イノセンス・シンドローム





ポータブルレコーダー、録音用テープ、ハンディサイズのホームビデオ、催涙スプレー、 防犯ブザー、エトセトラエトセトラ。
鞄の中からぞくぞくと出てくるそれらに、 楊ぜんは目を丸くした。
「うわ…これってもしかして、スタンガンですか?」
「万が一、の時の為だ」
不用意に触るでない。スイッチを押そうとする楊ぜんから、 太公望は慌ててスタンガンを奪った。こういった護身兵器は、 使い方を間違えたり相手に奪われたりすると、逆にこちらが危険になってしまう可能性がある。
最も重要なのは、証拠をしっかりと抑える事。
疑いようのない被害の状況を証明し、 警察や法律に動いてもらうのが、一番ベストなのだ。
「ま。何もないに、 越した事はないがのう」
ほれ、と新しく機種交換を済ませた携帯電話を手渡す。 最新機種のそれは、通話録音は勿論、画像も動画もばっちり撮影出来る。 ついでながら、最寄の警察署と派出所の短縮ボタン設定も、しっかり登録済みだ。
「すごいですね…」
もしかして師叔、過去にこういったケースを経験した事がありますか?
あまりの手際の良さに感心する楊ぜんを、太公望は怒ったように睨み付けた。
「だあほ。狙われているのは、おぬしなのだぞ」





自宅に無言電話が繁盛に来るようになったのは、およそ一ヶ月前。 パソコンに奇妙なメールが送られるようになったのは、それから間も無くの事。
郵便物が荒らされ、携帯電話の請求書が盗難される。電話のコードレス子機で話していると、 妙な雑音が入る。廃品回収に出しておいた雑誌や新聞の束が、ぐちゃぐちゃに荒らされる。 新聞受けに、変な呪いのような字や絵の書かれた紙の入った、 切手も消印も無い封書が入れられている。
エスカレートする身に覚えのない嫌がらせに、二人が考えあぐねた頃、 近所の噂が飛び込んだ。
最近見慣れぬ外車が近辺に無断駐車されている事。 不審な人物が時折うろついている事。
そしてその不審人物は、 楊ぜんの後を尾行していたらしいとの事。
二人は直ぐに、警察にストーカー相談をした。





