各駅停車の駅から、徒歩八分。ベージュの壁が落ち着いた、新婚からファミリー層が住居している、 閑静でこじんまりとしたマンション。


企業戦士が日々の疲れを背負い、 今夜もマイホームへと帰宅する。





Home Sweet Home





「ただいまー」
疲れた声でネクタイを緩めながら、太公望は靴を脱ぎ、玄関を上がる。 すぐさまぱたぱたと寄ってくるのは、奥様の足音。
「お帰りなさい、師叔ー」
帰ってきた旦那様へ諸手を広げ、その逞しい胸にダイビング…というのも、 新婚ならではの微笑ましいショットなのかもしれないが。
「どわあっ」
しかし如何せんこの奥様、旦那様よりも遥かに体格が良すぎる。
覆い被さるように力強く抱きしめ、ぐりぐりと頬擦りすると、 そのまま襲い掛かるように濃厚な「お帰りなさいのキス」を、これでもかと繰り返した。 今日一日外回りの仕事をさせられて、心身ともに疲れ切った旦那様に、 最早抵抗する体力は残されていない。
「今日もお仕事、お疲れ様です」
色んな意味でぐったりした小柄な旦那様を横抱きに、奥様楊ぜんはそのままキッチンへ向かう。
「今日は、師叔の好きな、豆腐ハンバーグを作りましたよ」
凄く美味しく出来ましたから、 いっぱいいっぱい食べてくださいね。
一日会えなかった寂しさを埋めるかのように、 キスの雨を降らせる奥様に、脱力する旦那様に抵抗は見られなかった。





奥様の愛情が込められた夕食を済ませ。食後には、手作りの桃デザートと、 旦那様の健康を慮った薫り高いハーブティ。
それらをそれなりに美味しく平らげて、 のんびり新聞を広げる旦那様に。


「ご飯、美味しかったですか?」
「デザートは、新作だったんですよ」
「今日ね、 この前開店してた、あのお店に行って来たんです」
「それでね、可笑しかったんですよー」


和やかなそれらに返されるのは、「あー」とか「うー」とか、 唸り声だか返事だか判らない間延びした声。
それにちょっと眉根を寄せながらも、 健気な奥様は笑顔を絶やさず、ここぞとばかりに。
「ねえ師叔、 今夜は一緒にお風呂に入りましょうね」
「やだ」
新聞を眺める視線を外す事無く、 きっぱりとした即答。どうやら、ちゃんと話は聞いていたらしい。洗い物を終えて、 エプロンで濡れた手を拭いながら、旦那様の寛ぐソファーに歩み寄り。
「えー。 お背中流しますよ」
頑張って働いて帰ってきた旦那様に、サービスしますよ。それに、ほら。 僕今日ね、変わった入浴剤、いっぱい買ってきたんですよ。
にこにこ笑顔で隣に腰を下ろす奥様に、旦那様は露骨に顔をしかめた。
「おぬし、 自分のした事を覚えておるのか?」
先日、背中を流すからと言って一緒に入って、 自分がわしにした事を。
「結構盛り上がりましたよね」
師叔も気持ち良かったでしょう?
「だあほっ」
へらへらした阿呆面に、ぺしっと読みかけの新聞を叩きつける。
ひどいなあ。 ぶつぶつ言いながらも、その顔は綺麗な笑みを絶やさない。そのまま、 すとんと隣に腰を下ろした。
「だって、少しでも師叔と一緒にいたいんですもん」
しなだれかかるように、ことんと旦那様の肩に頭をもたれかけさせながら。
「僕…師叔とずーっと一緒にいたかったから、結婚したんですよ」
朝も、昼も、夜も。 大好きで、離れたくなくて。一緒に暮らせばずっと一緒だと思って、独占できると思ったから。 だから結婚したのだ。
ちらりと視線だけを向け、拗ねたように唇を尖らせる。
毎日仕事に出かける旦那様を見送って、家事をするのは構わない。でも、 心待ちに帰宅を待っても、当の旦那様はこんなに酷くつれないのだ。
「僕…寂しいです」
そりゃあ師叔は仕事があって、こちらは専業主婦で。一日中一緒にいれないのは仕方なかろう。 でも、折角作った手の込んだ料理に「美味しい」の一言も言ってくれない。 仕事で疲れているのは解るけど、だからってこれじゃあ余りにも素っ気無いじゃないか。
「これじゃ全然、新婚夫婦らしくないじゃないですか」
駄々をこねるように、 ぐりぐりともたれた肩に額をこすりつける。犬が甘えるようなその仕草に、 ふうと太公望は溜息を付いた。
「…では、所謂新婚夫婦とやらは、どんなものなのだ?」
宥めるようにその頭に手を乗せると、奥様はにこりと笑った。


