「よし。きめたぞ、よーぜん」
望は小さな手で、ぎゅっと握り拳を作った。
「わしらは、いえでするのだ」




小指のおもいで





<出発>
待ち合わせは、二人の家の並びの角にある電柱の前。
最初は楊ぜんが、家まで 迎えに来ると言っていたのだが、「それでは、いえでらしくないのだ」と、 望が無理矢理突っぱねたのである。
案の定、望は遅刻をして、楊ぜんを 待たせる羽目になったのだが。
「よーぜん」
背中に小さなリュックを背負って、望はぱたぱたと走り寄ってきた。
「すまぬ、まったか?」
「ううん」
はあはあと息を上げる望の、赤みを 帯びた乱れ髪を撫でてやる。寒い中走ってきたので、ほっぺも鼻も、耳も赤い。
楊ぜんは、同じくリュックを背負い、手袋と帽子と大き目のマフラーを首に ぐるぐる巻いていた。顔が半分マフラーで埋まっているが、それでも走ってやってきた 望に、嬉しそうに目で笑う。
「ゆくぞ、よーぜん」
「うん」
こうして二人の家出が始まった。





<進行方向>
「どこにいくか、きめているの?」
並んでてくてく歩きながら、楊ぜんは尋ねた。
「きめておらーぬ」
あっさりとした返答に、そうだろうなとため息をついた。
「でも、いいのだ。わしらはずっとずっとふたりで、とおくにいくのだ」
ずーっとだ。
前方を指差して望は言う。ずっと。
楊ぜんは眉根を寄せて、ちょっと困ったような顔になり、 複雑そうに笑った。
「いいの?望」
「なにがだ?」
「だって、このままずっといっしょに とおくまでいっちゃったら、みんなにはあえなくなっちゃうんだよ」
「…うむ」
「きょうのウルトラマンのさいほうそうだって、みれないんだよ」
「だいじょうぶなのだ、こうしゅねえに、ビデオをたのんだのだ」
「こうしゅのおねえちゃんに、いっちゃったの?」
「…う」
ビデオを頼むとき、理由を聞かれて、楊ぜんと家出をする事を話してしまったのだ。
「でも、こうしゅねえは、ひみつにしてくれるってやくそくしたのだ」
はあ、と楊ぜんは溜息をついた。
してくれるわけないじゃないか。だって、家出だよ。
「やっぱり、すぐにばれちゃうよ」
「む〜、うるさいのう!」
きっと大きな目で 楊ぜんを睨み上げる。小柄な望は、一つ年上の楊ぜんよりも、一回り以上小さい。
「よーぜんはどうなのだ?」
唇を尖らせる。
「わしとずっといっしょにいるのは、 いやなのか」
最近めっきり、一緒に住んでいる祖父原始と、叔母であり姉代わりの公主の 口調が移ってきたようだ。最初に出会った頃は、もっと普通の話し方をしていたのに。
「ぼくは、望といっしょにいたい」
「なら、いいのだ」
ゆくぞ。
ずんずんと、望は 前を進み、楊ぜんがその後を追いかける形になった。





