上海ムーン <7> この僅かながらの数年で、清國には他国の文化が津波のごとく押し寄せ、 急激な近代化への開花を余儀なくされていた。 上海の港は、 そんな荒波の玄関口であり、同時に防波堤としての役割を充てられてた。 元は、漁業しか生業の無い、極小さな田舎の港町であった。しかし今は、 東西様々な形容の建築物が建ち並ぶ、世界屈指の貿易都市にまで発展し、 更に進化を加速させている。 街には、華やかな西洋風の建物が次々に建てられ、 カッフェやダンスホウル、また最近人気のある写真の撮影をするキャメラ店まで。 流行の最先端が、賑やかに軒を連ねる。 だが、そこから数本も裏通りに入れば、 煌びやかな空気は一転した。 あまりにも急速に変化を遂げた皺寄せは、 見えない場所へと押しやられる。整備が行き届かず、挙句に放置されたスラムは、 町の各所に点在していた。表向きの華やかさの裏表となる場所、 この荒廃した無秩序地区は、この街のもう一つの顔でもあった。 そんな一角。 迷路のように入り組んだ狭い路地を、突き当たったその正面。 灰色の無機質なビルの前で、悟空は足を止める。 かちり、と親指でボタンを押すと、 懐中時計型のレーダーの画面が切り替わった。点滅するライトとその位置を確認する。 どうやら、ここで間違いは無い様だ。 路地の行き止まりにある立地、道は狭く、 囲い込むように建てられたビルには逃げ場が無く、そして入り口はたった一つ。 さて―――どうする? 悟空は、目前に立ちはだかる建物を見上げた。 空気が悪い。 埃っぽい。じめじめとして、変な匂いがする。窓は汚れているし、 天井の隅には蜘蛛の巣まで張っている。 ちゃんと掃除をしているんだろうか…そんなどうでもいい事が頭に浮かび、 チチは形の良い眉根を寄せた。 「我々は、基本的にレディに対して、 紳士なんですよ」 だから現に今も、貴方を縄で拘束することもなく、 暴力だって振るっちゃいない。なあ、そうだろ。そう投げかけられ、 傍にいる赤みの強い肌の長髪の男は、ああと大袈裟な身振りで頷いた。 「まあ、 最初は少々手荒でしたが。それは勘弁して下さいよ」 何せ、 貴方があんなに抵抗するものだから。余り人目につく場所で騒がれるのは、 我々としてはご遠慮願いたいのでね。 やたらと慇懃に説明する男を眼の端に、 チチは強気な瞳を揺るげる事無く、きりっと前を睨みつける。 厳つい男たちに囲まれようと、からかいの言葉を投げつけられようと、 決して気丈な姿勢を崩さない。こんな奴らを怖れるものか。 「もう一度聞きますよ、 お嬢さん」 机を挟んだ向かい側。妙に青い肌色をした男は、 両生類にも似た顔を困ったように顰め、ずいと身を乗り出す。 「貴方のお父さん、牛魔王はどちらにおいでですか」 膝の上に乗せた手をピクリとも動かさず、チチは前を見据え、唇を固く引き締めたまま。 いつまでたっても帰らない返事に、はあとわざとらしい溜息をついた。 「困るなあ、 そんな態度じゃ」 これじゃあ、我々も強硬手段を取らざるを得ないじゃないですか。 机に肘を掛け、やれやれと頭を振る。それに、隣に立っていたずんぐりとした小柄の男が、 いらいらと睨みつける。 「おい、女っ」 耳障りに甲高い怒鳴り声にも、 チチは意に介さない。何の反応も見せず、ただ座っているだけ。その態度に眉を吊り上げ、 小柄な男はチチの傍へと近づいた。 「そんな態度でいると、 後で後悔することになるぞっ」 何なら今すぐ、痛い目を見せてやっても良いんだぜ。 ぎゃあぎゃあと喚き声を上げる様子に、大柄で筋肉質の男が、 まあまあ…と宥めるようにその肩に手を置く。 「まてよ、グルド」 落ち着けって。 