そりゃあ、もう。
朝はお互いのキスでお目覚めして。お出かけのキスは勿論、 お帰りなさいのキスだって忘れない。
裸エプロンの奥様に、 旦那様がぺろりと捲って悪戯して。
「もう、恥ずかしいからやめてくださいよ」
顔を真っ赤にした奥様が文句を言うと。
「何を今更、恥ずかしがっておるのだ」
なーんて言いあって。そのままラブラブいちゃいちゃから、スムーズにベットに雪崩れ込み。 押し倒すのは、勿論奥様。
甘いひと時の余韻でベットに脱力する奥様に、 旦那様が優しくキスなんかしてくれちゃって。
「もう…」
なんて拗ねた目で見上げてこつんと胸を叩くと、宥めるように旦那様が、 ちゅっとほっぺにキスしてくれて。
「愛しておるよ」
とか耳元で囁いてくれちゃったら、 その場で速攻もうワンラウンド突入。ええ、「もう今夜は寝かせませんよ」な勢いで。


何やら妄想と思い込みが入り混じった、楊ぜんの主張する「新婚夫婦像」に、 太公望は激しい眩暈を覚えて、額に手を当てた。
「わしは、おぬしの裸エプロンなんぞ、 見たくないぞ」
そんな鬼気迫るものを目の当たりにした日には、そのまま回れ右で、 職場に帰ってしまいそうだ。
えーっと楊ぜんは不満そうに声を上げる。
「僕は、 貴方の裸エプロン、見てみたいなあ」
きっと、とっても素敵でしょうね。
「ねえねえ、 一度やってみて下さいよ」
こういうのって、新婚の時しか出来ないって言うじゃないですか。 あ、僕は新婚期間後だって、勿論大歓迎ですけどね。
ねえねえ。笑いながら腕を引く奥様に、 絡められるその手を振り解き、やっておれんわと旦那様は席を立つ。
「何処行くんですか?」
「寝る」
「お風呂は入らないんですか?」
「朝、入る」
言葉短く答える旦那様に、ああと納得。
「そうですね、すぐまた汗かいちゃいますもんね」
待ってて下さいね、すぐに僕も行きますから。先に寝ちゃわないで下さいよ。
「だあほっ。 おぬしに付き合う気は無いわいっ」
明日も朝から仕事があるのだ。こやつに付き合っていたら、 体が幾つあっても持たない。
「今夜はおぬしはここで寝ろっ」
傍に転がっていたクッションを押し付ける。
「わしは一人で、ゆっくり眠りたいのだっ」
安眠の邪魔するでない。
きっぱりと言い放ち、そのまますたすたと部屋を出ようとした。 その背中に。
「…ほらね」
呆れを含めた拗ねた声。むう、と振り返ると、 奥様はクッションを抱きしめて俯き、表情を隠したままぽつりと呟く。
「毎日、 こんな調子じゃないですか…」
でかい図体の奥様は、泣き出しそうな声で訴える。
毎日毎日。仕事で忙しいのは判るけど。でも結婚する前にあったような、他愛も無い会話も、 甘い触れ合いも、優しい言葉も。傍にいるが当たり前の日常に慣れすぎてしまい、 今は全てが一方通行になっている。
「僕の事…もう愛していないんですね」
微かに増えた声でのその質問に、がくりと肩を落とし、額に手を当て向き直る。
「何で、 そうなるのだ」
そんな事は、誰も言っておらんだろうが。
呆れた声を上げる旦那様に視線も向けず、奥様は支えを無くして脱力するがまま、 ソファーに体を横たえた。そうして、当て付けに大袈裟な溜息を零す。
「あーあ。 寂しいなあ」
明らかに、相手の耳へと届くレベルの声量での独り言。ころりと寝返り、 体を丸めるその背中からは、実に解りやすいイジケオーラが醸し出されている。
「僕はこんなに師叔の事が大好きで、こんなに尽くしたいと思っていて、 こんなに早く帰ってくるのを待っていたのに」
なのに、やっと帰ってきた愛しい人からは、 こんなに冷たい反応だけ。
「こんな風になるんだったら、結婚なんてしなけりゃ良かった」
涙の予感を含んだ声。流石にそんな様子を目の当たりにすれば、罪悪感が沸くのも当然の事。
そっとソファーに帰ってくると、密やかに吐息を一つ、流れる奥様の蒼い髪を撫でた。
何処かぎこちなさの残る、でも酷く優しいその指先の動きに、奥様はちらりと視線を向ける。 じいっと恨みがましく睨まれて、呆れたように溜息一つ。
「ほれ」
両腕を広げる旦那様に、奥様はきょとんと瞬きを繰り返す。
「寂しかったのであろう」
ほれほれ。飛び込んで来いと言わんばかりのそれに、ゆっくりと奥様は半身を起こす。 意地と本音のバランスに、一瞬視線をさ迷わせるが。
「ほれっ」
ぐいっと腕を引っ張られ、 そのまま華奢な胸に頭を抱き込まれた。
「しょうがない奴だのう」
細い腕にぎゅっと力を込めて、広い背中を掌でぽんぽんと宥める。 鼓動にも似たその心地良いリズムに、奥様は目を閉じた。
「全く…デカイ図体しているくせに、 子供みたいにすねるでないよ」
「…いけませんか」
愛する旦那様につれなくされれば、 誰だって悲しくなります。それが悪い事ですか?
頬を摺り寄せ、甘えた仕草を見せる奥様に、 くすりと旦那様は苦笑する。そうだな、寂しい思いをさせたのだ、怒るのも当然か。
「僕、とっても寂しかったんですよ」
「うむ」
「妻にこんな寂しい思いをさせるなんて、 夫として失格なんですよ」
ちゃんと判っていますか?
「すまなかったのう」
「僕の事、ちゃんと愛していますか?」
ぐりぐりと頭を擦りつけ、 可愛らしく責める奥様に小さく笑いながら。
「愛しておるよ」
だからこうして、 結婚したのであろう。


