ときには泣きたい夜もある





じゃあな。旅行の出発は明日でしょう?今夜はどうするの。
「空港近くのホテルに泊まるだよ」
うわ、ホテルの初夜? 明日に響かないように、程々にしろよ。
「何言ってんだよ」
お土産、期待してるからね。 イタリアかー、良いよなー。
「ほら、タクシー来ただぞ」
仕事は来月の始めだろ。 こっちの方は、俺達で何とかしとくから。
「わりいな、頼む」
帰ったら、連絡頂戴ね。気をつけて行ってこいよ。





「悟空、チチ。結婚おめでとう!」





華やかな身なりの友人達に、二人はにこにこ笑顔を振り撒く。
騒がしい一団は、次々にタクシーに乗って消えていった。全員が居なくなり、 後に残るのは悟空とチチの二人。
途端、二人の顔から笑顔が消える。
疲れたように溜息を一つ、チチは手にあった大きな花束を、ばさりと乱暴に悟空に手渡した。
そのままくるりと背中を向けると、つかつかと足早に歩いていく。
「…チチ」
「これで満足だろ」
冷たくきっぱりとした声は、ひどく刺々しい。悟空は眉を潜めるが、 それ以上は何も言えず、チチの後ろを追いかけた。
「ばっかみてえだ。へらへら お愛想振り撒いて、ご丁寧な挨拶して、高い金出して、こんな茶番だけの式なんて」
「しかたねえだろ」
既に、全部決まっていた事なのだ。第一、 これだけの事がしたいと言っていたのは、チチの方だった。
結婚式場のウェディングパックなんて、 業界の思惑に乗せられているだけのものだけど。それでも一生に一度の事だから、 お世話になった人や、喜んで祝ってくれる友人達に、それなりの礼を尽くしたい。
そう言って、二人で一緒に決めたのだ。
「だからって、なにも二次会まですること無かっただ」
「だから…全部決めた後だったじゃねえか」
「キャンセルすれば良かっただ」
場所が取れなかったとか、後日に回すとか。言い訳なんて幾らでもあったはず。
「でも皆、おら達の為にお祝いしてくれてんだぞ」
わざわざ二次会の司会を、 立候補してくれた友人だっていた。準備や受付だって、快く引き受けてくれていた。
「それが、馬鹿みてえだって言ってんだ」
その誠意を騙しているようで。
足を止め、きっとチチは悟空を睨みつける。


「おら達、離婚するんだぞ」


苦虫を噛み潰したような顔で、悟空は視線を落とした。
これは二人で決めた事。 式を挙げて、新婚旅行へ行って、帰ってきたら離婚届に判を押そう。そう約束したのだ。
本当なら、そんな回りくどい事をするべきじゃなかったのかもしれない。 でも離婚を決めたのは、結婚式の一週間前。式や旅行や二次会の場所の予約も、 キャンセル期日はもう過ぎていた。何より周囲が盛り上がって、 言い出せない雰囲気だったからだ。
馬鹿げているとは判っていても、ささやかながら、それなりに見栄も外聞もある。 結婚を一週間前に控えて、今更無かったことにしたいとは、とても言い出せなかった。
「…そりゃ…そうだけどよ」
離婚を提案したのは、悟空の方だった。
チチに言わせれば、こんな茶番、白々しい事この上なかい。でも悟空なりの体面もあるだろう、 だから承知してここまで付き合った。
でも、それもここまで。
「これで満足しただろ」
式に参加した親戚も家族も仲人もいない、二次会に参加してくれた友人達は帰った。
今二人は、「仲の良い新婚夫婦」を 演じる必要が無くなったのだ。





ホテルに着くと、空き部屋が無いか、フロントに聞いてみた。
残念ながら、今日は満室になっているらしい。連休前でもあり、朝一番のフライトを利用するのに、 宿泊する客が多いようだ。
仕方なしに、最初から予約していた部屋を、 二人で使うことにする。
「…なーんで、スィートなんて借りちまったんだか」
ゆったりとした部屋に入り、 チチは溜息と愚痴を吐く。
広々としたベッドは、嫌味なほどに大きくて、 八つ当たりのように、ハンドバックをその上に放り投げた。
「…シャワー、浴びるか?」
「後でいいだ」
「じゃあおら、先に使うぞ」
「んー」
もう、気の抜けた返事しか出てこない。
とにかく疲れた。肉体的にも精神的にも。
シャワー室の水音を聞きながら、 チチはヒールを蹴飛ばすように脱ぎ、ベッドに腰を下ろし、 ころんとそのまま仰向けに寝転がる。
天井を見上げ、深く息をついた。
何で、こんな事になっちまったんだろうなー。
じわっと涙が出そうになったので、 慌てて目を閉じる。
ちかちかと残像の残る瞼に映るのは、 華やかで幸せになるはずだった、今日の結婚式の情景。
あんなに楽しみにしていたのに、あんなに嬉しかったはずなのに、 あんなに皆に祝福されていたのに。
でも。全部「嘘」なのだ。