<作戦会議>
せっかく家出をするのだから、いつも遊びに行く方向と違う方へ行くのだ。
そんな望の提案により、二人は行ったことのない道を、ただひたすら歩く。やがて、 一軒家の立ち並んでいた地域から、マンションの立ち並ぶ住宅街になる。
「あ、こうえんがあるのだ」
マンションの狭間にあるような、小さなスペースに、 こじんまりとした公園が設置されている。
「ちょっときゅうけいする?」
「うむ、のどがかわいたのだ」
たったかと望は走って、公園内に設置されている 冷水機に向かった。
「のめる?」
「だいじょーぶなのだ」
とはいうものの、小さな望には 少々その冷水機は大きいようで。楊ぜんは四苦八苦している望を、よいしょと抱き上げた。 なんとか水を飲むと、もういいのだ、と降ろしてもらう。
「よーぜんは飲むか?」
だっこしてやるぞ、と覗き込むが、勿論望に楊ぜんを抱き上げる力はなかった。
「ぼくはいいよ。のどかわいてないもん」
「そうか」
はじめて来る公園に、しばし二人は遊びまわる。象の形をしたジャングルジムに、 二人はよじ登った。
「よーぜんは、ここらへんをしっておるのか?」
「うん、とうさまがくるまでつれていってくれるとき、とおったことあるよ」
「ふむ。じゃあ、もっともっととおくにいかなくてはいけないのだ」
何度も通ったことのあるような場所だったら、きっとすぐに見つかってしまう。
「だれもしらないようなところはないかのう」
ようぜんは知っておるか。
聞いてみるが、ふるふると首を振った。楊ぜんが知っていたら、「誰も知らない」 場所にはならないではないか。
ぴょん、と望はジャングルジムから飛び降りた。
着地した拍子にバランスが崩れ、わあ、と地面に手をつく。
「望、だいじょうぶ?」
「う〜、ちがでたのだ〜」
涙目の望に、慌てて走り寄る。みせて、と手を取と、 小さな右の小指に、小石で傷つけたのか、ほんのちょっぴり血が滲んでいる。
「いたいのだ〜、よーぜん」
「ちょっとまってね」
楊ぜんは背負っていた リュックのポケットから、傷テープを取り出した。拙い仕草で、 それでも丁寧に、望の小指にそれを巻きつけてやる。
「はい、だいじょうぶ?」
「…ちょっとは、いたくなくなったのだ」
ありがとう。
楊ぜんは、嬉しそうに笑った。





<こわいのこわいの>
低い垣根が連なる。
ここは古めかしいが大きなお寺になっていた。 その横を通りすぎようとしたとき、ぴたりと望の足が止まった。
「望?」
急に立ち止まる望に、楊ぜんは振り返る。
「どうしたの?」
じっと望は俯いたまま 動かない。歩み寄り、その顔を覗き込むと、泣きそうな顔をして唇をかんでいた。
「望?」
急にどうしたのかわからない。トイレはさっき行ったし、休憩もとったから、 疲れたわけでもないだろう。
肩に手を置くと、ぺたんとその場にしゃがみこむ。
「望」
「ここはいきたくないのだ」
ちらりと視線を横へ向ける。それでやっと、楊ぜんは 判った。
この寺の丁度道路に面したこちら側、低い垣根のすぐそこは、 墓地になっているのである。古めかしい卒塔婆や墓石が立ち並び、背の低い望にも それがよく見て取れた。
「だいじょうぶだよ」
「…でも」
「おばけがでるのは、 もっとくらくなってからだよ」
今は真昼の太陽が、煌々と射している。墓地といえば 聞こえは悪いが、きちんと整備されている寺なので、おどろおどろしいものは 何もない。
「じゃあ、て、つなぐから」
望の両手を取って、立ち上がらせる。
「望は、めをとじてればいいよ。ぼくがむこうまで、ひっぱって、つれてってあげるから」
そしたら怖くないでしょ。
ぎゅっと望は汗ばんだ手で、楊ぜんの手袋をした手を 握り締めた。力いっぱい握るから少し痛かったけど、それでも目を閉じた 望が転ばないように、ゆっくりゆっくり歩いてゆく。
「よーぜん」
「なあに」
「まだなのか」
「もうちょっとだよ」
「まだ?」
「あとすこし」
そして、楊ぜんの 足が止まった。
「もう、めをあけて、だいじょうぶだよ」
ぱちりと大きな目が開く。
眩しげに瞬きを繰り返すと、目の前には楊ぜんの笑顔。くるりと振り返ると、お寺は ずっとむこう。もうここからは、墓地は見えない。
ほう、と望は息をついた。 強く目を瞑り過ぎて、目尻に涙が浮かんでいる。
「さあ、いくのだ」
今度は 望が、楊ぜんの手を引っ張った。





