いっしょにいたい





擦り切れ、くたびれた愛用の旅行鞄。
その中へ必要最低限のものだけを詰め込みながら、 太公望は肩越しにちらりと振り返る。
こちらの背中に重なる、翼の生えた背中。 彼はひたりと体を寄せ、有り余る不満を、衣服越しにめいっぱい伝えてくる。そのくせ、 意固地なまでにこちらに視線を向けようとはしないのだ。
垣間見える拗ねたその横顔に、 太公望は重い溜息をついた。





「別に…そんなに長く出かけるわけではないよ」
その背中に、ぽつりと告げる。
太公望はいつも、スケッチ旅行をする際は、のんびりきままに数ヶ月かけるのが常であった。 しかし、流石に彼を一人置いて、そこまで長い不在はできない。精々数日、 長くても半月ぐらいで帰る心構えでいる。
彼が自分と離れる事を、 極端に嫌っている事は判っていた。だから、一緒に連れて行けるなら連れて行く。 しかし気になるのは、その背中の大きな翼。
日中のみに現れるそれは、 とっても綺麗でとっても似合っているのだが、流石にそんな彼を連れて、 人目のあるところをうろつく訳にもいかない。
「できるだけ、早めに帰ってくるから」
頑なな背中で、ぱさり、と翼が物悲しく揺れる。無言で不満を主張するそれを、 太公望は指先でそっと撫でた。
彼の気持ちを察する事はできる。しかし、 随分前から計画を立てていた同業者との合同展覧会の期日も、 もうすぐそこまで迫っている。画家としての力量を試す良い機会でもあるし、 自作の向上の為にも、太公望としては出来る限りの事はしておきたいのだ。
「判ってくれぬかのう…」
翼を宥められる感触にちらりとこちらを見やるが、 直ぐにぷいと顔を反らせてしまう。膝を抱えたまま、思わせぶりに丸まる後姿は、 彼なりの精一杯の不満と抵抗の表れなのであろう。
組んだ腕に顔を埋める様子に、 溜息をまた一つ。こんな気持ちのまま行きたくは無かったが、しょうがない。
背中を向けて、荷作りの終えた鞄の中身の確認をする。
これでもう、忘れ物は無いだろう。 スケッチブックを小脇に抱え、さて、と立ち上がろうとした所で。
「…こら」
つん、と引っ張られた服の裾。引っ掛かったようなそれを振り切る事はせず、 太公望は威圧的に見下ろす。
「離さんかい」
だが当然、 彼は掴んだ服の裾を手離そうとはしない。視線はあちらを向けたまま、 むっつりした横顔で言葉の無い抗議をしている。
「だから、何度も言っておるだろう」
わしだって自分の仕事には、それなりにプライドと責任があるのだ。 早めに切り上げて帰ってくるつもりだし、決しておぬしを見捨てる訳ではないのだぞ。
ぶつぶつ説き伏せながら、握られた指を一本一本剥がしにかかる。しかし逆に、 剥がそうとしたその手を、しっかり取られてしまった。
「おい…」
手首を握り、肘を掴み、二の腕を握り、そのまま手繰り寄せるように、 強引な力で肩を引き寄せようとする。その引力につい膝をついてしまうと、 そのまま腰に顔をうずめる様に抱きしめられた。
小さな子供じゃあるまいし、 駄々っ子のような頭を、溜息をつきながら宥めようとすると。
「のわっ」
そのまま後ろに押し倒されて、ごちんと後頭部を床に打ち付けてしまった。
「っつー」
まともに打った頭をさすりながら、きっと睨み上げる。 しかし喉元まで出掛かった怒りの言葉は、縋るように切ない瞳に押し留められてしまう。
ああもう。全く、本当にずるい奴だ。こんな目で見つめられると、 どうして良いのか判らなくなってしまうじゃないか。
「…どかんかい」
圧し掛かる体をどけさせようとするのだが、彼はそれに従わない。その代わり、 文句を言いかけた唇に柔らかい唇を重ねた。
いつの間にか出来上がってしまった、 習慣のようなスキンシップ。啄むように繰り返すそれを、これで気が済むならばと、 半ば諦めながら黙って受け入れる。
しかし、それだけでは足りないのか。 小鳥のくちばしの様な軽さのあったそれは、やがて確かめるように重なる時間が長くなり、 柔らかく唇を食むようになってきた。
そして、濡れた舌がぺろりと唇を舐める。
流石にその行為に驚いた太公望は、ぎょっと身を震わせ、ぱちりと目を見張った。
間近から、視線が絡む。
僅かに開いた唇の間から覗いた舌の艶かしさに、 かああっと頭に血が上った。
「だああーっ、このだあほっ」
ばたばたと半身を起こすと、 てやっと思いっきりの力で彼を押し退ける。
「し、仕方なかろうっ。 わしだってこれが仕事なのだ」
そのまま床に転がって脱力したままの彼を、 ていっと両手で押しやる。横たわる体は、抵抗もなくごろんと転がった。
「仕事をしなければ金が入らぬし、金が無くては、このままおぬしを養うことも出来んのだぞっ」
取り繕うような言い訳にも似た言葉を吐きつつ、丸太のように倒れた体を、 ごろんごろんと転がす。されるがまま、転がるままに、彼の体は部屋の隅まで追いやられた。
「おぬしの思うようにばっかりには、出来んのだっ」
こちらに向けたまま、動かない背中。 その瞳が向けられて決心が鈍る前に、太公望はさっさと荷物を手に、立ち上がった。
「行ってくるからなっ」
早足に戸口へ向かい、扉を開け、最期にちらりと振り返る。
身じろぎもせず、横たわったまま動かない背中に。
「その…なるべく早く帰ってくるから…」
大人しく待っておるのだぞ。
小さな声を残すと、太公望はぱたんと扉を閉じた。