チチ。おらだけど、入っていいか?
悟空さ?
近くまで来てさー。 ほら、ケーキ買って来たぞ。
何で…今日は、友達と飲みに行くって言ってたでねえか。
それがさ、そいつ急に来れなくなっちまってよ。
せめて…連絡ぐらい、 先にしてくれても…。
へへ、驚かせようと思ってさ。入れてくれよ。
…今日は…すまねえ、駄目だ。
何でー、式の打ち合わせもしなくちゃ駄目だろー。
わりいけど…今日はけえってけろ。
チチ?何だよ、どうしたんだ。
何でもねえから…おねげえだ。
チチ、おいって…。






何であの日に限って、来たりしたんだろう。
何であの日に限って、連絡をくれなかったんだろう。
何であの日に限って、あの人を家に呼んだりしたんだろう。





最初で最後だったのに。





怯えるような指先が頬に触れるのを感じ、チチははっと目を開いた。
どうやらぼんやりしている内に、うとうと眠っていたらしい。
目の前には、シャワーを浴びたばかりの悟空が、びっくりするほど近くに居た。 寝惚けた頭で驚いて瞬きする無防備な表情に、ふと悟空の目が 切なそうに細められた。
不意に、唇が近づく。
「…なっ」
はっと我に帰り、その意図を察すると、チチは身を引いて腕を突っぱねた。 頬を抑えていた無骨な手を、首を振ることで振り切る。
俯き、唇をかみ締めると、 それ以上悟空は無理強いしなかった。
「…何でだ」
あれから、ずっと繰り返された言葉。
質問の受け口に多少の変化こそあれ、でもその根本に残る疑問は、あの日から全て同じもの。
「…当たりめえだろ」
おめえ、馬鹿じゃねえだか?小さな呟きが洩れる。
「離婚するのに」
別れると決まっている相手と、 今更体を重ねることが出来るものか。
そうする事で、悟空の気が済むならいいとも思う。 でも、違う。
それに、その行為を割り切れるほど、チチも器用ではない。





「じゃあ、あいつとはどうだったんだよ」





「…何度言っても、同じ答えしか出ねえぞ」
半ばうんざりした様に、チチは吐き捨てた。 全ては話した。あの通りの事実しかない。
「そんなの…信じられるわけねえだろ」
きっと睨み上げ、反論しようと口を開くが、結局言葉は押し留められる。 力なく項垂れ、気を落ち着けるように、一つ呼吸した。
「…もう、やめるだ…こんなの」
今日まで、何度も何度も繰り返された押し問答。 結果はいつも同じ空回り。不毛なループは、結局終わらない。
最初に折れるのは、いつもチチだった。それが悟空の不信感を、更に煽るようである。
でも正直、チチにはどうしていいのか判らなかった。
「どうせおめえは、おらが何を言っても信じねえんだろ」
嘘はついていない。 でもそれを信じてくれない。
「それとも、おらがそうだって言えば、 おめえは満足するだか?」
「そんな事言ってねえだろっ」
「じゃあ、なんて言えばええだよっ」
二人、正面から睨み合う。
普段はのんびりした悟空の目に、理不尽さと苛立たしさが込められている。 その奥には、確かに傷ついた悲しみが秘められていたけれど。
「…おめえに裏切られたと思った」
違う。その叫びさえ、既に飽きるほど繰り返されていた。
「全部…話しただろ」
決して言うつもりもなかった秘密まで。 何一つ隠さず、チチは全てを悟空に伝えた。
「だから…尚更、そう思えたんだ」











