子供の頃から、一番身近な存在だった。 いつも一緒に遊んで、いつも一緒に笑いあい、 何でも話し合えて、傍にいて安らげる。そんな心地良い関係がいつまでも続くものだと、 疑問を抱く事無く思い込んでいた。 今までずっと同じだった進路が大学で別々になった時は、 流石に少し寂しかったけれど。でもそれぐらいで、 二人の何かが変わるとは思えない。そう、確かに「二人の関係」に、 何ら変わりはなかった。 だから。 思い詰めたような太公望の口から、同性の恋人が出来たという話を聞いた時は、 かなりのショックを受けてしまった。 おぬしも、気持ち悪いと思うか? 悲しそうに笑った彼に、そんな事は絶対にないと強く否定した。 だって、その時は口にすることは出来なかったけれど。 見た事も無い彼の恋人に、 息が出来ないぐらいに激しい嫉妬心を抱いていたのは、 紛れもなく、自分自身だったのだから。 あの時も。 そして今も。 ハーフとダブルの相関図 <後編> 「どうしたんだよ、太公望」 その絆創膏は。不自然に首筋に貼られたそれを指差され、 太公望は視線を泳がせた。 「あー、虫に刺されたみたいでのう」 引きつった笑顔に、隣にいた楊ぜんがひっそりと溜息をつく。だから、 そんなものを付けたら、かえって目立ってしまうって、あれほど止めたのに。 「…ふうん」 あっさりと納得する姫発の横。 「私、虫刺されの薬、持っていますよ」 良ろしければ使いますか。 邑姜の申し出に、慌てて太公望は首を振った。 「あーいや、大丈夫だ」 「でも…」 「薬は塗ったんですよ」 この絆創膏は、 患部を無意識に掻き毟らない為の予防なんです。 にっこりとフォローする楊ぜんを、 太公望はじろりと睨みあげ、ふんと顔を反らす。 「行くぞ。早くせんと、飯が食えなくなるからなっ」 準備した荷物を手にすると、足音荒く車へ向かった。 「にょほほーっ、まーた連れたぞ」 ぱしゃりと水音が弾け、 折りたたみ式の小さな布バケツに、慣れた手つきで釣れた魚を放つ。 「げっ、またかよ、おめえ」 これで何匹目だ、一体。 ホテルから幾許か離れた、山間のひっそりとした清流の河原。 二人の渓流釣勝負は、どうやら呆気なく決まってしまったようだ。 楽しげに会話を弾ませ、釣り糸を垂らす並んだ後姿を見ながら、 楊ぜんは一足早く缶ビールのプルトップを開ける。 「楊ぜんさんは、釣りはされないのですか?」 セッティングされたテーブルの上で、 野菜を切りながら邑姜は質問する。 「うん、釣りは苦手なんだ」 第一、バーベキューの下準備を、女の子一人に任せられないしね。言いながら、 こっそりと耳打ち。 「それに、師叔には絶対勝てそうに無いだろう」 存外に子供っぽい響きを含んだそれに、邑姜は目を見開いて楊ぜんを見上げ、 そしてくすりと笑った。 あ、やっぱり…。 ビールに口をつけながら、楊ぜんはそっと彼女の横顔を垣間見る。 上手く説明は出来ないのだが、ちょっとした表情とかふとした仕草が、 妙に太公望と被るのだ。彼女の方がきりっとしているし、 てきぱきした動作からかけ離れたようなイメージはあるのだが、 やはり二人は何処となく似ている。 もしかすると、これは所謂、姫発の「好みのタイプ」なのだろうか。 「あーっ、楊ぜんっ」 おぬし、何一人で先に飲んでおるのだ。 布バケツを片手に、ぱたぱたと走り寄る太公望に、楊ぜんはにっこり笑う。 「まだ沢山ありますよ」 クーラーボックスの中に冷えたのが。 「抜け駆けが許せんのだ」 人が折角食料を釣っている時に。 言いながら、ぱっと楊ぜんの手から缶ビールを取り、ぐびぐびと一気飲みする。 「魚は釣れましたか」 「大漁だ」 びしっとVサインをして、 太公望は持っていた布バケツを差し出す。それを覗き込んで思わず、 うわあ、と声を上げた。素直に驚く楊ぜんの様子に、ふふんと自慢げに胸を反らせる。 「すごいなあ、随分釣れたんですね」 でもこんなに沢山、 四人では食べきれないんじゃないですか? 