第一夜





静かな月の夜。
誰もが眠っているだろう、ひっそりとした城内。その一角にある 周の軍師の私室にて。
太公望は、深々と溜息をついた。





既に本日すべき執務は終えることが出来た。湯も浴び終え、寝間着に着替え、 さて休もうかと準備が整った寝台の上、正座で向かい合わせている 男の姿に、太公望はもう一つ溜息をつく。
その男。崑崙きっての天才と名高い 天才道士楊ぜんは、にこにこと、そりゃあもう薄気味悪いほど満面の笑顔で、 太公望の前にちょこんと正座で座っているのだ。
何なんだ、この男は。
心の呟きをぐっと押し留め、とりあえず太公望は適当な 言葉を捜した。
「…あー…楊ぜん」
「はい、何ですか師叔」
バックにハートマークが飛び交いそうな明るい返答と反比例して、 こちらの気が重くなるのは何故だろう。
「えーっと…もう夜も更けたのう」
「そうですね」
「その…わしはもう、休みたいのだが…」
「はい」
言葉の意味が判っているのかいないのか、相変わらず楊ぜんは、 にこにこと笑みを絶やさず、そこから動こうとしない。
「…で、何故おぬしがここにおる」
楊ぜんの私室とこの部屋は離れていて、「部屋を間違えました」の天然ボケ許容 範囲ではない事は確かだ。
「いやだなあ、師叔」
わざとらしく眉根を寄せて、ずい、と身を寄せてくる。
「僕達、恋人同士ですよ」





「愛する者同士が一つの寝台で共に眠る事は
ちっとも不自然な事ではないでしょう?」





ええっ、そうなのかー?…で誤魔化せるほど、残念ながら太公望も初心ではない。
この男が何を求めてここにいるのか、判らなくもなかった。 おしべとめしべの教育ではないが、そこら辺の大人な事情も、それなりに知らなくもない。
知らなくもないが。
「…わしは最初に言ったであろう」
きりっと睨んで釘を刺す。
「わしは男であって、おぬしと肉体関係を結ぶのはごめんだぞ」
押して押して、これでもかと押しまくる楊ぜんの求愛に答えた時、 太公望ははっきりと言ったのだ。
おぬしの気持ちはそれなりに嬉しい。 わしに答えれる事があるならば、答えたいと思う。 でもわしは、何度も言うが男である。お友達から、で始めるのは構わないが、 肉体的も生理的にも、男に抱かれる事にはそれなりに抵抗がある…と。
「はい」
いっそ爽やかとも言える笑顔で、楊ぜんは頷いた。
「勿論、忘れたわけではありませんよ」
言いながら腕を伸ばし、太公望の手を取った。
「僕も別に、師叔に無理強いするつもりはありませんから」
何と言っても大切な大切な、本当に愛する人だから。 折角ここまで関係を漕ぎつける事が出来たのだ、 自分の暴走で嫌われるような事だけはしたくない。
その言葉に嘘は見えなくて、 むう、と太公望は唇を尖らせた。
「そうか…なら良いが」
「だから、師叔に、その気になってもらおうかと思いまして」
綺麗な男は、にっこりと綺麗に笑った。
「…………はあ?」
微妙な間を置いて発せられた声。ちう、と楊ぜんは手にあった太公望の 手の甲にキスをする。
「ですから、師叔がその気にさえなって下されば、 万事解決でしょう?」
万事解決?そうなのか?
軍事に掛けては 明晰な頭脳も、この時ばかりは理解に数秒を要した。
「任せてください、僕、その気にさせるの、上手いですから」
必ず師叔もその気になりますよ。 無駄に自信たっぷりの笑顔に、太公望は引きつった。
「ま、待て、楊ぜん」
握られた手をばたばたと振り切り、 ずさずさと後ずさりながら、とりあえず静止の声を上げる。
「おぬし、言っただろう。いつまでも待つ、と」
太公望の返答に、 楊ぜんはそれでも構わない、いつまででも貴方が僕を求めてくれるまで待ちますからと、 それはもう優等生な言葉を返したものだ。
時間は幾らでもあるのだし、 僕は気は長い方ですから、等と愁傷な答えと極上の笑顔で喜んでいたのは、 思い起こせば昨日か今日か。(どうやら夜中であったらしい)
太公望が後さずった距離を、楊ぜんはにじり寄って詰めて来て。
「はい、いつまででも待ちますよ」
でもね、師叔。
「でも正直、あんまり自信ないんですよねー」





ほら、勿論僕は天才ですし、それなりの修行も積んでいますから、 ある程度自分に自信は持っているのですが。
でもそれも、貴方にだけは通用しないんです。
貴方だけは僕の特別なんです。本当にこんな気持ちになったのは初めてなんです。 貴方はとっても魅力的だから、こうして目の前にいるだけで、 どきどきして、幸せで、見惚れてしまって。ぼーっとしてたら、本当に 勝手に手が伸びちゃうって事、一度や二度じゃないんですよね。
でも、折角ここまで関係が近付けたのに、貴方に嫌われるような事だけはしたくないし。 だけど恋人には、もっともっと近付きたいし。誰も知らないようなところまで、 貴方の全てを知りたいし。ま、何というか、そんな相手に肉体的な欲求が生まれるのは、 至極自然な事だと思うのですよ。
心が欲しい、のは当たり前。 心も体も、貴方の全てが欲しいんです。
そうは言っても、あれでしょう。薬を使うような乱暴な真似は 出来ればしたくないですし、恋人同士の立場としては、 師叔からも僕を求めて欲しいんです。
ならばやっぱり、お互いに歩み寄る努力が、それなりに必要でしょう?貴方も、勿論僕も。
あ、ちなみに僕の全ては、もう既に貴方だけのものですからね。