「フリーザ様の指示がまだねえんだから」 俺達はまだ手出しできねえよ。パイナップルに似た頭を振りつつ、にやにやと笑いながら、 チチの背後になる戸口前まで誘って距離を取らせる。 「まあ…もうそろそろ、 隊長と一緒に到着する頃か」 「そうだな」 「そうしたら、 この女はお前に任せてやるからよ」 「本当だな?」 グルドちゃんったら、 この女が自分よりも背が高いから、気に食わないんだぜ。あーあ。 女を相手にしか強がれないもんなー。へらへらとしたからかいと、 いきり立つ怒鳴り声。その中心で、チチは姿勢を崩さず、黙って前を見据える。 ここはどこだろう。 港へ向かう途中、突然襲われ、当て身で気を失い、 目が覚めた時にはこの部屋に連れ込まれていた。薄汚れた室内、 座らせれた椅子と目の前に机、見張りであろうこの四人の男達。そして、 正面の窓から見えるのは、薄曇った午後の空の色。チチが判断できる材料はそれだけだ。 恐らく、約束の出向の時間は、もう過ぎているのだろう。 ならば父親の身柄は安全かとは思うが、それでもこんな奴らに一言も口を利くもんか。 「そういや、ベジータちゃんは?」 「ああ、下の部屋で待ってるってさ」 見張りだとよ。ま、そりゃ建前で、本当は俺達と一緒にいるのが嫌なんだろうけどな。 そうそう。俺達、なーんか嫌われちゃってるからな、ベジータちゃんには。 ふざけあっている様に見えても、彼らに隙は窺えない。武道を嗜むとは言え、 この強硬そうな四人を相手に敵うとも思えなかった。 しかも、この会話からすると、 下にはあと一人、更にもう二人がこちらに向かっているらしい。 全員が揃えば、ここから脱出するなど不可能だろう。 ぎゅうっとチチは、 膝に乗せていた拳に力を込めた。 聞こえるだろ。 返事はせず、そのままで聞くんだ。 良いか、言う通りにしてくれ。 チチは、僅かに顔を上げた。 表情を変えず、視線だけで室内を改めて確認する。 テーブルを挟んだ目の前には、青っぽい肌の男。その向こうには、 赤黒い肌の長髪の男と巨漢の男がにやにや笑い、 入り口前に立つグルドと呼ばれる小男をからかっている。 小さく深呼吸すると、頭の中で同時にカウントした。 三…二…一。 ―――伏せろっ。 それは、チチが机の下に身を顰めたのと同時であった。 突然、部屋に唯一あった窓の硝子が、 耳触りな音を立てて破かれる。室内にいた全員が、揃ってそちらへと視線を集中させる。 一瞬でそれぞれが身構えたのは、流石に名の知れた傭兵部隊なのだろう。 一拍の間をおいて、部屋を埋め尽くしたのは、眩い閃光。 強烈な光に視界を奪われたと同時に、連続する爆発音。鼓膜に直接打ちつけられるような轟音に、 一同は体を伏せ、身を守る。何だ、どうしたんだ。状況を把握しようとするが、 繰り返される閃光に視界を奪われ、留まらない爆音に声さえも覆い消される。 火薬の匂いで爆発物が投げ込まれた事は理解できるが、身動きも取れず、 ただ蹲るしかなかった。 爆音が、やがてゆっくりとその速度を落とし、 余韻を残しつつ、漸く途絶えた。 しかし光を直視した目は、今だ朧な輪郭しか映さない。 何とか身を起こすも、手探りで動き回るしか出来なかった。 「…おい、大丈夫か」 声を上げるが、爆音に包まれた耳はわんわんと共鳴するだけ。狭い室内にも拘らず、 互いの声を聞きとる事さえ困難だ。 「おい、生きてるかっ」 怒鳴り声に、 各々の返答らしきものが届く。痛みを覚える目を抑え、ぶるりと頭を振る。 どうやら体に痛みは感じないようだ。 一体何なんだ。ちかちかする視界に瞬きを繰り返し、 何とか視力が回復し始める。火薬の煙に紛れ、同じく身を起こし始める姿が読み取れた。 