてつもなく残酷で、どうしようも無い寂しさの影が透けて見え、 チチは息苦しい位に胸が締め付けられた。
彼は確かに常識が抜けているが、 決して何も感じていない訳じゃない。幼子のように無邪気ではあるが、 寂しさも、孤独も知っている。自分は何を勘違いしていたのだろう。
「当然だべっ」
力一杯頷く。
「おらは、悟空さの妻だっ」
拳を握りしめ、きっぱりと言いきる。彼の孤独も、自分の中にある不安も、 全て消えてしまう程に。
「おら、ずっとずっと悟空さと一緒にいるだよ」
悟空さを一人ぼっちになんて、おらは絶対にしねえだ。涙目で断言すると、 感情のままにその首根に飛びついた。
しがみつくチチに、悟空は目を瞬きさせ、 そしてその背中に腕を回す。とても、優しい力で。
「そっか…良かった」
へへ…と笑い、そっと目を閉じる。腕の中のチチは華奢で、壊れそうに細いけれど、 とても力強くて、まっすぐな温もりを持っている。
サンキュー、チチ。 耳元で聞こえる声には、縋りつくような震えが、ほんのひと匙含まれていた。 その切なさに、チチは泣きたいような心地になった。
「おら、何処にも行かねえ。ずっとここにいるから」














「だから悟空さ、必ずおらの所に帰ってきてくんろ」


言霊の呪縛。










end.




タイトルは数学のパラドックスより
一つの球を分解して再構築すると
全く同じ球が二つ出来る数式の逆説
2010.01.30







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