「おぬし、面だけは目立つからのう」
ホームビデオの説明書を眺めながら、 太公望はアイスコーヒーのストローを咥えた。
待ち伏せされてラブレターを差し出されたり、 見覚えのない女性に告白される事は、楊ぜんにとって特に珍しくはない。 会社内で盗み撮られた楊ぜんの写真が、高値で販売され、社内問題になった事もあった。
「もしかすると、僕ってフリーだと思われているのでしょうか」
「だろうな」
パソコンからプリントアウトされた、本日到着分の嫌がらせメールを束ねると、 楊ぜんは軽く肩を竦めた。訳の判らない恨み言の羅列内容には、今更目も通していない。
「酷いなあ。れっきとした恋人との同棲中なのに」
ねえ、と太公望の隣、ソファーに腰を下ろした。 そのままもたれかかるように身を寄せ、腕を回して優しく拘束する。ついでとばかりに、 こめかみにキスを落とした。
それを面倒臭そうに受けながら、ふうと太公望は息をつく。
「まあ、単なるルームメイトか、血縁者にでも見えるのであろう」
そう言われた事もあったし、それがおかしな認識でもない。説明するのも面倒で、 あえて訂正する事もしなかったが、案外、それが裏目に出たのかもしれない。
「でも、嬉しいなあ」
間近からにこにこと笑顔を向ける楊ぜんに、何だと聞いてみると。
「だって。師叔が僕の事を凄く心配して下さっていたんだって、これで判ったんですから」
能天気な言葉と能天気な笑顔。それに苛立ち、纏わりつく男を乱暴に押しのけた。
「アホか、おぬしはっ」
じろりと睨みつけ。
「自分が危険に晒されていることぐらい、しっかり自覚せんか」
真剣に怒る太公望を、 さらりと笑顔で受け流す。
「大丈夫ですよ、腕っ節には自身ありますし」
貴方だって知っているでしょう、これでも僕は合気道の有段者なんですよ。
「違う、そんな問題ではなくて…」
「むしろ僕は、貴方の方がずっと心配です」
貴方は華奢だし、そこら辺の女の子なんかよりも可愛いし。それにいざとなった時、 自衛できる程の腕力も持っていないでしょう。
そっと大きな手で、頬を包んで覗き込む。
「僕の事なら心配要りませんよ」
にっこりと笑う綺麗な笑顔に、 太公望は表情を消して俯いた。
「…おぬしを心配するのが悪いのか」
トーンの下がった声。
「何かあってからでは遅いのだ」
過剰な自己防衛も、後で笑って話せるならばそれが一番良い。 しかし取り返しのつかなくなった後で、ああしておけば良かった、 あの時こうしておくべきだった…と後悔する事だけは避けたい。
何も無ければ、 後でネタにでも笑い話にでもすれば良い。でも、今の些細を怠って、 一生後悔するのだけは嫌だ。
その対象が、他でもない、 自分の最も大切な人であるならば尚の事。
「これがもし、逆の立場だったらどうする」
狙われているのがおぬしではなく、 わしだったらどうする。
楊ぜんの顔から、笑顔が消えた。
「…許せませんよね」
すいません。
呟くような声で告げ、 ぎゅっと楊ぜんは太公望を抱きしめた。
自分の大切な人が危険に晒されるなんて、 絶対に我慢できない。楊ぜんは己の迂闊さを反省した。
「絶対に、貴方を危険な目には合わせませんから」
誓いのように宣告する楊ぜんに、 ふっと困ったような笑顔が零れた。
「それはわしの台詞だ」
だあほめ。
笑った目には切実な想いが込められていて、きゅんと胸が痛くなる。 切なさのままに柔らかいキスを幾つも降らせ、そのままソファーに押し倒した所で。
「…楊ぜん」
冷めた声に、ぴたりと楊ぜんは動きを止めた。腕の中にある人の視線に倣い、 ゆっくりと顔を上げる。
「随分、間隔が短くなってきましたね」
ついさっき、 メールをプリントアウトしたばかりなのに。
同じ部屋のテーブルの上に置かれていたパソコンには、新たなメール着信のランプが点滅していた。





最初、警察の腰は重かった。交番で近所の話と身辺の出来事を細かく説明しても、 こちらが男と言う事もあってだろう、 単なる男女関係のいざこざの延長と取られたようである。
仕方ないと諦める楊ぜんと違い、太公望の行動は速やかだった。
嫌がらせメールは残っているものを全て保存、印刷。郵便ポストには鍵をつける。 ストーカーに付け狙われているようだと、近所やマンションの管理人だけでなく、 近場のコンビニエンスストアや行きつけのスーパーにまで、事情を話して根回しする。
そして、対応の鈍かった交番の警官の名前と階級を控え、証拠品を手に警察署へ向かい、 生活安全課へストーカー相談を持ちかけたのだ。ちなみに、対応の悪かった交番での会話を、 太公望がテープに録音していた事を、楊ぜんはその時になって初めて知った。 (余談であるが、もし署でも対応が悪いようなら、その会話も含めて録音し、 弁護士を通じて検察へ持ち込むつもりであったらしい。)
幸い、警察署での対応は親身であった。
一日に三十通から連続して送られていたメールのコピーを見せると、その異常性を察し、 マンション近辺の巡回を増やすと約束する。しかし現段階の被害状況では、 警察という機関の特性上、これ以上の処置は出来ないらしい。


