乙女と復讐





「あああーーーっ、全く腹の立つううぅーーーーーっ」
殷の王宮にある皇后の間にて、 王妃妲己の義姉妹である王貴人は、腹の底から、鬼気迫るような叫び声を上げた。
「いやあん、貴人ちゃん怖いわん」
「だって、姉さま。私…」
妖怪仙人にとって最大とも言える恥を、 あんな低レベルの能力しか持たない道士にかかされたのだ。 あんなアホ道士に負けた自分が許せない。そんな過去を拭い去るべく、復活真っ先に 八つ裂きにすべく行動を起こそうとすれば、敬愛する姉はそれを諾とはしないのだ。
「あなたの気持ちはよーく判るわん」
でも、今は動くべき時じゃないのよん。 優しく頭を撫でられるが、そう簡単に収まるものじゃない。
むしろ、 その押さえ込まれた行き所の無い怒りは、日々苛々と募ってゆくばかりである。
「ねえ…そうだわん」
綺麗に整えられた指を立てて。
「そんなに言うなら、暇潰しにでも、太公望ちゃんに会いに行きましょう」














へっくちゅっ。
朝の軍議の引き締まった空気の中に、小動物の鳴き声にも似たそれ。 脱力するような可愛らしいくしゃみに、所々で密やかな笑いが零れる。
それを咳払いで押さえ込み。
「風邪ですか、太公望」
周公旦が厳しい視線を軍師に向けた。
「あー、そういうわけではないのだが」
誰か噂でもしているのかのう。 鼻の下をこすりながら。
「すまん、続けてくれ」
幼顔の周軍師は、 起立して意見を述べる兵士に先を促した。





その様子を、少し離れた場所から伺う二つの影。
「あはん。太公望ちゃんってば、 ちょっとお疲れみたいねん」
お肌も荒れてるみたいだし、もしかすると寝不足なのかしらん。
「姉さま、この隙を見て、殺ってしまいましょうっ」
無防備とも言えるほどに、苦も無く入り込めた周城である。恐らくまだ、 誰も二人の存在に気がついていないだろう。油断している今ならば、軍師の暗殺など容易い事だ。
「まあまあ、貴人ちゃん」
今日はあくまで、偵察に来たのだ。
「もうちょっと、様子を見ましょうよん」





早朝軍議が終了して、各々が会議室をばらける中。
「太公望師叔」
うーんと小さな体を伸ばす太公望に声をかけてきたのは、 目の覚めるような鮮やかな青い髪を持つ、美しい顔立ちの仙人であった。
「大丈夫ですか」
「うむ?」
「会議中にくしゃみをしていたでしょう」
太公望は面倒臭げに手をひらひらさせ、 あははと笑う。
「何でもないよ」
心配性だのう。
「ですが、昨夜だって…」
眉根を寄せる秀麗な顔に、太公望は曖昧な顔をして惚けてみせる。
「心配性だのう」
ほれ、早く食堂に行かねば、朝食を食べ損ねるぞ。明るい声にも、憂い顔は晴れない。
「後で、仙丹をお持ちしましょうか」
糖衣の物を持っています。
「そうだな。では、頼むとするか」
「はい」
にこりと二人が笑顔を交し合った瞬間。
「太公望」
スパン、と軍師の後ろ頭にハリセンが鳴った。いきなりな仕打ちに、 ぶっと噴出して前につんのめる。
「ぬうう…何なのだ、いきなり」
何なのだ、じゃありませんよ。背中に暗雲をしょって、周国の宰相周公旦は、 今朝提出されたばかりの報告書を取り出す。
「食料班からの報告です」
そこに記されているのは、異常ともいえる速さで無くなる、桃の貯蓄量の数値である。
「太公望、貴方また、食料庫から桃を盗みましたね」
ぎょっと顔を引きつらせる軍師に、 問答無用と容赦の無いハリセンの乱れ打ちが舞った。