「ちくしょう、一体…」 物凄い音と光に、ビルごとふっ飛ばされたかと思っちまったぜ。 ぶつぶつ言いながら、破られた窓の脇へと身を顰める。 瞼を抑えながら壁に背を当て、 そっと窓の外を窺うと、ビルの真下から、ぱたぱたと走り去る子供の姿が数人分見て取れた。 この界隈に住も子供なのだろう。きゃあきゃあとした笑い声が、今の衝撃と裏腹に、 酷く平和に響いた。 「…何だ、こいつは」 光の源にあるものは、 不格好な筒状のそれ。重り代りであろう、ごみから漁った様な鉄材が、 ぐるぐる巻きにされていた。 今だ火種の燻るそれに、恐る恐る手を伸ばす。爆弾にしては、 随分お粗末なものだ。 「こりゃ…爆竹だな」 祭りの際には良く鳴らされる、 この街では何処ででも手に入る花火だ。それが、ボール紙で作られた筒の中に詰め込まれている。 そして、焦げ付いた内側にあるのは。 「あれじゃねえか…ほら、 写真を取る時に使う…」 「フラッシュか?」 写真撮影に使うマグネシウムが、 先程の閃光を作り出していたらしい。全ての材料は大したものではなく、殺傷能力も無いが、 子供の悪戯にしては随分専門的に過ぎる。 長髪の男が、はっと視線を走らせた。 「おい、女はっ?」 今だ自由の利かない瞳を瞬かせながらぐるりと見回すが、 彼女の姿は何処にも見当たらず、唯一あった戸口の扉が、開かれたままゆらゆらと動いている。 「しまった、逃げられたっ」 「くそっ。グルトは?扉の前にいた筈だっ」 「駄目だ、やられている」 戸口の前でごろりと横たわったままの小さな体に、 舌打ちした。 「リクームは入り口をふさげ、バータと俺は女を追いかけるっ」 「そのまま階段を上るんだ」 耳元から直接届くその声に、チチは頷いた。 「判っただっ」 耳につけているピアスから発せられるのは、紛れも無い孫悟空の声。 パーティーの時にチチに渡した真珠のピアスには、音声受信機能も取り付けられていた。 そこから悟空はチチを誘導する。 「階段を上がり切ったら、屋上の扉がある」 駆け上がる階段の手摺から身を乗り出して、上を仰ぐ。言葉の通り、それらしいものが窺えた。 そこで、はっと振り返る。 下から響くのは、追手の足音。二人分であろうそれが、 こちらへと近づいて来る。ここで捕まれば逃げ場は無い。流れる汗を手の甲で拭い、 きりっと前を見据えると、チチは更に走った。 息を切らせながら階段を登り切ると、 ばたんと正面の扉を開ける。急に拡がる視界。しかし、目に映るのは、 空の青さと屋上をぐるりと囲む古い鉄柵だけだった。 「チチ、オラを信じろ」 力強い声を耳元に、戸惑いは一瞬で消える。自分が信じると決めた人なのだ。 何があってもこの人を信じる。 近づく荒々しい足音を背中に、柵へと手を掛けて。 「…三、二、一、今だっ」 カウントと同時、チチの体は屋上の柵を飛び越えた。足元に何もない不確かさと浮遊感に、 くらりと意識が遠のきそうになるが。 「―――チチっ」 ピアスの音声機越しではない声。 同時にしっかりとした腕の感触。 真っ白に包まれる視界。 そして、転がるように全身を打つ衝撃。 一瞬の間に起こったそれらに、頭と意識が付いていかない。 気が付けば、 横になった自分の体と、その下には固い床の感覚。そして、圧し掛かるような重みが、 守るように全身を包み込んでいた。 ひゅー、と安堵する声が聞こえる。 そして、ばさりと音を立てて、白に阻まれていた視界が開ける。 「大丈夫か、チチ」 こちらを窺う人懐っこい瞳に、チチは荒い息のまま瞬きを繰り返した。 コの字型に行き止まりになったこのビルを挟んだ、両サイドの廃屋ビル。 人がすれ違うだけで、ぶつかりそうなほどに狭い路地。 悟空はそれを利用することにしたのだ。 