雨の日に天使をひろう





雨の日に拾った。





ずぶぬれだったから。あんまり寒そうだったから。
だから太公望は少し傘を傾けてやった。
「おぬし、随分と寒そうではないか」
彼は答えない。もうすぐ日も暮れようという雨の夕暮れ。彼は足を前に放り出し、 雨に濡れた道路の上、呆けたように座り込んでいる。
ただその紫水晶の瞳は、反らされる事なく、不思議なものでも見るかのように こちらに向けられていた。
「何故、こんなところに座り込んでいる」
答えはない。
しゃがみこみ、視線を同じ高さにした。
「傘は持っておらぬのか」
つう、と端正なその顔にしずくが伝った。
お互いがお互いを、暫し無言で見つめている。
だがこのままでは、いつまで経っても埒も無い。どうしようか。 ふうと息をついて立ち上がろうとした太公望の手に、そっと彼の指が絡んできた。
長い指先は、太公望を引き止めるというよりも、もっと戯れに近い気がした。 だが無下に外すには、冷えたその温度に躊躇われて。
まいったな。じっと彼を伺うと、紫の瞳が眩しげに細められた。
「聞きたいが」
ぱちぱちと瞬きする。
「その翼は、本物なのか?」





彼の背中には、白く美しい翼が生えていた。





全身濡れそぼった彼を奥の風呂場へと直行させた。
「服は貸してやるから。冷えた体を温めよ」
バスタブに湯を満たして、ぽんとバスタオルを渡す。しかし彼は何をするわけでもなく、 ただぼんやりと手にあるバスタオルを眺めているだけだった。
ふう、と息をつく。
「しかたないのう」
がりがりと頭を掻いてから、彼の服を脱がせてやる。今気がついたが、なんとつい先ほどまで あったはずの、背中の翼はいつの間にか消えていた。
「おぬし、翼が消せるのだな」
背後に回り、翼の生えていた辺りをまじまじと見つめる。
「見間違いでは…なかったしのう」
なでなでと確かめるように、逞しい背中、翼の生えていた辺りを撫でてみる。
それに彼は振り返り、じっと太公望を見下ろした。不思議そうな目に、 太公望はぱっと手を放す。
「ああ、すまん」
ぱちぱちと瞬きしたその様子がおかしかったのか、彼はにっこりと笑った。
きょとん、と太公望は目を丸くする。
「…ちゃんと、笑えるのだな」





無理矢理風呂場に押し込めると、問答無用で湯の中に体を沈めさせる。
その横で太公望は腕まくりをし、ズボンの裾を膝が出るまで折り曲げた。
「ほれ、体が暖まったらここに座れ」
スポンジに泡を立たせて、太公望は彼の体を洗ってやる。


「綺麗な髪をしておるのう」
「染めておるのか?それとも翼をもつ者にとっては、何てことない色なのかのう」
「だが風呂の中では、ちっと邪魔じゃ」
「しかし、いいガタイをしておるな」
「む。別に羨ましくなんかないぞ」


彼は何も答えない。ただ黙って太公望のされるがままになっていた。
口が利けないのかもしれない、とも思う。それともこちらの話していることが判らないのか。
でも、時々こちらの様子を見ては、柔らかく笑う。それにつられてこちらも笑ってしまう。
「なあ、おぬし。なんであんなところで雨に濡れていたのだ?」
勿論答えはない。
「ま、よいけどな」
体を洗ってやり、ついでにその綺麗な青い髪を洗ってやる。
「顔は自分で洗えるだろう」
立ち上がり、太公望は風呂場から出て行こうとした。
が、ついとその手を取られてしまう。
「なんじゃ」
男らしい眉根が、心細げに寄せられている。すがるような眼差しに、太公望は苦笑した。
「おぬしの着替えを取ってくるだけだ。別に居なくなったりはせぬよ」
捕らえる手を、やんわりと外させて、身を屈めて紫の瞳を覗き込んでやる。
納得したのかどうかはよくわからないが、彼は少し視線を落として、促されるままに バスタブの中に身を沈めた。





「しまったのう。わしも一緒に風呂に入ればよかったわ」
風呂場から出て、彼に とっては少々小さめの太公望の パジャマに着替えると、濡れた髪を拭きながら小首を傾げる。
そのまま、 インプリンティングされたひよこのように、とことこと太公望の後をずっとついてまわった。
「何か飲むか?それとも腹が減っておるかのう」
ちゅーても、わしは料理なんてできんのだがのう。
からからと笑って、冷蔵庫の中を覗き込む。彼はその背後について来て、一緒になって 中を覗き込んだ。
案の定入っているのは、ビールやらバターやらジャムやらマヨネーズやら。 なければ困るが、あってもそれだけでは満たされないようなものばっかりで。
「むー。何もないのう」
とん、と背中に彼がぺったりと体を預けてもたれさせてくる。む、と顔を上げて目が合うと、 にこりと微笑まれた。
「なんだか、懐かれたようだのう」
はにかむように笑った。
結局インスタントのカップスープを、湯とミルクで溶いて温めてやる。
ついでとばかりに、隅っこに転がっていたコーンの缶詰も放り込み、浮き実代わりに クラッカーを乗っけてやった。
彼はそれをおいしそうに口にした。