「全部食う気か、おぬしは」 釣の腕前をおぬしに見せてやっただけで、 小さい魚やあまり味が良くない種は、全部逃がしてやるわい。この食いしん坊め。 「で、そっちの準備は出来たのか?」 「大体は」 ほらね、と視線で促した楊ぜんが顔を上げる。 ―――と…姫発と視線がぶつかった。 まともにかち合ったので、 お互い、どうにも誤魔化せない。どうやらまじまじとこちらを伺っていたらしい姫発は、 気まずいような、ばつが悪いような、照れ臭いような、 悪戯がばれた子供のような苦笑いを作ると、ふいと楊ぜんから顔を背けた。 そして、反らした視線のその先に。 「ほら、日射病になるだろ」 ここ、太陽が当たるんだから。言いながら、姫発は傍らに置いてあった彼女の帽子を、 小さな頭に丁寧に乗せてやる。 「すいません…」 「ありがとう、だろ」 謝ることじゃねえんだからよ。快活に笑う姫発に、邑姜も小さく口元を綻ばせた。 その表情に、ふわりと太公望の影が重なる。 好きになる人の傾向が無意識に似てしまうのは、 普通に良くある事だ。 振り返ってみれば楊ぜん自身、自分の気持ちに気がつく前、 気になった女の子は皆、何かしら太公望に似た部分があった。 彼が自分にとっては一番身近な存在なので、そう言う意味で落ち着くからなのかと、 その頃は思っていた。 でも違う。本当は、 無意識の内に、いつも彼の影を追っていたのだ。 「疲れたら、ちゃんと言えよ」 「はい」 姫発は、どうなのだろう。 彼女が元恋人と似ている部分を、彼は自分で意識しているのであろうか。 そして、太公望はどうなのだろう。 やはり好きになる傾向が、 似通ってしまうのだろうか。 自分とは全く違う、 姫発のようなタイプに、心が惹かれてしまうのだろうか。 バーベキューも粗方食いつくし、のんびりと四人で喋っていると。 「そうだ、邑姜。あっちに湧き水の池があるのを知っておるか」 河の向こう側、 流れに逆らって行けば直ぐ見つかる場所にあるのだが。 「あー…そう言えばあったよなあ」 「姫発、案内してやれ」 そう促すと、おう、と威勢の良い声を出し、邑姜の手を取る。 「でも、後片付けが…」 「わしらがやっておくよ」 魚釣りに夢中で、準備は殆どおぬしに任せていたからのう。 「悪ぃな、太公望。後頼むぜ」 「おう、貸しはきっちり返してもらうからな」 忘れる出ないぞ。びしっと指差され、姫発はうへえと顔を顰める。 「覚えてたらな」 「忘れさせるものか」 そう言って二人、 まるで申し合わせたようなタイミングで、ぐっと親指を立てる。 妙に息の合った軽快なそのやり取りに、邑姜はくすくす笑った。 足下に気を使いながらあちらへ向かう、二人の後姿を見送り。 「…さーて。 その間に、こっちを片付けるとするかのう」 立ち上がり、 汚れ物をまとめ始める太公望に習い、楊ぜんも腰を上げてそれを手伝う。 「あのな、水芭蕉の群生地になっておるのだよ」 今二人が向かった、湧き水の池の周辺は。 ガイドブックにも載っていないし、けものみちすら出来ていない場所にあるので、 知っている人など殆どいないかも知れない。でもすごく綺麗な場所で、 意外な穴場なのだ。 「良くご存知ですね」 そんな判りにくい場所の事を。 「以前来た時に、偶然見つけたのだよ」 「…もしかして、姫発くんと?」 さっきの会話から、そんな感じを受ける。 案の定、太公望はあっさりと頷く。そして、何を思い出したのか、 くすくすと笑い声を上げた。 「一昨年…かのう」 ここに姫発と来たのは。確か、丁度リゾート建設計画が浮上し始めた頃だった。 複数ある候補の内の一つであるここに、二人で見物ついでに遊びに来たのだ。 「あの時、もしここにホテルが建ったら、もう一度一緒に遊びに行こうと言っておったが」 会話の流れでのごく些細な約束だった。だけどこうして考えてみると、 姫発はそれを覚えていて、今回ここを選んだのかもしれない。 「へえ…そうだったんですか」 「案外、ロマンチストなところがあるからのう、あの男は」 いかにも、遊んでいるように見えるのだがな。 