「〜〜〜〜〜っ?」
呆れて声も出せないのは、その様子を見ている王貴人。
仮にも一国の軍師が、食料庫の桃を盗難?しかもあの様子から見ると、どうも常習のようである。
「何考えているのよ、あのアホ道士は…」
あんな阿呆にしてやられたというのか? 腹が立つやら情けないやら、ぎりぎりと貴人は隠れた木の幹を尖った爪で掻きむる。
隙あらば、姉の了承さえ得られるならば。殺気立った貴人の仙気に、妲己はあはんと笑った。





軍師の朝は忙しい。
昨日中にこちらへ回された書類を分類、それを各所へ分担させ、 それから己の一日のスケジュールを決める。これが滞れば、各機関は動くことさえ出来ない。
太公望は、崑崙でも最高と言われるその頭脳を買われ、 今回の封神計画の実行に抜擢されたと聞いている。その頭脳は流石に伊達ではないらしく、 確かにこの人間界でも遺憾なく発揮され、大国殷を確実に追い詰める力になっていた。
軍師の執務机に山積みされた書簡は、速やかに各所への指示を出し、 認可の書類が次々に適材適所へと回されてゆく。子供のような間抜け面も、 黙々淡々と執務をこなす横顔は、傍から見ていると、意外な頼もしささえ感じられるものであった。
…が。
そう思うのも最初だけ。
「太公望、手が止まっていますよ」
鋭く厳しい宰相の言葉は、尤もな事であろう。ぶらぶらと筆先を遊ばせる太公望からは、 先程まであった集中力が感じられない。
「師叔、疲れましたか」
傍にいた軍師の右腕である 道士楊ぜんは、穏やかな笑顔で幼顔を伺った。
「お茶でも入れましょうか」
良いでしょう?そう促されれば、周公旦は厳しい顔をしながらも、頷くしかない。
では、入れましょうか。腰を上げかけて、ふと楊ぜんは太公望の顔を、じいっと見つめた。
「な、なんじゃ」
あからさまな視線に身を引くが、それを阻むように楊ぜんが、 まあるい頬をそっと包み込む。
「よ、楊ぜん?」
楊ぜんはにこりと笑い、 親指で太公望の頬をきゅ、と擦った。
「墨、ついてますよ」
白い頬には、 黒子のような黒い染みがぽつりと一つ付いていた。書簡に顔を近づけていた時にでも、 墨が飛んでしまったのだろう。しかしすっかり時間が経って乾いてしまったそれは、 擦っても擦ってもなかなか取れない。
「うーん、失礼します」
言うが早く、 顔を寄せると、ぺろりと頬の染みを舐めて、その上から擦る。
「はい、取れましたよ」
爽やかとも言える笑顔に、太公望は顔を真っ赤にして睨み上げた。
「あ、阿呆かーーっ」





「…何なのよ、あいつ」
「軍師、太公望ちゃんの、右腕って所かしらん」
なかなか麗しい光景よねん。
金ごうでも、天才道士楊ぜんの名前はよく知られている。 この封神計画において、太公望の参謀として人間界に下りているという話は聞いていた。
しかし、 貴人の示す「あいつ」とは、やはり只一人。
「子供じゃあるまいし、馬鹿じゃないの?」
おまけにこれぐらいの執務で集中力が欠けるだなんて、軍師失格じゃないっ。
「姉様っ、やっぱり殺ってしまっていいっ?」
ぎろっと視線を怒らせて振り返る彼女にとって、 突っ込みドコロはそこらしい。





