ANGELIC TONE
interval





丁度学習も終え、休憩に二人で香りの良いお茶を飲んで。
よく頑張りましたね、今日の安定値は随分上がっていると思いますよ。おおそうか。 なんて会話を、笑顔で交わして。
他に育成にも行かなくてはいけないから、 そう言って教材と育成資料をまとめる女王候補を、名残惜しく 執務室の扉まで送って。
ドアノブにかかった手が、少し固まったまま動かないのを、 どうしたのかな、と思ったところで。


「…のう、楊ぜん」
「はい?師叔」
「えっと…その、来週の日の曜日は、空いておるか?」
「え…多分、空いているとは思いますけど」
「そうか…あー…ならばその日」
「その日?」
「わしと一緒に過ごさぬか?」


これって、デートのお誘いだろうか?





























「のわーっ、寝坊したーっ」
日の曜日、目覚し時計を見るなり、 太公望は飛び起きた。普段のこの曜日なら、もっともっとのんびり目が覚めてもいいのだが。 でも今日は、きちんと早起きして、迎えに行くつもりだったのに。
慌てて着替えてる最中。
ピンポーン。
軽快な呼び鈴の音に、太公望はぎよっとした。まさか、わざわざ 楊ぜんが迎えに来たのだろうか。
そう思って、扉へ脚を進めかけたところ。
「たいこーぼーっ、喜媚とお話するりーっ☆」
「げふうっ」
勢い良く開いた扉から飛び込んできたライバルに、 鳩尾めがけてジャンピングタックルを食らわされた。





落ち着かない。
日の曜日の学芸館の執務室。精神の教官楊ぜんは、 何度も何度も時計に目を走らせた。
今まで幾度となく、楊ぜんは太公望を誘った事がある。 太公望も嫌な顔をせず、湖の森や聖地の公園など、日曜平日問わず、 付き合ってくれていた。
でも、彼から誘われるのは初めての事。
つい顔がほころんでしまうのは、やっぱり嬉しいからなのだろうか。
「迎えに…行こうかな」
あの人は寝坊すけだから、もしかすると、まだ寝ているかもしれないな。 そう思って執務室を出たところ。
「やあ、おはよう感性の教官」
ゴージャスなBGM、何処からかにょきにょき出現し、花開く百合の大群。 積み上げられたスーツケースの横、品性の教官、趙公明が立っていた。
「丁度良かった」
これを頼まれてくれないかな。 差し出されたのは、品性の学習の先週のデータファイル。 今日中に王立研究院へ提出しなくてはいけないのだが、 これから急いで、聖地から少し離れた惑星に出向かなくてはならないらしい。
憂いに満ちたポーズの彼の耳に、楊ぜんの断りの言葉は届かないようだ。





遅れて到着した感性の教官の執務室。急いできたので、上がってしまった息を整えるのに、 扉の前で深呼吸をした。
喜媚は、今朝のようにきまぐれに 太公望の部屋へ来ては、他愛のない話をする時があった。 悪気はないのだろうが、流石に今日ばかりは適当に誤魔化して、そこそこに切り上げる。
呼吸が落ち着いたところで、ノックをひとつ。
「…およ?」
返事はない。
長く喜媚と話していた訳ではないのだが。
もう一度ノックするが、やっぱり返事はない。ドアノブを回すが、 しっかりと鍵がかけられていた。
「…おらぬではないか」
ちゃんと約束していたのに。つきんと胸が痛んだ。
「だあほめ…」
くるりと背を向け、 とぼとぼと学芸館から去ろうと戸口まで来た時。
「よお、太公望殿」
精神の教官、武成王黄飛虎と出くわした。
「…なんじゃ、 日の曜日まで仕事か?」
「品性の教官が、急に出張しちまってな」
その手続きを手伝わされてしまったらしい。
「楊ぜん殿も、品性の教官に頼まれて、王立研究院へ行ったぞ」
随分迷惑そうな顔をしていたがな。その時の彼の様子を思い出し、武成王はくつくつと笑った。