…早まったか、わし。
たらりと太公望は冷や汗を流した。 じりじりと間合いを詰める楊ぜんに逃げを打つが、背中は壁に阻まれて、 既に太公望に逃げ道はない。
「わ、わしは、結婚まで貞操を取っておくと、 心に決めておるのだ」
「なら、今すぐにでも結婚しましょう」
僕としても、 もう貴方以外の誰かなんて考えられない。
「あほかい、わしらは男同士だっ」
「大丈夫です、僕、気にしませんから」
「わしが気にするのだ」
伸ばされる楊ぜんの手をぱしぱしと叩き、怯えているのか、涙目で睨む。
全くしょうがないなあ。ふうと息をついて、楊ぜんは手を引っ込めて座りなおす。
「もー、師叔。もう少し僕を信じてくださいよ」
自制するのに自信がないといった口で、 一体何をぬかすか。
「それとも…後悔されてますか?」
打って変わった悲しそうな声。一瞬肯定しかけるが、 切ない紫の瞳が、絶妙にストップをかける。
「僕と恋人同士になるの、 本当は嫌だったんですか?」
―――ぼくはさびしいです、こんなにこんなに あなたをおしたいしているのに、あなたはそうじゃなかったんですね、 ざんこくなやさしさだけでぼくのこころをなぐさめようとして、ああ、 でもわかっていましたとも、そんなかんけいでもかまわない、 ほんのひとかけらでも、あなたをぼくのものにできるんだったら、 それでぼくはいいんです、やさしいすーす、ええ、あなたのやさしさにあまえていることは じゅうぶんわかっていますから―――
見つめる紫の瞳が、そりゃもうめいっぱい、無言で訴えかけてくる。
「…別に、そんな事は言っておらんではないか」
「僕と恋人同士になるのは、嫌じゃない?」
「…本当に嫌なら、端からこんな話、承諾せぬ」
男同士だけど、嫌じゃないから。肉体関係を結ぶのに抵抗はあるけれど、 楊ぜんの気持ちは嬉しかったから。内心複雑だけど、楊ぜんの事は間違いなく好きだから。
だから、こうして承諾したのだ。
「良かった」
にっこり笑って、楊ぜんは太公望の手を取った。大きくてしなやかな手は、 大切なものを守るように、太公望の手を包む。
「ちょっとは自惚れて、いいんですよね」
「………ほんのちょびっとだけならな」
つけあがるので、「ちょびっと」を 強調するのは忘れない。 それでも楊ぜんは満面の笑みを浮かべ、引き寄せ、ぎゅっと華奢な体を抱きしめた。
ぎゃっと色気のない声を上げ、太公望はじたばたともがいて、振り切ろうとする。 そんな抵抗など何の意味も成さないように、浮かれ馬鹿楊ぜんは、そりゃもう嬉しそうに 頬をすり寄せてきた。
「嬉しいです、師叔」
やめんか、はなせ、だあほ、くるしい。
ぎゃあぎゃあと腕の中で暴れる、その人のほっぺたにキス。きょっとんとした 一瞬の隙をついて。
「えい」
そのままころんと横になる。
両腕と胸板で閉じ込めて、 ついでに脚まで絡めて、もがく体を封じた。それでも諦めようとしない太公望を、 宥めるように優しく撫でる。
「おぬし、言ってる事と、している事が違うではないか」
嫌がる事はしたくないと言っていたではないか。
「しませんよ、嫌がる事なんて」
絶対に。
「おぬしの目には、今のわしが嫌がっているように見えんのかっ」
「何もしませんって」
ぱさり、と楊ぜんは、二人の上に毛布をかけた。
「このまま一緒に寝るぐらいは、許してくださるでしょう?」
布団の中、抱きしめたまま、柔らかい朱髪にキスをする。
「それだけ、です。 これ以上は何もしません」
そこは僕が譲歩しますから。だから貴方は、 僕がこうしている事を許してくださいよ。
切なそうに耳の後ろで囁かれ、 少し考えた後、硬く強張っていた体の力を抜いた。





「…狭い」
「もう…つれないなあ」
僕だってこの状況は、忍耐的にものすごく辛いんですよ。 僕だって我慢しているんだから、師叔だって我慢してください。 二人でお互い、少しづつ我慢しましょう。我慢も半分こすれば、我慢の度合いも半分になります。 そうすればお互い、半分楽になれるんです。
生真面目にせつせつと説かれれば、 そんなものなのかのう、と思えてしまう。
「ね。僕達、恋人同士なんですから」
ゆっくりゆっくり。二人で近付いていけばいい。
「だってまだ、一番最初の夜ですからね」





第一夜だから。
まずはお互い、これぐらいから始めよう。





end.




滾った駄目楊ぜんさんが書きたくなりました
はたして第二夜がどうなるかは不明
2002.08.27







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