<これはそもそも>
「あのね、ぼく、おじさんのとこにいくことになったんだ」
楊ぜんの言葉に、望は 大きな目を、さらに大きくした。
閑静な高級住宅街にあるひときわ古い日本家屋、望はそこで、祖父と叔母とで暮らしていた。 母親と父親を事故で無くした望は、本家に当たる祖父の元に、引き取られたのである。
そしてこの家から三件ほど離れた洋風の豪邸、 道路を挟んで向こうの家に、楊ぜんは住んでいた。
「おじさん?」
「うん、しんせきのね」
そこに住む事になったんだ。
「なんで?」
楊ぜんは、曖昧に笑った。悲しそうな笑いだった。
「それって。よーぜん、とおくにいくのか?」
「うん」
「どれくらいとおいのだ?」
うーんと、と思い出す。叔父さんの家には、何度か遊びにいったことがあった。
「くるまでね、あさでてったら、おひるをすぎたくらいにつくよ」
そういわれても、 望にはいまいち距離感がわからない。ただ、ものすごく遠い場所のように 思えた。
「どれぐらい、おじさんのとこにいくのだ?」
「…たぶん、ずっと…」
「ずっと?」
「…うん」
ずっと。
「なんでだ?」
納得できない望は、もう一度聞くが 答えは同じで。やはり困ったように笑い返されるだけ。
むう、と望は丸い頬を 膨らませた。
「なんで、おじさんのとこ、いっちゃうのだ?」
「ごめんね」
「なんでなのだ?」
ゆさゆさ楊ぜんを揺さぶるが、理由は話さない。
だって望だって祖父の元にいるが、それは両親がいなくなってしまったからで。でも楊ぜんは、 母親はいないって言っていたけど、父親はいるのだ。仕事で忙しくて、帰りも遅くて なかなか会えないって言っていたけれど。
「わしは、いやなのだ!」
ぎゅっと、望は楊ぜんに抱きついた。
「わしは、よーぜんがとおくにいくのは、 ぜったいいやなのだ」
泣き声交じりで言われ、胸が痛くなる。
「…望」
抱きついてくる望の小さいつむじを、楊ぜんはなでなでと 撫でてやる。
「ぼくだって、望といっしょがいいよ…」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、よーぜんのとこのおじさんに、そういえばよいのだ」
がば、と顔をあげ、涙で潤ませた目で見上げる。楊ぜんは目を伏せて、黙り込んでしまう。
「…よし。きめたぞ、よーぜん」
望は小さな手で、ぎゅっと握り拳を作った。
「わしらは、いえでするのだ」
きりっ、と楊ぜんを見て、その手を引っ張る。
「いえで?」
うむ。こっくり頷く。
「わしらはいっしょにいたいのだ。わしらのいうことをきいて くれないおとなたちに、あぴーるするのだ」
ぱちぱちと楊ぜんは、瞬きした。
かくて、計画は実行されるのである。





<教会>
「なんだか、くるまがいっぱいとまっておるのう」
「何かやってるのかな」
町の中にあるこじんまりとした教会の前、さほど広くはない道路に無数の車が止まっていた。
その入り口あたりで、呂望と楊ぜんは中を覗き込む。戸口はぴったりと閉まっていて、外から は中の様子が何も見えない。
「むう、みてみたいのう」
首を伸ばして中を伺うが、当然 そんな事をしても見えるはずはなくて。
「望!」
「ちょっとだけなのだ」
しーっと口の前に 人差し指を立てて、とことこと扉の前まで行く。そして豪華な飾りのついたノブに、 爪先立ちで手を伸ばした。
キィ。
小さな音を立てて、扉は開いた。
「わあ…」
二人はこそこそと中に身を滑らせる。教会内の沢山の人達は、皆前の方に 集中していて、誰も二人には気がつかなかったようだ。
厳粛な雰囲気。二人は大人たちの足の間から、皆が見ているものを見ようと視線を巡らせる。
そして。
綺麗なステンドグラスに照らされて、中央には白いタキシード姿の男性と、 純白のドレスを身にまとった女性とが、神父の前で並んで立っているのが見えた。
「けっこんしきだ」
こそっと楊ぜんは呟いた。
「そうなのか?」
「うん」
僕、見たことあるもん。望の耳に唇をくっつけるように耳打ちする。吐息が耳に掛かって、 望はこそばゆく肩をすくめた。
中央の二人は、今正に誓いの言葉を述べていた。差し出された指輪を、互いの 指にはめ合う。
そして、花嫁の顔に掛かっていた、白いレースが取り払われ。
二人は神の前で、誓いのキスを交わしたのだった。