だって、仕方ないではないか。日中一緒に外を歩けないし、 でもこっちだってやらなくてはいけない事があるんだし。
冷蔵庫には食べる物も沢山買い溜めておいたし、万一の為にお金も渡してある。 もともと人の行き来の多い家ではないし、彼一人でいても多分問題は無い筈だ。
半分やけになりつつそう自分に言い聞かせるのだが、駅の切符売り場の前に立つ頃には、 既に後ろ髪を引かれるような不安が押し寄せていた。
改札や時刻表の周りを意味無くうろうろして、 何気なく前を通った誰かが公衆電話に向かうのを見て、そうだと顔を上げた。
そうか。そんなに心配だったら、誰かに一声かけて、彼の事を頼んでおけば良いのだ。
公衆電話の受話器を取りながら、知り合いの面々を頭の中に浮かべ、 思い当たる中で一番妥当であろう、玉鼎の顔を思い浮かべる。スポンサーという立場は勿論、 とりあえずは彼との面識もある。何よりも常識人でもあるし、 少々生真面目すぎる人柄ではあるが、きっと彼なら快く引き受けてくれるだろう。
コインを入れて、彼の画廊の番号をプッシュする。
数回のコール。
「はーい。もしもし、誰ー?」
玉鼎の声ではない。ん?と思いながらも。
「えっと、その、太公望だが…」
「あー、太公望?ひっさしぶりー」
百年振りだっけ? 能天気なその声に、ぱちくりと目を瞬かせた。
「おぬし、太乙か?」
「あったりー」
電話越しにけらけらと笑う彼は、時折画廊へひょっこり顔を出す、 玉鼎の知人の一人であった。変人と人嫌いで有名で、普段は殆ど人の行き来が無い、 研究所も兼ねた山の上の別宅に一人で篭り、日がな一日己の研究に没頭しているらしい。
「玉鼎なら、今ちょっと出ているけど」
まあ、こうして話している内に、 すーぐ帰ってくるとは思うけどね。
「おぬしが何故、そこにおるのだ」
どうせまた、ろくでもない発明品を、玉鼎に売りつけに来たんかい。
「酷い言い草だなあ」
人の研究の成果に対して、何て言い方する子だろうね、全く。
「実はさ、急に仕事で、海外に行く事になったんだよ」
話を聞いてみると、 今夜はこのまま空港近くのホテルに泊まり、早朝の朝に出発するらしい。 かなりの長期滞在を予定しているらしく、今日は知己である玉鼎に、 不在の間の自宅の管理を頼みに来た訳だ。
「ほら、家って人が居ないと、 すぐに悪くなるって言うだろ?」
留守にしている間、 たまーにでも掃除でもしてくれればありがたいし、何だったら、 そのまま住み込みで使ってくれたって全然構わない。
「実はさー、 これから飛行機に乗って出かけるってのに、ここまで車で来ちゃってさあ」
私もばっかだよねー、あははー。御気楽な笑い声を上げながら。
「その車もついでにレンタルするから、君にもお願いするよ」
人は居ないし、空気は綺麗だし。人里離れたような辺鄙な場所は不便かも知れないけれど、 別荘気分でのんびり過ごせるよ。