つまり結局。
何かあった時には、自分で自分を守るしかないのだ。











電車から降りると、雨が降っていた。
会社を出るときはまだ大丈夫だったので、 置き傘はロッカーの中に置いて来たままだ。参ったなあと改札を出たところ。
「楊ぜん」
改札口が一望できる少し離れた柱、そこにもたれかかる姿に、 楊ぜんは顔を綻ばせた。
「師叔…」
目の前に立つと、ポップキャンディーを咥えたまま、 ほれと持っていた傘を一本差し出す。
「ありがとうございます」
尻尾でも振りそうなその顔に、太公望は面倒臭げに唇を尖らせ、 とっとと背中を向けて先に歩いた。


傘が二つ、並んで花を咲かせる。


「おぬしはこっち側だ」
並んで歩く位置を入れ替わる太公望に、 楊ぜんは首を傾げた。
「どうしてですか?」
「…なんとなく」
ぶっきらぼうな答え。少し考え。
「あ…」
判った。 ガードレールに遮られているとは言え、太公望は車道側に立って、 楊ぜんを車の危険から遠ざけようとしてくれているらしい。
にこにこと笑顔を崩さない楊ぜんに、気味悪く太公望は視線を送った。
「…なんだ」
いいえ。くすくす笑いながら。
「ねえ。僕達、新婚さんみたいですよね」
こうやって傘を持って迎えに来てもらうなんて、 まるでホームドラマのワンシーンのようじゃないか。
「何を考えておるかと思えば…」
アホか、と呆れた溜息をつく。全く、何を腑抜けた事を考えているのやら。
「こんな時だから、だ」
仕方なかろう。
楊ぜんに一人歩きをさせたくない太公望は、 時間に問題がない限りはこうして駅まで迎えに来たり、 すぐ近くのコンビニまででも、必ず付き添うようにしている。 日中離れている時だって、普段は面倒臭いと言って必要最低限でしか使わない携帯電話へ、 こまめな連絡とメールを送っていた。
傍から見れば、過保護なまでの心配振りに見えるだろう。 でも普段は素っ気無い彼が、見える形で愛情を示してくれているようで、 楊ぜんにとってこの状況は大歓迎だった。
だからついつい、 こんな状態がこのまま続くなら、ストーカーに狙われるのも悪くないかな…なんて、 不謹慎甚だしい事まで考えてしまう。
「おぬし、ホントに緊張感が足りんのう」
原因こそは判っていないが、狙われているのは間違いなく楊ぜんなのだ。 その当人のお気楽な様子を見ていると、警戒心を剥き出しにしているこちらが、 馬鹿みたいに思えてくるじゃないか。
「良いか。相手は普通ではないのだぞ」
「はい」
「常識が通じると思わぬ方が良いのだ」
「はい」
「幾らおぬしが腕っ節に自信があっても、そんなの関係ないのだぞ」
「はい」
「…人の話を、ちゃんと聞いておるのか?」
「勿論ですよ」
嘘付け。 にこにこした笑顔を胡乱気に見上げ、太公望は溜息をついた。
そうして二人、 コンビニエンスストアの前を通り過ぎようとした所で。
「あ…」
ちと、待っててくれ。
思い出したように楊ぜんの後ろからすり抜け、咥えていたポップキャンディーの残り棒を、 店先に備え付けてあるゴミ箱へ放り投げた。レジにいた顔見知りの店員と目が合うと、 ガラス越しに軽く手を振る。
待たせたな…と、こちらを振り返ったところで。
「―――楊ぜんっ」
どうしました?
強張った太公望の表情に、 笑いながら声をかける直前。
気配に振り返るより早く。