「あれー、感性の教官だっ☆」
王立研究院の入り口カウンター。預かったファイルを 周公旦に手渡す楊ぜんに、喜媚は声を上げた。
「やあ、おはよう」
「学習院にいるんじゃないのっ?」
「どうして?」
「太公望、急いで 学芸館に向かっていたよっ☆」
どうやら喜媚は、太公望は感性の教官に会いに行くと 確信しているらしい。その事に疑問を抱くのも忘れ。
「本当かい?」
楊ぜんは喜媚に礼を言うと、慌てて王立研究院を後にした。





まあ、王立研究院へ行ったのなら、すぐ帰ってくるであろう。
執務室は鍵がかかっていて中に入って待つことも出来ないし、ほんの少しだけ。そのつもりで、 太公望は時間つぶしに公共庭園にやってきた。
日の曜日なので、やはり今日もおかっぱ頭の商人が、露店を出している。 太公望の姿を見ると、やあ、と手をひらひらさせて招きよせた。
「ねえねえ、この間のプレゼント、どうだった?」
喜んでもらえたの?
「うむ…まあ、のう」
良かったじゃないかー。へらへら笑う太乙に、 うむと笑って頷いた時。
「おい、キサマ」
割って入ってくるその声に、 二人は同時に顔を上げた。
「俺の頼んだものは、治したのか?」
拳を向けて睨みを効かすのは、鋼の守護聖、ナタクである。
「ち、ちょっと待ってよ。幾らなんでもそんなに早くは…」
「早くしろっ」
じゃきん、と乾坤圏が向けられて、太乙の雄叫びが轟く前。 巻き添えを食わぬうちにと、太公望はそそくさとその場を離れた。





しまった。
せめて室内で待っていられるように、鍵だけでも開けていけばよかった。 後悔したのは、王立研究院から帰って、自分の執務室の扉の前に立った時だった。
鍵を開けたとて、当然ながら誰もいない。学芸館内をくまなく探すも、 捜し人の姿は見当たらなかった。
もしかすると、怒って寮に帰ってしまったのだろうか。 肩を落として寮へと足を向けようとした時。
「ああ、楊ぜん殿」
精神の執務室から出てきた武成王と、鉢合わせた。
「さっき、女王候補殿が来ていたぞ」
その言葉に、ぱっと反応を示す。
「で、師叔は?」
「ああ、ちっと庭園を散歩して、また来るって言ってたがなあ」
ほんとに、ついさっきなんだけど。
その言葉を聞き届けるより早く、楊ぜんは踵を返した。





大丈夫かのう。
さっさと退散しながらも、あちらで吹き上がる黒い煙を振り返った時。
「どわっ」
何かに足を取られ、ころん、と顔面から転んでしまった。
「うー、何じゃ」
打ったおでこをさすりながら、躓いた原因の元へと視線を向けると。
「何じゃ、夢の守護聖ではないか」
公共庭園の隅、大きな木の根元に寄りかかりながら、 夢の守護聖大上老君は、相変わらず昼寝の真っ最中であった。 今日は天気が良いので日向ぼっこも兼ねてなのか、怠惰スーツは着ていない。
「これ、おぬし」
こんなところで眠っていては危ないではないか。
「こんな所で眠っていて、怪我をするのはおぬしも同じなのだぞ」
その声に、うっすらと夢の守護聖は目蓋を開けた。寝ぼけ眼のまま、 太上老君はほやほやと太公望を見つめ。
「じゃあ、人の少ないところまで、連れていってよ」
何でわしが、そんなことをせねばならんのだ。
そう叫ぶ前に、 ああ、めんどくさいと呟きながら、太上老君は太公望の背中におぶさった。