昼休みの鐘が鳴って。
周城には兵士用の食堂があった。一般兵士に混じって、 仙人や道士も共にここで食事をする事が多い。
がやがやと騒がしい食堂の中、 その中でひときわ元気な声が上がった。
「あーーーっ。またっスかっ、ご主人ーっ」
きいんと声を張り上げるのは、太公望の騎獣である四不象であった。くりくりとした目を吊り上げ、 向かいの席に座る太公望を睨み据える。
「それは、僕の桃マンっすよーっ」
昨日も今日も、一昨日も。自分の好物が昼食に出れば、人の皿に盛られた分まで食べてしまう。
「何じゃ、残しておったのではないのか?」
「違うっスっ」
最後の楽しみに、 ゆっくり味わおうと残しておいたのに。
「わーん、返すっスーっ」
「へーんだ。 もう食ってしまったぞ」
べえ、と舌を出す太公望と、涙目になって声を上げる四不象。 連日のやり取りに慣れている周の兵士たちは、むしろ微笑ましそうにそれを見守っていた。
あんな風に怒ってはいるものの、献身的な霊獣は、主人の食が細くなったようだと心配していた。 太公望が仕事で忙しいので、あまり一緒にいられないと寂しがっていたと、 周りもそれとなく知っている。
二人のじゃれ合うような喧嘩を見ていると、 仙道を敬遠していた一般兵士にも、彼らに妙な親近感が沸いてくる。
「もー、ご主人っ」
ぷりぷりと怒った声にも、何処か楽しそうな響きが込められていた。





「スープーちゃん、ちょっと太った見たいねん」
コロコロしているのも可愛いけどん、 でも健康の為にはもうちょっとダイエットした方が良いのかしらん。あはん、 もしかして太公望ちゃんってば、その為にスープーちゃんのご飯を食べていたりしてーん。
そんな妲己の横、貴人は呆れ顔のまま、脱力していた。
「な、何なのよ、あいつ」
公衆の面前で騎獣と、食べ物の事で喧嘩?と言うか、人の昼食まで取るのか、あの馬鹿道士は。
「あーっ、もう。苛々するーっ」
食堂の四不象に負けないような声を出した。
全く、何でこのアホ道士は、こんなに人を苛立たせるのが上手いのだろう。
「姉様っ、 一瞬で殺してやるわっ」
「あらん…でも、貴人ちゃん」
その太公望ちゃんは、 どこへ行ったのん?





太公望の姿が消えたのは、昼食を終えて間も無くの事であった。
最初に気が付いたのは、 彼の自称一番弟子、武吉である。そのあまりの素早さに、 妲己と貴人さえも全く気が付かなかった程だ。
しかしうろたえるのは密偵のみ。執務室で午前中の仕事の続きをこなす面々は、 各々溜息をつく程度で、慌てるものは誰もいない。
「…また、ですか」
今更な反応の周公旦に、苦笑を洩らすのは楊ぜんである。
「後で僕が探しに行くよ」
「お願いします、楊ぜんさん」
しかし後回しに出来ない貴人は、 急いで太公望の仙気を辿るのだが、驚くほどに巧妙に隠されている。逃げの定評は、 伊達ではないらしい。
城内をあちこち探し回って、必至で気を巡らせて、 そうしてやっと見つけたのは、周城外れにある小高い丘の木の下。ぽかぽかとした日和の中、 警備も無く、木の根を枕に無防備に昼寝する姿に、貴人は口を半開きにして呆けてしまった。
一国の軍師ともあろう者が、執務を放り出して昼寝…。
「…これ以上は、時間の無駄だわ」
すちゃっと宝貝を構える貴人に、妲己はそっと静止の声を上げる。
「待って貴人ちゃん」
誰か来たわん。





鮮やかな蒼い髪を風になびかせて、姿を見せるのは、天才道士楊ぜんであった。 手の持っている籠には、桃と糖衣で作った滋養の仙丹を入れているようである。
貴人たちと違って、どうやらここに太公望がいるのは、彼にとっては予想の範疇だったらしい。 木の下でうたた寝るその姿に、眉尻を下げて笑顔する。そしてすぐに起こす素振りも見せず、 自らの肩布を丁寧に眠り姫に掛けてやった。
何気ないはずであろう仕草ではあるのだが、 その空気の柔らかさに、おや、と貴人は眉をひそめる。
彼は太公望の隣に腰を下ろし、 暫しその寝顔をじっと覗き込んでいた。
切れ長の瞳が、切ないような光を帯びる。
そっと手を伸ばす。長い指先が、幼さを残した丸い頬を撫で、かかる髪を優しく撫で付けた。 慈しむ様なその様子に、貴人が奇妙な違和感を感じる中。
楊ぜんは少し身を乗り出し、 愛しそうに頬を摺り寄せ。
そして。
そして覆い被さるようにゆっくりと。
ゆっくりと唇が…。