ふい、と顔を背けた楊ぜんに気付く様子は無く、 太公望は過去の思い出にほくそ笑んだ。 優しささえ感じる、その横顔を横目で一瞥して。 後は一言も発する事無く、楊ぜんは後片付けに没頭した。 空が赤くなる前に、一同は河原を離れる。そのままのんびりと山中をドライブして、 途中で軽食を取り、ホテルについた頃にはもう星空になっていた。 「荷物をまとめておいた方が良いな」 二泊三日のリゾート旅行ももう終わり。 明日ホテルを出たら、その足で姫発は邑姜を一旦病院へ連れて行く予定だ。 だから朝は、少し早めにここを出発しなくてはいけない。 太公望は、自分の荷物をまとめに掛かった。 「結構楽しめたのう」 気軽に足を運べる距離も良かったし、近場にアウトドアを楽しめる場所もある。 ホテル内の設備は殆ど使っていなかったが、今度はそれ目的で遊びに来ても良さそうだ。 「今度は、もう少し人数を集めて、遊びに来ても良いかもしれぬな」 とは言え、姫発が人を呼ぶとなったら、とんでもない人数が集まりそうな気もするが。 「…彼、友人が多そうですからね」 気さくで快活な姫発は、自分と違って、 きっといつも人の輪の中心にいるタイプなのだろう。そういう空気が感じ取れる。 「そうそう、大変だった時があったのだ」 人数を集めて遊びに行く計画を立ててたら、 予想以上に人が集めリすぎて、えらい事になった時があってのう。 楽しそうにその時のエピソードを話し出す太公望に、楊ぜんは小さく息をついた。 何処か嫌な感じのするそれに気付くと、太公望は語尾を細めて言葉を留める。 こちらに向けられたままの広い背中を、ちらりと振り返った。 背中越しでも不穏な空気を感じ取る事が出来るのは、やはり付き合いの長さ所以だろう。 しかし、不機嫌さこそ読み取れるものの、今の太公望に、 その原因がどうにも思い当たらない。 「えっと…疲れたか?」 矢張り慣れない相手と一緒の旅行だし、何かと気を使ったであろう。 気遣う声。それに、軽く楊ぜんは首を振った。 「僕よりも、 師叔の方が疲れたでしょう」 どうだろう。言われて見れば、 そうかも知れないが。 「疲れた顔をしておるか?」 ぺちぺちと頬を叩き、 鏡でも覗こうかと視線を巡らせる。 「姫発くんと邑姜くんに、気を使って」 えっと、楊ぜんを見た。 「わしは別に、二人に気を使ってなどおらぬが」 心底意外そうに瞬きする様子に、楊ぜんは背中を向けたまま、肩を上下させた。 「そうでしょうか」 皆で一緒にいる時ははしゃいでいるけれど、 二人きりになると、妙にこちらにまで気を使う態度を見せるし。 「のう…おぬし、何か誤解しておらぬか?」 太公望としても、無理矢理同行をお願いしたようなものだし、 その点は申し訳ないと思っているのだろう。しかしそのよそよそしい態度が、 今の楊ぜんに過剰な不信感を募らせる。 「楊ぜん?」 伺うように覗き込んでくる大きな瞳をちらりと見て、すぐに顔を反らす。 「…僕が来なかった方が、良かったんじゃありませんか」 冷たい口調に、太公望は眉を潜めた。 「何を言っておるのだ」 だって。 言いかけて、結局妥当な言い回しが思い浮かばず、 楊ぜんは口を噤む。せめてここで、いつもの様に「何を言っておる、だあほ」…なんて、 叱り飛ばしてくれれば良かったのに。でも彼は、何かを飲み込んだまま、 それ以上は言葉を発する事無く、自分の荷物の整理に戻ってしまった。 この人と一緒で、楽しくない訳がない。 ただ今は、知りたくも無かった部分まで知ってしまったような、変な後悔があった。 沈黙のまま各々荷を整理し、それが終わると手持ち無沙汰な、 気まずい妙な間だけが流れる。 「…何処、行くんですか」 太公望が、扉へと足を向けようとしたところで。 「…ジュース、買ってくる」 おぬしも何か、飲みたいのはあるか。 黙って楊ぜんは首を振った。 そうか、と小さく呟くと、太公望は部屋から出て行った。 「あれ…」 「よお」 自動販売機前にあるベンチ。 