うわ…。
庭園にやって来た楊ぜんは、その惨状にたらりと汗をかいた。
和やかなはずの、日の曜日の公共庭園。それが、今日はまるで爆弾が 落ちたかのような激しい荒れ具合を晒している。
「さっさとしろ」
それだけ言い残し、 とっとと去ってゆく鋼の守護聖の後姿。それを見送り、彼の立ち去った元へと目を向けると。
「…まあ、何があったのかは想像できますが」
そこには商人 太乙が、無残に転がっていた。この商人と鋼の守護聖が実は師弟関係であることも、 時々激しい喧嘩と言う名の激しいふれあいがあることも、 聖地ではそれなりに有名である。
「あんまり公共の場を荒らすのは、感心しませんね」
それだけを言って、とっとと太公望を探しに行こうとしたとき。
「君、言うことはそれだけかい」
がしっと、足首をつかまれた。
「ち、ちょっと君。雲中子のトコまで連れて行ってよ」
だらだらと流血した顔でにじり寄られ、楊ぜんは深々と溜息をついた。





太公望が来たのは湖の森。いつもは人の少ないここも珍しく、 日の曜日の今日は、数組のカップルを見ることが出来た。
「まあ、ここなら踏まれることも無かろう」
おぶっていた老子を、湖の傍にどっこらしょと降ろす。
うー、重かったのう。こきこきと 肩を鳴らし、老子を覗き込むと。
「…寝てるんかい」
ムカつくのう。
「おいこらおぬしっ」
礼ぐらい言わんかい。胸倉を掴んでかくかくと揺すると、 あー、と間の抜けた声をあげて、のんびりと瞼を開く。
「んー、ありがと」
ふわーっと欠伸をひとつ。こやつ…。
「じゃあさー。お礼にひとつ、 良い事教えてあげるよ」
良い事?小首を傾げる太公望に、夢の守護聖は 眠そうな目を瞬かせながら。
「ほら、庭園に噴水があるのは知ってるかい」
「ああ、あるのう」
「あそこの水面を覗き込むとさ、会いたい人の居場所が判るんだって」
はあ?片眉を吊り上げて変な顔をする太公望に、「じゃあ、おやすみ〜」と、 夢の守護聖は本格的な眠りに入った。





「あれ…居ないのかな」
王宮、地の守護聖の扉をノックするが、いつまで経っても 反応が帰ってこない。
まあ、今日は日の曜日だし、執務室に居なくてはいけない理由も無いか。 地の守護聖雲中子は、日の曜日は私邸の地下にある研究室に 閉じ篭もるらしいとも良く聞く。
よっこらしょと楊ぜんは、 背負っていた太乙を執務室の扉前に降ろした。
「では、失礼します」
ぺこりとお辞儀をして、とっとと向けられる背中に。
「って、君、冷たいねえっ」
「ここまで連れて来たお礼ぐらい頂いても、ばちは当たらないと思いますが」
「怪我人をちゃんと雲中子に引き渡すぐらいの、人情は持ち合わせていないのかい?」
執務室前でぎゃあぎゃあと言い合う二人に。
「おや、雲中子は、おらぬのか?」
声をかけて来たのは、水の守護聖、竜吉公主であった。
傷だらけで座り込む 太乙の様子に、何があったのか察するのは早い。おぬしの所も大変だのう、そう口では 言っているが、目が何処か笑っていた。
「雲中子さまは、不在のようですよ」
「そうか」
今朝早く、守護聖筆頭にファイルを渡されたが、どうも雲中子の物と 間違えて受け取ったらしい。
「あ、もしかすると、玉鼎のところかもなあ」
そう言えば、先日、 母星から届けられた、珍しい書物があると言っていた。 この日の曜日は、それを読ませてもらうのだと言っていた気がする。
「楊ぜん君、そこまで連れて行ってくれるよね」
まさか、か弱い女性に、怪我人を 担がせるような事はしないよね。
にーっと笑う太乙に、楊ぜんは長く息を吐いた。





