天使にキスを





朝。
柔らかい布団の中、まどろむ意識で頬を撫でる優しい指先に、 太公望は身じろぎをした。
眩しさに皺を寄せた眉間に一つ、柔らかい唇の感触が降ってくる。
のろのろと瞼を開けると、鮮やかな蒼い色彩と共に、こちらを覗き込む綺麗な紫の瞳。 ぼんやりと寝ぼけ眼で瞬きを繰り返していると、 太公望の目が覚めた事に気を良くしたのか、にこりと笑って、 そのまま酷く嬉しそうに頬をすり寄せてきた。
窓から入り込む、朝の光。
彼の背中の翼は、その陽光を受けて、眩しい光を放っていた。





「さて、と」
これで良いか。太公望はカウンターテーブルの上にブラシを置いて、 どうかのう、と彼を覗き込む。高めのスツールに座らせていたので、立っている 太公望と視線が近い。
ゆるくみつあみにされた、鮮やかな蒼の髪。
彼の髪の色はとても綺麗なのだが、外をうろつくには、どうにも目立ってしょうがない。 隠してしまうのは少々勿体無い気がしなくもないのだが、彼を連れて歩く度に かけられる声と、投げられる視線の多さには、流石に辟易してしまう。
そんな太公望の心情を知っているのかいないのか。彼は 今しがた結ってもらったみつ編みの毛先をくるくると指で弄び、そして笑顔を向けた。 どうやら、お気に召したらしい。
つられて笑みを返すと、不意打ちのように頬に唇が寄せられた。
どうにも。
王天君が来て以来、彼はこうして太公望へキスをするのが習慣のようになってしまった。
最初の内は何とか止めさせようと、必死で抵抗していた。しかしどうやっても 止めようとしない彼に、その内根気負けしてしまう。
嬉しそうにキスをする彼を見ていると、これくらいで目くじら立てるのも 馬鹿馬鹿しく思えてきて。
大した害があるわけでななし。どうせ彼にとっては、単純に、親愛の表現なのだろう。 キスの挨拶なんて、海外なんかじゃ別に珍しい事でもないじゃないか。
半ば無理矢理自分に言い聞かせ、結局もう、彼のしたいようにさせていた。


ただ、時々。
ほんとに、たまになのだけど…。


「じゃ、行くか」
そう言って、身を翻そうとした時。
「…これ」
彼は両手首を掴み、太公望が離れる事を許さない。
じっと伺うように見つめる 紫の瞳。はあーっ、と太公望は溜息をついた。
「行くぞ」
だが、彼は手を離さない。 それどころか、ぐいっと引き寄せ腰へと手を回すと、吐息がかかる近さまで顔を寄せてさせた。
その瞳に込められた意を正確に悟り、むーっと太公望は睨みつける。
「もう行くぞ」
当然彼は、腰を抱く腕を緩めない。
「これ」
諌めるような太公望の声。それを判っているのかいないのか、彼は駄目押しのように、 太公望のおでこにこつんと額を当ててきた。
冗談ではない、と怒ろうとするのだが。 間近から見つめられる紫の瞳は真剣で、そして切なくて。
…この、知能犯め。太公望は、諦めたように肩を下ろした。
そして。
彼の頬に、キスを一つ。
ぱっと直ぐに離れると、じたばたと彼の手を振り切って、 さっさと背を向けてやった。
「ほれ、もう行くぞっ」
その小さな背中。 彼はスツールから立ち上がると、ぎゅっと太公望を後ろから抱きしめてきた。
唇を尖らせて肩越しにちらりと見やると、この上なく幸せそうな笑顔がそこにある。
頬を摺り寄せてくる彼に、太公望は大きく溜息をついた。





彼は、時々こうやって、太公望からのキスを強請った。
無視すると、してくれるまで決して太公望を離さない。 そして、悲しそうに切なそうに苦しそうに寂しそうに、じっとその綺麗な色の瞳で こちらを見つめてくるのだ。
結局それに負けて、彼の欲求に答えてしまう辺り、 つくづく自分の甘さに、情けなく思えてしまう。