「っ〜〜〜〜〜ゑ&*¥#@”/;+ゐ?????!!!!!!」
貴人は声にならずに絶叫した。その横で、妲己は口に手を当て、「あらん」と声を上げる。
「なっ、ななな、何なの、あいつらはーーーっ!」
思わず隣にいた妲己の 襟首をがくがくと揺する。
「く、苦しいわん」
落ち着いて、貴人ちゃん。
「だっ、だって姉さま、あ、あいつら男同士で、きっ、きっ、ききき…」
「そういう関係だったのねん」
そういう関係?クールビューティ形無しに、 貴人は絶句したまま固まってしまった。
「…ひっ、非常識だわ」
寄りにもよって、 軍師とその参謀、崑崙一のぐうたらと天才、お子様ジジイと超絶美青年、 しかも双方男同士…。
貴人はへなへなとその場に座り込んだ。
「貴人ちゃん、大丈夫ん?」
ぼんやりとうつろな視線に、段々と訳の判らない、 理不尽な怒りが湧き上がってくる。
「…大体、太公望も太公望だわ」
間抜け面してはいるけれど、みようによっては可愛い顔をしているのかもしれないし。 子供っぽい幼顔だから、そちらの趣味の人間には、嗜好に合いやすいのかもしれないし… 否、良く判らないけれど。
それなのに、こんな所で眠ったりするから。 無防備全開に寝顔を曝したりするから。だから隙を付け込まれ、男なんかにキスされるのだ。
「あらん、太公望ちゃん、起きちゃったわん」
がばっと貴人は顔を上げた。





「…むう…楊ぜんか」
寝惚け眼を瞬かせて、もそもそと太公望は起き上がる。
「こんな所で眠っちゃ、風邪引きますよ」
楊ぜんにされたことに気がついていないのか、 太公望は色気の無い欠伸を一つ、ごしごしと目を擦って身を起こす。
「大事はあったか」
「いえ、今の所は」
自分のした事などまるで無かったかのように、 楊ぜんは糖衣の仙丹を手渡した。
口直しに甘い桃を頬張る太公望の横顔を、 天才道士は限りなく優しく、幸せそうな視線で見守る。
「…なんじゃ」
居心地が悪そうに、わざと素っ気無く言うのは、こんな状況での彼の癖なのか。 楊ぜんは笑顔のまま、首を横に振った。
「さーて。そろそろ行くか」
桃も食べ終えると、 太公望はよっと立ち上がる。
「えっ、もうですか」
「おぬしなあ」
抜け出した軍師を探しに来たくせに、何を言っているのやら。
「もう少し、 ゆっくりして行きましょうよ」
「仕事が山積みなのだろう」
ほれ行くぞ。 まるで立場が逆になったように、太公望はぐいぐいと楊ぜんの手を引っ張った。 そうして立ち上がらせると、引っ張った手をそのままに、二人は執務室へと向かう。
見ようによっては、実に仲の良い、二人の後姿であった。