湖の森を出たところで、光の守護聖、聞仲に出くわした。 どうやら夢の守護聖を探していたらしい。
中で眠っている事を告げると、 うんざりしたような溜息をついた。
「庭園で何かあったのか」
随分酷い有様だったが。
「太乙とナタクの恒例行事だ」
こめかみに指を当てる光の守護聖。 その大きな肩に、「苦労症」の文字が浮かんで見える。
「太乙は大丈夫だったのかのう」
「感性の教官が、地の守護聖の所へ連れて行くのを見たという者がいたが」
夢の守護聖を探している時、庭園に居合わせた者が言っていた。
「そうなのか?」
太公望は目を瞬きさせた。では、と向けられた背中に。
「地の守護聖の所へ行くのか」
「あ、まあ…うむ」
「ならば、すまんが頼まれてくれないか」
これを、地の守護聖に渡してほしい。そう言って、聞仲はファイルを一冊、 女王候補に手渡した。





「君の所も、実に仲がいいねえ」
どこまでも感情のない 口振りで、雲中子は太乙の傷口に消毒薬の染み込ませたコットンを当てた。 地の守護聖の執務室で治療するかと思ったが、「ああ、これぐらい大丈夫大丈夫」 の一言で、闇の守護聖の執務室に置いてある救急箱で治療をする。
公主の言葉通り、地の守護聖は闇の守護聖の執務室で、お茶を啜りながら暢気に本を読んでいた。 いつもは静かで落ち着いた闇の守護聖の執務室も、 これだけのメンバーが揃えば、なかなか賑やかになる。
「では、僕はこれで」
「随分急いでいるんだねえ」
沁みる沁みると 声を上げる太乙にそっぽを向きながら、にやあと雲中子は楊ぜんを見た。
「約束がありますから」
こうしている間にも、太公望は学芸館に戻ってきているかもしれない。 こんな所で時間を食っている暇は無いのだ。
「ところで楊ぜん。女王候補とは仲直りしたのか」
先日の様子を見ていた闇の守護聖としては、弟子を心配しての言葉であったのだろう。 だが、それも場所によりけりだ。この場に居るメンバーの顔ぶれと、 少しばかり配慮に疎かった師匠の言葉に、楊ぜんはぎょっとした。
「あれ、じゃあ約束って、太公望のこと?」
「おぬしら、今日もデートなのか」
「仲がよろしい事で」
「そうなのか、楊ぜん」
え、今日もって、前もしていたの? うむ、公園でばったり会ったことがあってのう。そうか…楊ぜんと太公望が。 あー、成る程、あのプレゼントは楊ぜん君かー。
一気に話題に花が咲く様子に、 楊ぜんは顔を引きつらせた。





地の守護聖の扉をノックするが、反応は無い。
「…おかしいのう」
今日は私邸にでも帰っているのだろうか。ならば、ここに向かったらしい 太乙と楊ぜんは、一体何処へ行ってしまったのだろう。
むう、と眉間にしわを寄せ、何気にファイルの背表紙を見た所。
「…なんじゃ、これ、違うではないか」
雲中子に渡してほしい、 そう光の守護聖に頼まれたファイル。背表紙には、 水の守護聖を示す紋章が描かれてある。
どうやら間違えて渡されたらしい。
しっかりせんか、守護聖筆頭!そう思うのだが、ふと彼の哀愁に満ちた 後姿を思い出した。
まあ、何だ。これだけ個性に満ち満ちた守護聖達を まとめるのもひと苦労だからのう。
仕方ない、と水の守護聖の執務室へ向かい、 その扉をノックした。
しかし。
「…こちらもおらぬのか?」
今日に限って、本当に、何故こうもタイミングが良くないのだろう。自棄気味に ドアノブを回すと、執務室の扉が開いた。
「…お、開いておるのか?」