「じゃあ、キスして下さい」


何でそうくる。
改めて胸に抱きこんだ奥様を見下ろすと、拗ねた瞳には、 微妙に期待が入り混じった色が込められていた。
「ほら、早く」
急かすように肩を揺すり、 目を閉じると、瞳を閉じて軽く唇を尖らせてくる。
阿呆かい、こやつは。
全く、何を言っておるのだか。呆れて見下ろすが、キス待ち状態の奥様に、 思わずどきりと胸を鳴らす。
ああもう、やっぱりこやつは、近くで見ても、 綺麗な顔をしておるのう。まじまじと見下ろす視線に気が付いているのかいないのか、 楊ぜんは片目を開いて、「早く」と促した。
何時まで経っても恥じらいを忘れない旦那様は、 ううと小さく唸った後、それでもそっと、待ちくたびれた奥様の唇に、 ちゅっと可愛いキスをした。
「こ、これで良かろう」
しかし腕の中の奥様は、 眠り姫よろしく、長い睫を伏せたまま。
「…もっと」
唇を突き出したままの間抜け面に、 このまま放り投げてやろうとも思うのだが。
「早くしてくださいよー」
しかし、 逞しい奥様の腕が、何時の間にやらがっしりと腰に回され、旦那様は身動きが取れない。
仏心を出したのが、運の尽き。もぞもぞと居心地悪く身を捻るが、それを奥様が許す筈は無い。
「すうすー」
ずいっと吐息が触れる距離まで、綺麗な顔を近付けられて。流石に観念して、 旦那様はもう一度唇を重ねた。
―――が。
「…む、っぐ、――――っ」
抱きしめていた筈の奥様の体は、そのままずずいと旦那様を押し倒す。
ばたばたと手足を振り上げる、旦那様の必死の抵抗も何のその。 そのまま無理矢理続行される熱烈なそれに、やがて、旦那様の抵抗も失われていくのであった。





「師叔、愛していますよ」
幾つものキスを、脱力した旦那様の顔に降らせながら。 奥様はにこにこと嬉しそうに頬を緩ませ、さもいとおしそうに指先で頬を撫でる。
「やっぱり今日は、目一杯サービスさせて下さいね」
旦那様の胸に飛び込む奥様…とは、 一応表現するけれど。視覚的にそのニュアンスは、微妙に何かが間違っている。
「さあ、 まずは一緒に、お風呂に行きましょうね」
旦那様の体を軽々と横抱きに、 そりゃもう嬉しそうにバスルームに向かう奥様の腕の中。
―――新婚生活とはこんなものなのだろうか。自分が思い描いていた新婚像とは、 些か違うような気がするのだが。
ぐったりと脱力、空ろな瞳で天井を見上げ。 悩み多い旦那様は、深い溜息をつくのであった。









各駅停車の駅から、徒歩八分。ベージュの壁が落ち着いた、新婚からファミリー層が住居している、 閑静でこじんまりとしたマンション。


甘い二人の新婚生活は、まだまだ終わりそうに無かった。




end.




ダメ王子万歳
いえ、本当にダメなのは私です
2005.08.23







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