気が抜けたように、脱力したまま後姿を見送る貴人に。
「判ったわん」
ぴしっと指を立て、妲己は顔を覗き込んだ。
「貴人ちゃん、 太公望ちゃんに恋をしているのよん」
思考が回復するまでの数十秒。
「………は?」
「だって、貴人ちゃんの反応って、恋する乙女そのものなのよん」
自分では、 全然気が付いていないみたいだけれどねん。いやああん、貴人ちゃんたらあん。
盛り上がる義姉を視界の隅に、頭の中で何度も復唱する。恋?恋?この私が、 あの間抜けな阿呆道士に恋?
「…じ、じ、じ、冗談じゃないわよーーーっ」
声を上げ、かぶりつく様に身を寄せる。そのクールな美貌は、今まで妲己でさえ見たことが無いほど、 真っ赤に上気していた。
「な、何て事を言うの、姉様っ。わ、わたわたわたしはそんな―――」
「恋ってそんなものなのよん」
何だか妙に気になって、ちょっとした事に腹が立ったり、 でもついつい視線が追いかけてしまう。で、こっちを気にして欲しくて、 ついついいらぬちょっかいをかけてしまったり。今の貴人には、それらがいちいち当てはまるのだ。
「太公望ちゃんって、母性本能をくすぐるような所もあるのよねん」
そりゃまあ。
此処まで周を引っ張っているのだ、能力の高さは否定できないし、 これだけ個性溢れた仙道達をまとめているのだ、何だかんだと人望があるのだろう。
あの、プライドの高い天才楊ぜんだって、まるで世話女房のように太公望に従っていた。
でも。でも、まさか、そんな、自分が彼をそんな風に、だなんて。
「とりあえず、もうちょっと様子を見てみましょうねん」
貴人ちゃんの想いを見極める為にも。
ぐるぐると思考が渦を巻く貴人とは裏腹に、 妲己は楽しげに片目を閉じて見せた。





夜中。一国の最高軍師にしては、質素な私室にて。
夜も更けた時刻だと言うのに、 太公望の部屋の灯りはいつまでも消えない。
窓の外には、それを見る間者が二人。
「こんな時間まで、随分頑張っているのねん、太公望ちゃん」
涙ぐましいわん。 頑張らずにはおれない状況の元凶が、そっと涙を拭いながら呟いた。
どうやらこの軍師は毎晩遅くまで、残った執務や割り当てた者達の見直しを 行っているようだ。日中昼寝をしていたのも、周公旦がサボりを黙認していたのも、 どうやらその所為であるらしい。馬鹿で怠け者のアホ道士だとばかり思っていたが、 案外人の目の無い場所での努力は怠らないようだ。
その私室の扉がノックされた。
「開いておるぞ」
小さな音を立てて、開いた扉から顔を覗かせたのは。


「…何で、またあいつなのよ」


天才道士、楊ぜんであった。
「また、こんな遅くまで…」
室内に入ってくる足取りには、随分慣れた雰囲気があった。テーブルに置いた盆の上には、 夜食のつもりなのであろう、腹持ちのよさそうな菓子とジャスミン茶が乗せられていた。
「むう、仕方あるまい」
膨れっ面を見せながらも、 持参されたお菓子に手が伸びている。昼間のことと言い、もしかして餌付けされているのか? この面だけはやたらと綺麗な変態に。
わな、と貴人は肩を震わせた。
「少しはご自分の体のことも考えてください」
しかめっ面の小姑小言に、ぷいっと そっぽを向く。
「そうも言っておれん」
時期が時期なのだ。今は一個人の体云々の 心配よりも、一国の流れを優先させなくてはいけない。
「でも、貴方が倒れてしまえば、 この国は導を失います」
周の国だけじゃない、封神計画だってそうだ。
「もしそうなれば、 おぬしがわしの代わりに実行すればよい」
「そんな話じゃありません」
周国も封神計画も大切だが。でも、それでもそんなものなんかより、 もっともっと大切なことがある。
「僕は、貴方が心配なんです」
痛みさえ含んだ切実な眼差しで、楊ぜんは正面から見つめる。
「軍師でも、封神計画の実行者でもない…貴方が心配なんです」
太公望の前で膝をつくと、 そっとその両手を取り、祈るように頬を寄せる。
「心配なんです…」
貴方は、 自分の事など顧みない人だから。
溜息を含ませた深い声。見つめあう視線。 きゅ、と太公望は眉根を寄せた。
「おぬしはわしに、甘すぎるのだ」