ぱたん、と水の守護聖の執務室の扉が閉じられたと同時、開かれたのは闇の守護聖の 執務室の扉だった。
「あれー、楊ぜん君、行っちゃうの?」
からかい半分の言葉に。
「だから、急いでいるんですっ」
「照れない照れない」
「太公望によろしくね」
相手にしていられない。楊ぜんはいささか乱暴に扉を閉じた。
とにかく。
随分時間をとってしまった。女王候補も、もう時間潰しは終えているだろう。 執務室の鍵は開けてきたし、もしかすると、室内で待ちくたびれているかもしれない。
早足で廊下を渡り、正面ロビーへと続く曲がり角で。
「おっと…」
「あ、すいません」
ぶつかりそうになって、二人、思わず身を引いた。
「燃燈さま」
「楊ぜんか」
ぺこりと頭を下げて、そのまま立ち去ろうとした所。
「丁度良かった、ちょっと私の執務室に寄ってくれないか」
時間は取らせない。
何だって、今日に限って、こうも人に引き止められるのだろう。ひっそりと 洩らしたつもりの溜息に。
「…何だ、急いでいるのか?」
背に腹は変えられない。
「…はい、申し訳ありませんが」
「そう、か」
ならば仕方ない。燃燈としては、 さほど急ぎの用でもなかったらしい。
「では、悪いが来週中にでも、 私の執務室に来てくれないか」
「判りました」
申し訳ありません。 丁寧に礼をすると、楊ぜんは急ぎ足に王宮を去って行った。





どうやら水の守護聖は、不在というわけではなく、ほんの少し席を外しているだけであるらしい。 執務机の上には湯気の立つティーカップが置かれているし、書きかけの書類も そのままにされている。
帰還を待とうかどうしよう、少し悩んだ所で、執務室の扉がノックされた。
返事をして良いのかどうか戸惑う太公望を余所に、 かちゃりとドアが開かれる。
「…何だ、太公望か」
慣れた様子で中に入ってきたのは、 水の守護聖の異母弟にも当たる、炎の守護聖燃燈だった。
「異母姉さまは、居ないのか」
「あ、うむ。わしも来たとき、扉が開いておって…」
「そうか…ならば、すぐ帰ってきそうだな」
かつかつと室内に入ってくる燃燈に、「そうだ」と手にあったファイルを差し出した。
「すまんが、これを公主に渡してくれんか」
「何だ?」
「聞仲に、雲中子にと頼まれたのだが、どうやら間違って渡されたらしい」
「…ふむ、そのようだな」
「すまぬ、ちとわしは急いでおるのだ」
判った、私が預かろう。ファイルを受け取り、そわそわする 女王候補の様子に燃燈は、ふと思ったことを口にした。
「何だか、お前といい楊ぜんといい、随分忙しそうだな」
ぱっと太公望は 顔を上げる。
「楊ぜんに会ったのか?」
「ん、ああ。ついさっき、そこの角でな」
何だか急いで王宮を出て行ったが。その言葉が終える前に、太公望は執務室を飛び出した。





とりあえず、一旦学芸館へ帰ろう。
武成王の口振りからすると、ほんの少し…のつもりで、女王候補は庭園に行ったようだ。 これ以上下手にうろうろしていると、またすれ違いかねない。
楊ぜんは周りに目をくれることなく、足早に学芸館へと急いだ。 王宮から学芸館への道程は、この公共庭園をまっすぐ横断するのが一番早い。 さざなみの様に密やかにこちらへ送られる視線を、慣れた様子で受け流し、 感性の教官は庭園内を早足で歩いた。
しかし庭内にあるカフェテラスを横切った時、辺りに漂う焼きたての甘い香りに、 楊ぜんはふと足を止めた。
店先に置いてある小さな黒板には、 本日の特別メニューと、焼き上がり時間が記入されている。 見ると、どうやら丁度今、シュークリームが焼き上がったところらしい。
カスタードと、シュー生地の焼ける香ばしい匂いに、想い人がひどく甘党だったのを思い出す。
少し躊躇した後、楊ぜんは店の中へ入った。





王宮から学芸館へ向かうには、この公共庭園をまっすぐ横断するのが一番早い。
さっき王宮のロビー付近で会ったと言うのなら、こうして走って追いかければ、 その内きっと追いつくだろう。
しかし、行けども行けども楊ぜんらしき姿は見えない。庭内へも目は配っていたのだが、 あのやたらと目立つ蒼い髪は見当たらなかった。
到着した学芸館、感性の教官の執務室。
ノックも忘れてドアノブを回し、鍵が開いている事実に笑顔がこぼれる。帰っていたのか?
「楊ぜんっ」
…だが、その姿は執務室内には無かった。
「…おらぬ」
どうなっているのだ?燃燈の言葉では、随分急いでいたらしいので、 まさか遠回りはしないだろう。 寄り道でもしない限り、途中で追い越した訳でも無いとは思うのだが…。
「もしやあやつ、こっちじゃなくて、寮へ行ったのではあるまいな」