昔、付き合っている男性がいた。
同じ部署の上司で、妻子持ちだということも知っていた。 不倫している気持ちはあまり無く、何となく流されての関係から始まった。
何やっているんだろう。ずるずるとした関係にうんざりしていて、それでも 妙な情と仕事の上司と部下いう立場が、すっぱり清算するストッパーになっていて。
ああ、このままじゃ、本当に自分が大嫌いになってしまうよな。
諦念めいた 自己嫌悪ばかりを感じる毎日が、ただ淡々と続いていた。

悟空に出会ったのは、そんな時だった。

小さな企画グループで一緒になった。打ち合わせの延長で食事をしたのが、 一番最初のきっかけだった。
仕事が出来ない訳じゃないけど、馬鹿みたいにお人好しで、マイペースで、不器用で。 貧乏くじばかり引いている様子に、傍で見ていて、 怒ることも呆れることもしばしばあった。
でも、何より悟空は誠実だった。
まるで学生の頃の同級生のように、一緒に居てて気が楽だった。変に畏まらなくても、 気を配らなくても、自分を偽らなくてもいい、そんな自然な関係が心地よくって。
ああ、この人と居ると自分が自分で居られるんだ。そう自覚した時、 交際を申し込まれた。
飾り気の無い不器用なプロポーズも、悟空らしくて、愛しいと思えた。 肩の荷が下りたような気がした。素直に「嬉しい」と思うことの出来た、そんな自分が、 以前よりも好きになれるように思えた。


結婚を十日前に控えた日。
悟空と付き合ってから初めて。不倫相手の上司から 「会って話がしたい」とメールを受け取った。


彼を自分のマンションに呼んだのは、これが最初で最後の事。
外で話をしなかったのは、正直、誰にも見られたくないと思ったからだ。
悟空は毎日のように、チチのマンションに顔を出していた。式を目前に、 旅行やら新居のことやら、細かに打ち合わせがあったから。
でも丁度その日は、学生時代の友人と飲みに行くと聞いていた。
彼とチチは、今までの関係の事を冷静に話し合った。そして、今までの二人の関係は、 あえて蒸し返すような事はせず、お互いに口にしないでおこうと約束を交わす。
所詮成り行きで出来た関係だ。悟空と付き合うようになると、連絡もろくに交わしていなかった。 だからそれが一番良いだろうと、チチも同意する。
嬉しかったのは、チチと悟空の結婚を、祝福してくれたことだった。 彼の前で、素直に笑顔を向けることが出来たのは、本当に久しぶりだった。
こうして、逢って話が出来て、良かったと思えた。

その最中に、悟空が来るとは思いもしなかった。











「なあ。おめえはおらの事、聖女か何かだとでも思っているだか?」
「そんな事言ってねえだろ」
お互いに、いい年齢をした大人だ。悟空とて、 過去に異性関係が皆無であった訳ではない。チチが処女でなかった事に 怒りがあるわけでもなければ、聖女の清らかさを求めているつもりも無い。
でも。
「…ショックだったんだ」
馬鹿みたいな独占欲だと自覚はある。
結婚が決まって、あと少しで夫婦になるのに。そんな時期、過去に付き合っていた男を 気安く自宅に呼んで、二人きりになる事に何も感じないチチに腹が立った。
知られなければいい?そんな話じゃないはずだ。
しかも相手の「話がしたい」という言葉を、 何故そんなに容易く信じることが出来るのか。確かに何も無かったかもしれないが、もしかすると、 相手は逆上してよりを戻そうとしたかもしれない。
その上、上司との不倫関係も聞かされたのだ。
ショックを受けない方が、おかしいじゃないか。それが、本気で好きだった相手ならば尚の事。
チチに、潔癖を求めるつもりは無いけれど。
「おらだって…そんなに出来た人間じゃねえ」
何もかも。相手の全てを無条件に許し、 受け止め、包み込めるほどの人格者ではない。
「何で…おらに話したんだよ」
いっそのこと、全てを知らなかった方が良かった。どうせなら、 最後まで隠し通して欲しかった。そうすれば、こんな思いをせずに済んだのに。
「だって、隠せなかったでねえか」
最初はチチも、話そうとはなかった。 でも下手に隠す態度が、逆に一層不信感を生んでしまう。
だから、全てを話した。
ここまで来て、隠し通せるものではないと判ったし、こんなぎすぎすした気持ちのままで、 結婚なんか出来ない。だから、何一つ隠すことなく、全てを悟空に話したのだ。
「おめえは、それを聞いたおらの気持ち、考えなかったのか?」
「でもあのまんま、疑われたままで、おら達は結婚できるか?」