切り裂くようなブレーキ音。
衝撃音に、一瞬目の前が真っ白になった。











「楊ぜんっ」
傘を放り投げて走り寄ると、楊ぜんは放心したように、 その場に座り込んでしまっていた。
「怪我はないかっ?」
叫びにも似た太公望の声も、 今は耳に入っていないようだった。見開いた目は、一歩ほどの距離しか離れていない、 いびつに歪んだガードレールを凝視する。
避ける間なんて無い。 ガードレールがあったのは、車道側に立っていなかったのは、本当に幸いだった。でなければ、 間違いなく減速の無い車に追突されていただろう。思考の上手く回らない頭でそれを認識すると、 どっと冷や汗が吹き出した。
肩を揺さぶる小さな手に、自分の手を重ねると、 ようやく深呼吸する。
「…大丈夫、ぶつかっていません」
驚いて、腰をついただけだから。しっかりした返答に安堵すると、 太公望は改めてそちらを見据えた。
突っ込んできたのは、グレーのアウディ。 ゆっくりとドアが開くと、楊ぜんと幾許も離れていない年であろう、青年が姿を現した。
「ガードレールに邪魔されたなあ」
腰をついた二人を見下ろし、 にこりと笑顔を向ける。
「折角の良いスーツが、ずぶ濡れになってしまったね」
でもね。
「蝉玉さんが、僕のところに帰って来る為には、これも仕方ないんだよ」
笑顔にぼやかされた瞳の奥には、狂気の色が垣間見えた。
「…知ってる奴か」
楊ぜんはいえ、と首を振った。全く見覚えの無い顔だ。
「でも、蝉玉くんは、僕の会社の同僚です」
そう言えば少し前、 ストーカーに狙われていると、彼女から相談を受けたことがあった。心配した同じ課の皆と交代で、 会社の行き帰りを彼女に付き添っていた時期があったが、もしかするとそれを目撃されて、 誤解されたのかもしれない。
最近は落ち着いたようだと彼女も安心していたのだが、 つまりは、目下のターゲットが楊ぜんにすり替わっていただけに過ぎなかったようだ。
楊ぜんを庇うように間に入り、太公望は男を見上げた。
「おぬし、何か勘違いしておるのではないか」
おぬしの好きな女とこやつは、単なる仕事の同僚だ。取り合えず、ありきたりな説得をしてみる。
しかし男はへばり付いた様な笑顔のまま。
「知っているよ。蝉玉さんが僕の気を引く為に、 そうやって他の男と一緒にいることぐらい」
はあ?と太公望は片眉を吊り上げる。
「でもね、気持ちは嬉しいんだけど、そろそろ僕の所に帰ってきてもらわなくちゃ」
その為には、彼女の周りにいる邪魔な人間を、とっとと何とかしなくちゃいけないだろう?
笑顔は爽やかだが、言っている事が滅茶苦茶だ。楊ぜんは、呆れたように溜息をついた。
「蝉玉くんには、ちゃんと付き合っている相手がいるんだよ」
別の課の男だが、 凸凹カップルとして、社内では有名である。少なくとも、楊ぜんが勘違いされるような状況は、 これっぽっちもないのだ。
「あんなモグラみたいな男を、 彼女が好きになるわけないじゃないか」
話が噛み合わない。
こういった相手に、 まともな説得は無理だろう。早々に判断すると、太公望はポケットから携帯電話を取り出した。
「何にせよ、おぬしが今やったことは殺人未遂だ」
経緯や事情は知らないが、 少なくとも今、意図を持って楊ぜんを車でひき殺そうとしたのだ。ついでに公共の器物の破損に、 交通事故。警察を呼ぶに相応しい状況だろう。
「ついでに今の会話、 録音させてもらったぞ」
単なる事故だった、とは言い逃れ出来ぬようにな。
楊ぜんのスーツのポケットから、ポータブルMDをちらりと見せる。どうやら、 腰を落とした楊ぜんに駆け寄った時、抜け目無く録音のスイッチを押したらしい。これには、 流石に楊ぜんも驚いた。
男はへえ…と目を丸くしたが、直ぐににっこりと笑った。
「じゃあ早く、邪魔が入る前に、君達にいなくなって貰わなくっちゃ」
それが、蝉玉さんにお灸をすえてあげる事にもなるしね。これも、 シャイな彼女が素直になる為なんだよ。
男の笑顔が、すう、と消える。 あっと思ったと同時、太公望の手にあった携帯電話が、強い力で払い飛ばされた。
反射的に道路へ飛ばされた携帯電話へと顔が逸らされた瞬間、薙いだ男の腕が勢いのままに、 太公望に振り下ろされる。
動かなかったのは、自分が避ければ、楊ぜんが殴られるからだった。