「ここのシュークリームは人気あるんだよ」
このカフェテラスのシュークリームは、 焼き上がると同時に売切れてしまうぐらいの人気商品らしい。楊ぜんが 店に入ると、既にぞろぞろと順番待ちの列が出来ていた。
どうしようかと悩んだところ、 その肩を叩いたのは、緑の守護聖、普賢真人であった。手にはちゃっかり、 戦利品であろう、シュークリームの入った紙袋があった。
「君、甘いもの苦手だって聞いてたけど」
玉鼎に。
「…あ、いえ」
しどろもどろと 答えに窮する様子に、緑の守護聖は、ふわりと笑う。
「望ちゃん?」
ぎくりと楊ぜんは表情を強張らせる。
緑の守護聖と女王候補の 仲がいいことは、良く知られている。ついでに言うと、どうも楊ぜんは、この天使のようだと 称される緑の守護聖が苦手であった。
「約束しているの?今日」
「え…ええ、はい」
何となく気まずく、でもとりあえずは頷いた。
「…そっかあ」
本当は今日、これを持って、望ちゃんのところに遊びに行こうと思ってたんだけどなあ。 あちらに向かって呟いて、まいっかー、と向き直る。
「はい、これ」
ぽん、と楊ぜんに手にあった紙袋を渡した。
「…え?」
「望ちゃん、甘いもの好きだもんね」
あげるよ。
二人でどうぞ。 そう告げる笑顔は、酷く切なそうに見えた。





寮の門番に聞くと、今日は教官も守護聖も、ここに訪れていないらしい。
なら一体、楊ぜんは何処へ行ってしまったのだろう。
やっぱり、大人しく 執務室で待っていたほうがいいのかのう。太公望が、再度 学芸館へ足を運ぼうとした所で。
「あ、たいこーぼー」
元気な声に振り返ると、小さな体が胸に飛び込んできた。占い師の天祥である。
この前、寮に杏仁豆腐を持って行ったの、僕なんだよ。 あのね、今日僕、これから天化兄さまに会いに行くんだ。 王立研究院にいるから、迎えに行くんだよー。
はしゃぎながら、無邪気に じゃれついてくる天祥の頭を、太公望はぽんぽんと撫でてやる。
「たいこーぼー、今日暇なの?」
こんな時間、寮の前で一人で居るのだ。そう思われてもおかしくないか。
「いや…ちと急いでおるのだがのう」
言って、つい溜息が洩れてしまう。
「なあに。何か、悩み事でもあるの?」
疲れたような女王候補に、天祥は眉根を寄せる。
「…ねえ、もし良かったら、 占いしてあげようか?」
本当は、日の曜日は占いは休みなのだけれど。 でも、すごーく簡単なのだったら出来るよ。
少し迷った後、こくんと太公望は頷いた。 これだけ探し回っても、なかなか会えないのだ。この際、天祥の占いに頼るのも いいかも知れない。
「じゃ、ちょっとだけ、占いの館に来て」





「…まだ、帰ってきていない」
学芸館へ戻った楊ぜんは、誰もいない執務室に 溜息をついた。
時間潰しに庭園へ行ったというのなら、 幾らなんでも、もう帰ってきてもおかしくない。
それに、こちらに帰ってくる際、 それとなく庭園内に視線を巡らしていたが、太公望の姿は見えなかったように思う。
一体何処へ行ってしまったのか。
「…怒っちゃったのかな」
もしかすると、 いつまで待っても帰ってこないので、怒って寮に帰ってしまったかもしれない。
女王候補を待たせるつもりはちっとも無かったのに、何故か周りに捕まって、 やたらと時間を掛けてしまった。
本当は、一分でも一秒でも、 一緒にいたいのに。約束してくれたこの日の曜日を、ものすごく楽しみにしていたのに。
それを思うと、こうしているのももどかしく、楊ぜんは執務室を出て、寮へ向かった。