闇夜に灯る赤い蛍の正体に、太公望は目を瞬きさせた。 「姫発、おぬし何しておるのだ」 こんな所に一人でおって。 邑姜を一人にしているのか? 「んー、ちっと煙草吸いたくなってな」 あいつは今、シャワーを浴びているし。ジュースを買いにきたついでに、 ちょっと一服しているのだ。 「そーゆーおめえはどうなんだよ」 「…わしも、ちと休憩だ」 販売機でお気に入りのジュースを買うと、 姫発の隣、ベンチに腰を下ろし、ぐいっとそれを煽る。その様子を横から見つめ、 姫発は手にあった煙草を咥えると。 「のわっ」 伸ばされた手。指先は細い首元を軽く引っ掻き。 「痛っ」 ぺりっと一気に捲られる絆創膏。 その下に隠された赤い痣を覗き込み、姫発はにやりと笑った。 「やっぱりなー」 これってどう見ても、虫刺されっつー痕じゃねえよなあ。 間近から覗き込んでくる、やけににやついた顔。 その意味を含んだ目に、太公望はぷいっと顔を反らせた。 「そっかー。おまえ、あの彼氏とエッチやってんのかー」 まあ、指摘されたときのお前の朝の反応見てりゃ、間違いないと思ったけどよ。 きししと肩を竦めて笑う姫発に。 「ほっとけ」 大きなお世話だ。首筋に手を当て、露骨な視線から覆い隠す。 真っ赤になった横顔を眺め、姫発は優しく目を細めた。 「良かったじゃん」 しみじみとした声音に、太公望はゆっくりと振り返る。 「良いんじゃねえの。あの色男、優しそうだし」 何だか、俺を見る目がちっと怖いけどさ。 まあでも。 なにより、太公望の事を本当に大切に思っている。それが、この旅行の二日間、 傍から見ていても良く感じ取る事ができた。 「俺さー、結構心配していたんだぜ」 俺ら、あんな別れ方をしちまったし。 とくん、と胸が鳴った。唇を噛み締め、太公望は視線を足下に落とす。 「その…すまんかったのう」 ぽそぽそとした声。ぷっと姫発は吹き出す。 「何だよそれ」 こういうのって、謝る様な事じゃねえだろ。 「しかし…」 ―――わしは最初から、おぬしを裏切っていたのだから。 俯く太公望に、姫発はゆっくりと煙を吐いた。 「…やっぱ、楊ぜんだったわけ?」 少しの逡巡の後、こくりと太公望は頷いた。その華奢な肩を、姫発は肘で軽く小突く。 「何だよ、幼馴染だったんだろ」 さっさと告っちまえば良かったじゃねえか。 そうは言われても、幼馴染だからこそ言い難い事だってある。これが単なる同級生なら、 学校さえ離れてしまえばそれで縁も簡単に切る事が出来る。しかし近所に住んでいて、 家族にさえ顔馴染なのである。あまりにも存在が身近すぎて、 たとえどんなに気まずくなったとしても、今更無かった事になんか出来やしないのだ。 「…最初は、勘違いだと思っていたのだ」 同性を好きになるなんて、 自分でも信じられなかった。 余りにも傍にいる存在だったから、 自分の中で変に勘違いしているのだろう、 もう少し距離でも置けば目も覚めるに違いない。そう思い、 ずっと同じだった進路を変えて、わざと距離を作っても見た。 でも、勘違いじゃなかったのだ。 もしかすると、自分は同性愛者なのだろうか。 ならば自分の性癖に、大切な幼馴染を引きずり込むような真似などしたくない。 そう悩んでいた矢先に、姫発から告白された。そして、自分の不安を確かめる為に、 それを受けた。 だけど、問題は性別ではなかったのだ。 「まあ、何だな…俺も最初は、同じ事考えたもんな」 もしかすると、気が付かなかっただけで、自分は同性愛者なんじゃないかって。 だから、それを確かめる為にも、太公望に交際を申し込んだのだ。 「でも、おぬしはぷりんちゃん好きだったではないか」 それに今は、 ちゃんとした彼女も作っている。 「いやいや、これでも結構悩んだんだぜ」 もしかすると、自分の中の矛盾を誤魔化す為に、 意識的にぷりんちゃんを追いかけていたのかもしれない。 確かにぷりんちゃんは好きだけど、でもこんな風に、 誰か一人を想う事なんて今まで無かったから。 