太公望が帰宅すると、家の中は真っ暗だった。
もうとっくに日も暮れているのに、 電気の一つもついていない。そおっと玄関に入るが、ひっそりと静まった屋内に、 人の動く気配は感じられなかった。
まるで、最初から自分以外の住人がいなかったかのような、 そんな空気に一瞬、ひやりと背筋が凍る。
まさか。どきどきする心臓を押さえ、 もどかしく靴を脱ぎ捨てると、慌ててリビングに飛び込んで、照明のスィッチを押した。
暗闇に慣れた目を細め、凝らす。
部屋の隅には、こちらに背を向けて、 横たわったままの長身。その背中にあった翼が姿を消している事を除けば、 昼間出ていった時と全く同じ姿で、彼はごろりとそこにいた。
どうやら、 あれから身じろぎもせず、同じ姿勢でそこにずうっといたようだ。その姿があることにほっと安堵し、 ゆっくりと近付いて上から覗き込む。
長い睫が僅かに瞬くのが見て取れた。 どうやら、眠っている訳でも無さそうだ。しかし、未だに拗ねているのか、 太公望がいることに気付いているくせに、こちらを振り向く素振りはない。
「…のう」
しゃがみ込み、声をかける。彼はもそりと身じろぎ、うつ伏せ、 すっかりその顔を隠してしまった。
「まだ、怒っておるのか?」
こうして帰ってきたではないか。しかも、予定を相当繰り上げて。
背中を叩いて宥めると、いやいやと頭を振る。さらさらと長い髪が揺れた。
ポケットを探り、太公望はキーケースを取り出した。軽く振って、 かちゃりと小さな音を鳴らせる。零れる鍵は二つ。
「太乙から、借りてきたのだ」
こっちは車の鍵。そしてこっちは、 ここから車で半日飛ばした場所にある、人気の殆ど無い場所に建てられた、山荘の鍵。
「おぬしの荷物は少ないから、直ぐに支度ができるのう」











「大体、わしは基本的に、一人の方が好きなのだ」
ずっと一人で生活していたし、 それを寂しいと思った事も無い。気を使う事もなく、身軽で気楽な生活は、 もともと性に合っていた。
不在の間の誰かの心配をするなんて、 いままで無かった事なのに。
「おぬしのせいで、気が散ってしまって仕方ないわい」
一体、どうしてこんなことになってしまったんだか。だから、良いか? おぬしは責任持って、わしと一緒におるのだぞ。
ぶちぶち言いながら、 もう一人分の荷物を別の鞄に詰め込む。
そんな太公望に、彼はにこにこと笑う。 荷作りの手伝いをするでなく、ただただ嬉しそうに、腕を絡め、背中から抱きしめ、 頬を寄せ、そして時々髪やこめかみにキスをしながら纏わり付く。
「おぬし、 わしの言う事など、ちっとも判っておらぬであろう」
何なのだ、ほんの少し前までは、 拗ねて背中を向けていたのに、このころりと180度変わった現金な態度は。
「夜の内に、 むこうに到着せねばならんからな」
ほれ、急ぐぞ。ぐいぐい腕を引っ張りながら、 二人一緒に玄関を出る。
門の前に駐車してある、小型のワゴン車。 太乙に借りたその車の後部座席に二人分の荷物を積み、助手席へ彼を座らせると、 太公望は運転席に乗り込んだ。
久しぶりの運転は緊張するのう。 少し緊張しながら、車のエンジンを入れた所で。
「こら。やめんかい」
嬉しそうに身を乗り出し、腕を伸ばしてくる彼を、じろりと睨みつける。 これじゃあ、危なかしくって、運転に集中できないじゃないか。
絡まる腕を振り払い、無理矢理彼を座席に押し付けると、シートベルトを引っ張り出して、 かちりと装着させた。
自然、体の動きは制限されてしまう。 その事に、彼はほんの少し不満そうに眉を潜めるが。
「おぬしは暫く、 そうやって大人しく座っておれ」
つまらなそうに尖らせた唇に、軽く唇を重ねてやる。





「さ、出発するぞっ」
照れ隠しにわざと元気一杯の大声を出して、 サイドブレーキを外す。
インナーミラーに映る彼の笑顔に、むず痒く唇を引き締めて。
少しばかり乱暴に、太公望はアクセルを踏み込んだ。





end.




「n+m」のさきさまへ
超個人的献上物
2004.08.04







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