「えーっと、何占おうか」
普段占いに使う水晶球とは違い、今日はどうやら ノートパソコンを使うらしい。天祥曰く、占星術とか易学は、 計算が多いから、コンピューターを使ったほうが早いらしいのだ。
「うーむ…では、えっと…探し物、なのだが…」
「探し物?」
何かなくしたの? ちゃんと探した?ポケットとか机の引き出しとか、ゆっくり落ち着いて捜すと、 案外見たと思っていた場所から出てくるんだよ。
「で、何なくしたの?」
「あー、いや、なくしたんじゃなくて」
しどろもどろと口ごもる太公望に、 天祥はますます不思議そうに覗き込んでくる。純真な子供相手では、 下手な誤魔化しも効きそうに無い。
「えっと…その、楊ぜんを探しておるのだが」
「感性の教官さん?」
問い詰められたら何と言ってよいのか判らないが、 単純に天祥はそれで納得してくれたようだ。
「判った、楊ぜんさんだね」
早速、占いが成された。





寮の門番に聞くと、どうやら女王候補は朝寮を出て、ついさっき、 一旦ここに戻ってきたらしい。
誰か訪ねて来ていないかと問うていたと言う事は、 どうやら彼も、こちらを探してくれているようだ。特に腹を立てている様子が見られなかったと 聞いて、とりあえず楊ぜんはほっとする。
でも、安心している場合じゃない。
「何処にいらっしゃるか、判りませんか?」
感性の教官の質問に、門番は、 さあと首を傾げた。
「そう言えば、占い師の天祥さまと、お話されておりました」
お二人で、何処かへ行かれたようですが。その言葉に、ぴくりと楊ぜんは目を細めた。
「でも天祥さまは、今日は風の守護聖さまとお会いになると、おっしゃっていました」
元気いっぱいに確かそう言っていたのを、遠耳に聞こえたらしい。
「王立研究院へ迎えに行くと…そうお話されておりました」
「本当?」
日の曜日は、占いの館は休みになる。まさか、占いの館へ行くことは無かろう。
そう踏んだ楊ぜんは、その言葉を頼りに、王立研究院へ向かった。





「じゃあね、たいこーぼー」
「うむ、すまなかったのう、天祥」
手を振り、分かれ道で二人は分かれた。天祥は、天化の待つ王立研究院へ向かう。
そして太公望は、庭園へと向かった。
今日の占いは、いつものとは違って、 かなり簡単で曖昧だから、当たる確率は低いけれど。そう前置きをしての、 本日の女王候補の占いの結果は、「公共庭園」らしい。
太公望の探し物が庭園で見つかる、とは出なかった。
その代わり、天祥曰く。
「あのねー、たいこーぼーにすごーく会いたいーって人がいるんだ。その人も、今日ずーっと、 たいこーぼーを探しててね。でね、その人は、庭園でたいこーぼーと会えるみたいなんだ」
…なのだそうだ。
多分、随所で聞いた話し振りでは、 楊ぜんもこちらを探してくれているようである。楊ぜんが本当に会いたいと思ってくれているなら、 恐らくは天祥の占いに当たる人物は、感性の教官だと思うのだが。
今日は何度も庭園に来たが、楊ぜんには一度も会えなかった。それでも、天祥の占いを信じて、 もう一度公共庭園内を探し回る。
ぐるりと一周し、見当たらないのでもう一周。 それでもやっぱり見当たらない。
「やっぱり、おらぬではないか」
かくりと太公望は、首を垂れた。
「あやつ…本当にわしに会いたいと思ってくれておるのか?」
そこまで考え、 自分のマイナス思考に太公望は首を横に振る。