「…姫発」 小さな唇を突き出し、太公望は小さな体を更に小さくして俯いた。 そんな恐縮し切った様子に、姫発はへへっと照れたように笑う。 「俺さあ、全然おめえに優しく無かったよな」 ワカゲノイタリって奴? あの頃は、本当に馬鹿みたいに浮かれてしまっていた。 自分の思いの成就だけが先走ってしまって、相手の事なんかちっとも見ていなかった。 ほんの少し注意していれば、心の揺らぎや食い違いなんて、すぐに判ったはずなのに。 「だからさ、どっちもどっちだって」 おめえがそんなに、気に病むような事じゃねえよ。 「それにさあ。俺、今回お前らと一緒に来れて、すげえ良かったって思ってんだぜ」 別れた元恋人だけど。でも今は、互いに本当に好きな相手が出来て、 そしてこんな風に一緒に遊ぶ事が出来る。それが本当に嬉しかった。 「俺たちさ、別れて良かったよな」 それを経たからこそ、お互い、今は本当に大切な人が判ったのだから。 それを経たからこそ、大切にしたい人に今、優しくする事が出来る。 「…そうだな」 わしもそう思うよ。 降ってきそうな満天の星空の下。 煙草とジュースで、二人は別れと再会に乾杯をした。 最低だ。楊ぜんは、自己嫌悪の溜息をついた。 あの人に僕が八つ当たりするなんて、まるっきりお門違いじゃないか。 判っていたはずだ。自分はただの「恋人役」であって、 あの人は一番気の許せる幼馴染に、それを頼ったに過ぎない事を。 それを納得していたはずなのに、一人で勝手に期待して、一人で勝手に舞い上がって、 一人で勝手に傷ついて、一人で勝手に怒っている。 おまけにあんな言い方までして。 一人になって冷静に振り返ると、 つくづく自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。 彼の姿が脳裏を過ぎる。 悲しそうな顔をしていた。あの人が、無理に連れてきたという負い目を感じて、 こちらに気を使っていたことは、ずっと肌で感じていたのに。 ―――謝ろう。 そうと決まると、素早く身支度を整え、部屋から出る。 足早にエレベーターへ向かい、その下降ボタンを押したところで、 背中に近付く気配に気がついた。 もしかして。勢いついて振り返ると。 「楊ぜんさん?」 「あ…邑姜くん」 ちん、と軽い音がして、 エレベーターの扉が開く。二人は揃って乗り込んだ。 「どうしたんだい、一人で」 「煙草を買いに行くって、出て行ったきりだったので…」 湿った髪には、昼間つけていた髪飾りが外されている。 どうやらシャワーを浴びた後であるらしい。 「楊ぜんさんは?」 「君と同じだよ。ジュースを買いに行くって出て行ってしまって」 エレベーターが停まり、扉が開くとフロントはすぐそこにある。 自動販売機は入り口脇に設置されてあるのだが、 ロビーにもラウンジにも、それらしい人影は見当たらない。 「もしかすると、コートの方の自動販売機へ行ったのかもしれませんね」 確か、テニスコートの傍に、販売メーカーが違う自動販売機が設置されていた。 もしかすると、散歩がてらに、そこまで足を伸ばしたのかも知れない。 「僕が行ってみますから、君は部屋で待っていて下さい」 すれ違いになったらいけないし、夜風は体に良くないですからね。 気遣う楊ぜんの言葉に、軽く邑姜は眉根を寄せた。 「すいません」 では、お願いしてもよろしいでしょうか。丁寧な物言い。 当たり前だが、こんな言い方、師叔はしないよな、なんて思ってしまう。 「何だか私、皆さんにいろいろ気を使わせてしまっていますね」 ―――何だかおぬしには、いろいろ気を使わせるのう。 睫を伏せる彼女に、太公望の面影が重なった。 「…どうしましたか?」 まじまじとした彼の視線に、邑姜は首を傾げた。 「あ、いえ…」 少し迷って、まあ良いか、と口を開く。 「君と師叔がね、 何となく似ているんじゃないかなって思って…」 でも、さっきの丁寧な話し方を見ていると、やっぱり違うのかなとも思う。 