「―――っつ」

衝撃は、ごく軽い反動のみ。
恐る恐る目を開くと、自分を庇う腕がある。 太公望を庇った楊ぜんの腕には、持ち手を握ったままだったビジネスバッグが、 手首を返しただけで、そのまま楯となっていた。
抱き込まれたままの太公望は、垣間見えた楊ぜんの目に含まれる殺気に、ぎょっとする。
「…今、自分がやった事、後悔しますよ」
この人に手を上げた事を。低い声に彼の本気を悟ると、 太公望は慌てて押し留めた。
「おぬしは何もするなっ」
あの男の目的は、楊ぜんなのだ。 下手に手を出して、問題をこじれさせたくない。それに、もう手は打ってある。
コンビニエンスストアの扉が開き、中にいた店員が飛び出してきた。
「お師匠様、 警察を呼びました。もう、こっちに向かっていますっ」
事故の直後に電話を入れたから、 間も無くこっちに到着します。
「良くやった、武吉っ」
ストーカーに狙われている。 だから妙な奴がこちらの事を探りに来ても、情報を洩らしたりしないで欲しい。もし何かあったら、 直ぐに当方か、さもなくば警察に連絡するように…と、住居付近の顔馴染の店や店員には、 既に根回し済みだ。
警察という言葉に舌打ちすると、男は素早く踵を返す。
「待てっ」
逃がしてたまるか。太公望は、車に乗り込む背中に飛び掛る。 車内で揉み合い、腕にしがみつく華奢な体を、男は力任せに蹴飛ばした。
「師叔っ」
どさりと道路に横倒れて蹲る太公望に、楊ぜんは声を上げて走り寄り、 腕に抱く。路上にある二人の姿は、ガードレールに遮られる事もなく、 酷く無防備に見えた。
男はにやりと笑う。
嬉々としてエンジンを入れようとした時、 初めて差し込まれたままであったはずの、車のキーが無い事に気がついた。
さっき車を降りた時、 無意識に外したのだろうか。苛々とポケットを探る男の目に、楊ぜんに抱き寄せられた体、 握り締めた小さな手から、見慣れたキーホルダーが垣間見えた。
しまった。
ハンドルに拳を八つ当たったと同時に、サイレンを鳴らさずに近づいたパトカーが、 男の車を囲い込むように停車した。





「師叔。警察が、彼を捕まえましたよ」
腕の中で丸まる背中を撫でながら、 宥めるように幾度か名を呼ぶと、太公望は閉じていた瞳をぱちりと開いた。
「終わりましたから…もう大丈夫です」
にこりと笑ってほら、とあちらを促した。 しかしそんな言葉など耳に入れず、がばりと体を起こすと、 彼は小さな手でぱたぱたと楊ぜんの体を叩いた。どうやら怪我がないか、 確認をしているらしい。
「大丈夫ですよ、何処も痛くありません」
雨のしずくがぽたぽたと落ちる前髪をかき上げてやると、蹴り倒された時に作ったのであろう、 額の傷口から流れる血を含んだ滴が、つうとこめかみから頬を伝い落ちた。
それを見ると、楊ぜんの中に言いようの無い苛立ちが、今更ながらふつふつと湧き上がってくる。
何で、あんな危険な事をしたんですか。
そう叱咤しようとした途端、ぶつかるような勢いで、 太公望は楊ぜんの胸に顔を埋めた。
背中に回された手が、痛いぐらいの力でしがみ付く。
「…師叔?」
「よかった…」
おぬしが無事で、本当に良かった。