「わしはな、これでも一応絵で食っているのだ」
部屋の隅に置かれてあった幾枚かの絵。
テーブルの上に散乱している画材道具を珍しそうに眺める彼に、太公望は胸を張った。
「ま、貧乏からは、なかなか抜け出せんがな」
にょほほと笑いながら、散らかったそれらを部屋の隅にかためてスペースを空ける。
「生憎客間などという贅沢なスペースは、我が家には無くてな。 ちと悪いが、ここで我慢してくれ」
よっこいせ、と一組の布団をクロゼットから取り出す。
この部屋は、アトリエ兼プライベートルームになっていた。
自分のベットのすぐ隣に、彼が眠るために布団を敷いてやる。
「連れてきたのはわしだしのう」
夜も更けてきて、まさかこのまま彼を放り出すわけにも行くまい。
ぼんやりとこちらのする事を眺めている彼の手を取り、ぐいぐい引っ張って、 布団に横にして寝かせた。
「何だか手のかかる子供みたいだのう、おぬしは」
くすくす笑い、上に掛けてやった布団の上から、ぽんぽんと叩いてやる。
「ゆっくり、休むとよいよ」
そう言うと、電気を消して、隣の自分のベットに潜り込んだ。





ほんの少しの間。
ぎしり、とベットが軋む。
「む?」
閉じていた目を開けて擦る。部屋の中は電気こそ消しているが、外から差し込む 街頭の明かりで、真の闇は作らない。
シルエットが動く。
「…なんだ、眠れんのか?」
ぼんやりとした声をかける。
「…って、おぬし…」
彼はもぞもぞと太公望のベットに身を滑らしてきた。
そしてその大きな手で撫でながら、太公望の存在を確かめると、 ほっとしたように息をついて、ぎゅっと抱きしめた。
「わあ…って、おいこらっ」
一度太公望を抱きしめると、安心したように目を閉じる。 そのまますう、と体の力を抜いた。
まもなく、健やかな寝息が太公望の髪をくすぐる。
中身そのままの 小さい子供だったら、抱きしめて一緒に眠ってやるのだが。
これじゃ抱きしめられているのは、 この体格差から言っても、まるでこちらの方である。
「…しかたないのう」
もそもそと体の向きを代え、収まりのよい場所を見つけると、 ふうと息をついた。
「ま、いっか」
すやすやとした 彼の寝息につられ、すぐに眠りはやって来た。





朝、太公望は目を覚ます。隣には暖かいぬくもり。
そこには昨日のまま、無防備な寝顔を朝日にさらす彼が居た。
「おとぎ話なら、ここで姿は消えておるのだがなあ」
どうやらおとぎ話ではないようだ。肘で半身を起こし、ずっと抱きしめていたのであろう 彼の腕を、起こさないようにゆっくりと外した。
そしてその顔を覗き込む。
しばしの間、ただそうやってぼんやりと見つめていた。 だが「そのこと」に気がつくと、太公望はベットの脇に転がっていた 鉛筆とスケッチブックに手を伸ばした。

気配に、やがて彼も目を覚ます。
眩しげに瞬きを繰り返し、乱れた髪のままで顔を上げた。
そしてそこにいる太公望と目が合う。
「ああ、起きたか」
ベットの端に腰を下ろしたまま、さらさらと スケッチブックに鉛筆を走らせている。もうすっかり覚醒した太公望は、 まだ目覚めきらない頭のままの彼の様子に、くすくすと笑った。
「おぬし、綺麗な顔をしておるのう」
言って、鉛筆の先で、ちょいちょいと 彼を示す。
「それ、やはりよく似合っておるわ」
自分を指されて何の事か判らず、きょろきょろと視線をさ迷わせる。
びりっと太公望は、書き上げたスケッチを破いた。そして、ほれ、と手渡す。
「これだよ」
そのまま手を伸ばすと、彼の背中に手を触れた。
「陽のあるときしか出ないのか?もしかして」
彼の背中には、真っ白い翼があった。
小さな手でしなやかな羽根を撫でられ、彼は 小さくそれを震わせる。
「ならば、おぬしは誠に天使かも知れぬのう」
くすくすと笑いながら言う太公望につられ、彼もにこりと笑った。
そして手渡されたスケッチを見る。





そこには清らかな寝顔の、翼をつけた彼が描かれていた。




end.




おち?ございませんとも。
2000.11.29.







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