悟空はピアス越しにチチに指示を出し、 隣のビルの屋上で待機をし、監禁されていたビルの屋上に姿を現すのを待った。 そしてチチが飛び降りるタイミングに合わせて、そこから勢いをつけて跳躍、 落下する体を空中で抱きとめると、その延長上にある向かいのビルの窓に飛び込んだのである。 チチの視界を阻んでいたものは、薄汚れたカーテン。窓に飛び込んだ際、 割れた硝子の破片から守る為、彼女の体をこれで包んだのだ。 「…悟空、さ?」 「良くやったな、チチ」 にかりと笑う悟空に、 チチは眉根を寄せる。泣き出しそうなそれに悟空がぎょっとした途端、 飛びつくように抱きつかれた。その勢いに、思わずおっと…と身をぐらつかせる。 しがみつく腕の必死さに苦笑し、宥めるように手を回すと、 強張ったままの肩が小刻みに震えていた。 気丈に振舞っていても、 悟空を信じていても、何も感じていない訳じゃない。自分の中と意地と勇気を奮い立たせ、 細くて、小さくて、壊れそうな体で、必死に頑張っていたのだ。そんな彼女の精一杯を悟り、 悟空は胸の奥が締め付けられる心地になった。 だが―――まだ、これで終わりじゃない。 チチ。耳元でその名を呼んで。 「立てっか…行くぞ」 しっかりした声にこくりと頷く。 支えられるように立ち上がり、互いの体に異常が無い事を確認する。 「こっちだ」 手をしっかりと繋ぎ、駆け出し、部屋を出て、薄暗い廊下を駆け抜けようとした所で。 「やはり貴様か」 低く響くその声に、ぴたりと足を止める。 細める目の先には、 腕を組んで壁に背を凭れかけさせる、やや小柄で肉食獣を思わせるようなしなやかな姿。 それに悟空は眉を顰め、庇う様にチチの前に立った。 「…ベジータか」 ゆっくりと言うよりも、むしろ慎重な動きで、シルエットがこちらへと近づく。 光の筋に垣間見える獰猛な目は、真正面から悟空を捉え、決して外されることは無い。 「おめえが、フリーザの所にいたとはな」 あそこですれ違ってたから、オラ、 てっきりレッドリボン軍に雇われているかと思ったぞ。 上海に渡来して間もなくの頃、 ブルマの宿泊するホテルへ足を運んだ時の事だ。丁度レッドリボン軍の上層部が、 会合の為にあそこのホテルに集まった日でもある。 回転扉のあちらとこちら。 ホテルの入り口に設置されていたそこで、透明の硝子の壁を間に挟み、 確かに互いは互いを認識した筈だ。 ふん、とベジータは鋭い眼光で鼻を鳴らす。 「あの時は、見事に無視してくれたじゃないか」 「それはお互い様だろ」 尤も、あの場はレッドリボン軍の関係者が、かなりの数でたむろしている状況だった。 下手に何らかのアクションがあっては、互いに得策ではない。 だが、今は違う。 「おめえの事だ、このままオラを見逃す気はねえよな」 「当たり前だ」 仕方ねえ。悟空は好戦的に笑った。最も、彼を見た瞬間から、覚悟はしている。 「チチ、行け」 「悟空さっ」 「ベジータ、良いだろ」 「ギニューの獲物に、 俺は興味無い」 この女の誘拐は、ギニュー特戦隊が引き受けた仕事だ。管轄外の事など、 俺様の知ったこっちゃない。感情の無い無関心な言葉に、悟空はにっと笑う。 サンキュー。そう言いながら、さて…と薄手のコートを脱いで、ぐるりと肩を回す。 判りやすく戦闘態勢を示すその動作に、チチはぎょっとするが。 「これ」 脱いだコートを、ずい、と差し出す。 「チチが持っておいてくれ」 押しつけるように差し出され、受け取る。手にすると、少々不自然に思えるほど、 ずしりとした重みを感じた。 「行くんだ、チチ」 この廊下を突き抜けると、 裏口がある。急いでここを離れろ。 