王立研究院のロビー。風の守護聖天化は、入り口付近にあるソファーに腰を下ろしていたので、 すぐに見つけることが出来た。
「天化くんっ」
声をかけられ、天化はくわえ煙草で、 楊ぜんを振り向いた。
「楊ぜんさん?」
「天祥くんは?」
前置きも無いその質問に、天化は「へ?」と目を丸くした。
「あー、俺っちも待ってんだけど…」
「来てないのかい」
こくんと頷く天化に、 楊ぜんはがっくりと肩を落とした。天化は訳が判らず、咥えていた煙草をつまむ。天祥と感性の教官が 親しかったという話は聞いていなかった。
何か大事な用事でもあったのだろうか。 なかなか来ない天祥の事もあるし、楊ぜんの気の落としようも気になる。
何かあったんかい?そう質問しようとしたところで。
「天化にーさまー」
飛び込んできた元気の良い声に、二人は同時に顔を上げた。
「天祥くんっ」
太公望師叔は?その声よりも早く。
「あれー、楊ぜんさん、ここにいたんだ」
「…えっ?」
「さっきね、たいこーぼーが探していたよ?」
聞きたかった事を 先に言われ、思わずがしっとその肩を掴む。
「で、師叔は何処に?」
「えっと、多分庭園にいると思うよ」
占いでそう出たから。
「庭園だね、ありがとう」
それだけを言い残すと、次の言葉の暇も与えず、楊ぜんは王立研究院から出て行った。
後に残されたのは黄家兄弟二人。互いに不思議そうに、視線を交し合った。









何だ。何なのだ、今日は一体。
長くなりつつある自分の影を引き連れて、疲れた足取りで、 太公望は歩いていた。
折角ゆっくりできるはずの日の曜日なのに。 折角約束をした日だったのに。こんな時間になってしまえば、たとえ会えたとしても、 一緒に過ごす時間なんて殆どないじゃないか。
第一、楊ぜんは一体どこにおるのだ。
もう一度、執務室に行ってみようか。それとも今日はもう諦めて、寮に帰ってしまおうか。
気持ちまでくたびれて、よいしょと腰を下ろしたのは、 庭園にある噴水の縁。爽やかな水音を聞きながら、ふと、夢の守護聖の話を思い出した。
「そう言えば…」
この噴水の水面を覗くと、会いたい人が何処にいるのか判るとか何とか。
全く、湖の伝説といい、この聖地には妙な話があるもんだのう。 何の気なしに、ひょいと噴水を覗き込む。
そして、波打つ水面を見ている内に、 蒼い影がゆらりと映ったかと思った瞬間。


「太公望師叔っ」














「やっと会えた…」
背後からぎゅっと抱きしめる腕と、蒼い帳と、優しい声。 いきなりの登場に、太公望は目を白黒させる。
「すいません、貴方との約束を破るつもりは なかったんです」
ずっと探していたんです、信じてください。切なそうに耳元で囁かれると、 体温が上昇した。
「あー、怒ってはおらぬよ…別に」
「許して下さるのですか」
許すも何も。約束したのは自分だったし、それに楊ぜんが こちらを探しているらしいことは判っていた。
ちらりと顔を上げると、恥ずかしくなる程の愛しさを滲ませた微笑が すぐ傍にあって、慌てて俯いてしまう。
ふと、楊ぜんの手に握られた 紙袋が目に入った。
「…これは?」
「え?…ああ、緑の守護聖さまに頂きました」
貴方にどうぞ、と。
焦って、慌てて、急いでいたのか。ずっと持っていたのであろう紙袋は、 随分しわくちゃになっている。それに、太公望は小さく笑った。
「せめて、寮まで、送らせて下さい」
名残惜しそうに、抱きしめていた腕を外し、 そう言って、寮への方角へ促した時。つん、と太公望は楊ぜんの袖を引っ張った。
「その…寮で茶を飲む時間ぐらいは、あるだろう…」
「…良いのですか?」
「今日は、その…わしが約束したし」
シュークリームもあるのだし。
「嬉しいです」





「ねえ師叔」
「今度は僕に、埋め合わせをさせて下さいね」




end.




閑話。オールキャストを目指しましたが
途中でそりゃもう、かなり後悔しました
2002.10.15






back