だけど、やっぱり似ているようで、我ながら、何だか訳が判らなくなってきた。 「それ。きっと違いますよ」 彼と自分が似ているなんて、今まで言われた事は無かったし、 自分でもとてもそう思えない。雰囲気も、性格も、性別だって違うのだから。 「何ていうか…こう、ちょっとした仕草とかが、ですよ」 それって、もしかして。小さく邑姜は吹き出した。 「楊ぜんさんって、太公望さんの事ばかり、考えているんじゃないですか」 「えっ?」 「だから、私にまで、太公望さんの面影を探してしまうんですよ」 そういうの、恋愛をしたばかりの女の子が、良くやってますよ。 つい無意識に、目に映る何かとの共通点を、好きな人に当てはめてしまっているのだ。 瞳が好きな人を追いかけてしまうのと、同じような感覚で。 「楊ぜんさんって、面白い方ですね」 流石は、 あの太公望さんの「恋人」だけはありますよね。 くすくすと笑いながらの指摘に、楊ぜんは参ったなあと、苦笑した。 さてと。勢いをつけて、太公望はベンチから立ち上がる。 「そろそろ、部屋に戻ろうかのう」 おぬしも、邑姜が待っておるのではないか。 姫発は、あー、と間の抜けた声を上げると、のろのろとベンチから立ち上がった。 いまいち足取りの鈍いその様子に、太公望はにっと笑う。 「あんまり女の子を待たすものではないぞ」 冗談めかした何気の無い言葉に、 姫発は思いっきり咽込んだ。その過剰な反応に、きょとんとする。 「だ、大丈夫か?」 「おっ、へん、っ変な事言うなよなっ」 げほげほ咳き込みながら、何とか落ち着かせて深呼吸する。上がった顔は、真っ赤だった。 「辛いんだぜー、好きな奴と一緒にいてて、手が出せないなんて」 俺、今更ながらマジで、何で部屋を別にしなかったんだろうって、すげえ後悔しているのに。 はあ?と太公望は目を丸くした。その顔に、 姫発はしまったと口を抑える。 暫くの沈黙。 開き直ったように、 姫発は息をついて、かしかしと髪を掻いた。ああ、もう。そうだよ、思った通りだよ。 「…実はまだ、何も手ぇ出してねえんだよな」 邑姜には。 一拍あけて、堰を切ったように太公望は笑い声を上げた。その様子を、 憮然とした顔で睨み付ける。 「何だよ、そんなに笑うところかっ?」 「お、おぬし、何だか可愛い奴だのう」 だってあんなに、 ぷりんちゃんにはセクハラまがいに抱きついたりするのに。 「俺はな、病人に手え出すほど、獣じゃねえんだよっ」 二人で約束したのだ。ちゃんと病気を治そうって。それまでは何もしないって。 第一あれだぜ、肩なんて抱くとマジで華奢で、痛々しいくらいなんだぜ。 自棄気味に吐き捨てる姫発に、太公望は笑い涙を拭う。 そうだな、こやつはそういう男だった。 「おぬし、本当にいい奴だのう」 ちゃらんぽらんの女好きに見えるけど、 律儀で、誠実で、ちゃんと人を思いやる事を知っているのだ。 宥める様に肩を叩く太公望に、姫発はふんっと鼻息をつき、 それから意地悪くにやりと笑う。 「そう言うお前こそ、俺との時の事、 覚えてるのかよ」 「んなっ」 かあっと太公望は、顔を赤くする。 きっと睨みつけて。 「あ、あんなの、早く忘れろっ」 だあほがっ。 判りやすいその反応に、姫発はくっくっと笑う。 これこそ「若気の至り」の笑い話なのだろう。実は太公望と姫発は、 セックスをした事がなかった。 そんな場面も幾度と無くあったのだが、 何せ根本的に肉体に無理がある。怖がり、泣き出してしまう太公望を、 流石に姫発も無理強いする事が出来ず。結局、それが二人の別れるきっかけにもなったのだ。 血気盛んな年頃の二人は、同性という背徳感が笑ってしまうほどの「清い交際」を、 根気良く送っていたのである。 「いい想い出だと思うんだけどなあ」 お互いにちゃんとした恋人がいる今でこそ、こうして笑い話にできるような。 「それに、今の恋人とは、ちゃんと出来ているんだろ?」 あの頃、 太公望はそんな自分を酷く責めて、悩んでいた。