<はんぶんこ>
「さむいのう」
ぽつりと望は呟いた。
冬の太陽は、落ちるのが早い。空はもう日が傾いていて 薄暗くなっていた。ぽつり、と街頭が明かりをつける。
ふたりは教会からさほど離れていない、小さな公園にいた。アスファルトで出来た小山の トンネルの中で、二人、身を寄せ合って座っている。
楊ぜんは、自分のマフラーを外して、 望の首に巻きつけてやった。
「よーぜんがさむいではないか」
「ぼくはへいきだから」
「だめなのだ」
そういうと、巻きつけられたマフラーを外そうとする。それを制して、 楊ぜんは半分だけ手繰り寄せ、自分にも巻きつける。もともと大きめのマフラーだった から、二人ででも何とか巻きつけられた。
「おなかへったのう」
くう、と望の お腹の虫が可愛らしく鳴く。それを聞くと、ぷっと吹き出し、楊ぜんはくすくすと 笑った。
「む。わらうでない」
「ぼく、おかしをもってきたんだ」
背負っていた リュックを外すと、クッキーの入った小袋を取り出す。ぺりっと袋を開けると、 はい、と望に差し出した。
早速望は、嬉しそうにそれにかぶりつく。六枚入ったクッキー の小袋。四枚目に手を出しそうになったとき、はたと望は、一枚も楊ぜんが食べていない事に 気がついた。
「よーぜんはたべないのか」
「いいよ、望がたべちゃっても」
「だめなのだ、ようぜんもたべるのだ」
ぐい、と袋を押しやる。
「ぼく、いらないから」
押し返す。
「たべるのだ!」
強引に望が押し返したとき、中身がばらばらにぶちまけられてしまった。
「…あ…」
砂にまみれたクッキー。飛び散った拍子に割れてしまい、粉々になってしまった。
「…すまぬ」
俯き、目に涙を溜めて、望は呟いた。
楊ぜんは、一枚だけ割れずに無事だった クッキーを取り上げ、丁寧に砂を払い落とす。そしてそれを半分に割った。
「だいじょうぶみたいだよ、はんぶんこしよう」
そういって、笑った。





<すき、きらい>
ぶるっと、望の体が寒さで震えた。ぎゅっと楊ぜんは冷えた手を握ってやる。
「…ねえ、 望」
「ん?」
「…もう、帰ろうか」
時計がないから正確な時間はわからないが、 もう陽は とっぷりと暮れてしまっている。日中は日も暖かかったが、今は空気も凍え、 二人の吐息は白い。
「いやだ」
きっぱりと望は言った。
「でも、望のいえのみんな、 きっとしんぱいしているよ」
「しんぱいさせるために、いえでをしているのだ」
「でも」
それは、望の家の人を、心配させるためではない。楊ぜんの父親を心配させなくては 意味がないのだ。
でもきっと、楊ぜんの父は心配などしないだろう。だって、いつも 仕事で帰りが遅い。今だって、楊ぜんが家にいないことさえ知らないはずだ。
「かえろう、望」
このままじゃ、風邪をひく。ただでさえ、望は僕より小さいし、 すぐ風邪をひいちゃうんだから。
「いーやーだ」
ぎゅっと望は、楊ぜんの手を握り返した。
「よーぜんは、いいのか?」
わしと会えなくなってしまって。
「よくないよ、でも…」
どうしようもないから。そう考えるしか、仕方ないじゃないか。
「わしはぜったいいやなのだ」
ぎゅっと望は、楊ぜんの腕にしがみつく。絶対離さないという 決意を込めたその仕草に、楊ぜんは胸が痛くなった。
「…そうだ」
思い出したように、 望は顔を上げる。
「よーぜん、わしとけっこんしよう」
脳裏に、 昼間見た教会での光景が浮かぶ。
「けっこんすれば、ずっといっしょだと、 こうしゅねえがいってたのだ」
その言葉に楊ぜんは眉をひそめ、ぷい、と横を見た。
「…うそだ」
膝を抱き、顔を埋める。
「ぼくのとうさまとかあさまは、けっこんしてたけど、 はなればなれになっちゃたもん」
はあ、とつく、ため息も白い。
「…ぼくは、いらないこなんだ」
ぽつりと 楊ぜんは呟いた。
「だからおじさんのとこに、もらわれるんだ。とうさまぼくのこと きらいなんだ」
ぼく、いいこじゃないから。
そう言うと、組んだ腕に顔をすっぽりと 隠してしまう。もう、その表情が、望には見えない。
「…よーぜん、よーぜん」
ぱたぱたと 小さな手で、望は楊ぜんの肩を叩いた。