「最近は、夜をテーマにしたものが多いな」
画商であり、太公望のスポンサーでもある 玉鼎の言葉は、あながち見当外れにはならない。
理由は、当然彼。
太陽のある時間帯には、清らかに存在を主張する白い翼。それが何故か、 夜になるとすっかり姿を消してしまう。
彼は、ちょっとした外出であろうと、 太公望からひと時も離れようとしない。だから、出掛けるのはいつも太陽が沈んでから。 当然活動するのは夜のみになってしまう。それが続けば、夜型の生活になってしまうのも、 仕方の無い事だろう。
「夜のものばかりでは、まずいかのう」
「そういう訳でもないが」
今日は、再来月に開く三人展の打ち合わせも兼ねて、 このギャラリーにやってきたのである。各々の個性のままに作品を展示するのは構わないのだが、 他のメンバーの創作物と一緒ならば、それなりにバランスも配慮すべきであろう。
「最近の作品は、随分良くなってきているよ」
玉鼎は切れ長の目を細め、 展示している不可思議な造形物を覗き込んでいる、あちらの彼へと目を向けた。
「きっと彼は、お前にいい影響を与えているのだろう」
いい影響ねえ。
太公望にはいまいちよく判らない。 珍しそうにギャラリー内の展示物を見回す彼の背中を目の端に入れながら、 太公望は玉鼎の出したお茶をすすった。
「何だったら、スケッチ旅行にでも、 行ってくればいい」
以前は、随分頻繁に出掛けていたのだが、このところ随分間が空いている。
太公望は、うーむと唸り、あちらへ視線を向けた。ああ、と玉鼎は頷く。
「二人で行くといいだろう?」
スポンサーらしく、旅費の気兼ねをしているのかと思ったらしい。
そうしたいのだが、と太公望は腕を組み、至極神妙な顔で、実は、と話を切り出した。
「陽のある時には、あやつの背中に翼が出てくるのだ」
そんな姿であまり外をうろつくのものう。小難しい顔で眉をひそめて見せる。
玉鼎は暫しの間を置いて。
「…そうか」
得心したように、ふむふむと頷いた。
「ならば、あまり外出できないか」
そのナチュラルな反応に。
「…玉、わしの言っとる事が判っておるのか?」
ん?と玉鼎は顔を上げる。
「だから、日中は彼の背中に翼が生えるのだろう?」
ならば、確かに、あんまり日中は出歩けまい。
当然のように返ってくる至極真面目な意見に、太公望は頭を掻いた。王天君のように 最初から本気にされないのも腹が立つのだが、ここまですんなりと納得されるのも、 どうにも妙な気分だ。
ふと。展示物から興味を失せた彼が、太公望の隣のソファーに、すとんと腰を降ろしてきた。
そしてそのままソファーに手をついて、ごくごく当然のように、太公望へと身を乗り出す。 そのまま丸みのある頬に、唇が当てられる寸前。
あまりに自然な動きに、一瞬反応が遅れるが。
「っだあーっ、こっ、このだあほっ」
太公望は近付いた彼の顔を、 思いっきり乱暴に押しのけた。
ここは自宅でもなければ、人目だってある場所なのだ。 流石にそこまで許容出来ず、するつもりも無く。何より、太公望には羞恥が先に立ってしまう。
しかしそんな内心を知るはずのない彼は、普段と違う太公望の反応に、 心底驚いたように目を瞬きさせた。
そして、途端に酷く傷ついたように眉根を寄せる。
そのあまりに悲しそうな顔に、太公望は慌てた。
「ち、違う。そうではなくて…」
だが、はたと驚いたようにこちらの様子を見守る、玉鼎の視線に気が付いて。
「違うのだっ、玉。その、これは…」
わたわたと振る手を、すい、と彼に取られる。
きっと睨んで振り切ろうとするのだが、その前に、彼の耐え切れないほどに切ない瞳に囚われた。
取った太公望の手の甲に唇を当てる。頬擦りして、大切な物のように両手で包んで胸に引き寄せ、 そして改めて捨てられた子犬のような、縋るような眼差しを向ける。
この男のこんな目はずるい。
絶対卑怯だ。
絶句してしまうその横で。
「太公望、私は席を外した方が良いか?」
生真面目に玉鼎に尋ねられ、 とほほと太公望は項垂れた。