行為に対する意識に、 何か欠陥でもあるのかと、思い詰めていたほどだ。 でも、今なら判る。 つまり結局のところ、セックスが怖かったんじゃない。姫発や楊ぜんに対する罪悪感が、 行為に踏み切れずにいたのだ。 「こんなもんまで作っているんだからな」 全く、お盛んな事で。 ちょいちょいと太公望の首筋、 赤いキスマークを指先で突つく。それに、ぎくり、と太公望は身を竦ませた。 「…違う」 「えっ」 一度俯いた顔が、ゆっくりと姫発を見上げる。 その目は微かに潤んでいた。 「違うのだ…これは」 「太公望?」 どうしたんだよ、おめえ。泣き出しそうな太公望に、姫発が身を寄せた時、 人の気配に二人は同時に顔を上げた。 その先にいたのは。 「―――楊ぜん」 驚いて姫発から身を離し、目に涙を溜めたまま、太公望は鼻を啜った。 「お、おぬし、迎えに来てくれたのか?」 瞬きをして涙の予感を振り払う。 そんな彼に楊ぜんは大股に近づくと、強い力で細い手首を掴んだ。 「よ、楊ぜん?」 そのまま強引に、その場から連れ去るように腕を引かれ、 訳も判らずおろおろと姫発を振り返る。そのささやかな仕草に、 紫の瞳が凶暴に細められた。 ぐいっと肩を抱き寄せられる。 怒ったような紫の瞳が近付いたと思った瞬間、唇が重ねられた。 昨日のものとはまるで違う、熱の篭ったそれに、太公望は思わず強く目を瞑る。 長い間を置いた後、漸く開放された時には、呼吸が上がってまともに喋る事さえ出来なかった。 怒鳴りつけてやりたくて睨みつけるが、間近から覗き込まれる綺麗な顔は酷く苦しげで、 逆にこちらの気が削がれてしまう。何なのだ、一体。 楊ぜんは、太公望をしっかりと胸に抱くと、挑むような視線を姫発へ向けた。 「この人は、もう貴方のものじゃない」 「楊ぜん?」 もう後は、何も言葉を発する事無く、引きずるように太公望を連れて、その場を離れた。 部屋に入ると、ようやく握り締められていた腕を開放された。そして開口一番。 「彼にはもう、恋人がいるんですよ」 可愛らしい、女性の恋人が。 痛みに腕を擦りながら、太公望は訳も判らず瞬きを繰り返す。何をそんな、 今更な事を言っているのか。そのぽかんとした様子に、楊ぜんは苦々しく目を細めた。 「随分、いい加減なんですね、あの男は」 彼女を置いて、元恋人と密会ですか。 どんなに嫌な奴でも、気に食わない奴でも、この人が好きになった相手だから、 きっとそれだけのものは持っているに違いない。そう自分に言い聞かせていたが、 どうやらとんだ見当違いであったらしい。 「違う、楊ぜん。勘違いするでない」 勘違い?はっと楊ぜんは皮肉な笑いを返す。 「何ですか、それ」 貴方はまだ、彼を庇おうとするのですか。 「あの男はね、貴方を振ったんですよ」 貴方を振って、 そしてさっさと女の恋人を作ったような、そんな男なんです。 もしかすると貴方の事だって、単なる物珍しさか趣向を味わう、 気紛れな遊びだったのかもしれない。 含めるような楊ぜんの言葉に、太公望は首を振る。 「おぬしは誤解しておる。あやつはわしのことを、 本当に好いていてくれたのだ」 切なげに眉根を寄せるその顔に、 楊ぜんはますます苛立つ。 「もしかして貴方は…まだ彼が好きなんですか?」 一瞬だけ見えた、傷ついたような泣き出しそうな太公望の表情に、 楊ぜんは攻撃的に片目を細めた。ああ何だ、そうか。やっぱりそうだったのか。 まあ、最初から、判っていましたけれどね。 だけど、なぜこんなにも胸が苦しいのだろう。 「違う…違うのだ、楊ぜん」 「わしは…おぬしと一緒にいたかったのだ…」 だからこうして連れて来た。 本物の恋人なんかじゃないけれど、 少しでも、その気分だけでも味わえるかもしれないから。恥かしくて、 照れ臭くて、勇気が無くて、どう言ったらいいのか判らなくて。 こんな理由でもなければ、一緒に旅行へ行こうなんて、とても言い出せなかった。 だから。 「…すうす」 それって、つまり。 信じられない、と見開かれた彼の瞳がいたたまれず、ぷいと太公望は背中を向けた。 