「わしはよーぜんがすきだぞ」
「よーぜんが、いいこじゃなくてもすきだぞ」



「わしが、おじさんのぶんも、おばさんのぶんも、よーぜんをすきになるから」




「だからはなれないように、けっこんしよう?」
楊ぜんは顔をあげ、じっと伺うように望を見つめた。そして、目を細めて笑う。 泣いているようにも見えた。
「けっこんは、 おとなにならなくちゃ、できないんだよ」
「じゃあ、おとなになったらけっこんしよう」
「ほんとに?」
「うむ、やくそくだ」
「…うん」
約束。
二人は小指を 絡ませた。そして、ふと、望は思いつく。
「よーぜん、ばんそーこはまだあるか?」
「うん?あるけど」
「いちまいほしいのだ」
絡ませた望の小指には、昼間ジャングルジムで 怪我をした為、傷テープが貼ってある。まだ痛いのかな、と楊ぜんはリュックの ポケットからもう一枚取り出して、ぺりぺりと包装をはがした。
「わしがやるのだ」
ぱっと望は楊ぜんの手から、傷テープを取り上げた。
「けっこんの、やくそくなのだ」
そういって楊ぜんの、怪我をしていない小指に傷テープを巻きつけた。
教会で見た結婚式では、二人は互いの指に指輪をはめあっていた。どの指に 指輪をはめていたのかまでは、憶えていないのだが。
望の指には、すでに 昼間楊ぜんが巻いてくれたから。
「ゆびわのかわりなのだ」
寒さで身を震わせて、真っ赤になった望の指先は、かんじかんで思うように動かないらしい。
それでも一生懸命巻いた。





<そして、帰還>
「おかえり。楊ぜん、望」
原始家の前で待っていたのは公主であった。
公主は死んだ望の母親の、歳の離れた妹に当たる。叔母に当たるとは言っても、 まだ大学生だった。
楊ぜんの姿と、その背中で眠る望の様子に目を細めて笑う。そして 楊ぜんの背中から、望を取り上げ、抱っこしてやった。
「重かったろう、随分世話を かけたであろうな」
ふるふると楊ぜんは、俯いて首を振った。今さっきまであった背中の 重みとぬくもりが消え、急に薄ら寒さが感じられる。
はあ、と楊ぜんは、白い息を 吐き出した。
「なあ、楊ぜん」
膝をつき、公主は幼い楊ぜんの顔を覗き込む。
「おぬしは本当に聞き分けの良い、優しい、いい子だのう」
だけどな。ふわりと 楊ぜんの頭を撫でてやる。
「そんなに我慢ばかりしなくても、もっと我侭も言っても よいのじゃぞ?」
大人になったら、もっと聞き分け良くしなくてはならない事が 沢山あるのだから。
だから今のうちに、もっと、もっと、我侭を言っておかなくては いけないのだぞ。
ぽろぽろと、楊ぜんは涙を流した。ひっく、ひっくと泣きじゃっくりを 上げる楊ぜんを、公主は空いた片方の手で抱き寄せてやる。
「泣きたかったら、今のうちに、 思いっきり泣いても良いのだからな」
公主は楊ぜんの家の事情をそれとなく知っていた。
楊ぜんは両親が不仲で離婚し、今は父親と共に住んでいる。しかしその 父親も、仕事の関係上、どうにも 留守にしがちになってしまう。楊ぜんの環境の事を考えると、やはりもっと 傍でしっかり見ていてくれ、信頼の置ける 保護者が必要であろうとの苦渋の判断だったのだ。
しかし楊ぜんは、そんな大人の事情がわからない。子供の楊ぜんに選択権はなく、ただ、言う事を 聞くしかないのだ。
やがて子供らしい、あけすけな泣き声が上がる。
その声が止むまで、 公主は眠った望を片手に抱きながら、もう片方の腕で楊ぜんを抱きしめ続けていた。