「あの男の作戦じゃないのーーーーっ」
静かに二人の世界を醸し出す様子に、 貴人は絶叫した。
崑崙どころか金ごうでも有名な色男の事だ。あの程度の落とし文句ぐらい、 単なる駆け引きの一つ、手馴れたものだろうが。浸り切っている本人達は 気付いちゃいないが、傍で冷静に聞いている分、そのいろんな意味で寒い空気に鳥肌が立ってしまう。
「太公望も、何ぽーっと間抜け面さらしてんのよっ」
崑崙最高の頭脳の持ち主ならば、 それぐらい悟れない訳が無かろうに。
頭のてっぺんから湯気でも出しそうな勢いの貴人に。
「美しいわねん」
「何処がよ、姉さまっ」
「あの二人、きっと本当に愛し合っているのよん」
ほら、よく見て御覧なさい。そう促され、嫌々ながらもそちらへ視線を移す。
「太公望ちゃん、幸せそうじゃないん?」
確かに。
照れ臭そうにしかめっ面をしながらも、 決して本気で嫌な訳ではなさそうな。それでいて妙に和んだ空気とか、 ゆったりと暖かで優しげな視線とか。
理屈ではなく、認めざるを得ないものが、確かにそこに存在していた。





「ねえ、師叔」
ん?名を呼ばれ、無防備に小首を傾げたその顔に、楊ぜんは唇を重ねた。
一瞬、驚いたように目を見開くが、太公望はやがてそっと目を閉じ、されるがままに甘んじる。 ちゅっと音を立てて唇が離れた時には、縋るように楊ぜんの腕を握っていた。
ぽわんと何処か夢見心地な視線に、くすりと楊ぜんは笑う。
「師叔、可愛い」
かあっと太公望は顔を真っ赤にした。
「あほか、おぬしは」
どん、と胸を拳で叩くが、 大して力は入れていないらしい。
「師叔って、キス好きですよね」
間近でにっこり微笑まれ、 ううと呻き声を上げる。
「…だあほ」
否定はないんかい。
「ねえ、師叔…」
耳元へ口を寄せて、二人にしか聞こえない密やかな声で、何かをそっと囁く。 むう、と太公望は顔を赤らめたまま唇を尖らせて。
「全く…しょうがない奴だのう」
拗ねた顔は、照れ隠しのポーズでしかない事が見え見えだ。楊ぜんもそれを判っているのだろう、 包み込むように背中に回していた手が、それとなく不埒に蠢き始める。
「…ん、こら」
「師叔…」
「あ…今朝も、周公旦に怒られたばかりだから、その…」
「顔に墨までつけてましたしね」
「あ、あんな事、人前でするでないっ」
「嫌でしたか?」
「…は、恥かしいのだ」
「ああ、貴方という人は…」
「んっ、よ、よぜ…」
「そんな可愛い事言って…知りませんよ、どうなっても」
「あ、窓が…」
「大丈夫、誰も見ていませんって」
「そんなの、判らんではないか」
「だったら、見せ付けてやりましょうよ」
僕達の愛し合うところを。
後はただ、甘ったるく部屋一杯に撒き散らされる、めくるめく秘密の時間ばかり。





「いやあああん、太公望ちゃんってば大人なのねぇん」
頬に手を当てて腰をくねらせる妲己の隣。 わなわなと身を振るわせる貴人の頭の中で、ぷつりと何かが切れた音がした。
「やっぱり、私には理解できないわーーーーーっ」
金切り声の絶叫は、 マイワールドにいちゃこらと浸りきる二人の耳に、届く事は無かった。







































さて。時は移って蓬莱島、大宝貝大会会場にて。
「やっとこの時が来たわね、太公望っ」
この日が来るのをどれだけ待ちわびた事か。
過剰とも思える敵意を剥き出して、 対峙する王貴人。
「なぜ、わしに…」
睨みつけるその目が涙目になっていた理由を、恋心に疎い太公望が悟る事は出来なかった。




end.




一部、望ちゃんがニセモノくさいなあ
彼女って、好きな人には
意地悪してしまうタイプだと思います
2003.03.26







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