道すがら、こちらを見下ろす窺うような視線は感じていたのだが、 太公望はあえてそれをずっと無視する。一度も振り返ることもせず、無言のまま、 引きずるように彼の腕を引っ張って、ずんずん家路を歩いた。
結局、打ち合わせもしていない。何せ、彼があの調子で、太公望の手を離さないのだ。
真面目なくせに天然の入った玉鼎の事だ、絶対妙な誤解をしたに違いない。 それを思うと、太公望は更に気が重くなった。
家の玄関が見える位置まで来て。
思い出したように太公望は、ずっと握ったままだった彼の手を、ぎこちなく外した。
少し戸惑う、離れた指先。少しの間を置き、再び絡めようとする彼の手を、 判っていながら何気なくすり抜け、鍵を取り出す為にポケットに入れる。
玄関の鍵を開けて、中に入ろうとした時、ずっとすぐ後ろにあった 気配がついて来ない事に気がついた。不審に思って、太公望はゆっくり振り返る。 彼は少し離れた場所から、じっと悲しそうにこちらを見つめ、そしてふい、と俯いた。
捨てられた子供のような、そんな様子に太公望はふうと息をついた。
「怒っておらぬから」
彼の前までやってきて、伏せた顔を見上げる。しかしその紫の瞳は、悲しそうな光を称えたまま。
むーっと太公望は、下からそれを睨み上げた。 大体、人前でキスされそうになって、それを止めさせようとするのは、 そんなに酷い事なのか?ああ、もう、どないせ―ちゅ―のだ。
太公望は、盛大に溜息をついて、がっくりと肩を落とした。
そして。
「来い」
ぐいぐい彼の腕を引っ張り、無理矢理玄関に押し込める。きちんとドアを閉じると、 諦めたように呼吸をついて。
とりあえず、キスで悪くなった機嫌ならば…。
ぐいと彼の肩を引き寄せると、爪先立って、その頬にキスをした。
照れ隠しのように、不貞腐れた上目使いで睨みつける。彼はきょとんと目を丸くした。
少しは機嫌も直ったか?そう思った隙に、腰に腕が回されて、こつんと額が重ねられた。
そのまま、拗ねたように、心持ち唇を突き出される。
暫し間近で覗き込まれ。そして、切なそうな光が、そっと瞼に隠された。
…つまりは「そこに」って事か?
太公望は綺麗な顔を睨みつけるが、瞳を閉じた彼には、 当然ながら何の効果も無い。いつまでもそのままの体制は、太公望が行動を起こすまで、 解かれることは無かろう。
そして、結局観念する。





やっぱりこやつ、全部判ってやっているのではないのか?
背伸びをしながら、太公望はひっそりとそう思った。




end.




9900カウントhit、hitomiさまのリクエストより。

いちばんそばに の続き。
 もーあのまま進んでください!(直接的な表現には拘りません)
けど、そこまでは至らないのがcottonさまのポリシーだったりするなら
キスするのが習慣になる、というのでも。

(メールより抜粋)


ち、直接的表現…ぐるぐる…望ちゃん、教え受け?(げふうっ)
すいません。直接的表現以前に、
そこまで話が行きませんでした。てへv(←殴殺)
でもちゅうシーン好きとしては、
書いててとっても楽しかったです。むふふv
hitomiさま、カウント申告、本当にありがとうございました。
そして、期待に添うことが出来ず、
ほんとに申し訳ありませんでした;
2002.05.18







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