「だども…」 言い募る言葉は、 不意に近づいたあどけなさの残る精悍な顔に阻まれる。その距離のあまりの近さに、 チチの瞳が大きく見開いた。 そして。 「…ご、く―――」 そのまま、 言葉を封じるように重ねられた唇。 極至近距離での酷く真剣な視線に気付き、 チチは堪らず強く目を閉じる。そうすると、唇で感じる熱が更にリアルに感じられ、 かあっと頭に血が上がった。生まれて初めて知った感触に、抵抗も忘れ、 強張った体を戦慄かせる。 温もりがゆるりと離れたと思ったら、 ベジータの視線を遮るように身を乗り出し、今度は優しく頬をすり寄せられた。 骨太の掌がしっかりと首の後ろを支え、温かい吐息と唇の柔らかさを耳朶に感じ、 チチは思わず肩を竦める。 だが、耳元で響いた、がり、とした音に、 はっと目を見開いた。 ゆっくりと離れる悟空の目は、何かを確かめるように、 こちらを覗き込んでいる。ぱちぱちと瞬きを繰り返すチチに、 こくりと言い聞かせるように頷いて。 「頼んだぞ…チチ」 意味を含ませた言葉の強調。微かに開いた唇の間から、僅かにそれが垣間見える。 更に念を押すように、握った拳の親指でゆっくりと自らの唇をなぞった。 チチは顔を真っ赤にしたまま、怒ったようにきっと睨みつける。 最っ低だべ。 言葉には出さず視線で訴えると、そのまま振り切るように走った。 「…下手な小細工しやがって」 忌々しく吐き捨てるそれに、 チチの背中を見送った悟空が振り返る。そして何気ない仕草で、 握った拳をぐいとズボンのポケットへと押しこんだ。 「以前もそうだったな…そして、俺はまんまと出し抜かれた」 俺は同じ手は食わん。 この騒ぎに、もしかしてと辺りをつけて裏をかいたら、矢張りお前だった。 射抜くような彼の視線には、あからさまな敵対心が込められていて、 思わず胸の内で苦笑する。 ベジータ。その道では有名な殺し屋である彼と、 こうして対面するのは久しぶりだ。最後に目にしたのは、日本。 来日していたアメリカの要人護衛の件で、師である亀仙人こと武天老師の手助けをした時だ。 「あん時は、たまたまだって…」 「例えそうであっても、 これはプロとしての俺のプライドの問題だ」 貴様のようなたかが一武術家に無様を曝したとあっては、今後の仕事は勿論、 それ以上にこの俺の気が済まん。 触れれば切れる刃物のような、 対抗心にも似た感情を剥き出しにされ、悟空はまいったなと呟く。戦うのは構わない。 武道を志すだけに、強い男と対峙するのはむしろ望む所だ。 だが、しかし。 「…なあ、おめえ、ブルマには会ったのか?」 気になっていた事を口にすると、 心底嫌そうにベジータは眉間に皺を寄せる。 「貴様には関係ない」 絶対零度の声に動じることなく、ふうん、と返す。で、彼女に同じ事を聞けば、 あちらはあちらで、矢張り同じような返答が返されるのだろう。結局は似た者同士か。 じり、と腰を落として、ベジータは身構える。 「…来いよ」 にいっと吊りあがった唇に悟空も苦笑する。まいったな。こりゃ、こちらも本気でやらなきゃ、 とても敵わねえや。 「貴様とは、もう一度本気でやり合いたかった」 漲る殺気。 それに当てられたように、悟空も笑みを消して身構えた。 空気を振動させるように伝わるプレッシャーに、胸の奥が高揚するのを感じる。 「オラもだ」 ああ、その通りだ。誤魔化すつもりはない。 この男と同じく、自分は闘うのが好きなのだ。 腹部にのめり込んだ靴の爪先に、悟空はぐっと息を詰まらせる。両の手を背後で縛られ、 バランスの取れない体は、勢いのままにどさりと床に倒れ込んだ。 苦しく咳き込むと、喉の奥から熱が迫り出す。嘔吐感に耐え切れずそれを吐きだすと、 目の前が赤く染まった。