その檻は、暖かく優しい。











柔らかい檻










目が覚めるのは、いつも暖かい腕の中だった。
身じろぎをしようにも出来ない拘束の中、 目覚めた気配を察知したのであろう、ふわりと額にキスが下りてくる。
「おはようございます、師叔」
間近から覗き込んでくる紫の瞳。 それはとても凪いでいて、慈愛とも取れる優しさが滲んでいた。
「うむ…おはよう。楊ぜん」
基本的に、この男は優しいのだろう。 その優しさがどんな形で現れるのかはさておき、それでも、 その根底には彼なりの精一杯の優しさがあるのだ。
逞しい腕は、ゆっくりとした動作で、 愛しい恋人の半身を起こしてやる。そして、朝の風景に相応しい笑顔を向けた。
「朝食を、持ってきましょうか」
こちらで召し上がるのでしょう?そう問われれば、 こくんと頷くしかない。
「お体は、大丈夫ですか」
「…うむ」
素っ気無い返事に、楊ぜんはにこりと笑い、軽く唇を重ねた。





食事を取って、窓の外の木の陰、ゆったりとしたリクライニングチェアの上に座らされる。
空は青い、風も爽やかで、ああ、今日もとてもいい天気だな。流れゆく雲を見送りながら、 ぼんやりとそんな事を考えると。
「体、拭きましょうか?」
今日は天気が良いから、 ここでやっても寒くないでしょう。
にこやかな笑顔で傍にやってくる楊ぜんに、 太公望は胡乱な視線を返した。
「…おぬし、いらん事をせぬと約束するか」
不埒な恋人は、体を拭くという名目の上、不必要な悪戯を仕掛けてくるのが常である。 彼は綺麗な笑顔のまま、軽く肩を竦めるだけ。言い訳でも良いから、「そんな事しませんよ」 ぐらい言えないのか、全く。
こちらの言い分も全く気にした様子もなく、聞いた様子もなく。 楊ぜんはいそいそと、湯の入った洗面器とタオルを持ってきた。
湯に浸したタオルを固く絞る。そうして傍らに立ち、丁寧な手つきで腰帯を緩め、 服の前を開いた。
うっとりとした顔。
いつも一番最初に見せるその顔に、 こやつは本気で馬鹿なんじゃないかと思う。
「嬉しそうだのう」
「そうですか?」
嫌味のつもりの言葉も、あっさりと流される。
「ああ…でも、幸せかもしれませんね」
こんな風に、貴方に触れる事が出来ますから。夢見るような声でそう告げると、 顔を寄せ、鎖骨のくぼみに唇を寄せる。舌先にくすぐられる感覚に、 不本意ながら体が震えた。
「…体を拭くのではなかったのか」
「はい、勿論」
濡れたタオルでそっと頬を拭ってやる。顎から喉へ、肩へ、薄い胸板へ。 丁寧な動作で、しかし時折、悪戯に敏感な部分をくすぐった。
それを甘んじて受けながら。
「わしは、おぬしの人形のようだのう」
呟いたその言葉に、紫の瞳を大きく見開いた。
「人形なんかじゃありませんよ」
貴方は貴方です。
心外だと言わんばかりの口調で言い切る。
「人形相手に、こんなことしませんよ」
そんな趣味はありません。胸元に唇を寄せ、 軽く吸う。密やかな快楽に眉根を寄せると、楊ぜんは溜息をついて頬を寄せた。
「愛しているんです、貴方を」
向けられる笑顔は、その美しい顔立ちとも相まって、 酷く清らかなもののように瞳に映る。その指先は淫らで残酷だけど。
「貴方も、 僕の事が好きなんですよね」
だって、僕なんかに、これだけ好きにさせて下さるのだから。
清らかな笑顔で、清らな声で、楊ぜんはそう言ってキスを降らせた。





「おぬしは何故、こんな事をしたのだ」
「貴方を愛しているからですよ」
当たり前じゃないですか。さらりとした即答。
「愛がなくては、こんな事出来ませんよ」
そうなのだろうか。確かにそうかもしれない。どんな形にせよ、愛情がなければ、 ここまで細やかに身辺の世話など出来ないだろう。
ねえ、師叔。 楊ぜんは、何処か悲しそうな顔で囁く。
「貴方は、僕を憎んでも良いんですよ」
僕は貴方に憎まれて、当然の事をしたのです。貴方には、僕を憎む資格があるのです。 そして、僕にはそれを否定する権利はない。
睦言のように繰り返される言葉は、 強い麻薬のようだ。
「わしが、おぬしを憎める訳がなかろう」
そう答えると、 楊ぜんは決まって申し訳無さそうに苦笑する。
「いいえ、師叔」
僕はね。
そんな貴方を判っていて、その上で、その想いさえも利用しているのですよ。


そんな事ぐらい判っている。
何だかんだ言っても、やっぱりこの男は甘いのだ。














天才の作った薬は完璧だった。
手足は全く動かす事ができず、 精々身じろぐのが精一杯の肉体へと変えた。しかも感覚は失われておらず、 快楽はそのまま一切を受けとめることが出来る。
全く、なんと都合の良い薬なのだろう。














時々、もっと別の方法があったのではないか、と思う事がある。
確かに、互いは互いを、 間違いなく理解していたのだから。こうする以外に、互いを束縛する方法があったのかもしれない。 それを口にすれば、楊ぜんは力なく首を横に振って、寂しそうに苦笑した。
「だって、貴方は風だから」
捕まえたと思っても、いつの間にか何処かへ行ってしまう。 たとえ、今はずっと傍にいると約束しても、明日には、明後日にはどうなるか判らない。 そして何処かへ行きたいという想いを、貴方は自分自身で留める事が出来ないでしょう。
責める言葉とは裏腹に、その声はただ優しかった。
そんな事は無い。 せめてその言葉が口に出来れば、どんなに良かっただろう。やはり天才だな、 人の本質を見極める目は、しっかり持っているようだ。
「…では、おぬしは?」
いつか楊ぜんが自分に飽きて、何処かへ行ってしまうかもしれない。もしそうなった時、 こんな体では引き止めるどころか、しがみ付く事さえ出来ないじゃないか。
拗ねてそう言うと、 楊ぜんはくすくす笑って指を絡めた。
「貴方は、その体で僕を引き止めているのですよ」
こんな体にしたのは僕だから。その罪悪感で、貴方は僕を離さない。貴方への罪は、 そのまま僕を縛る戒めになるのだから。
夢見るような声で耳元で囁かれると、 それだけで身が震えた。
「それにね、僕が貴方を置いてどこかに行くなんて、 決して有り得ない事ですよ」
「判らぬではないか」
「判ります」
貴方も、 それは疑っていないのでしょう?
問いかけには、苦笑を返しておいた。









想いを利用して、束縛しているのはどちらだろう。



















「こんな体では、おぬしを抱きしめられないな」
楊ぜんはその一言に、酷く辛そうな顔をした。 そのまま、ゆったりとした力で腕を回す。
「大丈夫ですよ。その分、僕が貴方を抱きしめます」
「おぬしは、それで満たされるのか?」
「満たされない分も、全て含めて、 僕が貴方を抱きしめます」
きっとそれが、この男の精一杯の愛情というやつなのだろう。














「楊ぜん」
「はい」
「もっと強く、抱きしめてくれ」
わしがおぬしを抱きしめられない分まで。
「はい」
包み込む腕は、やはりとても優しかった。



















明日も、明後日も。この上なく柔らかい腕に抱かれて。
そして、今夜も目を閉じる。








end.




ありがちな独占ネタ
後日譚か、封神計画中か…
2003.04.24







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