その頑なな仕草に、楊ぜんは今更ながらにうろたえる。 「師叔…ねえ師叔、こっち向いて下さいよ」 小さな背中は、反応を返さない。 「師叔」 肩に手をかけるが、身を引いて、振り払われてしまう。 行方の無くなった手を引っ込め、どうして良いのか判らず、 楊ぜんはおろおろと太公望を伺う。 そして、今更ながらに、 肝心な言葉を伝えていなかった事に気がついた。 「…僕、師叔が好きです」 今まで、言えなかったけれど。でも。 「ずっとずっと、貴方の事が好きだったんです」 細い肩が、ぴくりと震える。言葉はちゃんと、彼の耳まで届いたようだ。 そおっと身を寄せる。今度は振り切られる様子が見えないことを確認して、 くるりとしたつむじに唇を寄せた。髪にキスをして、こめかみにキスをして、 赤く染まった耳朶にキスをして。 そしてゆっくりと、こちらを向かせる。 俯いて唇を噛み締める、真っ赤になった幼顔。その丸い輪郭を丁寧に両手で包み込んだ。 「キスしても、良いですか?」 真剣で切ない瞳に覗き込まれ、 気恥ずかしげに太公望は楊ぜんを睨む。 「…さっきなんか、 いきなりしたではないか」 だあほめ。 「今度は、 ちゃんと恋人としてのキスです」 いいですか? もう一度念を押すように尋ねると、太公望は視線を少しさ迷わせた。 そして意を決したように顔を上げると、楊ぜんの肩に手を乗せて、つま先立つ。 さっきはあんなに乱暴だった長い腕。 でも今は、切なくなるほど優しく、背中を包み込んでいた。 「じゃあ。とりあえずは、ここまでだな」 パーキングエリアの喫茶室でコーヒーを啜りながら、 ぱたんと姫発はガイドブックを閉じた。 「俺と邑姜は、このまま病院に行くから」 「わしらはもう少し、ドライブして回るよ」 まだ陽は高いし、時間もあるし、すこぶる天気も良い。折角遠出したんだし、 このまま帰るのも、何だか勿体無いからのう。 「あ、じゃあ、これやるよ」 これから先は、何度も通った道だから、もう迷う事は無いだろう。 姫発は持っていたガイドブックを、太公望に手渡した。 「じゃあ、道に迷うなよ」 「それはこっちの台詞だっつーの」 「邑姜くん、気をつけてね」 「楊ぜんさんも、運転、気をつけてくださいね」 「またな、お二人さん」 「手術が終われば、見舞いに行くからのう」 「ありがとうございます」 「あ…姫発君」 名前を呼ばれ、ん?と小首を傾げる姫発に。 「昨日は、悪かったよ」 素直な謝罪に、へえ、と姫発は目を丸くした。 そしてにやりと悪戯小僧のような笑みを浮かべると、拳でとんとん、 と楊ぜんの肩を軽く小突く。 「じゃあな」 歯を見せてにかっと笑い、 軽く手を振ると、じゃれるように隣、邑姜の肩を抱き寄せる。 そして、振り返る事無く、二人は喫茶室を出ていった。 窓の向こうに見える駐車場、見慣れた4WDが走り去るのを見送りながら。 「感じの良いカップルですよね」 「調子良いのう、おぬし」 「始めてあった時から、そう思っていましたよ」 別に調子良く、 適当に言っている訳じゃ無いです。そう言い切る楊ぜんに、 どうだかのうと呆れながら、残ったコーヒーを飲み干した。 さて。 「じゃ、そろそろ僕達も行きましょうか、師叔」 「うむ」 椅子から立ち上がると、当たり前のように差し出された大きな手。 顔を上げると、優しい笑顔が待っていた。 そのまま握ってやっても良いのだけれど。 でも、何だか彼の意に沿うのが、妙に癪に思えてしまって。 「うりゃっ」 「わっと…」 幾分自分より位置の高い肩に手を乗せ、ぴょんと背中に飛びついた。 楊ぜんが笑いながら、軽い体を背負い直す。 「さあ、わしを車まで運ぶのだ」 「はいはい」 しっかり掴まっていて下さいよ。 ぎゅっと首に抱きついて。 気付かれないように、こめかみに唇を寄せる。 晴れ上がった空の下。 二人の車は、彼らとは違う道へと走り抜けて行った。 end. 発邑は微笑ましくて好きなのです 2003.10.08 |