口の中に広がる、吐瀉物と血の味に顔を歪める。だが、 それで少しだけ、不快感はマシになった。 気管を確保しようと、ゆっくりと大きく息をする。 小さな音と共に、扉が開いた。入ってくるのは、一人分の足音。 「フリーザ様」 その名前に、生理的な涙で滲んだ目を瞬きさせる。 「で、判ったのか」 どこの組織の者か。 「いえ…なかなか強情な奴で」 ふうん。かつかつと靴音が近づき、 真横でそれが留まる。視線だけで窺うと、ぼやけた視界に小柄で色の白い、 何処か蛇を思わせるようなその姿が見てとれた。 切れ長のやけに無機質な目がこちらを見下ろし、 何処か面白そうに細められる。 「…気に入らないね」 黄色い猿野郎の癖に。 笑いを含めた嘲りは、禍々しくさえある。 「ところで、ベジータは?」 「それがあいつ、どっかに行きやがりました」 俺達に獲物を横取りされたって、 えらく怒っちまって。 「そう…まあ、良いでしょう」 所詮はただの殺し屋。 何かの役に立つと思って雇いましたが、彼はやたらと反抗的でしたからね。 まあ、いなくても大して不便はありませんから。 言いながら、 足の裏で転がる体を仰向ける。そして、その胸の上へと足を乗せた。 「最近、 妙に僕達に絡みついている組織がありましてね」 清の軍やら、 レッドリボン軍やら。ただでさえややこしい状況なのに、更に混乱させられて、 実に困っているんですよ。 乗せた足に、ぐいと力が込められる。 見掛けによらない強い圧迫に、みしみしと骨が軋む。それを、 悟空は歯を噛締めて耐えた。 「言うつもりは…無い様ですね」 貴方が何者か。 返事を待つのに、少し足の力を緩めると、悟空は力無く、へへっと笑った。 「…まあ、な」 ふうん。ぬるりとした肌触りの視線が、実に楽しそうに見下ろしてくる。 片方の唇の端を釣り上げると、ついでのようにその頭を、容赦のない力で蹴り上げた。 「っ…か、はあっ」 血を飛び散らせ、肩を震わせ蹲る姿を一瞥して。 「仕方ない」 顎で示すと、背後に控えていたグルドが頷き、何やら準備を始める。 かちゃかちゃと何かが重なり合う音。テーブルの上で繰り広げられるそれは、 床に倒れる悟空の目には見えない。 もっとも、予感はする。やばいかな。 ちらりと頭の隅で思った。 「ボクはね、とっても優しいんだよ」 君達がどう思うと知った事ではないけどね。毒々しい色の唇が、歪んだ笑みを刻む。 「こんなに高価なもの、君ごときの低俗な猿に使うんだ」 むしろ有難く思って欲しいな。 くすくす零れる声は、神経に突き刺さるような禍々しさが含まれていた。 「これが何かわかるかい?」 ぼやけた視界に瞬きしながら、それを確認する。 「…オラ、注射は…嫌えなんだけどな…」 掠れた声で、弱々しく訴える。 抵抗しようにも、鉛のように重い体は全く言う事を聞いてくれない。参ったな、と思う。 こりゃ逃げられそうにねえや。 「高純度のヘロインだよ」 きらりと光る細い針。 「この国では阿片が人気だけど、こうやって精製して使えば、 もっと効率良く効果を得られるんだ」 押さえろ。その声に、複数の腕が悟空の体を抑え込む。 袖をぐいと引き上げられると、フリーザは膝をついて覗き込む。 「まあ、 ショック死しない程度に投与してあげるよ」 だって、まだ一回目だからね。 乱暴に前髪を掴み、顔を上げさせられる。歯を食いしばる顔に、にいっと目を細めた。 「大丈夫、すぐ気持ち良くなるから」 君も、きっと気にいると思うよ。 そう。 二度と抜け出せないくらいにはね。 ぷつりと皮膚を突き刺すその感覚に、悟空は唇を噛み締めた。 next? 悟空さが注射を前にして この程度の反応である筈が無い 2010.01.25 |