<小指のおもいで>
結局家出の結果、望は風邪をひき、高熱を出して寝込んでしまった。
楊ぜんは時々見舞いに着たが、 感染するとよくないので、長く一緒にいることは出来なかった。
そして楊ぜんが行ってしまう日。
望は何とか風邪を治す。
楊ぜんの家の前で、 二人は向かい合った。
「おてがみかくからね」
「うむ」
「でんわもするよ」
「うむ」
「わすれないからね」
「…うむ」
始終望は、不機嫌そうに俯いたまま、頷くだけだった。 おこっているのかな、と流石に楊ぜんも不安になる。
「昨日から、ずっとこうなのじゃよ」
一緒に見送りに来た公主が後ろから声をかける。
「こら、望。いつまでも拗ねてないで、 楊ぜんにちゃんとさよならを言わぬか」
むっと望は公主を振り返った。
「さよならなんて、 いわぬっ」
そう言うと、きっと楊ぜんを見た。目は赤く、涙をいっぱい溜めている。
「またあうぞ、ようぜん」
「…うん」
「やくそくなのだ」
小指を立てて差し出すと、 楊ぜんはそれに自分の小指を絡ませた。
もう、小指に傷テープはないけれど。
「やくそくだよ…」
ぼろりと楊ぜんの表情が 崩れる。それを隠すように、楊ぜんは、ぎゅっと望を抱きしめた。
「望…望…」
泣き声で名を呼ぶ楊ぜんに、望もぼろぼろと泣き出した。
ひとしきり、泣いた後。
「楊ぜん、そろそろ行くよ」
楊ぜんの叔父に当たり、新しい保護者となる玉鼎が、 声をかけた。
「望くん。落ち着いたら、楊ぜんのところに、遊びに来てくれるかい?」
優しそうな声。膝をつき、望と目線を合わせると、穏やかに笑う。
「うむ、ぜったいいくのだ」
「私が連れて行ってやるぞ」
公主がぽん、と望の肩を叩く。
「こうしゅねえ、ほんとか?」
「ああ」
「まってるからね、望」
「うむ」
さあ、と玉鼎は、楊ぜんを車に促した。楊ぜんはそのまま車に乗りかけ、ふと、思い出して、 望に駆け寄った。
そしてそのまま、ちゅっと望の唇にキスをする。
何をされたのかよく判らない望は、真っ赤に腫らせたままの目を、ぱちぱち瞬きさせた。
「おとなになったら、けっこんしようね」
「うむ。ずっといっしょなのだからな」





走り去ってゆく車を、望はずっと見送っていた。
少し追いかけ、 危ないからと公主に止められるが。それでも見えなくなるまで、ずっとずっと見送っていた。
「楊ぜんのところへ、遊びに行こうな、望」
背後から前へ、公主が手をまわして 望を抱き寄せる。
「うむ…」
もたれかかりながら頷いた。
そのとき、ふわりと 空から何かが舞い落ちた。
望と公主は空を見上げる。
「ゆきじゃ…」
薄曇った空からは、ふわふわと粉雪が降り出してきた。
今日は朝から冷えたからのう。 公主はそう言って少し強く望を引き寄せた。
「よーぜんも、みてるかのう」
この雪を。
「きっと、見ておるよ」
「うむ」





望は立てた小指を、冬の雪空にかざした。




end.




タイトルは、某戯曲よりそのまんま。
こうして半知能犯的に約束は守られ、
望ちゃんは強制的に楊ぜんに
嫁に貰われてしまうのでした。
2001.12.07







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