だって。
二人、結婚して、幸せになりたかったから。
だからこそ、全てを話した。


「…なあ…何でだ…」
涙声で俯き、はたはたと膝を濡らす。
本来ならば、幸せだったのに。二人で、祝福された、幸せな結婚をしていたはずなのに。
「何で…こんな事になったんだ…」
「それは…おらの台詞だろ」
悟空は苦々しく答える。
「…そうだな…おらのせいだな」
一つ一つを振り返れば、 全て自分に帰ってくるのかもしれない。どういうことかも考えずに不倫をしていた過去も、 全てを無かった事にしようと彼と話した事も。そして、結局は悟空の信用を得ることの無かった、 自分自身も。
「…でも、おら…おめえと結婚したかった」
そう思った。
「おめえと…本当に、幸せになりたかった…」
この人となら、幸せになれると思った。 この人と一緒に、幸せになりたいと思った。この先、二人で色んなものを見て、 感じて、築いていけるというのなら、それはきっと幸せだろう。


そう思っていたのに。
そうなりたかったのに…。


悟空は少しいらいらしたような動作でガウンを脱ぎ、さっきまで着ていた服に着替えると、 ベッドの傍に置いてあった手荷物を取った。
そして、そのまま部屋の戸口へ向かう。
「悟空さ…」
「…頭冷やしてくる」
振り返りもせず。その顔が見えない。
「おめえも…今日は疲れただろ」
ゆっくり休めよ。残された言葉。閉め切られた扉。





その顔は、最後まで見えなかった。





























長い一人の夜が明けた。
一人でチェックアウトをした時、 フロントはほんの少し不信そうな顔をしたが、 詮索するようなことは何も言わない。
預けていたスーツケースを受け取ると、 がらがら音を立てて、チチは一人ぼっちでホテルを出た。
空は薄曇っている。もしかすると、 雨が降るかもしれないな。そう言えばスーツケースに、折り畳み傘入れてたっけ。 でもすぐバスに乗るし、空港へ着けば使うことも無いか。それにすぐイタリアへ行くんだ、 日本の天気なんて関係ない。
がらがらがら。一人分の足音とスーツケースを引く音。 溜息も一つ。
別に、いいや。
一人だけど、折角イタリアまで旅行に行くんだし、 精々満喫してきてやる。
二人で行きたい場所を決めていた。二人でだったら、 もっと色んなところを回ってみたいって思っていた。
でもこっそり本音は、 ショッピングにもう少し時間が欲しかったんだ。 だけどこれからの二人の生活を考えると、そんなに無駄使いも出来ないし、 悟空は買い物なんて退屈だろうからって遠慮してたけど。
でももう、そんな必要も心配も無い。
思いっきり買い物してやる。美味しいイタリア料理だって、いっぱいいっぱい食べてやる。
もういいんだ、別に。太ったって、無駄使いしたって、何したって。
本当に…もういいんだ。
「一人でだって、充分楽しんでくるだーっ」
空港までのリムジンバスのバス停で、 気合を入れるように、一つ拳を振り上げた。
さて、あとどれぐらいでバスが来るだろう。 時刻表と腕時計を見比べようとした時。
向こうから近づく、一人分の足音と スーツケースを引く音。
何気にチチは顔を上げた。
薄ぼんやりとした朝の空気の中、 大きなスーツケースを引きずるその人は、まっすぐこちらへやってきて、 チチの真正面に立った。
絶句したままチチは見上げる。何で、と唇が動いたが、 言葉にはならない。
やがて、リムジンバスが到着した。


「荷物はこれだけですね」
「ああ、頼む」
「新婚旅行ですか?」
「…ああ」





「結婚したんだ、昨日…おら達」











運転手は、手馴れた動きで二人の荷物をトランクルームに収納すると、バスへと乗り込む。
「発車しますよ」
乗ってください。
いつまでも向かい合ったまま動かない二人に、 声が掛けられた。促され、悟空は数歩乗車口へ向かうが、いつまでもついてこない気配に振り返り、 立ち尽くしたままのチチの元へと一旦戻った。
そして。
その手をしっかりと握って引っ張った。








寄り添うように、乗車して。
バスは、二人を乗せて発車した。







end.




はるか昔に見た深夜ドラマを思い出して
確か、こんなお話を見たような…
2002.12.04







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