しがみ付いた指先も、呟くような小さな声も、しがみつく背中も。
感情を押し留めるように、小さく震えていた。














それから。
怯えるようにしがみ付いたまま離れない太公望を、 楊ぜんが腕に抱いて、そのまま病院まで連れて行った。
頭を打った事もあり、 万が一を慮って、そのまま精密検査の為に一旦入院させる。
警察署の話では、犯人である男は随分妄想が入り混じり、発言が支離滅裂で、 まともな話し合いが出来ないらしい。とりあえずは専門医に検査を受けさせ、 その上で然るべき処分を与える事になるようだ。
それ以外の事後処理は、 意外な程に全てがスムーズだった。恐らくは太公望の根回しのお陰であろう、 御近所は皆、進んで事件の証言に協力してくれた。 こちらで手に入れた悪戯メールのコピーや会話の録音等も、 非常に有力な証拠として活用出来るようである。
最初に被害を受けていた同僚の蝉玉とも話し合い、以降は全て、信頼の置ける弁護士を通じてのみ、 やり取りをする事にした。
法的な事は専門家に任せた方が良かろうし、 何よりこれ以上あの男には、一切関わりを持ちたく無いと言うのが、互いの本音であった。
















「顔、傷つけちゃいましたね」
額に当てられた白い絆創膏が痛々しい。
「大したものじゃないよ」
転んだ時に出来た掠り傷だし、 跡が残るような酷いものでもない。精密検査の結果も全く問題無く、 直ぐに退院も出来た。
「すいません」
本当に辛そうな楊ぜんに、 冗談めかして笑ってみせる。
「いざとなったら、きっちり責任を取ってもらうしのう」
治療費と慰謝料に、ばっちり色をつけて。
「はい。一生かけて、責任を取らせて頂きます」
加害者に当てた言葉なのに、生真面目な顔で楊ぜんは頷いた。
そのままぎゅっと太公望を抱きしめて、膝の上へと引き寄せる。細い肩口に顔を埋め。
「だからもう二度と、あんな事はしないで下さい」
真剣な声。
「僕の所為で貴方が傷つくなんて、耐えられません」
もしも取り返しのつかない何かがあったなら、あの時犯人をこの手で殺さなかった事を、 僕は一生後悔するところでした。
丁寧に前髪をかき上げて、 絆創膏の上にそっと唇を落とした。
「どさくさ紛れに、なーにしておるのだ」
訝しげな口調ではあるが、嫌がる様子は見えない。それに口元を綻ばせながら。
「おまじないですよ」
一日も早く完治するように。 これから毎日僕が、祈りを込めておまじないをします。
「だって。師叔のこの傷は、 僕の所為ですから」
「…アホか、おぬしは」
顔を上げ、むにっと太公望は、 楊ぜんの頬を引っ張った。
「この傷は、あのストーカーの所為だ」
ついでに言うと、頭に血が上ったまま、咄嗟に無茶をしてしまった自分の所為でもあった。 それ以外の誰の所為でもない。だからおぬしはもう謝るな。
「痛いです」
頬をつねられたまま、ふがふがとした声で至極真面目に訴える様子に、 ふふんとと笑う。
「…ま。おぬしのこの顔も、原因なのかもしれんのう」
無駄に綺麗で整っていて、やたらと人目を引いてしまうから。だから今回も、 ストーカーの勝手な色眼鏡に引っ掛かってしまったのかも知れない。
「もう…わし以外の奴に、 無駄に笑顔を振り撒くでない」
単なる戯言ではない、ほんの少しだけ本気を滲ませたそれに、 楊ぜんは眉根を寄せた。
「…整形でもしましょうか?」
それで貴方が安心できるのなら。
「だあほが」
冗談を本気に取るでない。 ぺちりと額を叩かれた。
「でもこの顔の所為で、貴方が危険な目に遭うのなら…」
「危険な目に遭っているのは、わしではなくて、おぬしだっつーの」
今回だって、狙われていたのは楊ぜんだ。決して太公望ではない。
なーにを勘違いしておるのだ。引っ張って少し赤くなった楊ぜんの頬を撫でると、 そのままぎゅっと首に腕を回して抱きついた。
耳元に寄せられた唇から、消え入りそうな囁き声が零れる。









そんなことしなくてもいいように。
ずうっとわしが、おぬしを守ってやるよ。









end.




やはり私にはストーカー心理が
理解できないなと実感しました
2003.08.28







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